12.走れ飛べ死ね!(前編)
枯木のような男が布団に横たわっていた。私の父だ。
薄暗いアパートの一番闇の濃いところ、日も当たらぬそこで父は凍りついたように眠っていた。
頬は削ったように落ち込み、黒かった髪は灰色に近づいている。
昨晩はいつ頃帰って来たのか知らないが、どうせ麻雀でも打っていたのだろう。
この疲労っぷりを見るとまた負けたらしい。懲りない男だ。
いくら言ってもやめない。どんなに頼んでも戻ってくれない。
だから私は今日もまた、お金を枕元に添えていく。
不様なものだ。実の娘から施しを受けて、一人前の顔をしてやがる。
そうして侮蔑しようにも、父の顔は私に似すぎていてぞっとする。
まるで自分を呪っているようで。
「……行ってきます」
返事はない。
いつものことだ。
私が本当に恐怖しているのは、これだけ迷惑をかけているにも関わらず――
父がまだ、私を愛しているということだった。
大通りに出ると生徒の数が一気に増える。
朝っぱらからはしゃいでいるやつもいれば、空虚な視線を地面に注いでいる者もいる。
どいつもこいつも死ねばいいな。
そうすれば、少しは私の鬱憤も晴れるかもしれない。
どいつもこいつも馬鹿面晒しやがって。
誰の許可を取ってヘラヘラしてやがるんだ。
殺すぞ。
「おはよーっ、ハネッチ!」
「あ、おはよー」
私は笑顔を浮かべて振り返った。クラスメイトがぎゅっと抱きついてくる。
「やーめーてーよーくすぐったい」くすぐったくないうざい離れろ。
周囲の男子たちが羨ましそうに眺めているが、できることなら代わってやりたかった。
昔から人に触られると背筋が凍てつく。なぜ皆平気な顔をしているんだろう。
怖くはないのか、人の肌が。温度が。
「んーハネッチは柔らかいなァ」
頬を摺り寄せてくる彼女に耐え切れなくなり、私はそっと押し返した。
「私ぬいぐるみじゃないし」
「え、そうだったの?」
ぴく、と私の心の琴線が揺れた。自身で言ったぬいぐるみという言葉と、彼女のふざけた返事が混ざって、意識が遠くなる。
私は置物じゃない。
私はオモチャじゃない。
私は私だ。
「あ、やば、彼氏来ちゃった。ごめんねハネッチ! またあとで!」
瞬きすると、彼女の背中はだいぶ遠くにあった。
いつの間にか、校内に入っている。
自動的に彼女に対応していたようだ。
その間の記憶はほとんどない。
いつからか私は、嫌なことや面倒なことを自動的に処理できるようになった。
プログラムのような同じやり取りを繰り返していくうちに意識さえ必要ではなくなったのだろう。
だから私は人よりも思い出や記憶の絶対量が不足しているのだが、べつに困らないので放置している。
他の人にはない特別な才能。私を助けてくれる力。
これがなければ、とうに私は崩壊している。
ふふ、笑えてくる。
見逃して困るほど価値あるものなんて、この世にはないのだ。
珍しい二人組を見かけた。
転校生のカガミと、あれは確か……ラッキーだ。
へぇ、あいつバイトで疲れてるだろうに、もう女漁りか。
そんなバイタリティがあるやつとは思っていなかったので、私は怪訝な顔をしていたと思う。
するとラッキーがこちらに気づき、カガミに手を振って別れを告げていた。
残念なのかそれとも安心したのか、仮面転校生はすたすたと立ち去っていった。
彼女の側から犬のように小走りにやってきたラッキーを私は冷ややかに見下ろした。
「いいご身分だね。ああいうのが好みだったの?」
「え、いや、違うよ。違うっていうか、べつにそういうんじゃなくて」
「そういうの、もういいから。私、あんたの彼女じゃないし」
私の一言がよほど痛烈だったのか、見捨てられた子犬のようになったラッキーはしょんぼりと肩を落とした。
「やっぱり、僕は振られたのか」
その言葉に私は愕然とした。どこまでおめでたいやつなんだ。
「あんた、脳みそ豆腐でできてんの?」
この世界には多額の借金を背負わされ、裏バイトに叩き落されても人を信じ続けるやつがいる。
私はそういうやつのことを馬鹿と呼ぶ。
馬鹿は恥ずかしそうに頬をかいていた。
「褒めてないから。私に褒められたかったら、金持ってきてよ、金」
目一杯に皮肉った表情を浮かべてやった。屈辱に震えるといい。
「あ、そのことで話があるんだ」
「何? いまさら泣き言なんて聞きたくないんだけど」
「違うんだ。はい、これ」
私は目を見張った。差し出された札束を慌てて奪い取った。
誰かに見られてないか周囲を見渡し、無用心な馬鹿を睨みつける。
「こんなとこで渡すな、アンポンタン。まァいいわ。……どっから持ってきたの、こんな金。強盗?」
可愛い顔してこいつも悪党か。美味そうなネタを持ってるなら食いついてやろうと思ったが、ラッキーは笑顔で首を振った。
「ちょっと人に助けてもらったんだ」
「嘘はいいから。早く喋れ」
「嘘じゃないよ。話すと長いんだけど……」
腕時計をチラリと見ると、まだ始業までには時間がある。
ラッキーごときに付き合ってやるなど業腹だったが、金の経路に興味には代えられない。
つっかえながら懸命に説明するラッキーの話に私はしぶしぶ耳を貸した。
話を聞き終えた私はため息をついてひらひら手を振った。
「あっそ。わかった。じゃね。バイバイ」
「え? あ、待ってよ。まだ……」
「なんか用でもあるわけ?」
「いや、ないけど……あっ、ないっていうか」
「私、トロイ人嫌いだから。消えて?」
そう辛らつに言い残して、私は振り返ることなくラッキーを置き去りにした。後ろ髪に視線が当たっているのが分かった。
言葉とは裏腹に彼に感謝の念を感じずにはいられない。
たまたま出会ったバニーがカジノでたんまり稼いでくれた、なんて話は嘘っぽいが、それならそれで構わない。
問題は、勝ちの余剰金がやつの部屋に残っているというくだり。
確かめてみる価値はある。やつの住所はさっきのやり取りの中で確認しておいた。
金はいくらあっても足りないのだ。チャンスがあるなら挑むまで。
問題は謎のバニーガール。彼女が本当に存在するなら邪魔者だ。
何事もなく済めばいいが、そうでなければ。
カバンの中に手を入れ、毎日肌身離さず持ち歩いているモノに手を触れる。
その感触を確かめるように撫でていると――
「よぉ、鴉羽。お稼ぎかな」
もう一人の馬鹿が、立っていた。
「今日はヤなやつにしか会わない日ね」
馬場天馬はそれを聞いて肩をすくめた。
ラッキーとは正反対の余裕に満ちた態度が私を不快にさせる。
「あんたさ、自分の立場わかってる? 多額債務者クン」
「もちろん。まったく気が重くなるよ。ただでさえ学校にまでこき使われてんのにさ」
そう言って天馬は手に持った荷物を大儀そうに持ち直した。
「さっき生物の田辺に頼まれちまってよ、参ったぜ。あの野郎は少し運動して痩せた方がいいのになァ」
「聞いてないし、んなこと。ずいぶん余裕だけど、返すアテあんの?
まァあってもなくても、キッチリ働いてもらうけど。
そのうちメールするから、逆らわないでね」
「うん、お前誤解してるぜ」
「は? なにがよ」
天馬はニヤニヤ笑っている。不審に思って一歩下がろうとした時、
「こういうことだよ」
彼はどんっと手荷物を私に押し付けると、そのまま高笑いしながら走り去っていった。
唖然としてその後ろ姿を見送ることしかできない。
一体何がしたかったのか。ただ単に嫌がらせがしたかっただけ?
これではまるで小学生のイタズラだ。
これだからゆとり教育で現実感を失った子どもはダメなのだ、と私が社会に対し憂いながら一歩踏み出した時、外から怒鳴り声が聞こえた。
「ちょっと待て、馬場っ! 授業始まるぞ! どこへいくんだーっ!」
野球部顧問ヤスポンの怒鳴り声と、私が生物実験用の用具を床に取り落としたのが同時だった。
何を寝ぼけていたんだ、私は。
あいつはラッキーから別れた私の背中にすぐ追いついてきた。
それまでどこにいたんだ。
決まっている。
ヤツは聞いていたのだ。
ラッキーの家にあるという泡銭の話を――!
今日の生物は中止だな、そんなことを脳裏のどこかで考えながら、私の足は全速力で駆け出し始めた。
朝の日差しの中、遅刻常習者たちを蹴散らしながら、なぜか父親の顔が思い浮かんだ。