十四階予定説
動かないエレベーターに乗った事のある人はあまりいないのではないかと思う。扉が閉まった時に、なんとなく気持ち慣性のような風に一瞬浮き上がるのだけれど、実際は何も動いていない。そのうちに今度は床が真ん中で二つに割れて落下してしまうのではないかと思う。そして私は白い手袋をはめた手で手すりを掴む。
私の仕事はエレベーターボーイだと言われるが、むしろ誰も居ない止まったエレベーターの中で一人で佇んでいるのが私の仕事ではないかとよく思う。ひっそりと静まった、稼動しないエレベーターとは何なのだろうか、意味がなく目的を持たない、存在する理由を剥奪された空間、その中に立っているということは、もちろん私もそうなのだ、その瞬間は職業も名前も無く、ただ立っているだけ。
そういうときに扉が開いて人が入ってきて私は案内をするのだけれど、その瞬間とさっきまで一人で居た時とは全く別の空間にならなければならない。他の人に、もしかしてこいつはさっきまで一人でこの中に居たのではないかと悟られてしまうのは良くない。私はなるべく人の顔や目を見ないようにして、入って来てから階数を言うのを待つ。ときどき二,三秒ほど何も言わないまま扉が閉まってしまう時があるが、そうなると私の心象はまったく落ち着かなくなり今か今かとその人が口を開く瞬間を待ち望む。適当な階のボタンを押してしまったら気が楽になるのだけどそれはできない。よく利用する人の顔と階数を憶えたら良いのではないかと考えたが、しかし、顔はなるべくボタンから逸らさないようにしているし、もしその利用者がたまたま普段とは違う階数だったという時を考えると気分が悪くなる。失敗するのが怖いのではなく、私一人だけでエレベーターが動き出して、静かに扉が開くというのがとても嫌だ。
朝にスーツを着て家を出て、エレベーターのある建物に向かい、顔見知りの警備員に挨拶し、そして何気なくエレベーターを利用するようにしてボタンを押してから乗り込み、ポケットから出した手袋を嵌める。この仕事は親戚の叔父に斡旋してもらったので、手続きもこんな風にあっさりとしたものだった。前任者は初老の男性で、私がエレベーターに乗り込むと、全ての階の説明を終えて、そして一番上の階で出て行った。一つだけ彼が言った言葉はとても印象的なものだった。「このエレベーターはキリスト教会の告解室のデザインをモデルに作ったようですね、その理屈で言うと私達は司祭なのでしょう。」なるほど、と私は思ったものだった。つまりはカルヴァン派の司祭達はその予定説を布教するためにエレベーターを用いたのだろう。アメリカのエレベーターに十三階が存在しないのはここに由来するわけだ。彼らは遂には地上だとか天国の説明をする義務を終え、ただ建物の階を説明するだけに至ったのだ。
エレベーターは時を刻む。コッコチ、コッコチという音で、1階ごとに上がっていくのがよくわかる。次は十四階でございます、私は十四階予定説を唱える。