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14.焼けた家

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 こんなに走ったのは久しぶりだった。
 ブロロロ、と郵便配達のバイクがのんきに走っていくのとすれ違いながら、私は誰もいない道を駆け抜け、コンビニの角を曲がり、そのまま猛加速。
 その時にぶつかりかけた老婆が何か文句を叫んでいたが、無視する。髪は真っ白いくせに声だけは若かった。
 青写真のように止まった景色をぶっちぎっていき、どこにでもありそうな三階建てのアパートとマンションの中間のような建物の入り口で靴底をすり減らしながら急停止した。
 荒い呼吸を鎮めながら、二階に並ぶベランダの一つを見上げる。
 カーテンは閉まっていて、中に誰かいるかどうかは分からない。
 しかし本当に例のバニーが存在しているならば、天馬の襲撃に抵抗するはず。
 何の物音もしないということは――
 背後の雑木林を振り返る。
 昼間だというのに薄暗く、度々不審者の目撃もされている曰くつきの場所。
 今この時だって何かが潜んでいそうな気配。不気味な、誰も近寄りたがらない空間。
 ゴミにはふさわしい死に場所だ。
 腐葉土くらいなら、お前を抱いてくれるかもな?
 だが、そんな私の期待はあっさりと裏切られてしまった。
「死体はあったか、鴉羽?」
 耳障りな声が、一番聞きたくなかった声が耳朶を打った。
 振り返り、そいつの存在をはっきり視認して顔が歪んだ。
 泥と葉の欠片にまみれた汚らしい馬場天馬が、ニヤニヤと笑っていた。
 アパートの門に寄りかかったそいつに、私は唾を吐いてやりたい気分だった。
「憎まれっ子、世にはばかるってことね」
「ひどい言い草だなァ。オレが憎いっていうのか」
「当たり前でしょ。アンタのことが好きなやつなんて、いない」
 天馬は笑みを崩さない。そんなことは分かっていると言いたげだ。
「じゃあ、これを持ってるオレはどうかな? 地獄の沙汰もなんとやら、ってね」
 そう言って背後に回していた手を掲げる。
 その手には何かが詰まったコンビニ袋。
 うっすらと、一万円札の肖像が透けて見える。
 ため息が出た。
「争奪戦はあたしの負け……か。あんなにいっぱい痛い思いしたのに。
 でもね、そんなことどうだっていいよ」
「お、逃がしてくれるのか」
 口笛でも吹き出しそうな天馬に、私は冷たく言い放った。、
「馬鹿じゃないの」
 できるだけ自然な動作で、私はカバンから目当てのものを抜き取った。
 銀色の刃が朝の日差しを反射して、きらきら輝いている。
 まっすぐにナイフを突きつけて、私は言った。
「それを渡せ。逆らえば、刺す」
 どこか現実感の喪失したその場所で、私の声以外に音はない。
 私はこれで天馬がすくみ上がると思った。
 金を置いて逃げるか、さもなくば距離を置くと。
 けれど逆だった。
 馬場はいつも私の想像通りには動いてくれない。
 ヤツは表情から笑みを消して、あの独特な掠れ声でこう言ったのだ。

 刺してみろ。

 いいよ、と私は答えた。
 ヤツから視線を逸らさずに、一気に間合いを詰める。
 嘘でも欺瞞でもなく、刺すつもりだった。
 もちろん殺しはしない。軽く切りつけて、戦意を奪うだけ。
 そのつもりだったのに。
 ヤツは当たり前のようにナイフと自分の間にコンビニ袋を掲げた。
 金を攻撃するわけにはいかず、見えない壁にぶつかったように私はたたらを踏んでしまった。あっ、と声も上げたかもしれない。
 天馬の腕が、にゅっと伸びてきた。
 がしっと髪の毛を掴まれ、そのまま横なぎに思い切り壁に叩きつけられた。
「がっ……」
 後頭部を強打。したことが。わかる。
 痛みで一瞬、意識が飛びそうになった。
 そうして私の腕は私の意志に反して、馬場に切りかかっていた。
 やつはその時、初めて驚いた顔をして飛びのいた。
「危ないな。なにすんだ」
「人の頭をコンクリートに打ち付けておいて……よく言うよ」
「仕方ない。殺されるよりはマシだろ?
 まァでもやめておこうぜ。ケンカなんざつまらん。特にオレとお前じゃな」
「自分は男だから勝てるとでも?」
「いや……どうかな。お前、運動神経いいし逆にやられそうだ。
 それにさ、オレは別にお前を殺したいんじゃないよ」
「賢明。私を殺しても借金はなくならないから。狗藤が管理してるからね。
 だから今、その金を奪っていってもすぐに取り立てられるよ。
 よかったね、骨折り損のくたびれ儲け」
「なら、なんでお前は追ってきたんだ」
 それを言われると辛い。私もよくよく考えればなぜ追いかけたのか分からない。
 ただ、予感じみたものが私から冷静な判断を奪ったとしか言えない。

 馬場天馬はきっと、一度奪ったものは死んでも手放さない。

 そんな気がしたから。
 今も、あの金はなぜか私のものにならない気がする。
「ねえ、どうするつもりなの? 狗藤はアンタを逃がさないよ。直々にどこまでも、アンタを追い詰めて必ず返済させる」
「分からんぜ。オレは逃げ足にも自信があるんだ」
「言ってろ。勝手に不様に死んじゃえ」
「そうだな、そうなるといいな」
「は? なにその他人行儀さ」
「だって、そうじゃなきゃ破滅するのはお前の方だから」
 その意味を問おうとして、
「……じゃあな!」
 唐突な別れの宣言で、ようやく私は気づいた。
 いつの間にか立ち位置が入れ替わっている。やつが道路側で、私が塀の内側。
 駆け去っていく馬場を、今日何度目だろう、追いかけた。
 いくつも角を通り抜け、大通りの手前で馬場の前の信号が赤に変わった。
 しめた、追いつける。
 今にもやつはたたらを踏んで、方向を変えなきゃならない。
 その隙に今度こそ金をひったくってやる。
 あれは私のものだ。
 私が手に入れなければならない。
 馬場が少しだけこっちを向いて、笑っているのが見えた。

 あいつといたのはちょっとだけだったけど、
 あんな風に笑っているのを、今日まで一度も私は見たことがなかった。

 走る凶器の中をすり抜けて、馬場天馬はどこまでも走っていった。
 私は信号に従って、大人しく突っ立っていることしかできなかった。
 




 家に帰るのはいつだって憂鬱で、私はどこかにもっと楽しい場所がないかと探してる。
 けれど居場所なんてどこにもなくって、都合は悪いままで、見慣れた扉の前に辿り着いてしまう。
 のろのろとした動きで鍵を開ける。
「……ただいま」
 返事はない。いつものことだ。
 それでも学校に行く気にもなれないんだから、家に帰るほかに道はない。
 私は灯りもつけずにカバンを放り捨て、万年床にドサっと倒れこんだ。
 目覚まし時計を見るとちょうど二時間目が始まったところだった。
 なんとなくテレビを見る気にもなれず、そのままもぞもぞと布団の海をもがいた。
 結局、私がこんなに頑張る意味なんてやっぱりなかった。
 金はきちんと狗藤がその内に回収してくれる。
 どんなにやつが忙しくたって一月以内にはカタがつくんだ。
 なんのために転んだり壁にぶつかったり頭を打ったりしたんだろう。
 本当に、徒労。
 こんなことなら、馬場なんかカモらなければよかった。
 もっと引っかかりそうな、そう、野球部の門屋なんかよかったかもしれない。
 羽振りいいし、人望あるから金も誰かから引っ張ってこれるかもしれないし。
 そう、馬場はヘンだ。ニヤニヤしてて気持ち悪い。
 付き合ってるフリをしてる時はそんなんじゃなかった。
 普通逆じゃないか?
 人と仲良くすることよりも、争ってる時の方が好きだっていうのか。
 そんなのヘンだ。おかしい。異常だ。
 ヘン、ヘン、と呟いていると催眠術にかかったのか、私は本格的に眠くなってきて、髪留めを外した。
 流れた髪が水溜りのように広がる。

 おかしいことばっかりだ。世の中……
 もっと、うまく、いけよ。



 暗い。そのことで私は自分が眠っていたこと、日が沈んでしまったことを悟った。
 しばらくそのまま薄闇を見つめていた。
「起きたのか」
 父の存在を悟った瞬間、私の顔は百年の大樹よりも深いシワを刻んだ。
 起き上がり、自分の身体を見下ろす。布団がかけてあった。
 父は部屋の隅で壁にもたれて座っていた。
 きっといつものように葬式じみた顔をしているのだろう。
「触ったの? 私に」
「え……。いや、風邪を引くといけないだろう。だから」
「余計なことしないで。寒気がする」
 布団を蹴飛ばして私は立ち上がった。
 父は居心地悪そうに私から視線を逸らした。
 なんだその態度は。いったい誰のおかげでヘラヘラ遊んでいられると思っているんだ。
 そのことを声高に糾弾してやろうかと思って、やめた。
 もう散々言ったことだし、もう全然効き目のないことだったから。
 台所で水でも飲もうとしたら、テーブルの上に箱が置いてあった。
 紙でできたドーナツ屋のロゴが入っている。
「ねえ、なにこれ」
 いつの間にか父が背後に立っていて、私はさっと退いた。
 父は口元にうっすら笑みを浮かべていたが、視線は床に縫い付けられたまま、私を見ることはない。
「ミハネ、おまえドーナツ好きだったろ。今日はちょっと勝ったから……」
「勝った……?」
 勝てばいいのか。
 勝てばバクチに狂ってても、いいっていうのか。
 私は足元が崩れていくような気がした。
 それが自分から溢れかえる憎悪のせいだと知った時に、分かったんだ。
「なにそれ。ドーナツ?」
「ああ。食べたくなかったら、いいんだけど……」
「あのさ……あんまり怒らせないでくれないかな」
 父は目を丸くしている。
 ああ、やめて。
 びっくりしないで。
 どうして分かってくれないの?
 喜ぶわけないでしょ?
 馬鹿さ加減を、全身で、表さないで。
 恥じてよ。少しは。
「あたしらがこんな生活してんのは、誰のせい?
 あんたまだ私のこと家族だと思ってんの?」
 父は少しだけ、顔をしかめた。
「決まってるだろう。家族以外のなんなんだ」
 その言葉に私は叫びそうになる。目が涙で滲んだ。
 家族?
「は、はは……ははは」
 突然笑い出した私に、父は怯んだようだった。
 実の娘を恐れているらしい。
 それも含めて笑えてくる。
「血が繋がってれば許されるんだ? 何しても?
 あはは。……なにそれ。
 家族だって? あんた自分が何言ってるのか分かってないようだね。
 教えてあげるよオトーサン」
 一歩詰め寄り、顔を近づけてやる。
「アンタはね、自分で自分ちの畑を焼いたんだ。
 みんなで耕してた畑を、気に食わないからって好き勝手に焼いたんだ。
 ね、あたしもね、大切にしてたんだよ。畑。
 それをブチ壊されて、でも仕方のないことだって、ちょっとは思ってて、それを。
 その畑を前にして、焼いた本人のあんたがこう言うんだ?
 さァここに種を撒こう! 一から始めよう!」
 歌うように私は叫んだ。
 狂っていたと思う。
「誰が焼いたの?
 母さん死んで、仕事もなくして、自分で家族って畑をぶっ壊したのは誰?
 壊したい時に壊して、欲しくなったら作り直すんだ?
 いいよ、勝手にしなよ。ただし一人で。
 あたしは嫌だ。あたしは奴隷じゃない。
 あんたのオモチャなんかじゃないっ!」
 父が何か言っている。でも私は聞かなかった。
 弾かれたように家を飛び出して、走った。
 走って、走って、走って。
 私の行き場所はどこにもなかった。
 














 だれかたすけて。
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