34.天空の分水嶺
「閉会式は終わったよ」
人気のない廊下の真ん中で窓の外の街並みを見下ろしていた天馬に声をかけてくる者があった。
振り返ると、人好きのする顔に出くわした。
「白垣」と慣れない発音で天馬は言った。
白垣はニコニコしながら天馬の横に立った。
がっしりした体躯は側にいるだけで華奢な天馬を押しのけようとしているかのようだ。
「こうして話すのは久々だね。中学以来かな」
「さァどうだったかな。覚えてねえよ」
「ラッキーからね、報告されたんだよ。僕のノート、返してくれないかな」
天馬はジャージの背中に手を回し、一冊の大学ノートを白垣に放り投げた。
白垣はそれをキャッチするとパラパラとめくっていく。
「借りただけだ。ちゃんと返すつもりだったさ」
「ああ、そうだろうね。これは君には不要の代物だ。人の情報なんてものはね」
チッと天馬は舌打ちする。
「用はそれだけか。とっとと失せろ。てめえの面ァ見てるとムカムカしてくるんだ」
「相変わらずキツイなァ」とへらへら白垣は笑う。
「打ち上げまでは少し時間がある。僕に聞きたいことがあるんじゃないのか」
天馬はむすっと押し黙った。が、彼の中の天秤はこの奇妙な生徒会長との会話を続行する方に傾いたらしい。
「今回、おまえは紅白の勝敗でカガミと付き合うかどうか、くだらん勝負をしたな」
「ああ」
「おまえ、どうしてインチキをしたんだ」
白垣は笑って答えない。
「学年の組ごとじゃなく、生徒個人の成績から限りなく平等にするために、紅白の組わけを個人単位でおまえがやったんだろ」
「ああ」
「その総合的なパワーバランスが、白組に傾いていた」
「そうかな。誰からも文句は言われてないけど。むしろすごいバランスだ、と教師には褒められたがね」
「そのノートに書いてあることと照らし合わせれば、ズレは浮き彫りになる。
たとえば身体測定の成績は上回っていても、最近、凶事があったりして精神が安定してないやつと、少し実力では劣っても堅実に部活を続けてるやつをぶつけたりする。
そんな風に弱者が逆転しやすい組み合わせを、おまえは作ったな。
このノートを見たやつしか分からないぐらいの細かいことだったが、オレは気づいた。
ナスカの地上絵みたいに、俯瞰してるやつじゃなきゃ気づかない」
「さすがだね」と白垣は動じない。天馬は続けた。
「カガミのためか。そんなにあいつが欲しかったか」
「そうだよ」
「嘘だな」即答だった。
それを受けて白垣は実に愉快そうに、眼鏡のつるを指で押し上げた。
「……やっぱり僕の想像通りだ」
「何がだ」
「君は人の素顔が見えてしまうんだな。嘘を見抜く才能か。
取り繕われ、騙され続けてきた君には呪いといった方がいいかな」
「ふざけろ。お前なんぞにオレの幸せだの不幸だのが決められてたまるか」
「もちろん、君の言うとおり僕にそんな権利はない。ただそう見えるだけだ」
「眼科にいけ」と天馬は吐き捨てた。
「僕はね」と白垣は言った。
「ただ、面白そうだと思っただけだよ。背景がいくら調べても出て来ない転校生と、急に元気になった幼馴染が時々昼食を共にしている。
しかも二人ともどうやら、まんざらでもなさそうだ。
もし君が僕の立場だったらどうするね。くっつけてみたいとは思わないか」
「昔からおまえはそういうやつだった――」と天馬は苦々しげに眉根を寄せる。
「余計なことをして、人を引っ掻き回すんだ。オレなんかよりも数段タチが悪い。
おまえは、門屋がカガミに惚れてることも知ってたんだ。だからあの場でやつを刺激するような真似をして話をこじらせた」
「見物だったろ。カガミさんが悲鳴を上げて飛びのくなんて、君だって見たいと思ったことはないかい」
「ないね」
「ふうん。じゃ、カガミさんは僕がもらってもいいんだな?
僕はいいんだぜ、本当に付き合っても。彼女、かわいいしね」
「……勝手にしやがれ」
「そうかい。僕はてっきり、君が怒るものだと思っていたがね」
「おまえでも、門屋でも、オレよりは相応しいだろうよ、あいつの静かな暮らしにはな」
話はそれまで、とばかりに天馬は背を向けて歩き始めた。
白垣はじっとその背中を見据えている。天馬が前を向いているため、その表情を見る者はいない。
その顔は、いつもの飄々とした好人物のものではなかった。
麻酔で眠らされた患者にメスを入れる医者のように、静かで真剣な眼差しだった。
それが、人からあえて侮られることによって、他者の本音を盗み取ろうとする白垣のたったひとつの素顔だったのかもしれない。
「馬場」と呼び止められて、天馬が振り向く。
「もう少しだけ無駄話に付き合ってくれ。これが最後だ」
「おまえの思うとおりに動いてたまるか。オレは家に帰る」
「カガミさんは――」
天馬は歩き出さなかった。
「彼女の転校前の情報は極端に少ないから知らないが……彼女はこんな風に集団で暮らす生活に慣れていないんじゃないか?
だから初めての連続で、告白されたり、好かれるということの意味がよくわかっていない。
友達と特別な人の違いが分かってないんだ。
だから門屋にも僕にも、恋愛感情はないにも関わらず付き合ってもいいと感じている。
果たしてそれは幸福なのか、不幸なのか。
彼女は愛されるだろうが、愛することはできるのかな。
愛とは誰にでも平等に振り分けられるものじゃない。
『愛さない』という選択肢を持った人間だけが、『愛する』ことができるんだよ。
それ以外はすべて、単なる親しみか……
あるいは個人ではなく『人間』そのものを愛しているんだろう。
僕が見た限り、カガミさんにそんな聖人の真似事ができるとは思えないね」
「知ったような口利きやがって」
「君は自分が彼女に近づけば、彼女を傷つけると思ったんだろう。
だが傷つくことのない人生なんてないし、それこそ意味が無い。
君がやっていることは、問題を闇雲に先延ばしした、ただの責任逃れだ」
予期していたはずの言葉は、天馬の心に重く冷たく響き渡った。
それは白熊の冷静な指摘であると同時に、過去の自分が放った嘲笑だった。
震えそうになる声を必死に抑えて余裕を見せる。
「……なるほどね、お前の言い分にも一理あるな。
おまえの言うとおり、オレはあいつから逃げた。
だがそれでも、オレがいなければ失わなくて済むものが沢山あるはずだ。
生徒のプロフィールを空で暗唱できる白垣さんだったら、分かるよな」
「ああ、もちろんだ。
本当に見ていて面白いよ、君たち二人は。
無条件で愛される者と、理不尽に疎まれる者。
カガミさんはまァあの容姿もあってのことだろうが、君は異常だ。
いじめられっ子っていうのはどこかで同情されていたりもすることも珍しくないが、君にはそれがまったくいなかった。僕の調べた限りでは……だが。
あ、一人いたな」
「誰だ」
「僕だ」
堂々と言い放った白垣に、天馬は目を丸くした。そしてふっと薄く笑った。
「……そりゃどーも」
「君の不安は分かる。
だがね、何が幸福で何が不幸か決めるのは自身だと答えたのは、君なんだぜ」
「――――」
「じゃ、そういうことで。暗幕は垂らしておくから」
そう言って白垣はあっさりと立ち去った。
取り残された天馬は決断に迫られた。
(オレは……
A.カガミを傷つけたくない。
B.オレだ。