21.紺野イツキの受難
柔らかい朝の日差しが廊下に降り注いでいたけれど、そこに一人の女の子と、彼女を取り囲む三人を付け加えただけでなんと不穏になることだろう。
その三人もまた女生徒であり、何事か早口に一人に向かってまくし立てている。
それに対する女の子――墨汁を流し込んだような黒髪の中、一房だけ金髪にした少女の答えは一つだけだった。
「秀一の彼女は、あたしだけ。
あんたたちなんか、知らない」
とうとう三人の内、ややパーマをかけた女生徒が少女を殴りつけた。
ドサッと廊下に倒れ伏した少女に、ぺっと唾が吐きかけられる。
「ウザったいんだよ、お前。秀ちゃんが戻ってきたらすぐ目ん玉輝かせやがって、言うにこと欠いて彼女だって?
秀ちゃんはね、あたしらのもんなの。いま校庭でハシャいでる馬鹿どもも、間違ってんの。
そもそも秀ちゃんみたいなデキるやつを独り占めしようってのが浅ましいのよ。
うちらは三権分立。独り占めできない代わりに、ちゃんと譲り合う気持ちってのを持ってるわけ。
おわかり?」
「お前ら……なんか……」
少女は踏み外しそうになりながらも、しっかり立ち上がり、唇の端を拭った。薄く血が滲んでいる。
「体よく利用されてただけだろ……バーカ……」
ぴくん、と三人の眉が一様に吊り上がった。
「秀一は言ってた……お前らなんか……身体だけだって……!」
「仮にうちらがそうだとして――」
取り囲む輪が、一層狭まっていた。
「なんで、自分はそうじゃないって言えるんだよッ!
どっから来てんだその自信はァッ!!」
一人が少女を思い切り蹴飛ばすと、彼女の軽い身体は壁にぶつかり、鞠のように弾んだ。
それがきっかけとなって、うずくまり頭だけをかろうじて守っている少女に次々と上履きを履いた凶器が振り下ろされる。
少女は呻き声をあげながらも、苦痛を耐え忍んでいた。
助けを呼ぼうとも、待とうともしていなかった。
身体や心は踏みにじられても、誇りだけは守ろうというかのように。
そうして、いつまでも続いて終わるところまでいってしまいそうなその現場を、閃光が照らした。
カメラのフラッシュだ、と一人が言った。
「寄ってたかって後輩に乱暴か、いいご身分だな。
さて、このネガ……いくらで買ってもらおうかなァ」
突き当たりの影から、男子生徒がぬっと姿を現した。
跳ねた髪に、黒い眼差し。
馬場天馬だった。
あっという間に取り囲まれてしまった。
きっと笑えば天使のものに違いない三人の顔は、般若のように憤激に染まり切っている。
「てめェ、なめたことしてんじゃねえぞ」
天馬は両手を挙げてジーザス、と呟いた。
「そのカメラをさっさと渡しな。さもないと、ボコんぞ」
「日本はいつからこんな治安が悪くなったんだ。
男尊女卑は元に戻すべきだな、女は元々めちゃくちゃ強いんだから」
「何ウダウダ言ってんだよ。誰か来るかもしれないんだ、早くしろ」
「冗談言うな。こんな特ダネ手放せるもんか。金一封もらっても嫌だね」
はぁ、と一人がため息をついて。
「結衣、こいつ、やっちゃおうよ」
「そうだよ、いつもみたいにさ」とパーマの女生徒を促した。
いつもみたいに? と天馬が聞き返すやいなや、がっちりと両側から身体を拘束されてしまった。
「おお、両手に花とはこのことだな。……で、何するおつもりで?」
結衣と呼ばれた女生徒は膝を伸ばしては曲げ、とんとんと床を爪先で叩いた。
「ちょっと痛い目見てもらうだけ。もう一生、立てなくなるかもしれないけどね」
「それは足腰の話だよな? そうですよね?」
「どうせ使わないからいいだろ、童貞野郎」
嘲笑と罵倒を、楽しげに結衣は口にする。
天馬は梅干を食ったような顔で頭上を仰いだ。
「勘弁してくださいな。今からでも遅くない、やめようぜ、こんなこと。絶対に損するよ」
「じゃあネガを」
「やだね」
「あっそう。即答。じゃあ、色んなものにサヨナラしとけ」
「ホントに? マジでやんの? やめてくれよ、オレやだぜ」
「しつこいんだよ、間抜け」
結衣がすっと細い足を持ち上げるのを確かめると、天馬の目がすうっと細められた。
「なら、仕方ねえな」
左手を封じている女生徒の足を思い切り踏みつけた。
甲高い悲鳴を上げて彼女は飛びすさった。
足を踏む、という字面ではただの奇襲のように思われるかもしれないが、この時、彼女の小指の骨には深い亀裂が走っていた。
容赦など微塵もなかった。
え? と呆然として相方を見下ろした右手の女の胸倉を掴み、結衣へと押し飛ばす。
急にタックルを受ける形になった結衣は慌てて彼女を受け止めたが、前が見えなくなったのがいけなかった。
後方に吹っ飛んでから、結衣は天馬が自分たち目がけて肩から体当たりをぶちかましたのだと気づいた。
高校生男子の本気の体当たりだ、軽い身体は数メートルは吹っ飛び、床に背中をしたたかに打ち付けて呼吸が止まった。
「かはっ――」
ハッと我に返ると、自分を見下ろす目とぶつかった。
立ち上がろうと起き上がりかけたが、汚らしい上履きに喉を蹴られて再び床に縫い付けられる。
「だから言ったろう――」
先ほどまでの飄々とした態度はどこへいったのか、蝋人形のような顔になった天馬が低い声を結衣の耳に流れ込んでくる。
「やめとけってな」
「ぐっ……」
「ひどいと思うかい。
ふん、オレはな、女だから、集団だから何もされねえと思ってる奴らが大嫌いなんだよ。
人のキンタマ潰そうとして、タダで済むはずないだろうが」
「おま……え……、ぜったい……ゆるさ……な」
「許さなくていいよ。オレもお前ら許さん。
それに、お前ら多分、もう終わりだし」
「は……あ……?」
「いや、男のオレよりもさ、女の方が、何されたら嫌か分かるんじゃない?
そうだろ、紺野逸喜!
……で、いいんだよな、一年生?」
座ったまま事の推移を冷めた目で眺めていた金髪の房をした少女は、胡乱げに天馬を見返した。
「なんであんたが、あたしの名前を」
「細かいことは気にするなよ。それより、ホレ」
弧を描いてカメラがイツキと呼ばれた少女の手のひらに収まった。
「そのカメラ、まだ枚数残ってるから好きに使え。
お前、こいつらにいじめられてたんだろ。復讐しとけ。
殺さないなら、徹底的にな。
それでさ、それが終わったら、ちょっとオレに付き合えよ」
「誰がお前なんかに……そっちこそ、いじめられっこだったじゃないか、馬場天馬」
「……変なところで有名人なんだな、オレ。ま、いいからいいから」
イツキは一歩身を引いた。警戒心を塊にして、この不審な男子生徒に放射する。
「お前なんかに付いていかない。こんなことで、恩を売った気になるな、馬鹿」
明快な拒絶を受けた天馬だったが、そよ風程度にも感じていないらしい。
「いいのか、そんなこと言って。この紋所が目に入らぬか」
ジャージのポケットから現れたのは、一葉の写真だった。
イツキの目が、大きく見開かれた。
大きな力に溢れる目をした男の子と、そっぽを向いている男の子、それに隠れるようにワンピースを着た女の子が写っている。
説明なんて、いらなかった。
「オレとあいつは、幼馴染なんだ。
一月足らずの後輩よりは、長話ができると思うぜ」
イツキは写真をひったくるようにして胸に抱えると、天馬をキッと睨みつけた。
「終わったら、絶対に話してもらうからな」
そして嫌がる三人を女子トイレにずるずると引っ張りこんでいった。
その後、彼女たちがどうなったのか、天馬は知らない。