四.
「ん…っ」
腹の辺りがやけに痛む。空腹、ではないなと考えて、克己はゆっくりとまぶたを持ち上げた。
見慣れない天井。教室のようにも見えるが微妙に異なる。周囲がクリーム色のカーテンに囲まれているのを確認して、どうやら保健室であるらしいと思い至った。
「ああ…」
薄手のふとんを捲り上げ、視線を落とした上半身が身につけているのはTシャツ一枚。思考が結びつき、鈍い痛みの原因を思い出す。気配を感じて左に向けた視線の先に、その原因を作った少女の困ったような表情を見つけ、克己は驚いて体を起こした。
「よぅ…」
「カツミさん、大丈夫ですか…?」
そう言ってわずかに近づけられた顔に同様を隠せず、克己は「あ、ああ…」と、ひとまず無事を知らせる言葉を漏らす。クリスはすぐさま安堵したと分かる表情を一度作って息を吐き出すと、今度は沈痛な声音で「すみませんでした」と頭を下げた。
「い、いや…」辺りに人の気配はない。周囲に気を使う必要はないようだと考え、普段通りの声音で返答した。「大丈夫だから。だけど、いろいろ加減はしてくれな」
「はい…」
なおもうつむいたままのクリスの肩に、恐る恐る手を伸ばす。制服越しに軽く触れた肩は見た目の印象よりもなお小さく、彼女のデタラメな膂力はどこにあるのかと疑問を抱かずにはいられない。
「もう、いいから。な」
たったそれだけを告げるのに、必要以上に緊張していることを自覚する。
不自然じゃなかったか…。
「はい」
顔を上げたクリスの表情は、薄く笑んでいた。
距離が近い。
この手必要ないだろ!と、慌てて肩に乗せていた左手を引っ込めると、気恥ずかしさも手伝って、そのまま視線をさまよわせた。
そうだ、時間。
時計が見えない。カーテン越しに差す陽光と、物音のしない廊下の様子から、五限か六限の最中だろうかと当たりをつける。
「今、何時か分かるか?」
「私の体内時計では、一五時二九分一七秒です」
「それじゃ、もうすぐ終わりだな」
克己が言い切るのを待っていたようにして、六限終了のチャイムが鳴る。クリスの言葉とは四〇秒ほどの差異があるが、正しいのは恐らくクリスの方だろう。
「じゃ、一応戻るか」
「はい」
頷くクリスに克己も目で頷いてみせ、ベッドを降りる。
廊下からは、にわかにざわつく声が聞こえ始めた。
同日同時刻、日本国内某所。
広さにして八メートル四方。ほぼ正方形の薄暗い部屋。
巨大なモニターとコンソールが壁面を埋め尽くすその部屋に、モニターから漏れる光に照らされて人影があった。
「増援は出ない、と?」
目上の人間に対しての、極めて事務的な対応。
『君も分かっているだろう。我々の資金もそれほど潤沢なわけではない。まして極東に回せる余裕は、無いよ』
返答は老齢の男性のものである。若干クセのある英語の発音から、ネイティブの人間ではないことが分かる。
見つめるモニターには<VOICE ONLY>と赤文字で表記されたブラックバック。相手の姿は見えないが、自分の方は見られているということに、いつもながらの居心地の悪さを感じて、ガルシア大沢は表情に出さないよう胸中で一度舌打ちをした。
「政府直轄の調査員も動いています。幸い向こうも人員は潤沢ではない様子ですが、このままではこちらでの活動を著しく制限されることにもなりかねません」
『それを何とかするのが、そこを任せている君の仕事だろう?』
「ですが、向こうにはヒュームズがいます」
『相応の装備は備えてあるはずだが?』
「ええ、ですが、オリジナルで起動されたあれは想像以上でした。見込みが完全に甘かった、と言わざるを得ません」
昨夜のことを思い返し、ガルシアは歯噛みする。
『データは?』
「D6回線ですでに送信済みです」
『後ほど確認させよう。内容如何によっては検討するが、基本的には変更はないと思ってくれ』
「……分かりました」
『ああ、ガルシアくん』
「はい…?」
『一度オリジナルのヒュームズを見てみたいと思っていたんだ。鹵獲を前提に事に臨んでもらえるとありがたい。では、健闘を』
ガルシアの返答を待たずに、それきり声は途切れた。モニターの表示は消え、黒一色になった画面からの微かな光が、歪んだ顔の凹凸に差し込んだ。
「くそっ!」
日本語の発音でそう叫び、コンソール下部を蹴りつける。革靴のつま先が強く当たり、がん!と硬質な音が、辺りに一度反響した。
しゅん、と背後にドアの開く機械音。けれど、それに続く足音は無い。
「金は出せないが鹵獲はしろって?ボスは随分とわがままなんだな」
にもかかわらず、そこには確かに、先ほどまではいなかったはずの人物が立っていた。
「盗み聞きとは、趣味が悪い」
意識して表情を元に戻すと、椅子を一八〇度回転させて、ガルシアは背後を振り返った。七メートル先に立っていた、たくましいと表現するのが相応しい男は、さらに三歩、ガルシアに近づいて立ち止まる。いたって普通の三歩。にもかかわらず、やはりその足音は彼の耳には届かない。
「いつもながら、気持ちが悪い」
男の足元にやった目を、ガルシアは細めた。
「それは失敬」
言って、潔く刈り上げた坊主頭に手を伸ばしながら、男はにやり、と笑ってみせる。
スーツ姿のガルシアに対し、男の方は極めてラフな服装である。カーキのカーゴパンツに紺のタンクトップ。厚い胸板がやけに存在を主張していた。
「で、どうするんだ。捕獲するのかい?」
他人事のように笑ってみせる男に、ガルシアはさらに目を細める。
「簡単に言ってくれますね、あなたも」
「しょせんは雇われ、でございますから」
わざとらしく頭を下げる男に、「ふん」と応じると、ガルシアは再び椅子を回転させて、キーボードに手を伸ばした。
かたかたかた…、と断続的な音が響き、ほどなくして正面のモニターに緑のラインで描かれた地図のようなものが浮き上がる。その上方で、青い光点が点滅しているのが分かった。
「どうやら、移動はしていないようですね」
「ずいぶん余裕なんだな」
足音無く近づいた男が、肩越しにモニターを覗きこむ。
「というよりも、向こうにも金がないんでしょう、単純に」
「ヘリにサブ・マシンガン二丁。金が無いって?」
「研究施設のようなものに回す金がないのだろうということですよ。でなければ、少なくともあの少年をそのまま置いておくことは考えにくい」
「こちらもあちらもカツカツというわけだ」
「……あなたへの報酬もその中から出ているということをお忘れなく」
皮肉たっぷりに、ガルシアは男にそう言い放った。
「ああ、感謝してますよ、拾っていただいて。だから―」
対する男の方はそんな皮肉も風と受け流して、不敵な笑みを作る。
「―早く仕事をくれよ。なんでもやるぜ?」
「多少の無茶はしていただくことになりますよ、木下さん」
「上等。ついでに、昨日のねーちゃんともやりあえると最高なんだがね」
そう言って、木下と呼ばれた男はポケットからオートマチックの拳銃を取り出した。馴れた手つきでマガジンを取り出し、再び元に戻す。無駄のない動作。遊底(スライド)を引くと、重厚な音が辺りに響いた。
「外で、お願いします」
「了解」
ガルシアの背後で、気配だけが遠ざかる。機械的な音をさせてドアが閉じると、直後、激しい銃声が二度鳴った。
「克己くんが、掃除してる…」
箒を握った克己を視界に捉えて、それが佐伯裕子が一言目にもらした言葉だった。
「ねぇ夢?これは夢なの?」
「職員室でひと眠りしてきたらどーすか?」
そばで黒板を消していた男子生徒が気の利いた答えを返す。
「そうね…、そうするわ」
「ゆっちゃん、殴ってもいい?」
そんな担任を睨みながら、克己は顔の高さで左の拳を握ってみせる。
「やぁねぇ、冗談よぅ」
そう言ってまぁまぁ、の形で二度手を振ると、彼女は教卓の後ろに置かれた椅子に腰を落とした。
「カツミ」
名を呼ばれて振り返ると、窓側の壁を背もたれにして、口を曲げたポニーテールの少女が、教室の隅を指差していた。
「へいへい…」
「ええ、そういうわけですから、しばらくこちらに残ろうかと。え、責任者?やだなぁ、そんなものいるわけないことくらい、ご存じでしょう?
……だったら人増やすこと考えてくれてもいいんじゃありません?彼らの尻尾を掴むチャンスなんですよ。え?…ああはいはい、分かりましたもう結構です。とにかく、しばらくそちらには戻りませんので!」
ぷつ、と小さな音が耳元に聞こえた。電源のボタンを押し込んだためである。通話が切れたことを確認して、零花は携帯電話と呼ぶにはいささか大きめのそれをテーブルに置いた。盗聴を防ぐための、特殊なアダプターを介したものである。
「参っちゃうよなぁ…」
そう独りごち、畳の床に横になる。
やっとの思いで掴んだ組織への手がかり。ここでガルシアを押さえることが出来れば、国内での彼らの活動を制限できるばかりか、本丸に攻め込むことも出来るようになるかもしれない。いわば、千載一遇のチャンス。
逆を言うならば、これまで国内での活動実績がほとんど確認されなかった彼らを押さえられるのは、恐らく今しかない。
戦力は恐らくイーブン。ガルシアと、もう一人の男。目的を破壊に切り替えたのなら、これ以上の増員は無いと見る。
クリスがいる分、こちらにアドバンテージ。
「鍵はクリスと、克己くん」
文字通り、ね。
ぼんやりと見つめる、視線の先の光る球体。
昨夜の会話を思い返す。
「どうして彼女を狙うのか。それは彼女が他に類を見ない強力な兵器だから。だけどオリジナル・キーで起動した彼女は彼らの手には余る。そこで、破壊行動に移った」
「オリジナル・キー?」
「それが四つ目の答え―」
テーブルに転がった、小さな球体が脳裏に蘇る。正真正銘、本物の、オリジナル・キー。
「―彼女の起動を促し、同時にあなたの持つ情報を彼女へと同期させる、個体認識用デバイス、とでも言えばいいでしょうか。どう、クリス?」
「おおよそその認識で、間違いはありません」
喋っている。オーヒュームズが。目の前で。
「そんなところかな」
一度目を伏せた克己が、もう一度、鋭い視線で零花を睨んだ。
「……まだ一つ、答えてもらってない」
「え?」
「あんたはどうして、彼女を狙うのか」
そう言ったときの、克己の視線を思い返し、
「…いいね。そのくらいでなくっちゃ」
吊られた照明を眺めながら、零花は昨夜もそうしたように、軽く唇の両端をつり上げた。
「全く否定するわけじゃないけれど、私は彼女が欲しいわけじゃなくて。欲しいのは、彼女の持つ力」
「力?」
「そう、力。少しだけ貸してほしいの。ここで彼らを押さえることが出来れば、今後の活動を拡大することが出来る。そのために彼女の、クリスの力が、必要なんです」
「それは―」
俺が決めることじゃない。言いかけて隣に向けた視線が、彼女のそれと交差した。
「マスターの指示に従います」
「俺の?」
その問いに頷いた表情が不意に、隣を歩く今の(・・)彼女のものと重なった。
「克己さん?」
「え、あ、…何でもない」
まだ高い陽に照らされて輝き、歩くたびに静かに踊る彼女の銀髪に知らず目が行ってしまう。
「ごほん」
わざとらしい咳払いに、克己ははっ、となって反対隣を振り返った。案の定、彼女はきゅっ、と目を細め、横目に克己を睨んでいるのだった。
「お邪魔だったかしら?」
「なに言ってんだよ」
胸中の動揺を悟られないよう、いつも通りの口調でそう答える。
「なーんか見せつけられるしー」
そう言って彼女―乙部静奈(おとべしずな)―はふい、と正面に顔を向けると、不自然なくらいにバッグを大きく振りながら、克己とクリスを追い抜いて前に出た。大きく結ったポニーテールが、彼女の動きに従って左右に揺れる。
こういうときの彼女を放置すると、しばらく機嫌が悪いことを克己は知っている。
一足早く坂を下りきり、校門の角を曲がった静奈を確認すると、克己は隣を歩くクリスに「悪い」と断って走り出した。
視界に捉えた静奈の隣に駆け寄って並ぶと、克己の方から口を開いた。
「静奈、悪かったって」
何が悪いというつもりもないが、こういうときはまず謝るに限る。数年の付き合いの中で会得した、対静奈用の処世術である。
「別にぃ。いいんじゃない」
そっけなく返して顔を向けようともしない彼女にもう一声。
「あー、なんか、食うか?」
ぴくり、と一瞬、歩行とは違う種類の振動が彼女の肩を震わせたのを確認して、克己は内心で息を吐き出した。
「私は食べ物で機嫌をどーこーできるような、やすーいやつなんだ?」
まだ視線は正面から動かないが、けれどこの反応を引き出せればまずは安全圏であると言える。
「いえいえめっそうもない」
今度は多少わざとらしくそう告げると、「今日は何にしよっかなぁ」と、こちらもわざとらしい呟きが聞こえてきた。
「クレープ!」
叫んでくるり、と振り返り、数メートル後ろを歩いていたクリスに彼女は呼びかけた。
「克己がクレープおごってくれるってー」
わずかに目を見開く形になったクリスが何事かを言うよりも早く、克己は口を開く。
「あー、いや、クリス甘いもの苦手なんだよ、な?」
「はい」
立ち止まった二人に追いついて、クリスがぺこん、と頭を下げた。
「え、そうなの?じゃあ、たこ焼きとかにしよっか」
一転機嫌良さそうに先を行く静奈の背中を見送って、克己はクリスに曖昧な笑みを向けた。うまいこと付き合ってくれ、という意味合いであった。
「へー、じゃあお姉さんが就職するからくっついてきたんだ」
八分の四個目のたこ焼きにつまようじを刺しながら、静奈は好奇の視線をクリスに向ける。
「でも外国からでしょ?なんでわざわざ」
「姉は子供のころは日本にいましたから、ぜひ戻りたいって。でも、近しい親戚はほとんど日本には…」
「それでこいつの家なんだ」
ふーん、といった表情を浮かべながらたこ焼きを頬張る静奈の視線に、克己は笑顔で答える。クリスの受け答えの自然さに対する満足の意味合いが強い。
駅前にある複合スーパーのフードコート。静奈が部活動のない日は、秋一と三人でここに集まることが時折あった(秋一は部活があろうがさぼるのだが)。そのいつもの丸テーブルに、今日は秋一の代わりにクリスを迎え、等間隔に座った三人である。周囲のテーブルもいつも通り、彼らと同年代の若者たちによってほとんどが占拠されていた。
「で、ホントはどこにいたの?」
例の溜め池発言を受けての質問である。すでに入れ知恵はしてあった。
「アメリカです」
「ほら、溜め池ためいけためいかあめいかあめりかアメリカ。うーん、アメリカンジョーク」
「アメリカンジョークってそういうのを言うんだっけ?」
強引な誤魔化しを交えつつ、克己もすでに半分に減ったたこ焼きにようやく一度目の手を伸ばす。
「クリスは?食べなよ」
「ええと、食が細いので」
「えー、それでそんなに細いのかぁ。羨ましいなぁ。私なんか動くとすぐお腹減っちゃうからさぁ…」
まじまじ、と制服越しにクリスの身体を眺める静奈に、彼女は答える。
「静奈さんだって、十分に細いですよ」
「あ、それは何?この筋張った腕に対する皮肉?」
そう言って静奈は右の袖をまくりあげ、ぎゅっ、と拳に力を込める。女性にしては筋肉質な部類に入る彼女の腕は、けれど決して太すぎるわけではない。いたって健康的な太さであると言える。
「でもさぁ、クリスすっごいよね。腕細いのにあんな長打飛ばすし、足メチャクチャ早いし」
今日の体育の時間が、静奈がクリスに興味を抱いた最大の理由らしい。小学校時代から運動神経抜群の彼女だけに、多少のライバル心が見て取れた。もっとも、クリスのそれは大いに人間離れしているあたりに気付けと言ってやりたいところではあるが。
「部活とか、どこ考えてんの?やっぱソフト部?」
「いえ、その、特には…」
「じゃあハンド部入ってよ!全国狙おうよ全国」
どうやら本気で勧誘しているらしいが、クリスがボールを放ったら主にゴールキーパーあたりから死人が出ることは想像に難くない。話題を変えようと克己は間に割り込んだ。
「いや、バイトするんだよな?」
「はい、その、お金貯めないと」
「何、まさか家賃とか取ってるわけ?」
睨まれた。
「そんなことしねーよ。大学行くのに金貯めるんだって」
クリスはこく、と小さく、頷いた。
「ふーん、じゃあしょうがないかぁ」
極めて残念だという表情で、静奈は最後のたこ焼きを口に運ぶ。
「あ、てかさ、敬語やめよーよ。同い年なんだし」
「ええと…」
いやいや、俺に意見を求める必要はないぞという言葉を視線に込めて送り返す。ほどなく彼女は悟ったのか、薄く笑顔を作って静奈に向き直った。
「はいっ!」
「うん、まぁ、いいけどね…」
ちょうど四時のタイムセールを知らせる店内放送が流れ出す。それを合図に、静奈は立ち上がった。
「それじゃ、私たち上行ってくるから」
今日ここを訪れた最大の目的は、クリスに下着を選んであげることらしい。
「いくら忘れてきたからって、ノーブラに男モノのトランクスじゃねぇ」
「アメリカじゃあんまりそういうの気にしないんだってよ」
上から向けられる蔑みを含んだ視線から克己は目を逸らす。
そういうことを大声で言うなよ…。
「ここは日本ですから。あ、別にクリスが悪いって言ってんじゃないからね。こいつ気利かないから。トランクスって、ちょっと考えなさいよ」
「うっせ」
そう返した拍子に、クリスの控え目に膨らんだ胸元に目が行って、克己はふと、昨夜の一糸纏わぬ彼女の姿を思い出した。
場違いな美しさもさることながら、さながら芸術品のようですらあった彼女の裸身。けれど、今彼女の制服の下に想像する膨らみには、多少の気恥しさを覚える克己であった。
言うならば、昨夜の彼女に感じたのは絵画の裸体のごとき美しさ。けれど今彼女に感じているのは、紛れもなくよこしまなイメージであると認識する。
それきり無言で立ち上がり、克己は食品コーナーへと足を向ける。
「じゃあ、三〇分後に」
「おっけー」
静奈の声を背中に受けて、克己は足を急がせた。
あいつが下着だのなんだの言うから。
軽く頭を振り、二〇パーセント引きの肉や野菜に思いを巡らせる。煩悩は強引に、頭の片隅へと追いやることにした。
「今日は王子だけ?」
「ちーっす」
種々の銃器を操って、コンピュータキャラクターを駆逐する。忙しくレバーを動かしボタンを叩く秋一に、今日はオレンジを基調にした出で立ちの店長が背後から声をかけた。
「珍しくマジメに掃除してるみたいなんで。もうすぐ来ると思いますけど。よっしゃ!」
画面に「K.O.」の文字が躍るのを確認して、秋一は背後に立つ店長を仰いだ。
「なんか用事っすか?」
「いやー、そういうわけじゃないんだけどね。あれ、じゃあやっぱり見間違いかなぁ」
綺麗に整えたものと分かる長いあご髭をいじりながら首を傾げる店長である。
「ドア越しだったからさぁ。よく分かんないけど、少年ぽいのが女の子二人と歩いてったんだよなぁ」
「二人?」
「そうそう。あ、んでな、手前の方の女の子が、ほら―」
そう言って店長は筐体上部に貼られたコマンド表のステッカーに指を伸ばす。
「―シルヴィアのコスプレしてたんだよ。気合入ってるよねーこんな田舎でさぁ」
そこにあったイラストは、彼らの高校のものに酷似した制服に身を包んだ、銀髪のアンドロイド。
「……ああ!」
一拍間を置いて立ち上がった秋一が大声を上げる。幸い店内には雑多な音が大音量で入り乱れており、そんな彼の様子を気にする者はいない。
「どっかで見たことあると思ったんだよなぁ…。ゲームじゃ分かんないわ」
背後に店長を放置したままそう独りごちた秋一は、咄嗟にポケットから携帯電話を取り出した。
「げ、もうこんな時間かよ」
四時三〇分。一時間近くもここにいたことになる。
「どっち行ったか分かる?」
「ん?多分、駅の方じゃないかね」
「じゃあ、いつもんとこだな」
「何、やっぱり少年?」
「もう一人の子、ポニーテールだった?」
言いながら台の脇に下ろしたバッグを片手でつかみ上げ、秋一は踵を返した。
「ああ、そんな気もするけど。んで、あのコスプレの娘、なんなの?」
「あー、転校生」
「へぇ、都会から?」
どうにも意味を履き違えているらしい。
「いや、あれがデフォっす」
「は?」
「外国から来たんっすよ」
「ああ、なる。っておい、始まるぞ?」
背後にはラスボス戦を知らせるどこか重苦しいBGM。
「いつもお世話になってる店長に、プレゼント」
言って、駆け出す。
「え、マジ、いいの?」
最後の方は、店内のBGMに遮られてはっきりとは聞こえない。
一度振り返ると、すでに店長は画面に向かっていた。
「また明日!」
背中で自動ドアを開き、店長が左手を上げて応じるのを見ると、秋一は走りだした。
「鍵が選んだのは、あなたなんですから」
ただ静かにそこに在る、小さな球体。
「選んだ?……こいつが?」
「オリジナル・キーの出土はこれまでに前例がない。つまり、あなたが初めて―これは今この時代での初めてという意味ですけど、―鍵を、ヒュームズを手にした人間」
きゅっ、と細められた零花の眼差しを正面に受ける。
「出土って、転がってたんだぜ?学校の裏に」
「それが何よりの証拠。あなたは選ばれるべくして選ばれたの。クリスが、そして私がここにいるのは、あなたに導かれたからと言ってもいい」
「導いたって、んな大げさな…」
「事実です。少なくとも、私がここにいることに関しては」
クリスが言った。
淡々とした口調は、逆にそれが冗談でもなんでもないということを言外に伝えてくる。
「俺が…?」
クリスは無言で頷いた。
「迷惑をかけることになるのは分かっています。本来であればあなたとクリスに害が及ばないようにするのが正しいということも」
俯いて、次に顔を上げた零花の表情は、今まで見せなかった凛とした気配を伴っていた。
それは例えるなら、雪原に一輪、ひっそりと咲いた花のような。
「その上であえてお願いをします。さっきの、あなたの目を見込んで」
目。
「力を、貸して欲しいの」
決意めいたものがあった―
胸中を占めるのは不安と、恐怖。
ここまでが一瞬の思考。かつてない刺激に脳は強烈な熱を伴う。
その中にひっそりと、小さく輝く光。
―突如訪れた非現実への期待。熱を帯びていない先のビジョンからの脱却を促す、それは誘惑であったかもしれない。
「カツミ?」
静奈の顔がそこにあった。
「どした。ぼーっとして?」
「…してたか?」
「してたよ」
普段であればつり上がった目尻を、わずかに垂らして覗き込む。
「大丈夫、なんでもない」
そう言って克己は笑みを浮かべて見せた。静奈の方もそれ以上追及しようとはせず、「ならいいけど」と正面に顔を向けた。
先ほどよりも傾いた陽が、町並みにわずかな赤を落とす。幾分冷たくなった風が、一度吹いた。
「あれ、シューイチじゃん」
静奈の声に、正面から駆け寄る友人の姿を見つけて、克己は呟いた。
「あ、やべ…」
「克己!お前連絡しろよ!」
「悪い!」
数メートルの距離を置いて立ち止まった秋一に向かって叫ぶ。手を顔の前にかざすジェスチャーは出来なかった。右手はバッグで、左手はよく膨らんだスーパーの袋で塞がっていたからである。
「ずりーよ、俺だってクリスちゃんと仲良くなりたいのにさぁ」
そう言って、静奈の隣を歩くクリスの隣に秋一は並んだ。
「今朝のアレの後でよく馴れ馴れしく出来るねアンタ…」
「今朝って?」
「クリス、こいつ危ないから気をつけなよ?」
そう言って静奈は、クリスと位置を入れ替える。
「ちょ、危なくないって!あ、んなこと言って、実は静奈ちゃん俺と一緒に歩きたいとか?」
「じょーだん」
冗談にしては重たいパンチが秋一の左頬にめり込んだ。
「いてぇ。愛のムチ?」
「ばーか」
「三人で何してたん?」
「カツミ、言っちゃダメよ」
「おう」
「ひでぇ…」
紛れもない、これが克己にとっての日常。
けれど。
隣を歩く少女を見下ろした。
まるでそのタイミングを見計らっていたように、クリスが振り向き、克己を見上げる。秋一と静奈のやり取りに笑んでいたらしい表情を疑問のそれに変えて、彼女は無言で首を傾げた。
日常に紛れ込んだ、非日常。
なんでもない、という意味を込めて、克己も無言で首を振った。それきりクリスも視線を逸らす。
胸中に差し込むその輝きは―
「まだどっか行くの?」
「ん?これからカツミんちで歓迎会」
―好奇。
「マジで?歓迎会?行く行く!」
「クリス、いい…?」
「なんで露骨に嫌そうな顔すんの…?」
「私は、構わないですよ。カツミさんがよろしければ」
ゲームのキャラクターに酷似した、二人の女性との出会い。それは逼塞(ひっそく)した展望からの脱却を促す、一種魅力的な出来事であったと言える。
加えて存在する、敵対する組織。
彼の意志にのみ従って動く球体、オリジナル・キー。
非日常との遭遇。それも自らを中心に起きたそれに、少なからぬ興奮を覚えていたことは間違いない。
「克己、そういうわけだから」
「お前だけ参加費徴収な」
「シット!クリスちゃんにお前の恥ずかしい話すんぞ」
「じゃ、今日は寂しく帰宅だな」
「すいませんでした…」
克己と静奈が笑い声をあげる。遅れてクリスも静かに微笑んだ。
なんとかなるさ。
このとき克己は気がついていなかった。いや、気がついてはいたが、胸中の興奮に隠されて、積極的に目を向けようとしていなかった。
非日常は日常、つまり現実の延長であって、ゲームの世界とは断じてイコールではない。
近く克己は理解することになる。
彼の日常における、限りなく最悪に近い出来事によって。