13.走れ飛べ死ね!(後編)
馬場天馬がヤスポンに発見され、後に日が傾くまで説教を受ける原因を作ったのは加賀見空奈だった。
朝の教室は眠気でぐでんぐでんになった生徒たちの死体置き場となっていて、案外静かである。
誰かの肘が机からずり落ち、時計を確認した生徒が再び夢に戻っていく。
学生というものは何かと忙しいらしい。
こんな疲弊するなんて一体どれほどの激務なのだろうか。
自分はだいぶ前から眠気なんて感じなくなった。
眠いって、どんな気持ちだっけ。
中空に答えを求めて窓の外に顔を向け、そうして見知った顔に出くわしたのだ。
少し長めの髪、梳かしてないのか寝癖なのか先端がやや跳ねている。
反抗的な目つきといい捻くれたことしか言わない口といい、拗ねた跳ね馬のような生徒。
カガミの友達。
「鼎」
袖を引っ張られた雲間鼎の鼻先で膨れていた鼻ちょうちんがパチンと割れた。
「うおーいい夢だった。ロックマンDASH3発売とかステキすぎるわ」
うーんと背伸びするとさらに引っ張られる。いまだぐらついている首がカクンと折れた。
「鼎」
「どうしたんだいかがみん。お姉さんに相談してごらん」
ちょうどその時、ヤスポンが「おっす! 元気出せよお前らー」などと言いながら入ってきた。
新婚以来緩みっぱなしの顔のまま機械的に最前列に並ぶ頭の列を出席簿でパンパン叩きながら歩いてくる。
これが最悪のタイミングだった。
「あれ見て」
カガミの指先を目で追うと鼎も、
「あ、やってんだあいつ。忘れ物かな」
「ほう、どれどれ」
と呼ばれてもいないのに顔を出したヤスポンによって、先述の怒声は校舎を轟き震わせるに至ったのである。
「ちょっ、鴉羽までどこいくんだ、おぉぉぉぉい!!!!」
それでも教室はびくとも騒がない。
二人の疾走は眠気を吹き飛ばすほどのニュースではなかったようだ。
鼎は時計を盗み見て、授業が三分短くなったことをそっと喜んだ。
~~~~~~~~~
走り出してから私は自らのミスに気づき、舌打ちした。
ラッキーの家は裏山近くにあって、学校からはバス通いしていてもおかしくない距離じゃないか。
大切なことはいつも終わってから分かる。
それが私の苛立たしさに嫌らしく火を注ぐのだ。
幸運なことは馬場天馬もそのことをたった今思い出したらしく、私の遙か先で頭を抱えているのが見えた。
彼は自転車通学だったから、学校を出る前に気づいていれば徒歩の私など寄せ付けずにラッキー宅まで辿り着けたろう。
私は神を信じないが、それでも今流れは自分にあると踏んでいた。
普段からヤツは横暴すぎるくらいなのだ、これぐらいの役得があって当然だ、と私は思った。
平静を崩さぬよう敵の背中を視点でロックオンする。
なんとかして天馬より早くラッキー宅に到着するか、あるいは彼に追いつかねばならない。
背中まで接近できればいとも簡単にカタはつくのだ。
今走っているのは商店街のど真ん中だから荒事はできないが、この先は住宅街だ。
住人は仕事で出払っているか朝のニュースを見ながら茶でも飲んでいる頃合だろう。
そこで追いつくために、私は周囲を見回して、オモチャ屋を発見した。
シャッターを開けたばかりの店主があくびをしながら店の中に戻っていく。
店先にスケボーの展示品が置いてあった。いつもは店主が奥から見張っていて小学生たちの強奪作戦は夢と散っているのだが背中を向けている今なら問題ない。
店主も子どもたちが学校へ行っている時間帯ゆえに油断したのだろう。
甘ちゃんめ。
私は音もなくスケボーをかっさらうと、アスファルトに転がした。
車輪がけたたましく回り、砂利を散弾銃のように跳ね飛ばす。
さァ、反撃開始だ!
地面を勢いよく蹴って私を乗せたスケボーは弾丸のように滑走した。
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胸が苦しい。恋よりも苦しい。うん、冗談だ。
オレは背後を振り返り頭痛がした。
なんでスケボーなんかに乗ってるんだあいつは。
こっちは慣れない疾走を学校からぶっ続けで、貯まり切った乳酸が爆発しそうだってのに。
こんなことなら自転車に乗ってくればよかった。
きっと鴉羽もオレの失策を笑っているだろう。
いつも後から思い出すのだ。肝心な時に働きやがれ、クサレ脳みそめ。
鴉羽は心地よさそうにスケボーに乗ってじわじわと追い上げてきている。
とはいえその表情は般若の面に優るも劣らず、彼女の本気度合いがびしびしと伝わってきた。
このままでは追い抜かれるのも時間の問題だ。
よし、ここは頭を使おう。
周囲を見渡す。刻一刻と変わり行く状況から手段を捜し求め、ぴこんと閃いた。
オレは道路脇に置いてあったポリバケツを抱えた。よかった、空ではない。
ずっしり中身の詰まったそれを、気合を上げて盛大に道にぶちまけた。
勝利を確信して再び駆け出す。
ハハハ、どうだ参ったか。テメェとオレじゃ百も千も格が違うんだい。
歓喜に打ち震えながら後ろを振り返ると、鴉羽が当然のごとくジグザグ走行しながら鮮やかにゴミとバケツの隙間を通り抜けていた。
メトロノームのように機械的で人情味に欠ける動きに素直に驚嘆した。
膝を巧みに利用したいい走りだ。
でも、こんな土壇場で意外な才能を発揮しないでほしい。
見えないし見たくないが、きっとオレの笑顔は引きつっていただろう。
とっさに周囲に鍵のかかっていない乗り物を探すが都合よくあるはずもない。
原チャリはいくつか見かけたがタンクを蹴るだけでエンジンをかける技術など持っているわけがない。
もう間もなく追いつかれるだろう。
ならば、お望み通りにしてやる。
オレは疲れ切った足を労わるように速度を落とした。
慎重にタイミングと距離を計る。
追われているオレだけが、狩り手が自分だということを知っている。
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今にも泣き出しそうな表情を浮かべて馬場が後方を振り返っている。
いつもは十時十分を示している眉毛が七時二十五分まで下がっている。
情けない。そんな顔をするくらいなら最初から勝てない勝負など挑むな。
お前なんて、所詮は鴉羽ミハネの敵じゃないんだ。
一度も乗ったことがないスケートボードは今や脚の延長としか思えない。
警戒に生ゴミのバラバラ死体を避けて滑走する。
その順調さがいけなかった。
あと一歩で手が届く、そんな距離に私が詰めた時、馬場の口元が歪むのが見えた。
とうとう涙腺が崩壊したのかと思いきや、それが笑っているのだと分かった時はもう遅い。
馬場が消えた。
身を屈めたのだ、と気づき咄嗟によけようと――腹部に痛み。
肘を前衛にしたタックルをぶちかまされた私は、スケボーから吹っ飛ばされ中を馬鹿みたいに舞った。
信じられない。空転する視界。
錐揉みする暇もなく私は不様に塀に激突した。
背中をしたたかに打ち、呼吸が一瞬止まる。涙が溢れ、胃の内容物を吐き戻す一歩手前。
私から奪い去ったスケボーを飄々と転がして、馬場の姿が遠くなって滲んでいって、消えた。
これが女子に対する仕打ちか? やつには道徳心ってものがないのか。
私が言うのもなんだが、相当に性格が捻じ曲がっている。
彼がいじめを受けていたというのも、当然のような気がしてきた。
一刻も早く社会的に殺すべきだと思う。
いや、その前にいっそ私が手を下してやろう。
見てろよ。
絶対にお前だけは許さないからな。
血が出そうになるまで唇を噛み締め、私は立ち上がった。
体が突然のイレギュラーに恐れ戦いて震えている。
私は一瞬だけ意識を飛ばした。次の瞬間には身体は静まっている。
いつもの通り。
私は口の端から滴る唾液を手の甲で荒っぽく拭い取り、天馬の消えていった道を見据えた。
なんとしても、ここまで打撃を被ったからにはラッキーの金は頂く。
だが今から走ったのでは間に合わない。
何か手段はないのか。なんでもいい。
そうして辺りを見回して、私は思い知った。
今日はやっぱり、ツイている。
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スケボーというものには初めて乗ったが、案外慣れれば爽快だった。
チャリ通学などやめて明日から滑ってこようか。
思わず想像したが周囲からの視線が激しそうだったので中止した。
人からどう言われたって平気――そう思ってはいても、人の中で生きていることは否定できない。
だが人の言うことを聞いているだけでは自分はまっとうできない。
どうしようもない袋小路。――――――――。
やめよう。今はこんなことを考えている場合ではない。
まだ何も始まっていないのだ。これは勝ちとも呼べない。
本当に辛いのはここからだ。
ここでやめておけば――だがオレはそんな考えは捨てた。
オレの予想以上に鴉羽は骨のある相手らしい。
どうしてだろうな。
恐れよりも焦りよりも、こんな時に笑っちまうなんて。
なんだかあいつみたいだ。
こっちの方面に来るバスは三十分に一本あるかないか。
自分と鴉羽の追いかけっこの最中にそいつと出くわす可能性は低いと思っていた。
その類稀なる幸運の象徴であるバスがオレの横を通り過ぎていった。
その風に煽られ、オレはバランスを崩しあっけなくスケボーから転落した。
どうやらこいつで通学は無理らしい。
窓の向こうに鴉羽がひょっこり顔を出した。その拍子にポニーテールがふわっと揺れる。
何をするんだ、と思っていたらあろうことかヤツはあかんべえをして嘲笑を残し、席へ戻っていった。
勝利宣言だ。
ということはオレは負けたらしい。
立ち上がって制服についたホコリをパッパと払った。膝小僧のあたりが破れて、皮膚から血が流れている。
大して興味も湧かず、傷口に唾を吐きかけて処置を済ませた。
スケボーはどこにいったのかと見渡すと道路脇の溝に突き刺さっていた。
車輪が悲しそうにカラカラと回っている。
大破したF1カーのように哀れなそれを引き抜き、道路に敷いた。
片足を乗せて再び交代した独走者に向かって告げてやる。
勝ったと思ったろ。終わらせたかったろ。
残念ながら。
オレは人の嫌がることをするのが大好きなんだ。
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ドサッと私は背もたれに身を委ねた。
これでもう追っては来ないだろう。
来たら嫌だ、ストーカーよりタチ悪い。
朝っぱらから大追走劇を繰り広げた上に接触事故までやらかしたため、身体中がじんじん痛み吐き気がした。
骨でも折ってはいないだろうな、と心配になる。それほどあの衝突事故は破壊的だった。
もし頭でも打っていたら死んでいたかもしれない。
あんな男のために死ぬなんて考えただけで寒気がしてきた。
今日は金を回収したら家に帰ろう。
父親がいない昼間のうちに休んでおかねばならないし。
粉塵で汚れた窓に額を当て、目を閉じた。
明日、ラッキーは何か言ってくるだろうか。
金のことなど話したのは私以外にいないだろうから犯人は分かるだろうが、きっと彼は責めてこないだろう。
ただいつものように悲しそうに見つめてくるのだ。
女の子のように潤んだ瞳で言外に私を諭そうとしてくるのだ。
何様のつもりだ。
私はお前のなんだっていうんだ。
一気に苛立たしくなり、思わず発作的に自動化してしまいそうになった。
まァバスを降りるまでは構わないが、うっかりそのまま学校に戻ったり帰宅されると困るので今は私のままでいる必要がある。緊急時は手動に限る。
乗降客のせいで馬場が追いついてくるのでは、と思ったが誰も乗り降りしない。バスの中には私と運転手しかいない。
決められた速度と道をバスが流れるように走っていく。
坂道を下っていくバスの中で、つい退屈のあまりウトウトしてしまい目をこすった。
窓の外でも見ていよう。
そう思い、山側の木々を眺める。窓を開けて手を伸ばせば葉に触れられそうだ。
この奥は私有地になっている。
そういえば子どもの頃に忍び込んで、妙な神社を見つけたような思い出がある。
あれはなんだったのだろう。もしかしたらここから見えないだろうか。
私は少し腰を浮かして窓の外に目を凝らした。
すると、木々の隙間から土煙が上がっているのが見えた。
なにかいる。なんだろう。
犬? いや、あれは――
それの正体を知った瞬間の私の驚愕は計り知れない。
スケボーに乗った馬場が一直線に突撃してきていたのだから。
なんなんだ。
なんなんだ、あいつは!
どうするつもりなんだ、あのスピードで、あのコースで、
あいつ、
避ける気がないぞ。
叱られた子供のように身動きが取れない。
ありえない、と私は呟き続けた。段々と声高になっていく。
それは、馬場のスケボーが私の隣の窓ガラスをぶち破っても止まらなかった。
――ありえない。
運転手がバスを停め、こちらを振り返って何か叫んでいる。パニックを起こしているようだった。
もしかしたらこの件で彼は責任を問われて職を失うのかもしれない。
だがそれを哀れに思っている時間はない。
私は運転手の制止も聞かずに割れた窓からバスを脱出した。
数瞬の自動化によって心拍も呼吸も正常に戻っている。私じゃない時の私はとても優秀だ。
冴え渡った思考で整理する。
馬場はバスの通るルートを考え、スケボーでしか通れない小道と山道を駆け抜けてギリギリ追いつき、スケボーを乗り捨ててバスを走行不能にした。
その代わり馬場は崖の下に転がり落ちて言ったが。
私はガードレールを飛び越えて崖を見下ろす。
住宅でたとえると二階か三階の高さだったかが、傾斜がやや緩い。下は森になっていてヤツの生死はここからでは分からない。
これも計算の内だったのだろう。私は森の向こうへ顎を向けた。
ラッキーのアパートの屋根が見える。
崖下から直進すれば、最短ルートだろう。
私はここを下りられない。怪我する公算の方が高い。
完全にしてやられた。ここまでするとは思っていなかった。
悔しいが認めなければならない。
私の負けだ。
けれど結果はまだ決まっていない。
あの落下でヤツが怪我か死亡していれば問題ない。
どちらにせよ私はラッキーの部屋へいくしかない。そこで答えが分かるだろう。
お願い、馬場天馬。
死んでいて。