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第5部

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  1 原初の悪意


 1

 ケンジは動力部付近の一室で、老婆と一緒にいる。濃紺のローブ。目深にかぶったフー
ド。
「あなたは箱舟を選ばないのですか?」
「よくわからないんだけど、違うかなって」
「生き残るために選ぶのはこちらでしょう」
 ケンジは日本語を話せる外国人と会話したのはこれが初めて。老婆の日本語はうまいと
言えるレベルだが、それでもどこかおかしい。
「婆さんは?」
「わたしは選ばない。話し手は必要だから。このまま見届ける」
「洪水は起こるの?」
「起こる。もう外では雨が降り始めている。すぐに世界を水が覆う。そして、終わりがく
る」
「箱舟になっていない者たちはみんな死ぬのか?」
「そう、終わる。でも、終わらない者たちもいるかもしれない」
「俺とか?」
「わからない」
「なぁ、あんた占い師なんだろ?占ってくれないか?アミがここに来るかどうか?」
 老婆はトランプを取り出し床の上に裏返しにして、シャッフルする。
「選んで」
 ケンジは一枚のカードを引き、老婆に渡す。カードはダイヤの8。
「どう?」
「大丈夫」
「なにが?」
「待ち人は来る、ただし、別れもある」
「俺の待ち人は来るんだな。それならいいや、別れは……もうあった」
 老婆はトランプを集め、整え、箱に戻しローブの袖にしまった。
「なぁ、あんた何者なんだ?」
「呪われた者。物語ることに」
「呪われた?」
「そう。もう、ずっと前に、記憶よりも歴史よりもずっと前に、呪われた」
「誰に?」
「神様に」
「箱舟の奴か」
「違う。大きな声の神」
「なんだそりゃ?」
「本当の神様」
「よくわからないな」
「大きな声の神は、声を失って久しい。悠久の時」
「なんか、よくわからないけど、大変そうだ」
「あんたの待ち人は来る」
「そうだといいな。もう、あんまり、時間がなさそうだ」
 ケンジは血が流れている脇腹を押さえ、その場にうずくまる。
 あの人に撃たれるなんて思っても見なかった。いつ、箱舟になったんだ?
 突然壁から現れたシミズの、うらめしそうな顔を思い出し、ケンジは苦々しく思う。そし
て、アミのことを考える。大好きなアミのことを考えて、自分の待ち人がすぐにここに来る
のだと思うと、ケンジの心は少し、温まる。

 2

 シミズは箱舟に吸い込まれたことを僥倖だと思った。これはチャンスなのだ、と。
 箱舟に吸い込まれたシミズは、自分が生き永らえて、新しい世界に生きることができるの
だと知り、胸が躍った。箱舟の主の意図ははっきりとはわからなかったが、シミズに何かを
させたいらしい。それがサヨリを初めとした高校生たちの抹殺だと、シミズは思い込んだ。
アリサワへの妄信が――執着、恋慕――強化され、自分が見捨てられたのはすべて高校生た
ちのせいだと強く思い込んでいた。
 すべてをリセットしよう。奴らを全員殺してアリサワさんと新しい世界の指導者になるん
だ。
 シミズの頭の中にはそれだけしかなかった。
 箱舟の中ならどこでも自由に移動できるようだ。これなら不意打ちが簡単。あのケンジと
かいうやつの驚いた顔といったら……
 シミズは次の獲物を探す。
 ああ、サヨリとシンジとかいうアヒル野郎が広間を抜けたな。狙いは動力部か。
 シミズは笑いをこらえきれない。
 すぐに、殺しにいってやる。すぐに。奴らだけは、箱舟には入れさせない。新しい世界は
見せない……
 シミズは壁の中でぬるりと、移動を開始する。

 3

 サヨリとシンジは広間でカミカワと出会った。カミカワは同じ年くらいの少女と抱き合っ
ていた。
「カミカワくん、会えたんだ」
 シンジがそう言うとサヨリは不思議そうな顔をする。
「え?何?わたしにはカミカワくんしか見えないけど」
「何言ってるの?カミカワくん、女の子を抱きしめてるじゃない」
「わからない。何か黒い影みたいなのは見えるけど」
「本当に見えてないの?」
「うん」
 シンジはサヨリの眼を覗き込む。何か自分と違うところがあるのだろうか、と。それでも
サヨリの栗色の目は、常人のそれ。
 サヨリさん、どっか変だよ、とはシンジは言わない。言えない。シンジはサヨリがあの日
以来――キョウジの死んだ日――からまったく別のものになってしまったんじゃないか、と
考える。常人を遥かに越える身体能力、自然治癒、異国の言語も話せる。
 おそらく、普通じゃない。
 それを招いたのが、キョウジの死なのだと、シンジは確信する。
 それでも、僕は……
「先に行こうか、サヨリさんはこの先に用があるんでしょ?」
「うん」
 2人はカミカワに声をかけずに、広間を抜ける。
 サヨリは広間に黒い影のようなものが多数立っているのが不思議でならない。広間で見た
人間はカミカワだけ。それでもシンジは黒い影を少女だと言った。
 何か、おかしい。
 そう、サヨリは思う。
 それに、この箱舟、誰もいないのに、人の気配が消えない。大勢の気配。見られている感
覚……嫌な感じ……

 2人は広間を抜け、動力部への道を進む。

 4

アリサワは船着場から先に入ることを躊躇していた。空気が変わったこともその要因だっ
たが、何より、静か過ぎた。
「行きましょう、アリサワさん。ここで待ってても何も変わりません」
 アミがアリサワの上着の裾を引っ張る。
「そうだな。ここまで来たんだしな」
 アリサワはベレッタを抜く。弾倉を確認する。
 2人は箱舟の中に入っていく。
 アリサワは動力部を目指すことにした。中心へ向かえばいい、と簡単に考えてはいたが、
変化のない廊下が方向感覚を麻痺させ、捕虜の情報により作成した地図を見ても、自分たち
がどこにいるのかわからなくなった。
 2人はとにかく進む。どこかに出るだろう、と考えて。

 2人は巨大な大広間に出た。拉致されたと思われる人々が立っている。その中には地球軍
の兵士たちも混じっている。自衛隊員もいたが、アリサワの姿を見ても、無反応。ぼんやり
床を見ている。アリサワは近づいて声をかける。
「どうした、何があったんだ?」
「わかりません」
 隊員は床を見たまま答える。
「どういうことだ?」
「わからないんです。わからなくなったのか、最初からわからなかったのか……とにかく、
われわれは、ここに、留まらなければならないんです。神様は、やっぱり、いたんです」
「親玉のことか?」
「わかりません。ほら、見てください」
 隊員が床を指さす。アリサワとアミはその方を見る。床から少女が顔を出した。海から
海面に顔を出すように。2人は目を疑う。
「自分の娘です。生きてたんです。死んでるのか、連れ去られたのかもわからなかったの
に……ここで娘と生きるつもりです。そして洪水がひいたら、新しい生活を娘と始めたい
と思います。神様にはそれが可能なんです。娘は生きてる。ただ姿を変えているだけ。洪
水がひいて、箱舟が必要なくなったら、元の姿に戻れるのだそうです。神様だけがそれを
可能にするそうです」
 少女はにっこりと笑い、床に引っ込む。隊員も後を追うように、足から床に吸い込まれ
ていく。
「一体化してるわけじゃないんです。ただ、身を寄せ合って未曾有の災害を切り抜けよう
としているだけなんです」
 隊員は床の中に姿を消した。アリサワとアミは呆然とその様子を見ていた。
「どういうことなんでしょう?」
「わからない。でも、普通じゃないな」
「嘘みたい」
「ああ。まさか、ほかの連中も、こんな風になったっていうのか?」
「そんな!……ケンジはどこかしら?サヨリは?」
「落ち着け。とにかく、広間を出よう。とにかく動力部を目指そう。そこで、敵の親玉に
あえれば、全てわかるはずだ」
「わかってどうするんです?」
「わからない」
 アリサワは天井を見上げる。
 いよいよ、終わりだな。相手が、悪すぎる。神様……か。

 5

 カミカワは壁から顔を出す。
「アリサワさんたちは行ったみたいだ。見つかるとうるせえからな」
 続いてあの子の顔を出す。
「知り合い?」
「ああ、一緒にここまで来た連中だ」
「あの人たちも早く箱舟になればいいのに」
「どうかな、それを選ばないかもしれない」
「それじゃ、生きられないじゃない」
「まだ、そうと決まったわけじゃないだろう」 
「神様が決めたんだから、絶対よ」
「神様なんていやしないよ」
「信じてないの?」
 2人は壁から出て、手を繋ぎ、腰を下ろす。
「どっちもいいんだ」
「信じてよ」
 カミカワはあの子が精神操作でも受けてるのではないかと訝る。
 この空気がそれをさせるのかな?長くいたら、俺もそうなっちゃうのかな?
「ずっと一緒よ。新しい世界でも」
「ああ、そうだな」
 カミカワはあの子を抱き寄せる。あの子はカミカワの膝に頭を載せる。
「でも、少し待っててくれないかな。箱舟になってわかったんだけど、すげー悪意を撒き
散らしてる奴がいる。たぶん、知り合いなんだ。箱舟になると便利だな、全部共有できち
ゃうから。でもあいつは俺に気づいていないみたいなんだ。だから、俺が行かなきゃ」
 カミカワはあの子を優しくどかせて立ち上がる。
「何をしにいくの?」
「まぁ、あれだ、義理を通しにいくんだよ。別にそんなことやる必要もないって思うんだ
けどね。それでも、まぁ、なんだ。軽い俺でも、やるときゃやるってこった」
「何それ」
 あの子は大笑いする。開いた口を隠さずに笑う姿を、カミカワは愛おしく思う。
 俺、少し変わっちゃったのかな。前までなら、そんなの放り出して、あの子のことだけ
考えてたのに……まぁ、変わることもある。そういうのも、身が軽い証拠。だからこそ、
あのクソヤローをなんとかしなきゃ。そうじゃないと、俺とあの子のこれからが不安だ。
新しい世界になって、いきなり背後から撃たれたんじゃ、洒落にならない。それに……あ
いつらのこと、嫌いじゃないし。まぁ好きでもないけどさ……寝覚めがわりーしな。
 カミカワは外の雨が強くなっているのを知る。誰かが見ている外の風景を自分の経験と
して取り入れているのだ。
 洪水が始まるんだな。全てを洗う……ただその前に……お掃除お掃除……
 カミカワはあの子を残して、壁に入り移動を始める。



 続く









  2 願い


 1

 シミズが目の前に現れた時、反応したのはサヨリではなくシンジだった。サヨリの体を
抱くと横っ飛びに、銃弾を避けた。銃弾は床にあたり、鈍い音をたてた。
「え?」
 サヨリは状況が読み込めないでいる。ただ、黒い影が天井から現れたとしか。
「シミズさんだ」
 シンジは立ち上がり銃を構える。シミズはへらへらと笑っている。
「よく避けたな、あのケンジとか言う奴はきっちり脇腹にもらってたのに。アヒルちゃん
も少しは成長したな」
 シンジはシミズへ向かって発砲する。シミズは天井に引っ込む。弾はシミズが居たあた
りに当たる。すぐさまシミズが横壁から現れて発砲。シンジはそれを避ける。シミズは笑
いながら壁の中に消える。
「ねえ、シミズさんがいるの?」
「うん、僕たちを殺す気だ。これがあの人の本性なんだね。走ろう。あんなのどうにもな
らない。どっから出てくるかわからないし、それに……」
 サヨリさんは頼りにできないし。シンジはその言葉を飲み込む。ようやく僕のステージ
になったのかな、朝方のジミヘン。なんだか笑っちゃう。
 シンジはサヨリの手を引いて走り出す。どこからかシミズの笑い声が聞こえてくる。
「ここは箱舟だぜ?そして俺は箱舟なんだ。逃げたって無駄だよ」
 ここで、サヨリさんを殺されるわけにはいかない。僕は、今、キョウジくんを守ってる
んだ。キョウジくんが大切にしていた人を守ってるんだ。やっぱり僕にとってのカリスマ
はキョウジくんなんだ。
 シンジは先の見えない廊下に不安を覚えながらも、それでも、とにかくサヨリをこの先
に連れて行くことだけを考えていた。
 きっと、僕は、そのためだけにいたんだ。つまんないけど。キョウジくんにも見下され
てたけど。それでも、僕には今、やりたいことがあるんだ。

 2

 カミカワは壁の中を進んでいる。発砲音がする。シミズが銃を構えている姿が見える。
 あちゃ、急がなきゃ。
 カミカワは人をかきわけて進む。

 アリサワとアミは動力部らしきところにいた。先ほどの広間の半分の空間。その中心に
森がある。床に音を張り、枝葉は天井にぶちあたり、横に広がっている。
 後方から発砲音。2人は廊下の方を振り向く。

 ケンジは目を閉じている。老婆は傍にいて、ケンジの手を握っている。発砲音。ケンジ
は闇の中でその音を聞く。
「大丈夫さね。あんたの待ち人は、もう、すぐそこにいる」
 ケンジは微笑む。

 3

 廊下を走るシンジとサヨリ。
「残念でした」
 突然目の前の床から姿を現すシミズ。シンジはサヨリを庇うように、その前に立ち、銃
を構える。
「馬鹿だね」
 シミズは引き金を引く。シンジの肩口に銃弾はめり込む。激しい痛みにも動じず、シン
ジは引き金を引く。しかし、すでにシミズの姿はない。
「シンジくん!」
 サヨリがシンジの背中から離れようとする。
「大丈夫だから」
 シンジはそれを銃を持っていない手で制す。
「でも!」
 サヨリはシンジの腕を掴む。

 あぁ、僕の手はこのためにあったんだ。そして、サヨリさんの手はキョウジくんの手を
握るためにある。よかった。ここまでこれて……

「これで終わりだ」
 シミズが頭上から現れ、シンジの頭に狙いを定め引き金を引こうとした刹那。カミカワ
が現れてシミズにタックルする。2人はもんどりうって天井から離れ、シンジの足元に落
ちる。
 瞬間、シンジはサヨリを背中から押し出す。
「行って、走って」
 サヨリはよろけながら、前に出る。
「でも……」
「いいから!いいんだから!逃げて!生き延びて!この先まで行くんでしょう?」
 カミカワはシミズにしがみつく。シミズはカミカワを引き離そうともがく。
「お願いだから。キョウジくんのためにも、頑張って。生きて、逃げて……」
 シンジは自分でも気づかないうちに涙を流している。
 サヨリは、肯いて、そして踵を返し、走り出す。

 4

 シミズがカミカワを引き剥がし、サヨリの後を追おうとする。
「シンジ!」
 カミカワが叫ぶ。シンジはシミズの背中に向けて銃弾を撃ち込む。シミズはよろめき、
倒れる。そして床に沈みこんでいく。
 シンジは肩を押さえて、膝をつく。カミカワが近寄る。
「根性あるな、お前。少し見直した」
 カミカワが笑う。シンジも笑う。
「かなり、痛いけどね」
 2人は笑う。
 パンッ
 カミカワの体が揺れる。そして倒れる。
「くそったれが。どうしてお前に気づかなかったんだ、俺は。あぁ、お前、もしかして半
分か?まだ半分しか箱舟になってないんだな。種を植えられてないだろう。だからだな」
 カミカワの先にシミズの姿がある。銃を持つ手が小刻みに震えている。
「箱舟になったからって、死んじまうんだもんな。これだけが不便だ」
 震える銃口をシンジへ向ける。
「よくもやってくれたな、死に損ないのアヒル」
 シンジはシミズが引き金を引くよりも早く、横の飛ぶ。銃弾は床に当たる。
「カミカワくん!」
 カミカワは体を起こし、ピースをする。
「大丈夫、かなり痛いけど」
 カミカワの無事を確認して、シンジはシミズに銃を向ける。

 この人だけは、僕がやらなきゃ。そうしないと、サヨリさんが危ない。

 シンジの放った銃弾は空をきる。シミズは姿を隠す。
「させるか!」
 カミカワは力を振り絞って床にもぐり、シミズの探す。
 シンジは銃を構えたままシミズの現れるのを待つ。
「シンジー!」
 カミカワがシミズを羽交い絞めにして、床から現れる。
「撃て!」
 シンジはシミズの額に狙いをつけて、引き金を引く。

 5

 サヨリは走っている。
 もっと早く、早く……
 体を軽くするために、背中の狙撃銃を廊下に投げ捨てる。ブーツを脱ぎ、防弾チョッキ
を脱ぐ。それでも手に持った銃だけはかたく握り締めている。

 わたしはどこへ向かってるんだろう。この先に何があるんだろう。どうして、耳の裏の
音は大きくなっていくんだろう。どうして、どうして……

 サヨリの頬を伝い、涙が床に落ちる。一滴、もう一滴。彼女の後ろの床へ落ちる。

 キョウジくんに会いたい。

 もう一度会って、そしてわたしは言うんだ。

 一緒に行こう、って。

 廊下が切れる。目の間に広間が現れる。中央部に森が見える。森の入口に1人の老婆が
立っている。サヨリは老婆に近づく。
「あんたが旅人なんだね」
 老婆はそう言って、頭を下げる。
「ありがとう。そして、本当にごめんなさい」
 サヨリは老婆の言葉が理解できずに、ただ、立ち尽くす。老婆は頭を上げると指さす。
「あそこに、あんたの友達がいる。1人は死にかけてる。助けてあげて。あの2人は生き
ていかなければいけない」
 老婆の指さす先には部屋がある。そこに誰かがいるのだろう。そして1人は死にかけて
いる。サヨリは肯くと部屋へ向かう。
 部屋へ向かうサヨリの後姿を見ながら、老婆はまた頭を下げる。そして森へ入っていく。








 続く











33, 32

  



  3 明るい森の中


 1

 サヨリが動力部に到着する少し前、アリサワとアミは森の入口にいた。
「どうやら、何かが始まったみたいだ」
 アリサワはたばこをくわえる。
「先に進みましょう」
「そうだな」
 2人が森へ入ろうとした時、背後から声がかかった。
「ちょっと」
 アリサワはすぐに振り返り声の主に銃を向ける。そこにはフードを目深に被った老婆が
立っていた。アミはアリサワの後ろに隠れている。
「本当はこんなことルール違反なんだけど。あんた、そっちの女の子。あんたが彼の待ち
人なんだろ?あそこにいるよ。行ってあげて」
 老婆はそう言ってケンジがいる部屋を指さす。
「どういうこと?」
 アミはアリサワの後ろから出てくる。アリサワは銃を構えたまま、老婆の動向をうかが
っている。敵か見方か……
「死にかけてるんだ。でも大丈夫、彼は助かる。後からやってくる、旅人に血をわけても
らいなさい」
 アミは老婆の言葉がケンジのことを指しているのだと気づき、すぐに部屋へ向かう。
「占い師が占いを実現させちゃうなんて、詐欺みたいなもんだね」
「婆さん、何者だ」
 老婆はアミが部屋に入ったのを確認して、アリサワの方を向く。
「物語る者、さ。ただ、ルールを破ったからね。呪いも解けるだろうさ。大きな声の神に
そむいてしまったことになる。だから、元の姿に戻って、すぐに死んでしまうのさ」
「元の姿?」
 アリサワは銃を下ろす。老婆はカッカッカッと笑う。
「そうさね。醜い姿さ……お前さんは先へ進むのかい?」
「ああ、俺なりに決着ってやつをつけたいんだ」
「そうかい、用心しな。相手は、強大だよ」
「わかってるつもりさ。勝算がないことくらい。婆さんはどうするんだ?」
「ここで旅人を待って、そして箱舟から出るさ」
「どうやって?」
「飛んでさ」
 そう言って老婆は両手を羽根に見立てて上下に振る。アリサワはその仕草を見て笑う。
「そりゃあいい」
「そうさの」
「1つ教えてくれ、旅人ってのはなんなんだ?まさかサヨリのことか?」
「大きな声の神は世界を広げるために旅人をつくったのさ。声を取り戻させるためにね」
 アリサワは首を捻る。
「伝承、予言の類か?」
 老婆は首を振る。
「いんや、私が見てきたことだよ」
「わからんね、婆さんの言ってることが」
「そうさね。さぁ、もう行くんだ。森の中にあんたの目的地がある」
「ああ」
 アリサワは手をあげて、そして、森の中へ入っていった。
「さて、呪いも解けていくね」
 老婆の体を覆うローブが蠢く。中で何かが動き回っているようだ。
「願わくば、旅人に幸せを」
 老婆の耳に、足音が聞こえた。老婆は首を180度まわしてから、体を廊下の方へ向け
る。

 2

 シミズの額に穴が開く。そして顔面から床に倒れる。穴から流れ出した赤黒い血が床に
拡がる。カミカワはその場に尻餅をつく。
「さすがに、やばいか。体が重い」
 そして笑う。
「お前は大丈夫か?」
 シンジの肩から出血は続いている。
「死にはしないかも。でも、僕の体も重いや」
「俺たちよくやったよな」
「うん。結構、満足してる」
 シンジはカミカワに近づき、体を起こさせる。腕をカミカワの肩に回し、シンジは歩き
始める。
「どこ行くんだ?」
「行けるとこまで。あんま意味はないんだけどね」
「結局あの子と寝れなかったな」
「次があるよ」
「ねえよ」
「あるって」
「もし次があるなら、今度は別の子がいいかな」
「嘘つき」
「うるせー」
 静かな廊下にシンジの足音が響く。
「死ぬかな、こりゃ」
「かもね」
「まぁいいけど。義理は通せたし。あの子の未来も明るいし」
「うん」
「あっ」
「どうしたの?」
「あの子が俺を待ってる間オナニーしてたかどうか確認するの忘れてた」
「してるよ、僕見たもの」
「嘘つけ」
「うん、嘘だよ。でもアミさんの時は信じたでしょ」
「あれも嘘かよ」
「うん」
「お前、悪い奴だな」
「でしょ」
「でも、悪くないよ、お前。けっこう、面白い」
「僕はずっとカミカワくんのこと馬鹿にしてたけどね、心の中で」
「ひでーな」
「でも、悪くないよ、カミカワくんも」
「ありがとうよ」
 2人は長い廊下を歩いていく。その背後で、動かなくなったシミズから流れ出る血液が、
静かに箱舟に吸い込まれていく。

 3

 アミが部屋へ入るとケンジは目を開けた。
「遅かったじゃないか。待ち人さん」
 アミはケンジに駆け寄り、首に抱きつく。
「馬鹿ねぇ。あんたは。私を守るんじゃないの?」
「守ってるつもりなんだけど、これでも」
 ケンジは力を振り絞って、アミの髪を撫でる。アミは体を離す。
「大丈夫よ、お婆さんは助かるって言ったから。もうすぐサヨリが来るから。そしたら大丈
夫」
「そうか、あの婆さんの占いは当たるからな。信じてよさそうだ」
 ケンジは目を閉じる。意識が遠くなるのがわかる。
 
 キョウジ、お前のとこへ行ってやりたいけど、俺はもう少しこいつと一緒にいたいんだ。
本当ならお前と馬鹿やってるのが普通なんだろうけどね。でも、俺はお前のことを信じてる。
ここでアミを選んでも、俺とお前の友情は変わらないだろう?お前はブーたれるかもしれな
いけどな。悪くないんだよ、こういうのって。悪くない。お前も、次の機会があれば、試し
てみるといい。サヨリちゃんとさ。俺が祝福してやるよ。

 “その言葉忘れんなよ”

 ケンジは薄れゆく意識の中で、キョウジの声が聞こえた気がした。

 アミは目を閉じて、祈っている。強く強く祈っている。ケンジが死なないこと。村で静か
に暮らすこと。ただそれだけを祈る。
 扉が開く音がする。アミは目を開けて、涙を拭き、顔を上げる。そこには、優しく可愛ら
しいサヨリの姿がある。

 4

 アリサワは森の中を進んでいる。森の中は明るい。よく見ると、木々が微かに発光してい
る空気の密度がこれまでよりもずっと濃く、息苦しい。この先になにかとんでもないものが
いることを、本能的に感じる。自分が死へ向かって進んでいるのがわかる。
 自殺行為だよな。下のもんには逃げろって言ってたのに。
 どうして自分がこうまで真実を知りたがっているのか、アリサワには不思議でならない。
洪水に流されてしまいたいとまで思っているのに、それでも、知りたい。
 きっと俺は知ってから流されたいって思ってるんだ。せめて、この世界の、この事件の意
味を知ってから……サヨリという少女の行く末を知りたい。そうしないと、死んでも死に切
れない。あの可哀想な子の結末を知ってから。

 できれば、救いたい。生き延びて欲しい。俺の代わりに。

 アリサワは歩を速める。

 5

 進んだ先には一軒の小汚い小屋。その前に、椅子が置いてあり、白髪の男が座っている。
髪は長くまるで女の様。どこかの軍の制服を着ている。アリサワの姿を見つけると立ち上が
りタバコをくわえる。
「火をくれないか」
 拍子抜け。男の顔には笑み。アリサワはライターを投げる。白髪の男はそれを受け取り、
タバコに火をつけ、アリサワに投げて返す。アリサワもライターを受け取るとタバコに火を
つける。二人はしばらく無言のまま煙を吐き出し続ける。
 沈黙を破ったのは白髪の男。
「ちょうど、手持ちのマッチがなくなってたんだ。助かったよ」
「前時代の遺物なんかやめてこっちにしろよ」
 アリサワはライターを左右に振る。
「そうだな。考えておくよ」
「お前が親玉か」
「いや、違うようなそうであるような……」
「神か?」
「いや、神様ならそこにいる」
 男は背後の小屋を指さす。
「じゃあそいつが親玉か」
「たぶん、そうだろ」
 アリサワはタバコをくわえたままベレッタを抜き、男に向ける。
「それじゃ、そこをどくんだな。俺は小屋の中の奴に用がある」
「無駄無駄。神様は喋れないんだ。うめき声くらいしか出せない」
「関係ないね。俺はそいつを殺しに来た」
「撃ったって死にはしないよ。だって神様だから」
 アリサワは銃を下ろす。タバコを吐き捨てると踵で火を消す。
「おいおい、ポイ捨ては止めてくれよ」
 そう言って手をかざすと、地面でくしゃくしゃになったタバコが浮き上がり、そのま
ま宙を移動し男の手の平におさまった。
「これでも環境には優しい男なんだ。アリサワさんよ」
 男はくしゃくしゃになったを握り締める。手を開けるとタバコの吸殻は消えていた。
「手品師か。ずいぶん芸達者なんだな」
 男は笑う。
「まぁ手品も俺の力も似たようなもんだ」
「お前がこの事件を起こしたんだろ?」
「そうだよ。いつからか神って呼ばれてたよ。でも、本当の神様じゃないんだな。ただ
力を与えられただけさ。神様の願いを叶えるために」
「神様なのに人間にモノを頼むのかよ。ずいぶん無能なんだな、小屋の中の奴は。詐欺
師なんじゃねえか?」
「神様だって何でもできるわけじゃないからね。俺はただの道具さ」
「その道具が大勢の人を殺させ、そんで拉致ってきた連中を精神操作した上に化け物に
しちまったのか?」
「まぁ大体あってる。人を殺させて精神操作したのは俺だけど、箱舟にしたのは神様の
力さ。まぁ精神操作って言っても種を植えただけだし」
「種?」
「ああ、新しい世界のための種」
「妄言だな」
「何言ってんだよ、誰だって新しくゲームをやり直すときは少し賢くなってくもんだろ
う?ほら、お前の国の文化じゃないか、アリサワさん。テレビゲームのあれ」
 男はくわえていたタバコを口から離すと息を吹きかけた。タバコは一瞬で姿を消した。
男はにやにやしながら椅子に座る。アリサワは男が気に入らない。話し方、物腰、全て
が気に食わないでいる。アリサワは銃を向けたままもう一本タバコをくわえて火をつけ
る。
「おいおい、吸いすぎだ。肺がんになるぞ」
「タバコのパッケージみたいな台詞だな」
「良い言い方だ。実にひねくれてる」
「お互いにな」
「さて、どうしようか。旅人が来るまで待とうか」
「サヨリのことか?」
「可愛らしい子じゃないか、どことなくお前の初めての相手に似てる。そうだろう?」
「そういう言い方は好きじゃないな」
 アリサワは我慢できずに引き金を引く。銃弾が発射され、男めがけて飛んでいく。や
った、とアリサワは思った。しかし、銃弾は男の眉間を目前にして空中で止まる。男は
にやにや笑いを止めずに、宙に浮いた弾丸を指でつまみ地面に落とす。
「気が短いな。落ち着けよ、もうすぐ役者が揃う」
 アリサワは銃を下ろし煙を吐き出す。紫煙が2人の間を舞う。
「お前も箱舟になったのか?」
「いや、俺はなってないよ。俺は新しい世界には必要ないからね。神様だってそう思っ
てるみたいだ」
 男はそう言って、空中からタバコを取り出しくわえる。アリサワは無言でライターを
投げる。男はライターを空中で止めて、タバコの前まで移動させ火をつける。ライター
はそのまま空中を移動してアリサワの元へ返ってきた。
「吸いすぎだな。肺がんになるぞ」
 アリサワがそう言うと男は煙を吐き出しながら笑う。そして言う。
「タバコのパッケージみたいな台詞だな」





 続く













  4 決意/未来


 1

 サヨリの目の前、アミの膝の上で、ケンジの命が尽きようとしていた。アミは涙を流し
、ケンジの青い顔を見守っている。ケンジの脇腹からの出血は続いている。床は血で染ま
りその出血量が尋常でないことを示している。
「わたしに何が出来るのだろうと、思い続けてきた」
 サヨリはアミの手を握る。小刻みに震えるアミの手は、とても冷たい。
「キョウジくんが死んでから、戦っているあいだも、ずっとそう思ってた。結局わたしに
何が出来るんだろうって。遠くへいくことを諦めたわたしにね」
 サヨリはアミの手を右手で握り、左手をケンジの脇腹に置く。生暖かい血の感触。
「イトウくんが死んで、キョウジくんが死んで、サクラが死んで、それでもわたしは生き
ている。シンジくんやカミカワくんがわたしを守るために戦ってくれて、それでもわたし
は生き続けている。わたしはもう迷わない。わたしは遠くへ行く。よくわからないけど、
きっとそれがわたしに出来る唯一のことなの。でもわたしはキョウジくんと一緒じゃなく
ちゃそれが出来ない。だから、わたしはキョウジくんを探す」
 サヨリは大きく息を吐き、そして目を閉じる。
「キョウジくんが死んでから、わたしは死ななくなった。その力を使ってケンジくんの傷
を治してみる。出来るかどうかじゃなくて、やるの。お婆さんに出来ると言われたからで
もなくて、ただ、わたしの大切な親友であるアミの大切な人を救うために。なにより、わ
たしが遠くへいくために」
 サヨリは両の手に力を込める。微かにサヨリの手が光、ケンジの顔に赤みがさす。
「わたしは必ずキョウジくんにもう一度会う。死んだのは知ってる。でも、必死で探せば
もう一度会える気がするの。予感。ずっと先で、何もかもが変わってしまっているかもし
れないけど、それでも、会える気がするの」
 サヨリは2人の手を離し、立ち上がる。
「アミ、幸せになってね。わたしも幸せになるから。出来れば、アミやケンジくんにもも
う一度会いたい」
 ケンジが目を開ける。アミはぽろぽろと涙を流す。アミは顔を上げて、サヨリを真っ直
ぐ見つめる。
「サヨリ、私たちは必ずもう一度会うわ。必ず……だから、生きて」
 サヨリはにっこりと微笑み、部屋を出て行こうと出口へ歩き出す。
「サヨリちゃん、キョウジがさ。こう言ったんだ、さっき、気のせいかもしれないけど。
その言葉忘れんなよって。なんでキョウジがそんなこと言ったのかっていうと、俺がキョ
ウジとサヨリちゃんが幸せになったら祝福するって言ったからなんだ。だから、俺たちは
また、絶対にどこで出会うよ。俺がお前らを祝福するために」
 一瞬、サヨリは足を止める。
「その言葉があれば、わたしは……」
 サヨリは部屋を出て行った。部屋に残された2人はきつく抱き合う。
「洪水がくるのね。どうしよう、私たちも箱舟になるのかしら?」
「いや、それは駄目だ。ここを出よう。俺たちは俺たちで、逃げるんだ」
「どこへ?」
「あの村へ」
「水に浸かってるんじゃないしら」
「とにかく、行ってみよう。それから考えよう」
「そうね。行ってみましょう」
 2人は立ち上がり、部屋を出る。足取りは軽く、自信に満ちている。

 2

 シンジとカミカワはぼろぼろになった体に鞭を打って、歩いている。ようやく動力部に
着いた頃には、2人は一歩も歩けないほどになっていた。森を目前にして床に倒れこむ2
人。
「ああ、つまんねえの、こんなとこで死ぬのかよ」
 カミカワは大の字に仰向けに寝そべる。
「しかも、僕と一緒だしね」
「色気ないなぁ」
「それはこっちの台詞だよ」
「よく言うぜ」
 2人はからからと笑う。
「まぁ、悪くない人生だった」
「僕はもうちょっと色々なものを見ていたかったけどね」
「じゅうぶん見たんじゃないか?」
「できれば、サヨリさんとキョウジくんの物語の結末を見たかった」
「なんじゃそら」
「僕の願望だよ」
「ふ~ん。おっと、もう終わりがきたみたいだ」
 シンジがそちらを見ると、カミカワの体が少しずつ床の中に沈みこんでいっている。
「ああ、箱舟になった人ってそうなるんだ」
「でもシミズはそのままだったな。もしかして俺が箱舟と人間の半分だから、こんな感じ
になるのかな」
 カミカワの体の半分が沈んでいる。
「それじゃあな、シンジ」
「うん。カミカワくんも元気で」
「これから死ぬ奴にそれはないだろう」
「あは、そうだね」
「シンジ、またな」
「うん、また」
 カミカワは完全に床に吸い込まれていった。シンジだけが冷たい床の上に残された。
 さて、僕も終わりを迎えるかな。こんな時はやっぱりドアーズの『The END』が
あってるのかな?でもやっぱり、どっちかっていうと、ストーンズの『地の塩』かな。
 シンジは『地の塩』をハミングする。とても、静かだ。シンジは仰向けになり、天井を
見上げる。声を少し大きくして、目を閉じる。
 しばらくして、上方から羽音が聞こえる。目を開けると一羽のフクロウがシンジの上を
旋回している。
「邪魔しないでほしいな、僕は歌を歌ってるのに」
“あんたは結末を見たいんだろ?”
 どこからか声が響く。フクロウの声なのだろうか?
「見たいね」
“わたしはもう、駄目だから、あんたに役目を託そう。この呪いはつらいものだよ?それ
でも見たいかい?”
「うん」
“わかった。それじゃ一緒に行こう。あんたはこれから死ねない体になり、全てを観続け
ることになる。でも手出しはできない。あんたはただ観察するだけなんだ。神の目になる
だけ。それを守れるかい?”
「約束を破ったら?」
“死よりも恐ろしいものが待っている”
「死よりも?」
“無だよ”
「ぞっとしないね。あんたもこれから無になるの?」
“そうだよ。神はもう少し待ってくれる。役目を引き継ぐためのね”
「わかったよ。あの2人の結末を見ることが出来るなら。でもフクロウになるのは嫌だな」
“それは我慢しな”
 フクロウがシンジの胸にとまる。そして、フクロウは大きく膨らみ、はじける。フクロ
ウの体からはじけとんだ暗闇がシンジの体を覆う。
“地獄だよ、あんたは呪われるんだ”

 いい、それでも。僕はあの2人の幸せな結末を……こうして2人は幸せに暮らしました
とさ、ってところが見たいんだ。

 それまでシンジだったモノはフクロウになる。そのフクロウは飛び上がり、広間の上空
を旋回して、外を目指して飛んでいった。

 3

 サヨリは森の中を歩いている。キョウジに会うことを決意した、サヨリの足取りはしっ
かりしたものになっている。目は真っ直ぐに正面を見据え――いや、その先、ずっと先ま
で見据えている――これから遠くへ向かうのだと自信を持っている。
 小屋が見えてきた。見慣れたアリサワの背中、小屋の前には1人の男が座っている。
「おいでなすった、旅人さん」
 男が椅子から立ち上がる。アリサワがサヨリの姿を認める。
「よう、無事みたいだな」
「はい」
 サヨリはアリサワと並んで立つ。
「ようやく、ここまで来たな。神様があんたを待っている。さあ、旅人、あんたは神様の
ところへ行くんだ。俺とアリサワはここで待ちぼうけ。お喋りを続けようじゃないか」
 サヨリは大きく一歩を踏み出す。いつの間にか、耳の裏の音が止まっていることに気が
つく。

 わたしは、止まらない。

「サヨリ」
 アリサワが声をかける。
「俺はキョウジと似てるのかな?」
 サヨリは歩みを止め、アリサワの方を向く。
「最初はそう思ったけど、やっぱり似てないね。アリサワさんはアリサワさんだし、キョ
ウジくんは……1人しかいないし」
 そう言ってサヨリはとびっきりの笑顔を、アリサワに向ける。
「そいつは、残念」
 サヨリは男の脇を抜けて小屋へ入っていく。

 いや、そいつは、本当に残念だ……

「さて、俺の無駄話に付き合ってもらおうか、アリサワさん」
「お前なんて名前なんだ、名前を知らないと話もまともにできないだろ?」
「名前、名前ね」
 男は病的な大声で笑う。ひとしきり笑った後で、男はタバコをくわえる。アリサワはラ
イターを投げた。ライターは空中で消えた。いつの間にか男のタバコには火がついている。
「名前がないんだよ、俺は」

 4

 小屋の中には何もなかった。部屋の中は薄暗い。8畳ほどの室内。サヨリは入口で立っ
たまま部屋を見回す。1度、2度、3度……数度目で違和感。部屋の角。隅にうずくまっ
ているモノがある。よく見ると、毛布にくるまった人であることがわかる。
 サヨリが近づくと、毛布が床に落ち、みすぼらしい、白髪の老人が現れる。下半身に布
を巻いただけの男は、がりがりのやせ細っており、震えている。脇腹に骨が浮かび上がっ
ており、脛は小枝の様。落ち窪んだ頬は黒く化粧をしたような影が落ちている。
「あなたが、神様なの?」
 瞬間、頭の中に巨大な音がした。サヨリは突然の衝撃に頭を抱え、その場にうずくまっ
てしまった。音は少しずつ小さくなり、やがて、耳の裏で聞こえていた音になる。
「あの音はあなただったのね。わたしに伝えたいことは何?」

 “旅人。ようやく会えた”

 サヨリの頭の中に音でも声でもない、平面な文字が浮かぶ。

 5

 その男は呟くように語る。

 俺は戦場の中で生まれた。お前らがイラクと呼ぶ戦場で。これまで人間が得てきた全て
の知識や経験を与えられて。その上、超能力のようなものを与えられて。この姿で。この
ままで。最初に与えられた言葉は頭の中に浮かんだ文字だ。
“お前は代わりになるのだ”
 それから俺は神の計画を実行してきた。神に代わって。
 怖かったよ。俺は記憶喪失なんじゃないのか、狂ってるんじゃないのかって。記憶喪失
がどういうものなのか、狂うというものがどういうことなのか、知っているのに、そうで
はないという事実。人間と変わらない体と精神なのに、俺は普通じゃないんだ。生まれた
という言い方は適当じゃないな。作られた、と言ったほうがいいな。普通、人間は生まれ
たら名前を与えられるだろう。親やそれに近いものに。だが、俺は名前をもらえなかった。
いつの間にか人間に神と呼ばれるようになってさらに戸惑ったよ。だって、神は別にいる
んだからね。しかもそいつがホンモノだ。じゃあ俺の名前はなんなんだって。自分でつけ
られれば良かったんだけど、それはできなかった。その能力はなかったんだな、俺には。
 神の計画を実行していくあいだに、俺は知った。神が俺に何をさせたいのかを。神の手
足となるだけではなく、旅人を代わりにならないといけないのだということを。
 旅人とは一体何者なんだろう?何をするためにいるんだろう?
 神はこの問いに答えてくれなかった。俺は混乱したよ。じゃあ俺は何をすればいいのだ
ろうかって。神は問いについて答えてくれなかったけど、見本を示してくれたよ。それが
キョウジとサヨリだ。旅人は2人で1つ。じゃあどうして俺は1人なんだ?
 俺はどうして1人しかいないんだ?
 疑念は疑念を生み、1つの結論にたどり着く。俺をつくった奴は、本物の神ではなく、
偽者なんじゃないかって。
 神はキョウジかサヨリを殺して、どちらかを俺と対にさせたかったみたいだ。どうして
そんなまどろっこしいことをする?本物の神なら、もともと旅人をつくった神なら、もう
一度作ればいいじゃないか。だが、奴にはそれができない。
 奴の目を見たことがある。誰かを羨んでるような目。嫉妬、憧れの目。その時確信した
ね。

 俺の後ろにいる奴は、神じゃない。神のフリをしてる何か、だ。








 続く






35, 34

  



  5 終わり/物語


 1

 サヨリは部屋の中で立ちすくんでいる。その老人の文字が全ての感覚を支配している。
目を逸らせない。
“さあ、我の作りし旅人とともに旅立つのだ。”

 ……い……

“さすれば、我が真の神となる。神の沈黙はこれで終わるのだ。奴の傲慢もこれまでだ”

 ……い……や……

“さあ、さあ、さあ。早く、早く、我はここまで待ったのだ。さあ、旅立つがいい、船は
用意されている”

 ……いや……い……や……

“君の目はもう、何も捉えない。箱舟になった人も、そして生ある者たちも。君の目にう
つるのは、前だけだ、先だけだ”

 ……嫌!いや!……絶対に嫌!……

 サヨリの頭の中から文字が弾け飛ぶ。老人はそれに驚き、怯え、壁にすがりつく。そん
な老人を、サヨリは乱れた息を整えながら、睨みつける。そして、体の奥から燃え上がっ
ていた憎悪の火が消えていき、悔しく、悲しく、寂しくなる。サヨリは老人の目を見てし
まっていた。暗い闇よりもなお暗い、自分以外の全てを見上げる瞳。全てを人のせいにし
て、自分を可愛がる人の目。羨望、嫉妬、それ以外は目に入らない目。とても小さい、狭
量な、矮小な、器の瞳。そこにいたのは神ではなく、神に憧れ、神になろうと足掻いた、
醜く、愚かで、取り返しのつかないほど矮小な、ただの人。

“我はただの人ではない”

 サヨリの中に浮かぶ文字は、存在感が薄れていて、弱々しい。

“我は、神とおなじほどの時間をこの世界で過ごしてきた。力も得た。神に勝るとも劣ら
ない音を得た。その証拠に、神が作り出した世界をここまで揺るがしたのは、我だけだ。
神の思惑の裏をかき、洪水から神の創りし存在を救うことができるのは、我だけだ”
「可哀想ね」
“どうしてだ、どうして、我に逆らう。どうして、お前は特別なのだ。1度目もそうだっ
た。ここでもう1度会えたのに、それでも強大な力で、我が軍勢を倒し、我を見下す。そ
の憐れんだ目を、どうして2度も我を見下ろしているのだ。今度は箱舟が破損するまで軍
を送ったのに!”

 2

「箱舟は、察しのとおり、人間で作られている。拉致されてきた人間、精神操作して従わ
せた軍人。ぎりぎりの数だったよ。思った以上に、お前らの抵抗が強かったからな。お前
らに向かわせたのは規定数以上だった。箱舟の一部を壊してまで、お前らを倒そうと奴は
やっきになっていた。不思議だったよ、見下ろしている奴が、いつの間にか、醜く足掻い
ているってのは。まぁ、それほどあのサヨリという旅人の力と、お前ら人間の力が強かっ
たということだろう。最終的に神はお前らをわざと呼び込んで、破損した箇所の補填をす
ることにした。成功といっていいだろう、ほとんどの人は吸い込まれ、箱舟はほとんど元
通りだ。神は途中で計画を変更したんだ。神はサヨリを懐柔するのではなく、強制的に従
わせることにしたんだ。当初の計画ではぼろぼろになり、敗北寸前まで追い込んだあげく、
俺が助けにいくってことでサヨリの気を惹くつもりだったんだ。そのために、俺にはこん
な力がある」
 男はそう言って椅子から立ち上がる。髪の色が黒く変化していき、その顔、骨格までも
変化していく。そして変化が終わったあとにそこに立っていたのは、キョウジその人だっ
た。
「陳腐なもんだよ。古い手さ」
 アリサワはタバコをくわえる。火をつけて、大きく煙を吐く。
「なぜ、サヨリなんだ?キョウジでは駄目だったのか?」
 男は笑う。
「たまたまさ」
 そう言って、男は顔を変える。今度はサヨリの姿になった。
「どっちでも良かったんだ。どっちかがいれば、それでよかった。キョウジが死んだのは
偶然……とは言えないかもな。どっちにしろ、本物の神の力がそこにあったわけだから。
運命にそうさせたのかもしれない」
「本物の神?」
「この世界は3度目なんだよ。過去にもこういうことがあった。二度の洪水。これは3回
目、奴は3度目の正直を狙ったんだよ」
「歴史は繰り返す、か」
「もちろんまったく同じじゃない。というか、ほとんど違うと言ってもいいみたいだな。
ただし、大筋は一緒。これは奴から聞いた話だがな、奴は前回の最後に、確率を上げるた
めの仕掛けを施した。種さ。強くてニューゲームのための。前回も箱舟は人によって作ら
れた。しかし、何かの理由で奴の作戦は失敗。単なる繰り返しを嫌った奴は、箱舟になっ
た者たちに種を植えた。なぁ、世界中の人間にはやけに共通点が多いってこと、世界同時
多発的に何かが起こる確率があまりに高いことが気になったことはないか?文明の勃興し
かり、宗教における神話しかり。それは人間が共通して持つ、集合的無意識ってやつさ。
それが奴の植えた種なんだ。種を植えることによってスケジュールを早めることにした。
前回は数万年、今回は数千年だ。確実にスパンは短くなっている。奴は得意げに語ってい
たよ。神も気づいていないってね。神の創造物に我の意思が混入しているってね。まるで
幼稚。結果、今回も失敗。世界はリセットされる。ただし、今回も奴は種を撒いた。3度
目の種植え。さらに確率があがると奴は思っている」
「結局奴は何をしたいんだ?」
 アリサワはタバコを口から離し、上向きに煙を吐き出す。
「神の失った力を手に入れて、神の代わりをするつもりだ。なんでそんなことを考えてい
るかなんて、知らない。狂人の行動に理由を見つけることは難しいだろ?だから、奴は、
旅人の力が欲しいのさ。旅人を自分の思うままに動かして、力を手に入れたいのさ。旅人
は、神が特別に創ったものだ。前回も今回もそれは変わらない。旅人は特別製なのさ。誰
の影響も受けない、奴の種も無駄さ、植え付けられない。前回の旅人のうち1人は箱舟に
なった。けれど、種を植えられなかった」
「なるほど、サヨリがなぜあれほどの力があるのかわかったよ」
「それは違うね、あの力は神も想定外だった。だから箱舟を崩してでも兵士を送ったのさ。
もしかしたら奴も知らない力が旅人にはあるのかもしれない。文字通り神のみぞ知るだね」
「洪水も奴が起こしたのか?」
「いや、これは神が起こす、定期的な行事なのさ。祭りみたいなもんだ」

 3

“神は、定期的に世界をリセットする。世界を今以上に拡げるために。鍵は、人間たちの
意思が外へ向かわなくなった時点。戦争、貧困が激しくなった頃。それがスイッチ。何が
いけないのだ。どうして我々は神のために、世界を拡げなくてはならない?どうしてこの
世界ではいけないのだ?そこに暮らす人たちを全て洗い流す権利を、なぜ神が持つ?創造
主だからか?我々が創られたからか?それを傲慢と言わずしてなんと言う”

 サヨリは目を閉じる。神の沈黙を想う。

“キョウジへの君の想いも神によって創られたものなのに、どうして、神に逆らおうとし
ない!”

 サヨリはキョウジこと強く想う。そして目を開ける。

「わたしはキョウジくんと遠くへ行く。ずっと遠くへ、神よりも遠くへ、神の死角へ」

“そんなのできっこない。不可能だ。釈迦の手の平でいきがる猿と一緒だ。我の元へ来い。
さすれば神を克服できる”

「そうしたら次はあなたが神になるんでしょう?」

“我は神というシステムの刷新をしたいだけだ。傲慢を正したいだけだ。あるがままでい
たいだけだ”

「わたしはそんなものに興味はない。ただ遠くへ行くことだけ。そうね、キョウジくん風
に言えば、神よりも遠くへ逃げちまえばいいってところかしら」
 サヨリの脳裏にキョウジが身振り手振りで逃げる方法を演説している姿が浮かぶ。

“愚かだな”

「いいのよ。逃げるから」

“箱舟からは出られない。すでに外は洪水により海中に没している”

「あら、そう」

“じきにこの箱舟も洪水に飲まれていく。生き延びるのは箱舟になったものだけだ”

「そうかもね。でも、わたしは死なないのよ」

 サヨリはそう言うと、小屋を出て行った。老人は毛布を力いっぱい掴み、壁に投げつけ
た。
 サヨリはすべてふっきった気分になっていた。目の前の世界がより広く、より美しくな
っていくのがわかって、さらに嬉しくなった。

 4

「そろそろ洪水が箱舟を飲み込む。この巨大な箱舟でさえ、洪水にはかなわない。箱舟に
ならない生物は死に絶え、泥に還る」
 男はそう言うと笑った。
「お前さんも箱舟になるのかい?」
 男は首を振る。
「箱舟になれるのは、神の創造物だけだ。俺は粗悪品さ。お前はどうする?」
「箱舟になるのはごめんだね。最後は静かに逝きたい」
「それがお前の運命なんだろう、神が決めた」
「さぁ、な。少なくとも俺は自分で決めたと思ってるけどね」
「悪あがきだ」
 アリサワはベレッタを抜き、男へ向ける。
「どうする?俺が結末をつけてやろうか?」
 男は笑う。
「やり残したことがある。それをやったあとに、結末をつけてもらえないか?」
 男はアリサワの手からベレッタを自分の元へ引き寄せる。
「少し借りるぞ」
 男は小屋へ向かう。小屋からちょうどサヨリが出てくる。男とサヨリの目が合う。男は
姿をキョウジに変える。息を呑むサヨリ。しかし、すぐに笑う。
「下手糞ね」
 男はキョウジの姿で笑う。
「そうだな」
 男は姿を元に戻し、小屋へ入ろうとする。サヨリがそれを呼び止める。
「ねぇ、あなた名前は?聞いてなかったじゃない」
 男は足を止め、サヨリの方を見る。
「なんて名前だと思う?」
 サヨリは男の顔をまじまじ見て、言う。
「う~ん。イエスって感じ。教科書で見たのとそっくり」
 男は笑う。
「ありがとう、いい名前だ。俺はこれからイエスと名乗ろう。行くなら、上へ出るがいい。
ここまできた廊下の反対側にエレベーターがある。それを使えば箱舟の上に出る」
 男はそう言って小屋へ入っていく。サヨリは不思議そうな顔でそれを見送る。小屋の扉
が閉まる。サヨリはアリサワのところへ行く。
「アリサワさん。今までありがとう。わたし、行くね」
「そうか」
「全部イエスさんから聞いたの?」
「ああ」
「わたし、特別に見える?」
 サヨリはくるりと一回転する。サヨリの長い髪がしなやかに揺れる。一周したサヨリを
見て、アリサワは苦笑する。
「普通さ」
 サヨリはそれを聞いてにっこりと微笑む。
「わたしもそう思う」
 サヨリとアリサワはしばらく見つめあう。しばらくして、サヨリは深々と頭を下げて、
そしてアリサワの脇を抜けて行こうとする。
「サヨリ」
 サヨリは歩を止めて、アリサワを見る。
「生きろ。幸せになるまで、つらくても生き続けろ。死んでも生きろ」
 サヨリは体を正して、乱れた髪を直し、気をつけをして、にっこりと笑う。
「はい!」
 サヨリは走ってアリサワの元を去っていく。アリサワはサヨリの後姿を見て、涙を流す。
寂しく、切なく、サヨリの結末を想像して。
 サヨリが森を抜けた、すぐ後に、小屋の中から小さく発砲音がした。
 
 5

 ケンジとアミは船着場へ到着していた。乗ってきた小型艇は荒れる波に揺られていた。
海水が箱舟の中に入ろうと満ち干きを繰り返して侵食している。
「どうするの?」
「行くに決まってんだろ!」
 ケンジは一艇の小型艇に飛び乗り、船着場のアミに手を伸ばす。
「来い」
 その手を掴み、小型艇に飛び乗るアミ。エンジンを始動させ、二人は荒れる海に出る。
外は海の高さが増し始めていて、遠くへ見えるはずのマルセイユが消えていた。
「宇宙とか、行きたいな」
 ケンジは艇を操作しながら、振り落とされないように体にしがみついているアミに言う。
「いいわね」
 2人の船は大波に揺さぶられながら、世界の終わりの海を進む。

 小屋の中から発砲音が聞こえた後、イエスが外に出てきた。アリサワはくわえていたタ
バコを地面に落とした。
「ポイ捨ては反対だ」
 イエスが手をかざすと地面に落ちた吸殻が姿を消した。
「やったか?」
「こんなことで消えるようなタマじゃないよ。この世界から追い出しただけさ」
「そうか」
 イエスはアリサワにベレッタを投げる。アリサワはベレッタを受け取ると、弾倉を確認
する。イエスはアリサワの目の前に立つ。
「やってくれ。創造主にたてついた罰がくだる前に」
「どういうことだ?」
「奴の思いひとつで俺の存在を消せるってことだよ。そうなる前に、やってくれ。お前に
なら殺されてもいい」
「なんか気持ち悪い言い方だな。男に言われるとゾッとしないね」
「俺に性別はない」
「そいつは失礼しました」
 アリサワはイエスの口に銃口を押し込む。
「こうやって撃つと確実に死ねる」
 イエスは穏やかな目でアリサワを見つめている。
「お前、本物のイエスみたいだな。じゃあな」
 アリサワは引き金を引く。鈍い音。倒れるイエス。返り血を体中に浴びたアリサワ。倒
れたイエスは直後に煙のように消えていった。1人残されたアリサワ。イエスが座ってい
た椅子に座り、タバコに火をつける。ベレッタを地面に落とし、ゆっくりと煙を味わう。
「そうそう、こういう終わりだよ。静かで、1人で。でも、やっぱり、1人は嫌だな。な
ぁキョウジよぅ」
 轟音が箱舟中に響く。意思を持った洪水が全てを清浄に還そうと、流れ込んでくる。

 波に飲まれていく箱舟の上空。荒れ狂う風と雨の中、一匹のフクロウがもみくちゃにな
りながら、飛んでいる。全てを見届けようと、必死に抵抗しながら。その瞳は雨と涙で濡
れている。







 続く






36

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