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「夜の夜の夜」

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 眠りたかった。
 眠れなかった。
 眠れなくなった。
 目を閉じても布団の上に寝転んでも酒を浴びるように飲んでも、一向に眠気が来ない、あくびも出ない。
 眠れないまま三日が経ち、
 眠れないまま三ヶ月が過ぎ、
 眠れないまま三年の月日が流れた。

 三ヶ月目に、夜の中にある一段と濃い闇で形成されている「夜の夜」に入った。
 三年目に、「夜の夜」の中にある、さらに濃く暗くどうしようもなく救いのない、「夜の夜の夜」に落ちた。
「夜」という字がゲシュタルト崩壊を起こした「夜の夜の夜」の住民は、化け物だとか魑魅魍魎だとか死に神だとかモンスターだとか妖精だとか幽霊だとか妖怪だとか神だとかいう馬鹿げた連中と、俺のように、眠れなかったりだとか、人を殺しすぎたとか、何もしなさすぎたとか、そういった人間たちで構成されていた。
 舌を絡め合うくらいの距離まで近づかないとお互いの顔もわからない漆黒の闇の中で、眠れない俺たちは暇つぶしに愛し合ったり殺し合ったり赦し合ったりしていた。

「好きだった人の顔覚えとる?」
 暗闇の中で遭遇した化け物としばらく惰性的な殺し合いを演じた後、俺たちはストレッチのように抱き合い、それから足元に散らばったお互いの肉片や血を食べたりすすったりしていた。
「思い出そうとしたことは何度もあるけど、ここでは思い浮かぶ顔にも黒い霧がかかったようになって、かき消えてしまうんだ」と俺は言った。
「うちもや」
 化け物は自称化け猫で、雌で、二百歳だったか二歳だったか、適当なことを言っていた。唇から漏れる息は獣臭くて、硬い毛を掻き分けたところに発見した穴が性器なのか傷口なのかよくわからないまま、俺は手のひらから生えた男性器を挿入した。彼女の乳房に噛みついたのは、殺し合っている最中だったか抱き合っている最中だったか、ついさっきのことなのにうまく思い出せなかった。
「人の肉はやはり美味い」
「自分で食うと不味いよ」
 足元ですらろくに見えないので、手当たり次第に肉を拾うが、中には明らかに自分の指や耳が混じっていた。構わず食うが、いい気分ではない。
 一センチに満たない視界の中では、自分の体であっても見えない部分が多すぎる。見えないものは本当に存在しているか疑わしい。大怪我をしようと、手足全て失おうと、すぐに痛みも悲しみも薄れてしまう。争いの時には意識せずとも自然と手足が動く。新たに生えたか、元々失っていなかったのか。性器ばかりは気分次第で体のどこからでも生えてくれる。一人でいる時の暇つぶしには自涜が一番だった。

 化け猫はいつの間にかどこかへ消えていた。ひょっとするとすぐ側で静かな寝息を立てているのかもしれない。あるいは俺が負わせた傷が元で死んでしまったのかも。
 にゃー、と猫の鳴き真似で呼びかけてみる。
 なあ、と人語で問いかけてみる。
 にゃー、にょねにゃにゃにゃにんぬぇんにゃにょにゃにゃー。
 なあ、俺はまだ人間なのかなあ。
 眠れなくなった時から、とっくに人間ではなかったのかな。
 元々人間でなかったから、眠れなくなったのかな。
 夜の中に夜を見つけた時から、俺も化け物になっていたのかなあ。
 おまえも実は猫なんかじゃなくて人間で、俺もまだまだ人間で、俺たちこそが人間の本来の形なのかなあ。
 にゃにゃー。
 なんてことを考えても答えが見つかるわけでもなく、眠気に襲われるでもなく、俺は「夜の夜の夜」の中を彷徨い続ける。
 誰かに出会いたくて触れ合いたくてたまらないのに、いざ触れ合ってしまうと恐ろしくて、相手に襲いかかってしまう。
 お互いがお互いを求めているのに、お互いがお互いを恐れている。
 なんだ、まともに眠れていた時から、何も変わっていないじゃないか。

 すぐ側を何か巨大なものが通り過ぎていった気配を感じた。だけど手を伸ばしても、見当をつけた方向に駆けだしてみても、うまくぶつかれない。
「おお、おおおおおおお」
 叫び声も闇に紛れて、一メートル先にも届かない。
「なー」
 思わぬタイミングで足元から声が立つ。続いて足の指先に痛みが走り、そこに自分の足があることを実感する。見ることの出来ない足元に手を伸ばすが、そこにはもう猫はおらず、いつの間にか飛び乗られていた肩の上から耳を噛まれる。生ぬるい血が頬を伝う。ざらざらした舌がそれを舐め取る。
 右耳を噛みつかれた時は攻撃だったものが、左耳に移った時には、既に愛撫に変わり始めている。


(了)
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