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「腐食住」

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 蠅やゴキブリの羽音と鼠の足音がうるさいので三年ぶりに部屋の掃除をしていると殺した覚えのない人間の死骸が出てきた。上半身は肉がなくなり骨が剥き出しになっている。腐った食べ物がそこら中に散乱して熱を発していて蒸し暑い。
「誰だおまえ」
 骨の周りに残された貧乏臭い服装から察するに、二十代半ばの素人童貞男性フリーターあたりと推測して、気兼ねなく声をかけた。
「俺も忘れた」と骨が鳴った。脳は腐って爛れてどこかへ流されたか、蠅やら鼠やらに食われてしまったのだろう。
 骨は置いておき、私は小説を書こうとしたのだが、原稿用紙の上で猫が寝ていたので筆の進めようがなかった。編集者からの電話にも「猫が原稿用紙の上に寝ているので」と正直に話した。「それは仕方のないことですねえ」と彼は言わなかった。「何を言ってるんですか」と言った。
「猫なんて横にどかせばいいじゃないですか。第一あなたは原稿用紙に小説を書いたことなんてないじゃないですか」と至極真っ当なことを言われたので「いやあ」と照れた。
 あんまり猫が丸まり過ぎているので丸まり死にしているのではと思い指で突いたら「なあ」と返事をした。時折私の部屋に勝手に住み着いて勝手に死んでいく動物がいる。死にたいものが集まりやすい場所というものがあるとしたらそれは私の部屋なのだろう。
 ノートパソコンを立ち上げて今日締め切りの小説の続きを書き始めることにした。
「腹減った」と先ほどの死体が骨を器用に鳴らして語りかけてきた。
「そこらの勝手に食え」
「腐ってるよ」
「おまえほどじゃない」
「あんたほどでもないな」
 書きかけの小説を記したテキストファイルをどこに保存したか思い出せないでいる。途中から進まなくなったので癇癪を起こして削除してしまったような気もする。しかしテキストファイルは紛失してしまわないように二重三重にもコピーしてさらに場所を移して保存してあるので、全てを無くしてしまうなんて考えられない。
 思い出した。書いてないのだ。まだ一行も。
「なあ」
 猫が要求してくるのは食い物ではなくて指による愛撫だ。先週から部屋に住み着いた、醜い野良の背と腹と喉に指を這わす。ごろごろという。ごろごろとする。原稿用紙がしわくちゃになる。何の病気か知らぬが一部肌がただれている。そこを強く指で突いてやれば内臓がこぼれ出てきそうだ。元は白くても薄汚れて灰色になってしまった毛が黒い血で汚れそうだ。けれどそうすると原稿用紙も汚れてしまう。そこに文字を記す可能性が永遠に失われてしまう。私は指を愛撫の道具に留めて何も殺さずにいる。「にゃあ」と見知らぬ死骸が猫の鳴き真似をした。
 卓上鉛筆削りのように片腕をぐるぐる回しながら小太りの編集者が乗り込んできて私の部屋は少しばかり爆発する。コンビニ弁当の食べ残しと尿を溜めたペットボトルと拾い集めてきた鉄屑と猫の毛と見知らぬ死体が適度に混ぜ合わされると、指の爪を軽く剥がせるくらいの爆発が起こる。編集者はその程度のことには慣れっこになっているので、剥がれた爪を引きちぎり、ごみを掻き分けて私の元へとやってくる。爪は早くも新しいのがぞりぞりと生え始めていて、鮫の歯みたいだなと私は思う。
 それから彼は猫を優しく抱き上げて、部屋の中では比較的安全な私の寝床へと移す。かつてベッドだったそこも今は足を失い床と変わらなくなっている。
「猫をどかしましたよ」と彼は言い、私のパソコンモニタを覗く。「どれくらい進んでます?」と言う彼の爪はまだ伸び続けている。
「にゃあ」とまた骨が鳴る。
「一文字も進んでません。にゃあ」と素直に答えた。
「それは困りましたにゃあ」編集者が床を殴ると床に穴が空く。彼の力が強すぎるわけではなく、うちの床が腐り過ぎているだけだ。二発三発と続けて彼が穴を空けるので、モグラか蛇が出てきやしないかなと少しわくわくした。
「原稿料を上げてくれませんか。それならばもっとやる気が出ると思うのです」
「いつもたくさん弁当を届けているじゃありませんか。何が不満なのですか」
「食べきれずに腐るのです。多少腐っても無理して食べるので私の腹も腐るのです。腐ったものを捨てに行くと大変怒られるので部屋に置いておいたら部屋が腐るのです。見知らぬ死骸も迷い込んでくるのです」
「死骸?」と彼は怪訝そうな顔をして私を見る。
「こっちこっち」と骨が鳴る。
 いくつかの小爆発を起こしながら彼が骨を確認して帰ってきた。
「あれはただの屑です。近頃そこらで見かけます。生きているも死んでいるもない、くだらない連中です。大方あなたが寝ている間に入り込んで、出て行くのが面倒になったのでしょう」
「なんだ」
 私が無意識のうちに殺人を犯していたのなら小説の題材になるかなと少し思っていたのでがっかりした。
「パソコンで書けないのなら原稿用紙に書きましょう」
「書ける気がしないのです」
「書く前は皆さんそう言います」
 それから四時間かけて私は書き慣れない文字を原稿用紙の上に絵のように書いた。四枚しか書けなかったが、「近頃は四枚書ける人も少なくなってきましたから」と言って笑いながら編集者は受け取ってくれた。
「ところでそれ、読めますか?」
 自分でも判読するのが難しい文字で書いたのは、「家の便器が割れてしまったので公園のトイレを借りに行った所、年老いたカップルがセックスをしていたのだが、あまり興奮はしなかったのでそれを見ながらでも平気で放尿出来た」という男の話だった。それだけの話でしかなかった。似たような話を以前も書いた気がした。そんな話ばかり書いている気がした。
「私にはさっぱり読めませんが、読むのは私の仕事ではないので」
「ならば誰が読んでくれるのですか」
「さあ。もう誰も読んでいないのではないですか」
 彼はまた大量の弁当を置いて帰っていった。少し片づけた部屋にまた腐るものが増えてしまった。屑の奴はもう何も話さず死骸らしくしているので上にゴミを乗せて埋めてしまった。一仕事終えて疲れた私は一眠りしようとしたが寝床には猫がいる。仕方なく、横たわるほどの隙間がないゴミの中で私はゴミの一部のように丸まり、小説を書く夢を見ながらゆっくりと腐り始めた。


(了)
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