俺の父ちゃんは、普段はあんまり喋らない。
お休みで家にいる時は大抵、居間で難しそうな本を読んでたり、新聞を広げてる。
「とーちゃん、なに読んでるんだ?」
「政治・経済・株価、その他もろもろ、金になりそうなもんを、ちょいちょいとな」
「カブカ? 漬物にしたら、ウマい?」
「半々だな。寝かせりゃ美味くなったり、不味くなったり、どっちかだ」
「ふーん?」
時々、俺も横からのぞいてみる。だけど、数字がいっぱい並んでるだけで、なんのことやら、さっぱりなのだ。
「いいんだよ。光樹にはまだ……悪い、電話だ―――はい、もしもし。日野です」
父ちゃんの携帯電話は、お休みでも遠慮なく鳴リ響く。
そしたら、父ちゃんは急いで腰をあげて、
「はい、その件につきましては……」
「えぇ、了解しました」
「ただちに、そちらに向かいます」
すごい早口で、喋るんだ。
「悪いな、父ちゃん急の仕事が入った。光樹、パソコン、勝手に使うなよ」
「わかんないし、面白くないし、使わないってば」
「そうか。じゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃーい」
俺の父ちゃんは、お仕事してる時は、格好いいと思う。
それにしても、大人って、大変なのだ。かっつんの言う通り、夏休みがないんだから。今日は日曜日なのになー。
夏休みが終わっちゃうまで、あと二週間ぐらい。
明日は、小学校の大掃除がある。朝にラジオ体操したら、家に帰らず、そのまま学校へ行かなくちゃ行けない。でも、掃除だけして帰るのもつまらないから、かっつんと一緒に、一つの計画を実行中なのだ。
俺の部屋。持っていくのを忘れないように、枕元にはバットにボール、それからグローブが並んでる。
「うむっ! これで明日の装備はカンペキだなっ!」
それから、勉強机の上にある目覚まし時計を手に取った。今は夜の八時を少し超えたぐらい。ちょっと寝るには早いなぁ。居間に降りて、テレビでも見よっかな。
「……ただいまぁー」
そう思ってたら、玄関が開いて、父ちゃんの声がした。
部屋をでて、階段を降りて、出迎える。
「おかえりー」
「おー、ただいま……疲れたぜ……」
父ちゃんは、大きな溜息をこぼして、ふらふら靴を脱いだ。そんで、俺の頭をくしゃくしゃってして、居間に入って、あぐらをかいた。うむ、かなりお疲れの様子。
俺は台所の冷蔵庫から、ビールを一瓶、カルピスを一瓶取りだした。瓶を軽くぶつけて、「かんっ」って音を鳴らす。
「父ちゃん。いっぱいやりますか?」
「おぉー、いいねぇ」
父ちゃんの趣味は、お酒なのだ。
俺は子供で、まだお酒が飲めないから、父ちゃんに付き合う時は、カルピスかラムネになっちゃうんだけど、まぁ、子供だから仕方があるまい。
「あけるよー」
ビールの蓋を、栓抜きで、きゅぽんっ!
「おっとっとっとぉ~!」
「おー、いいねー!」
父ちゃんのグラスのなかに、とくとくとくとく、注いでいく。
泡立って、溢れるぎりぎりのところまで。
「うむっ! 完璧なのだ!」
「ありがとう、んじゃ、いただきます」
ぐびぐび、きゅーっと、一気飲み。
ぷはー。
「ウマいっ!」
お酒を飲んだ時の父ちゃんは、すっごい幸せそうなのだ。いっつもビール一杯で顔を真っ赤にする癖に、やめられない、止まらないーのだ。
俺も、ちょっとだけ、お酒をわけてもらったことはあるんだけど、あんまりおいしくない。どう考えても、ラムネとかの方が、おいしーと思うんだけどなー。
「こーきー! とーちゃん、もー、仕事したくなーーーい!!」
「ダメ。もっと頑張るのだ!」
「いやだー、父ちゃんはもう、光樹と陽子(ようこ)と一緒に、ごろごろするー! 夏休みがほしいのだぁぁぁ!!」
へべれけになった父ちゃんは、全然格好よくない。
抱きついてくるし、酒臭いけど、がまん、がまん。
これがきっと、大人の付き合いってやつなのだ。やれやれなのだ。
「さぁ! もう一杯注ぐのだっ、我が息子っ!!」
「飲み過ぎはよくないから、これで最後だぞ」
「くぅっ! キビシー! 光樹ぃ、お前は小さい時の、陽子によく似てるよなぁ~」
「それ、聞き飽きたってば。ミミタコなのだ」
「俺はなんどでも言うぞー! こーきはぁ! まだ女学生でぇ! かていきょーしの俺にぃ! 頬を染めてた陽子のぉ! あ、の、こ、ろ、にぃ! よくにてるぅぅぅぅぅ!!」
「うるさいってば。聞こえたら、雷落とされちゃうぞ」
父ちゃんは酔うと、母ちゃんのことを呼び捨てにする。
「ただ、陽子みたいに捻くれてないところがいいな。うん。そこは俺に似たのかもしれん。うははははっ!」
口調も態度も別人になる。むしろこっちが、父ちゃんの正体かもって思ったりするんだけどなー。
「こーき、耳触らせれ~~」
「やめれ」
酔っぱらった父ちゃんは、頭の上に生えた、本当の耳を触ってこようとする。
その度に俺は、正義の味方となって、素早く立ち上がるのだ。
「きつねちょっぷ!」
「くぅっ! やりおるな、きつね仮面!」
「ふふんっ! 悪の怪人、へべれけ魔人なんぞに、負けはせぬのだ!」
「よかろう! ならば飲み比べで勝負だ!」
「おー!」
父ちゃんはビールの瓶を片手に、俺は一緒に持ってきた、カルピスの原液瓶を片手に「せーの!」で口をつける。大抵、勝つのは俺だ。
父ちゃんは口をつけて三秒後に、降参するのだ。
「……うおー、まいった~。や~ら~れ~た~!」
「正義は勝つ!」
「ぐふぅ……あ、やべぇ。吐きそう。マジ吐きそう」
父ちゃんが口元を抑えて、ふらふら立ち上がる。そして、その背後から、
「こんの……アホ親子があああああああぁぁぁッ!!」
「ごふっ!?」
真・きつねちょっぷが、脳天直撃。父ちゃん撃沈。
風呂あがりで、バスタオル一枚だけを身につけた母ちゃんが、近づいてくる。
俺の頭にも、真・きつねちょっぷ。撃沈。
「光樹! 明日は学校にいく日でしょっ! 早く寝なさいッッ!」
「はいっ!」
俺は急いで立ち上がる。カルピスとビールを冷蔵庫にしまって、大急ぎで居間をでた。
後ろから、青白い光が「ばしーん!」って光る。母ちゃんの雷が炸裂したのだ。
やばいなぁ、本気で怒ってるなぁ。
「……狐火まで、でてるのだ……」
青白い炎の塊が、ぼぅ、ぼぅ、ぼぅ。
なんでか知らないけど、母ちゃんの逆鱗に触れたみたいだ。
「もう一度言ってみなさいよっ! どこの誰が捻くれてたってっ!? そりゃあんたのことでしょーがっ!!」
母ちゃん、怒るのそこかよ。
心の中で突っ込んでおく。自分の部屋に一時撤退。ささっと襖の扉に手を置いた時、
「すいません、調子乗りました。許して――――ちょ、ごめ、や……―――――!!」
耳を、ぺたん。
なんにも聞こえませーん。
明日になったら、ちょっとコゲてるんだろうな。父ちゃん。南無南無。
「……まぁいいや、おやすみー」
大急ぎで電気を消して、布団の中に潜り込む。
「そういえば、いつだっけかなー……」
前に、父ちゃんが、酔っぱらった時に、言ったんだ。
妖怪は、全部黒い「もやもや」にしか見えないのに、俺と母ちゃんの、耳と尻尾だけは、はっきり見える、その理由。
「光樹と陽子が、大好きだから。好きな物は、よく見えるんだよ」
お酒臭い息を、ぷはーっと吐きこぼして、そのまま捕まえようとしてきた。
正義の必殺技で、返り討ちにしたっけ。
思いだすと、結構照れるし、やっぱ恥ずかしい。
だけど。
俺も母ちゃんも、父ちゃんと、ずっと一緒にはいられないのだ。
約束があるから。ずっとずぅっと続いてきた、
「あやかしきつね」のご先祖様との、約束があるから。
約束は、まだまだ先のこと。だけど、その日はいつか必ず、やってくる。
どれだけ辛くても、悲しくても、守るんだ。
子供は、口をだしちゃいけない、大切な約束なのだ。
かっつんが、いつかこの町を引っ越してしまうように。
俺も、いつか―――――ふあぁ、眠い。おやすみなさーい……。
きつねの約束
夏休みに一度ある、校内大掃除の一日がやってきた。
早くすれば、早く終わるのは、皆わかってるはずなのに。
「あーあ、めんどうだよなー、夏休みに学校とか」
「だよなー、はやく帰りてー」
「……でさー、昨日ね」
「あはは、ほんとー?」
男子も女子も、お喋りばっかり。終わらないじゃない。
「――――男子諸君! 注目するのだっ!」
しかも、椅子の上に、仁王立ちするアホまでいるし。
椅子、蹴っ飛ばしてやろうかしら。
「なんだよ、きつねー。どった?」
「このまま帰るなどと、実につまらぬことを言うでないっ!」
「またなんか、企んでるのかよ?」
「ふっふっふ、この掃除が終わったら、野球大会を開催するのだ! 参加する者は、このきつねのお面の下に、集まるがよい!!」
「おー、いいじゃん。けどさ、道具はあんのかよ?」
「案ずるな、ボールとバットは、俺とかっつんが家から持ってきた! グローブも二つだけならあるぞ!」
「おぉー、さすが、きつね仮面だな。手抜かりねーぜ!」
「チームどうするー!」
「グーと、パーで、決めようぜ!」
「俺も参加するするー!」
「よいぞ。家に帰っても、母ちゃんに宿題をやれと言われるのは、皆同じだろ?」
「そのとおりだ!」
「まったくだ!」
「おとなは、おーぼーだ!」
「夏休みぐらい自由にさせろぉ!」
(――まったく、もう……)
きつねのアホを中心に、男子が盛り上がってる。
まったく、うちのクラスは、相変わらずなんだから。
むしろ夏休みのせいで、歯止めが効かなくなってる気もする。
「よーし、野球大会、やるぞー!」
「おおおおおぉぉー!」
きつねが腕を振り上げて、それにアホ男子一同が、賛同する。
ほんっと、やかましいんだから。
いい加減に、椅子を蹴り飛ばしてやろう。そうしよう。
「――――おい、お前等。サボってんじゃねーよ」
「わふっ!?」
あ、先手を打たれちゃった。
ほうきのトゲトゲが、きつねの頭の上に、ずばん。
「おのれ、かっつん! 不意打ちとはヒキョウな!」
「やかましい。遊ぶんだったら、さっさと掃除を終わらせろ。それから、俺をアホの一員に含めるな。こっちはな、宿題なんぞ、最初の一週間で終わらせてるんだよ」
「な、なんだって……?」
「う、嘘だろ……っ!」
「ばかな、ありえん……!」
「おそろしや、戸田勝也……!」
「……アホばっかりか、このクラスは」
戸田が、ふーって溜息をこぼして、やれやれって首を振る。おおげさな仕草だけど、ちょっと似合うのよね。顔も悪くないし、女子からも人気あるし。
「なんだとぅ、アホとはシツレイなっ!」
「聞き捨てならーん!」
「皆の衆、せいばいじゃー!」
「やっちまえー!」
「まぁまぁ、待てよ。これが目に入らないか?」
戸田が、にやりって笑う。それもまた、結構様になっている。
そして手に持っているのは「夏休みの友(四年生)」だ。
「残念だったな。今なら百円で、宿題写させてやるんだが」
『写させてえええぇぇぇぇーーーーー!!』
「……」
このクラスの男子、ダメ過ぎ。
大変なんだろうな、お母さんたち。
いつもは、だらだらしてる男子だけど、一度団結した時の行動力は、やっぱりすごい。
「どいたどいたぁ! 雑巾がけのお通りだぁ!」
「はーい、机が通りますよー。道をあけてくださーい」
「バケツの新しい水一丁、おまちっ!」
「窓ふき~、窓ふきはいらんかえ~」
「……男は黙って、黒板消し……」
その様子を、見回りしてた学年主任の先生が、褒めてくれた。そしたら男子は、サルみたいに勢いを増して、あっという間に綺麗になった。
まったくもう。やれるなら、最初からやればいいのに。
掃除が終わって解散した後も、あたしは学校の図書室に残ってた。今日は掃除だけで、授業があるわけじゃない。けど、ちゃんと筆記用具と、教科書と、ノートを持ってきた。
「まる、まる、まる、まる……ぜんぶまるっ!」
全問正解してるのを確かめて、おっきな花丸を書く。
「ふふん。やっぱりあたしってば、偉いっ!」
学校の図書室は、静かだった。さっきまで先生が一人いたんだけど、用事を思いだしたみたいで、部屋をでたところ。
だからあたしは、扇風機を、遠慮なく一人占め。
今日は八月にしては、曇り空で涼しいし、扇風機の風を浴びてるだけで、充分快適だ。
「―――ストライークッ! バッターアウッ!」
残念だけど、外から聞こえてくる熱声は、暑苦しいんだけどねー。
「ツーアウッ、三塁! チャンスはまだ残ってんぞー!」
「次のバッタァー、だれー!?」
四階の図書室まで、騒がしい声が聞こえてくる。
男子って、ホント元気で、バカなんだから。
今日は涼しい方だけど、八月なんだからね。もうすぐお昼も近いし、どんどん暑くなっていくんだから。そしたら、汗だくだくになって、へとへとになって、日射病になっちゃうかもしれないんだから。
「だから、あたしは賢いのよ。勝ち組よ、勝ち組」
気晴らしに、負け組を見下してやろうかと思ったけど、やーめた。
せっかく涼しい扇風機、独り占めしてるんだもん。わざわざ、陽の当たる窓際まで行って、アホ男子たちの野球なんて、見る必要、
「次のバッター、きつねかぁ! 打てよー!」
「頼んだぞ、四番ー!」
「みんな、下がれ下がれー! 大バカは、でかいの打ってくるぞ!」
ページをめくっていた手が、とまる。
窓の方を見た。気がつけば、席を立っていた。小走りで近寄って、窓枠をつかんだ。
まぁ、たまには悪くないよね。野球観戦も。
校舎を見下ろした。
足で砂を削って、上から水を撒いただけの、野球場。
グローブはピッチャーとキャッチャーの二人分しかなくて、ボールとバットも一つだけ。
「……なにやってんの、あのバカ」
バッターボックスに、きつねが立っている。予告ホームランのつもりなんだろうか、雲に隠れた太陽めがけて、バットを突き出している。その格好のまま、動かない。
「バカめ! スキありっ!」
ピッチャーの男子が、すかさず第一球を投げる。きつねはそれでも動かず。
ボールはまっすぐ、通り過ぎていく。
「ワンストラーイク!」
「なにやってんだよ、きつねっ!?」
「もったいねー! どまんなかじゃーか!」
「おろかものめっ! 早々に勝負を決めてもつまらんだろう、ふははははっ!」
「…………なによ、それ」
腕を組んで、得意気に高笑いをするきつねを見てるだけで、溜息がこぼれた。期待を裏ぎってくれないバカっぷりに、なんかもう、一気に面倒くさくなった。
「言ってくれるじゃねーか! いくぞ第二球……おりゃー!」
ピッチャー、第二球、投げました。
「うりゃー!」
四番バッター、きつね。きれいな空振りです。
「ツーストラーイク!!」
「どまんなかじゃねーかぁぁ! ヘタクソーーーーっ!」
「タ、タイムッ! お面つけてたら、前が、よくみえぬっ!!」
「アホーーーーーッ!!」
「…………バカ」
今だけは、男子とおんなじ気分。
駄目だもう。見てらんない。
「……勉強しよ」
そう思ったんだけど。でもせめて。
あと一球だけ、見届けたいかな、なんて。
期待なんて、全然してないけど。
きぃーーーーん。
白いボールが、青空のなかを、高く、高く、飛んでった。
みんな、顔を見上げてる。
一人だけ、バットを投げて、駆けだしている、バカが一匹。
きつねが走ってる。とっても速い。
水で書かれた一塁ベースを蹴った時、横顔が見えた。歯をむき出しにして、すごく嬉しそうな顔してる。
「……ずるい」
胸がどきどきする。やっぱり、きつねは、ずるい。
「に……じゃなくて三……えぇい、バックホームっ! 急げ外野っ!!」
焦る声なんて物ともせずに。
きつねが、走る、走る、走る。
一人が帰って、一点追加。その時、きつねはもう、二塁ベースを蹴っていた。
「同点だぁー!」
「急げ急げー! まだ間に合うぞーっ!!」
「おせーよっ! 間に合うもんか!!」
男子たちが、夏の熱さに負けないぐらい、ぎゃーぎゃー叫んでる。
あたしの心も、熱くなる。
窓枠に置いた手が、震えてる。
「……がんばれっ!」
きつねってば、本当に足がはやい。
三塁に着いた時、ちょっと勢いを落として、後ろを振り返った。
ボールはやっと、二塁の側にいた、外野手の男子まで戻ってきたところ。
「きつねー! 戻ってこい、間に合うぞー!」
「わぁってる!!」
迷わず、前へと進む。ランニングホームランまで、あと少し。
きつねに投げられる声援が、どんどん、どんどん、大きくなっていく。
「きたきたきたぁ! 逆転だぁーーーっ!」
「……やったぁ!」
これはもう、絶対間に合ったよね。そう思った時、
「――――キャッチャー! しっかり構えてろっ!!」
空気をつんざくような、鋭い声がした。
その声。きつねの親友、戸田勝也。
弓を引き絞るみたいに、投げ放つ。
ボールがまっすぐ、弾丸みたいな勢いで、飛んでった。
ずばぁぁんっ!
あと、もうちょっと。だったのに。
「うひ~! 手が痺れたぁ!」
ボールが戻ってくる方が、はやかった。
「うっそだろっ!?」
「残念だったな、きつね仮面っ! ちぇすとおおおーーーっ!」
「……わわわわわっ!!」
きつねの足が、たたらを踏む。ばたばた慌てて、必死に踵を返す。
「おそいわっ もらったぁぁっ!」
ボールを持った手が、背中に迫る。もうダメ。追いつかれちゃう。
でも、その時。きつねの右手が、お面に伸びた。
「――――あ」
お祭りの夜を思いだす。
きつねが、凄く怒った声で叫んで、それで、風が舞い飛んだ。あの夜を。
誰にも言わないで。約束して。お母さんに怒られるから。
ちょっと泣きそうな顔になって、耳と尻尾をしょんぼりさせて、そう言った。
「妖怪」っていうおばけが見える、あたしだけが知ってる秘密。
いつも「きつねのおめん」を被ってる、日野光樹の正体は、妖怪「あやかしきつね」。
頭の上から生えた、茶色の耳。半ズボンから零れたしっぽが、ハッキリ見えた。
「とぅっ!」
きつねが、後ろ向きに宙返り。振り向きざまだったのに、綺麗に飛びあがる。
「よっ!」
ボールを持ってた男子の両肩に、手を乗せる。そのままくるんって回る。飛び越えた。
信じられない。ヒトの背中に翼が生えて、空を飛んでるみたいだ。
「はぁっ!」
体操の選手みたいに、びしっと両手を伸ばして、着地する。その場所は、水でひかれたホームベースの真上。
「……んなっ!?」
あれだけ騒いでた男子の声が、その一瞬、綺麗に静まりかえってた。きっと、ぽかーんって、口が半分空いてるに違いない。
四階からでも、男子達の気持ちがわかっちゃう。今みたのが、軽く想像を超えていて、呆気にとられて、言葉がでないんだ。
あたしも、気づいたら、一緒になって叫んでた。
「なにそれーーーー!?」
「なんじゃそりゃああああああああぁぁぁーーー!?」
重なった大きな声の中で、きつねが、お面を外した。
お陽さまみたいに、腕を組んで、眩しく笑う。
「ふははははははっ! 見たか!! これがきつね仮面の力なのだーっ!!」
「ありえねーよ! お前、今、飛んでたぞっ!?」
「このやろー、俺を踏み台にしやがってー!」
「はーっはっはっはっ! きつね仮面に、敗北の二文字はないのだーっ!!」
超得意げに、大笑いしてる。
それを見て、悔しいって思った。あんなの、あたしには真似できないもん。
「……けど」
すごい、すごい、すごいっ!
あれが、あやかしきつね、なんだ。
ちょっと、本当にちょっとだけ、格好良いかもしれない。
(う~~~!)
胸が、もやもやする。
いっつもそうだ。きつねの事を考えてたら、なんか、苦しくなる。
これが、そういうことなのかなって、考えたことはある。でも格好いいところと、格好悪いところを数えていくと、圧倒的に格好悪いところの方が多いわけで。
「……だから、違うんだもん」
うん、やっぱり嫌い。きつねなんて、ただのアホ。
「――――ふー」
大きく深呼吸して、運動場から目を逸らす。さて、勉強に戻らなくっちゃ。そう思って振り返った。それでもまだ、胸がどきどきしてた。
別の意味で。胸がどきどきする。
なんか、いるんだけど。
『やれやれだね。またおめんの力を、無駄に使ったね』
『……母上様、報告……』
『そうだね』
『こぅしゃま、また、ははさまに、おこられる、のー?』
『約束を破ったのは、若様だからね。こればっかりは、仕方ないね』
『かみなりー、ぴかー?』
『かもね』
『こうしゃまー、かぁいそー』
『……南無三』
廊下に、なんか、いるんだけど。
いつもの黒いもやもやは、ほとんどなくって、随分はっきり見えていた。
「なによあいつら……イタチのおばけ?」
山に遠足に行った時、偶然見かけたイタチに、似てる気がする。でも、目の前にいる奴みたいに、窓枠に手を添えて、二本の脚で立ってたり、ヒトの言葉を喋ってたりは、しなかった。当たり前だけど。
『カタナの言う通りだね。若様はいい加減にね、ご自身の立場を弁えてもらわないとね』
小さいのと、ノッポと。ふとっちょ。
全部で三匹。どのイタチの腰元にも、紐で、小さなツボが括りつけてある。どきどきしながらその会話を盗み聞きしてたら、不意に、ふとっちょが、こっちを向いた。
『……姉者』
『ふにゅー?』
『……子供……』
『ほぇー?』
ふとっちょが、あたしを見て、指さした。
それに続いて、小さいのと、背の高いのが、あたしを見る。
「……!」
慌てて後ろを振り返ったけど、図書室には、あたし以外に誰もいない。この階の教室にいた生徒も、みんな帰っちゃったみたいで、し~んとした空気が流れてる。
『みえてぅのー?』
『……』
ふとっちょが、頷いた。
『ヒトの子なのにね。僕達が見えるのですね』
ノッポが、肩に小さいのを乗せて、ゆらゆら、近付いてくる。
ちょっと、やだ、どうしよう――――助けて、きつね。
早くすれば、早く終わるのは、皆わかってるはずなのに。
「あーあ、めんどうだよなー、夏休みに学校とか」
「だよなー、はやく帰りてー」
「……でさー、昨日ね」
「あはは、ほんとー?」
男子も女子も、お喋りばっかり。終わらないじゃない。
「――――男子諸君! 注目するのだっ!」
しかも、椅子の上に、仁王立ちするアホまでいるし。
椅子、蹴っ飛ばしてやろうかしら。
「なんだよ、きつねー。どった?」
「このまま帰るなどと、実につまらぬことを言うでないっ!」
「またなんか、企んでるのかよ?」
「ふっふっふ、この掃除が終わったら、野球大会を開催するのだ! 参加する者は、このきつねのお面の下に、集まるがよい!!」
「おー、いいじゃん。けどさ、道具はあんのかよ?」
「案ずるな、ボールとバットは、俺とかっつんが家から持ってきた! グローブも二つだけならあるぞ!」
「おぉー、さすが、きつね仮面だな。手抜かりねーぜ!」
「チームどうするー!」
「グーと、パーで、決めようぜ!」
「俺も参加するするー!」
「よいぞ。家に帰っても、母ちゃんに宿題をやれと言われるのは、皆同じだろ?」
「そのとおりだ!」
「まったくだ!」
「おとなは、おーぼーだ!」
「夏休みぐらい自由にさせろぉ!」
(――まったく、もう……)
きつねのアホを中心に、男子が盛り上がってる。
まったく、うちのクラスは、相変わらずなんだから。
むしろ夏休みのせいで、歯止めが効かなくなってる気もする。
「よーし、野球大会、やるぞー!」
「おおおおおぉぉー!」
きつねが腕を振り上げて、それにアホ男子一同が、賛同する。
ほんっと、やかましいんだから。
いい加減に、椅子を蹴り飛ばしてやろう。そうしよう。
「――――おい、お前等。サボってんじゃねーよ」
「わふっ!?」
あ、先手を打たれちゃった。
ほうきのトゲトゲが、きつねの頭の上に、ずばん。
「おのれ、かっつん! 不意打ちとはヒキョウな!」
「やかましい。遊ぶんだったら、さっさと掃除を終わらせろ。それから、俺をアホの一員に含めるな。こっちはな、宿題なんぞ、最初の一週間で終わらせてるんだよ」
「な、なんだって……?」
「う、嘘だろ……っ!」
「ばかな、ありえん……!」
「おそろしや、戸田勝也……!」
「……アホばっかりか、このクラスは」
戸田が、ふーって溜息をこぼして、やれやれって首を振る。おおげさな仕草だけど、ちょっと似合うのよね。顔も悪くないし、女子からも人気あるし。
「なんだとぅ、アホとはシツレイなっ!」
「聞き捨てならーん!」
「皆の衆、せいばいじゃー!」
「やっちまえー!」
「まぁまぁ、待てよ。これが目に入らないか?」
戸田が、にやりって笑う。それもまた、結構様になっている。
そして手に持っているのは「夏休みの友(四年生)」だ。
「残念だったな。今なら百円で、宿題写させてやるんだが」
『写させてえええぇぇぇぇーーーーー!!』
「……」
このクラスの男子、ダメ過ぎ。
大変なんだろうな、お母さんたち。
いつもは、だらだらしてる男子だけど、一度団結した時の行動力は、やっぱりすごい。
「どいたどいたぁ! 雑巾がけのお通りだぁ!」
「はーい、机が通りますよー。道をあけてくださーい」
「バケツの新しい水一丁、おまちっ!」
「窓ふき~、窓ふきはいらんかえ~」
「……男は黙って、黒板消し……」
その様子を、見回りしてた学年主任の先生が、褒めてくれた。そしたら男子は、サルみたいに勢いを増して、あっという間に綺麗になった。
まったくもう。やれるなら、最初からやればいいのに。
掃除が終わって解散した後も、あたしは学校の図書室に残ってた。今日は掃除だけで、授業があるわけじゃない。けど、ちゃんと筆記用具と、教科書と、ノートを持ってきた。
「まる、まる、まる、まる……ぜんぶまるっ!」
全問正解してるのを確かめて、おっきな花丸を書く。
「ふふん。やっぱりあたしってば、偉いっ!」
学校の図書室は、静かだった。さっきまで先生が一人いたんだけど、用事を思いだしたみたいで、部屋をでたところ。
だからあたしは、扇風機を、遠慮なく一人占め。
今日は八月にしては、曇り空で涼しいし、扇風機の風を浴びてるだけで、充分快適だ。
「―――ストライークッ! バッターアウッ!」
残念だけど、外から聞こえてくる熱声は、暑苦しいんだけどねー。
「ツーアウッ、三塁! チャンスはまだ残ってんぞー!」
「次のバッタァー、だれー!?」
四階の図書室まで、騒がしい声が聞こえてくる。
男子って、ホント元気で、バカなんだから。
今日は涼しい方だけど、八月なんだからね。もうすぐお昼も近いし、どんどん暑くなっていくんだから。そしたら、汗だくだくになって、へとへとになって、日射病になっちゃうかもしれないんだから。
「だから、あたしは賢いのよ。勝ち組よ、勝ち組」
気晴らしに、負け組を見下してやろうかと思ったけど、やーめた。
せっかく涼しい扇風機、独り占めしてるんだもん。わざわざ、陽の当たる窓際まで行って、アホ男子たちの野球なんて、見る必要、
「次のバッター、きつねかぁ! 打てよー!」
「頼んだぞ、四番ー!」
「みんな、下がれ下がれー! 大バカは、でかいの打ってくるぞ!」
ページをめくっていた手が、とまる。
窓の方を見た。気がつけば、席を立っていた。小走りで近寄って、窓枠をつかんだ。
まぁ、たまには悪くないよね。野球観戦も。
校舎を見下ろした。
足で砂を削って、上から水を撒いただけの、野球場。
グローブはピッチャーとキャッチャーの二人分しかなくて、ボールとバットも一つだけ。
「……なにやってんの、あのバカ」
バッターボックスに、きつねが立っている。予告ホームランのつもりなんだろうか、雲に隠れた太陽めがけて、バットを突き出している。その格好のまま、動かない。
「バカめ! スキありっ!」
ピッチャーの男子が、すかさず第一球を投げる。きつねはそれでも動かず。
ボールはまっすぐ、通り過ぎていく。
「ワンストラーイク!」
「なにやってんだよ、きつねっ!?」
「もったいねー! どまんなかじゃーか!」
「おろかものめっ! 早々に勝負を決めてもつまらんだろう、ふははははっ!」
「…………なによ、それ」
腕を組んで、得意気に高笑いをするきつねを見てるだけで、溜息がこぼれた。期待を裏ぎってくれないバカっぷりに、なんかもう、一気に面倒くさくなった。
「言ってくれるじゃねーか! いくぞ第二球……おりゃー!」
ピッチャー、第二球、投げました。
「うりゃー!」
四番バッター、きつね。きれいな空振りです。
「ツーストラーイク!!」
「どまんなかじゃねーかぁぁ! ヘタクソーーーーっ!」
「タ、タイムッ! お面つけてたら、前が、よくみえぬっ!!」
「アホーーーーーッ!!」
「…………バカ」
今だけは、男子とおんなじ気分。
駄目だもう。見てらんない。
「……勉強しよ」
そう思ったんだけど。でもせめて。
あと一球だけ、見届けたいかな、なんて。
期待なんて、全然してないけど。
きぃーーーーん。
白いボールが、青空のなかを、高く、高く、飛んでった。
みんな、顔を見上げてる。
一人だけ、バットを投げて、駆けだしている、バカが一匹。
きつねが走ってる。とっても速い。
水で書かれた一塁ベースを蹴った時、横顔が見えた。歯をむき出しにして、すごく嬉しそうな顔してる。
「……ずるい」
胸がどきどきする。やっぱり、きつねは、ずるい。
「に……じゃなくて三……えぇい、バックホームっ! 急げ外野っ!!」
焦る声なんて物ともせずに。
きつねが、走る、走る、走る。
一人が帰って、一点追加。その時、きつねはもう、二塁ベースを蹴っていた。
「同点だぁー!」
「急げ急げー! まだ間に合うぞーっ!!」
「おせーよっ! 間に合うもんか!!」
男子たちが、夏の熱さに負けないぐらい、ぎゃーぎゃー叫んでる。
あたしの心も、熱くなる。
窓枠に置いた手が、震えてる。
「……がんばれっ!」
きつねってば、本当に足がはやい。
三塁に着いた時、ちょっと勢いを落として、後ろを振り返った。
ボールはやっと、二塁の側にいた、外野手の男子まで戻ってきたところ。
「きつねー! 戻ってこい、間に合うぞー!」
「わぁってる!!」
迷わず、前へと進む。ランニングホームランまで、あと少し。
きつねに投げられる声援が、どんどん、どんどん、大きくなっていく。
「きたきたきたぁ! 逆転だぁーーーっ!」
「……やったぁ!」
これはもう、絶対間に合ったよね。そう思った時、
「――――キャッチャー! しっかり構えてろっ!!」
空気をつんざくような、鋭い声がした。
その声。きつねの親友、戸田勝也。
弓を引き絞るみたいに、投げ放つ。
ボールがまっすぐ、弾丸みたいな勢いで、飛んでった。
ずばぁぁんっ!
あと、もうちょっと。だったのに。
「うひ~! 手が痺れたぁ!」
ボールが戻ってくる方が、はやかった。
「うっそだろっ!?」
「残念だったな、きつね仮面っ! ちぇすとおおおーーーっ!」
「……わわわわわっ!!」
きつねの足が、たたらを踏む。ばたばた慌てて、必死に踵を返す。
「おそいわっ もらったぁぁっ!」
ボールを持った手が、背中に迫る。もうダメ。追いつかれちゃう。
でも、その時。きつねの右手が、お面に伸びた。
「――――あ」
お祭りの夜を思いだす。
きつねが、凄く怒った声で叫んで、それで、風が舞い飛んだ。あの夜を。
誰にも言わないで。約束して。お母さんに怒られるから。
ちょっと泣きそうな顔になって、耳と尻尾をしょんぼりさせて、そう言った。
「妖怪」っていうおばけが見える、あたしだけが知ってる秘密。
いつも「きつねのおめん」を被ってる、日野光樹の正体は、妖怪「あやかしきつね」。
頭の上から生えた、茶色の耳。半ズボンから零れたしっぽが、ハッキリ見えた。
「とぅっ!」
きつねが、後ろ向きに宙返り。振り向きざまだったのに、綺麗に飛びあがる。
「よっ!」
ボールを持ってた男子の両肩に、手を乗せる。そのままくるんって回る。飛び越えた。
信じられない。ヒトの背中に翼が生えて、空を飛んでるみたいだ。
「はぁっ!」
体操の選手みたいに、びしっと両手を伸ばして、着地する。その場所は、水でひかれたホームベースの真上。
「……んなっ!?」
あれだけ騒いでた男子の声が、その一瞬、綺麗に静まりかえってた。きっと、ぽかーんって、口が半分空いてるに違いない。
四階からでも、男子達の気持ちがわかっちゃう。今みたのが、軽く想像を超えていて、呆気にとられて、言葉がでないんだ。
あたしも、気づいたら、一緒になって叫んでた。
「なにそれーーーー!?」
「なんじゃそりゃああああああああぁぁぁーーー!?」
重なった大きな声の中で、きつねが、お面を外した。
お陽さまみたいに、腕を組んで、眩しく笑う。
「ふははははははっ! 見たか!! これがきつね仮面の力なのだーっ!!」
「ありえねーよ! お前、今、飛んでたぞっ!?」
「このやろー、俺を踏み台にしやがってー!」
「はーっはっはっはっ! きつね仮面に、敗北の二文字はないのだーっ!!」
超得意げに、大笑いしてる。
それを見て、悔しいって思った。あんなの、あたしには真似できないもん。
「……けど」
すごい、すごい、すごいっ!
あれが、あやかしきつね、なんだ。
ちょっと、本当にちょっとだけ、格好良いかもしれない。
(う~~~!)
胸が、もやもやする。
いっつもそうだ。きつねの事を考えてたら、なんか、苦しくなる。
これが、そういうことなのかなって、考えたことはある。でも格好いいところと、格好悪いところを数えていくと、圧倒的に格好悪いところの方が多いわけで。
「……だから、違うんだもん」
うん、やっぱり嫌い。きつねなんて、ただのアホ。
「――――ふー」
大きく深呼吸して、運動場から目を逸らす。さて、勉強に戻らなくっちゃ。そう思って振り返った。それでもまだ、胸がどきどきしてた。
別の意味で。胸がどきどきする。
なんか、いるんだけど。
『やれやれだね。またおめんの力を、無駄に使ったね』
『……母上様、報告……』
『そうだね』
『こぅしゃま、また、ははさまに、おこられる、のー?』
『約束を破ったのは、若様だからね。こればっかりは、仕方ないね』
『かみなりー、ぴかー?』
『かもね』
『こうしゃまー、かぁいそー』
『……南無三』
廊下に、なんか、いるんだけど。
いつもの黒いもやもやは、ほとんどなくって、随分はっきり見えていた。
「なによあいつら……イタチのおばけ?」
山に遠足に行った時、偶然見かけたイタチに、似てる気がする。でも、目の前にいる奴みたいに、窓枠に手を添えて、二本の脚で立ってたり、ヒトの言葉を喋ってたりは、しなかった。当たり前だけど。
『カタナの言う通りだね。若様はいい加減にね、ご自身の立場を弁えてもらわないとね』
小さいのと、ノッポと。ふとっちょ。
全部で三匹。どのイタチの腰元にも、紐で、小さなツボが括りつけてある。どきどきしながらその会話を盗み聞きしてたら、不意に、ふとっちょが、こっちを向いた。
『……姉者』
『ふにゅー?』
『……子供……』
『ほぇー?』
ふとっちょが、あたしを見て、指さした。
それに続いて、小さいのと、背の高いのが、あたしを見る。
「……!」
慌てて後ろを振り返ったけど、図書室には、あたし以外に誰もいない。この階の教室にいた生徒も、みんな帰っちゃったみたいで、し~んとした空気が流れてる。
『みえてぅのー?』
『……』
ふとっちょが、頷いた。
『ヒトの子なのにね。僕達が見えるのですね』
ノッポが、肩に小さいのを乗せて、ゆらゆら、近付いてくる。
ちょっと、やだ、どうしよう――――助けて、きつね。
「なんだよあれ。反則だろ」
「えへへへへっ、残念だったなー、かっつん」
そう言ったけど、実は、ちょっと後ろめたかった。
絶対間に合うと思ったから、だから悔しくって、つい変身してしまったのだ。
あやかしきつねになると、体がすっごく軽くなって、力が沸いてくる。それから、風の流れを自分で操れるようになる。その力を使えば、宙返りするぐらい、朝飯前なのだ。
ヒトの時にはできなかったことも、あやかしきつねになったらできる。
でもやっぱり、皆と一緒に遊ぶ時には、反則だよなぁって思うから、いつもは使わない。それに、絶体絶命のピンチじゃない時にお面を使っちゃうと、母ちゃんに怒られるし。
げんこつで済めばいいんだけど、昨日の父ちゃんみたいに、雷落とされたり、青白い狐火に囲まれたり、おっかないのだ。
お祭りの夜も、やっぱり後で怒られた。
女子を助けるために、仕方がなかったって説明したら、一応わかってもらえたんだけど、げんこつはしっかり、降ってきた。
(……さっきのも、バレたかなー。家から結構離れてるし、どーだろ)
母ちゃんの近くで、お面の力を使ったり、ずーっとお面の力を使って変身し続けてたら、必ずバレる。だけど、さっきは、ほんのちょっと使っただけだったし、大丈夫かな。
「どしたんだ、きつね。あんまり嬉しくなさそうだけど」
「えっ……そ、そんなことないのだっ!」
かっつんは、やっぱり鋭い。
妖怪は見えないんだけど、なんていうか、人が考えてることなんかを、ずばっとあててくるのだ。
「宙返りしたせいで、今さら、気分悪くなったとか言うなよ?」
「大丈夫っ!」
「それならいいんだけどさ。けど、今の格好良かったし、俺も練習してみるかな」
「うむ、修行あるのみなのだっ!」
やっぱり、かっつんはすげーなぁ。かっつんなら、いつか普通にできそう。
でも、俺の本当の耳としっぽは、これからも先、ずっと見えないんだろうなって思う。
見えないヒトには、どうしたって見えない、きつねの耳としっぽ。
あやかしきつねの耳としっぽが見えるヒトは、父ちゃんだけ。そう思ってた。でも最近、そうじゃなくなった。
「水原がなぁ……」
「ん? 水原がどうかしたのか?」
「な、なんでもないっ!」
「なんだよ、お前等、また喧嘩したのか?」
「ちげーよ。なんでもないって言っただろー!」
「へぇ、あやしいなぁ」
かっつんの、にやり。
むむむ、我が親友ながら、本当に鋭い男なのだ。
でも、かっつんは相手が秘密にしてることを、無理に聞きだそうとしたりしない。
そういうとこが、いいとこなんだよなー。とか思ってた時だ。
「――――なにすんのよ、あんた達ーーーっ!!」
『きゅーーーーー!?』
学校の校舎から、女子の悲鳴が聞こえてきた。
聞いた覚えがするなぁって思うのと一緒に、すぐに、一人の女子の顔が浮かんだ。
「なんだ、今の声、水原か?」
「……た、たぶん」
俺たちは、声がした上の方――たぶん、図書室のところを、見上げた。
やばい。今の変身が見られてたら、すっげーやばい。きっと水原は、
「変身したの、あんたのお母さんに、言いつけてやるからね!」
そう言ってくるに違いないのだ。
得意気な様子で、黙ってて欲しかったら、耳とかしっぽとか触らせなさいって、そう言ってくるに違いないのだぁっ!
「……水原っ、恐ろしい女子……!」
「お前らって、簡単そうで、割と複雑だよな」
「えっ、どういうこと?」
かっつんが、またもや、にやりって笑う。
「わからなかったら、聞き流せ。そっちの方が、個人的に面白いから。それにしても水原の奴、あんなとこで、なに騒いでんだ?」
「……さぁ?」
本当、一体どうしたんだろ。
「三匹なら勝てるとか、甘くみてるんじゃないわよーーーっ!!」
『やれやれだね。困ったね』
『……強敵……っ!』
『あーん、こーしゃまぁー!』
あれ、なんか聞いたことのある声がしたような。
(カマイタチ……? 山を降りてきたのか……?)
どたどた、ばたばた。どがしゃん、がっしゃん。ばごーーんっ!
『あーん、やめてぇ~!』
『敵わないね。姉者、カタナ、撤退ですね』
『……無念……っ!』
他の皆には、水原一人の声しか、聞こえてない。だけど俺にはしっかり、三匹の妖怪の声も、聞こえてた。
水原も、普段は黒い「もやもや」がぼんやり見えるだけで、はっきりとは見えてないはずなんだけど。
「どしたんだ、水原のやつ」
「ゴキブリでも、でたんじゃねーの」
「げぇ~、三匹もかよっ!?」
「―――三匹まとめて! 全部で九枚おろしにしてやるっ!!」
『たべちゃだめーーっ!!』
開いた図書室の窓から、三匹の妖怪「カマイタチ」の姿が見えた。
少し遅れて、窓から顔をだした水原も。
『こーしゃまー!!』
三匹の妖怪が、上手に風に乗って、落ちてくる。
木の葉が落ちてくるみたいに、ふわふわ揺れて、それでもしっかり、一番小さなカマイタチが、俺の肩に乗っかった。
『こーしゃま、あいたかったのー!!』
「ナギ、久し振りなのだ」
『えへー!』
それから、ノッポのカマイタチと、ちょっと太ったカマイタチ。
俺の足元近くに着地する。
皆にバレないように、小声でこっそり、
「タチ、カタナ、久しぶりなのだ」
『若様、お久し振りですね。さきほどはね、あぶないところでしたね』
『……危機、回避……』
カマイタチの三匹は、俺が小学生にあがった頃から知ってる、仲の良い妖怪だ。
俺や母ちゃんが従えてるわけじゃないんだけど、時々こうやって、遊びにきてくれる。
「―――きつねっ! なんなのよ、そいつらっ!」
でも今は、懐かしいなって思う暇がない。
「きつねっ! そいつらと一緒に、じっとしてなさいよっ!!」
言って、水原が、ずだだだだーっと廊下を走っていくのが見えた。
いつもは、男子に廊下を走るなって言ってる癖に、ずるい。
皆の眼が一斉に、俺んとこに集まった。
「なになに、どったの、きつね?」
「水原、なんで怒ってるんだ?」
「お前、またなんかやらかしたのかー?」
「えーと……なんのことか、ぜんぜんわからないのだ」
「嘘つけよ」
「ウソだなー」
「お前、わかりやすー」
うーん、困ったのだ。
嘘はよくないって思うけど、こういう時、上手に嘘がつけたらなーって、ちょっと思う。
水原につれられて、体育館の水飲み場までつれてこられた。
野球の続きをやってる運動場は、最後の九回表に入ったところ。試合は、とっても盛り上がってる。
「戸田ぁー、打てよー!」
最初のバッターは、かっつんだ。
かっつんは親友なんだけど、俺の生涯の手強いライバルでもある。
点差は、一点。かっつんなら、打つだろうなぁ。
かきーん!
とか思ってたら、やっぱりなのだ。
第一球を、いきなり狙い撃ち。ボールが、空の中を、すっげぇ勢いで飛んでいく。
外野は充分に下がってたんだけど、それでも届かなくて、大急ぎでボールを追いかける。俺が打ったときよりも、ずっと遠くに飛ばしてる。むむむー、悔しいけど、さすがなのだ。
「すげー! やっぱお前すげーな、戸田!」
「こりゃー、一点もらったなー!」
かっつんは、ジョギングでもするような感じで、ゆっくりホームベースを踏みつける。せっかく逆転してたのに、また、あっという間に同点だ。
「おのれ~! 俺が守ってたら、絶対にホームまで戻さなかったのだ~!」
まだ、九回の裏がある。
今すぐにでも戻って、三人抑えて、今度は俺が、かっつんもびっくりするぐらいの、大ホームランを打ってやりたいー!
「はいはい、こっち、ちゅうもーく」
「わふっ!? いたたたたっ!!」
運動場の方ばっかり見てたら、水原に頭の上の耳を引っ張られた。妖怪が見えてない人なら、頭の上の耳とか、しっぽとか、触られてもなんともないんだけどなー。
「ひっぱることないだろー……」
水原の方を、振り返る。
きっとまた、怒った顔して、睨まれるんだろうなって、思ったんだけど。
「ねぇ、きつね」
違った。なんか、すっごく楽しそうな顔で、にっこり笑って、こっちを見てた。
普段、怒ってる顔ばっかりだから、逆に、笑った顔が妙に怖いのだ。
背中が、ぞくぞくする。
「ほら、白状しなさいよ。そこの三匹のこと」
「……えーと」
水原が俺の肩に乗ってるナギ、それから左右の足下にいる、タチとカタナを指差した。
「やっぱ、見えてんの?」
「うん。腰に小さな壷を縛りつけてる、イタチみたいなのが、三匹でしょ」
「……えっ? 黒いもやもやじゃなくって? はっきり見えちゃってんの?」
「うん、ばっちりよ」
水原が頷いた。
俺と母ちゃん以外で、妖怪を見えるやつって、初めてだ。ちょっと、どきどきする。
今までは、妖怪の姿が見えるヒトを、父ちゃんしか知らなかった。その父ちゃんも、俺と母ちゃんの耳としっぽは見えてるんだけど、ほかの妖怪になると、やっぱり黒いもやもやの煙にしか、見えてない。
だから、水原が初めてだった。
初めて、ヒトと一緒に、同じ妖怪の姿を見ていた。
「そこの三匹、妖怪なんでしょ?」
「えーっと……」
うんって言おうとしたんだけど、ちょっと困った。母ちゃんから、妖怪が見えることは、言っちゃダメって、釘を刺されてるのだ。
約束を破ったら怒られる。だけど水原は、もう見えちゃってるしなぁ。
『若様』
悩んでたら、左足のとこにいた、ノッポのタチが言った。
『今更ね、隠す事もないでしょうね。素直に言ってもね、よろしいと思いますね』
「そうよ。また嘘ついたら、許さないんだから」
「水原、タチの声も、聞こえてんの?」
「一字一句、筒抜けよ」
「おぉー」
水原のやつ、本当に、妖怪が見えてんだ。
今まで母ちゃん以外に、妖怪のことで、話をしたことなんてなかった。
妖怪が見えることは、絶対秘密。でも、秘密じゃなくしたところで、誰にも信じてもらえない。それは、ちょっと、寂しい。
「そっかー、嬉しいなー」
「えっ?」
「妖怪のこと。ヒトで見える奴って、水原以外に、いなかったのだ」
「……そうなの?」
「うん、俺の母ちゃんは見えるんだけどさ、母ちゃんは俺とおんなじで、普通のヒトじゃないしなー」
「あやかしきつね、なのよね」
「うん」
頷いた時だった。
『……こーしゃま。それも、おはなし、しちゃったのー?』
肩に乗ってたナギが、黒い瞳をちょっと細めて、こっちを見てる。
しまった、余計なこと、言っちゃった。
「ち、違うのだ! 一番の秘密は、言ってないのだ……!」
「一番の秘密? なによそれ、あんた、まだなにか隠してるの?」
「ち、ち、ち、違うのだぞ!? 正義の味方に、隠し事なんてないのだぞ!?」
『……こーしゃま……』
一人と三匹。
全部で八つの黒い目が、俺のことをじーっと睨んでくる。冷や汗だらだら。
『こーしゃま、うそにがてなのー』
『相変わらずね、若様はね。墓穴を掘るのが上手ですね』
『……不変』
もふーって、三匹の溜息が重なった。
「あんたってば、妖怪にもアホ扱いされてるのねー」
「むぅ……」
ちょっと悔しいけど、言い返せないのだ。
また母ちゃんに怒られるなぁ、おやつ抜きは嫌だなぁ。しょんぼりしてたら、水原もちょっと困った顔をした。
「べ、べつに、無理に秘密を聞いたりしないからっ! あたしだって、一番の秘密は言えないもん!」
なんでかしらないけど、今日の水原は、とっても機嫌がいいみたいだ。
笑ったり、怒ったり、赤くなったり、忙しそう。
「そ、そろそろ、自己紹介してもいいかしら? あたしは、水原幸っていうの。背の高いのはさっき聞いたから。反対側の足にいるふとっちょと、肩に乗ってるちびっちゃいのは、なんて名前?」
『……太……違』
『ナギ、ちびじゃないー! おねえさんー!』
「あー、はいはい。あんたはナギっていうのね。無口の太っちょは?」
『……刀』
「ナギに、タチに、カタナか。よろしくねっ!」
そう言って、もう一度笑う。
いつもそんな顔してたら、かわいいのになぁって、ちょっと思った。
「それで、この三匹って、なんていう妖怪なの?」
「カマイタチっていうのだ。知ってる?」
「本で見たことあるかも。確か、転ばせて、斬って、薬塗って、治すんでしょ?」
「妖怪の本に書いてあるのは、そうなんだけど。こいつらは、ちょっと違うのだ」
『そーなのー!』
肩にいるナギが、二つの足で立ちあがる。水原みたいに両腕を組んで、えっへんって、威張ってみせた。
『ナギたちー! せーぎのよーかいー!』
『僕たちはね、鎌は薬草を取る時しかね、使いませんね』
『……我等、薬師……』
「お薬屋さん?」
「うん。三匹とも、薬を扱ってるのだ」
『得意の分野は違いますけどね。捻挫とかね、打ち身とかのお薬はね、僕に任せてくださいですね』
『ナギのおくすりー、おはだ、しゅべしゅべー!』
『……切傷、火傷、水膨れ……』
「便利で、人畜無害な妖怪か……ねぇ、きつね、ちょっと相談があるんだけど」
水原が、とっても楽しそうな笑顔のまま、聞いてくる。
なんか、その相談って、絶対に断れない気がするんだけど。
「どれか一匹、ちょっと貸して♪」
「……え?」
「あたし、マンションだから、ペット禁止なのよ。でも妖怪なら誰にも見えないでしょ。だからお願い、一日だけ」
「そ、そ、そ、そんなこと言われても……困るのだ……っ!」
「ふ~ん、でも貸してくれなかったら、もっと困るかもしれないわよ?」
「な、なんで?」
怖いのだ。水原の笑顔が、とっても怖いのだ。
これならまだ、普通に怒ってた方が、いいかもしんない。
「あんたのお母さんに、ぜ~んぶ、言っちゃおうかな?」
「……!!」
鬼だ。鬼がいるのだ。
尖った角が頭のてっぺんに生えてるのを、隠してるに違いないのだっ!
「ほらほら、どうすんのよ?」
「うー……」
俺は、母ちゃんにバレたらマズそうなことを、頭のなかで並べてた。
野球の試合の時に、きつねのお面をつけたこと。
この前のお祭りで、妖怪の耳としっぽが、水原にバレちゃったこと。
それからもう一つ、一番大事な秘密を、言いそうになったこと。
一度に全部バレたら、雷程度じゃすまない。
お菓子を一ヶ月禁止、いや、一年間禁止令が、発動するかもしれないっ!
「お、俺は……! お菓子を食べなくては、生きていけないのだ……っ!」
「大袈裟ねー。ほら、どの子を貸すか、決めちゃって」
「うぅ……っ!」
どうしよう。本当に困って、足下のタチとカタナをみた途端、顔を逸らされてしまう。
『お断りですね』
『……拒否』
絶対絶命のピンチ!
残るは、肩に乗ってるナギだけど。
「……わかったのだ。ここは潔く、母ちゃんに怒られるのだ……」
「えーっ?」
水原が顔をしかめる。怒った顔もやっぱり怖いけど、仕方ない。
「正義の味方は、仲間を裏切らないのだっ!」
「なによ、それ。あたしが悪者みたいじゃない」
「えっ……悪者じゃないの――――いたい、いたい、いたいのだー!」
耳を、むぎゅーって引っ張られる。
なんとか水原の手を外そうとした時、
『けんか、めー!』
「……いたっ!」
ナギが、水原の手の甲に、噛みついた。
しっぽをふりふりして、威嚇する。
『ナギが、いきましゅ。だから、けんかしちゃ、めー!』
「よくもやってくれたわねっ! ちっちゃいのっ!」
『ちっちゃくないもんー!』
おぉっ、なんか、火花が散ってる。
『さちしゃん。なぎがいくから、こーさまいじめちゃ、めー』
「仕方ないわねー」
『でもぅ、さんまいおろしー、は、いやですよー』
「おとなしくしてたら、そんなことしないわよ」
『じゃ、いくですー』
「ま、待つのだっ!」
『姉様!』
俺と残りの二匹が、慌ててナギを止めにかかる。
「やめるのだ! ナギ! 行ったら丸焼きにされちゃうぞっ!」
『姉様、この女子はね、なんかさらっとね、凄いことをやっちゃいそうですよね』
『……危険、危険、危険……!』
「うるっさいわね、あんたたち! あたしの家に来てもらう以上、お客様なんだから! そんなことしないわよっ!」
『そーでしゅ。しんぱいすること、ないです、のー』
ナギが、水原の肩に飛び移る。
すりすり頬を寄せると、水原の怒ってた顔が、緩んだ。くすぐったそうな顔で、笑う。
「あはっ、かわいー」
ナギが頭を撫でられて、気持ち良さそうに、目を閉じる。
「それじゃ、一日だけ、遊びに来てくれる?」
『はーい』
なんでかしらないけど、ナギは、水原のことを気に入ったみたいだった。その証拠に、しっぽがゆらゆら、嬉しそうに揺れてるのがわかる。
『嗚呼、姉様……今生のね、別れにね、なるかもしれませんね……』
『……哀……』
「水原、ぜったい食べちゃダメだぞ」
「あんたと一緒にしないでってば。食べないわよ」
「本当に?」
「本当だってば。あんた、あたしをなんだと思ってんのよ」
『こーしゃま、だいじょーぶー。たべられそーになったら、にげましゅー』
ナギが決めちゃっなら、仕方ない。
ちょうど、運動場の方からも「ゲームセット!」って声が聞こえてきた。喜んでるチームの顔を見る限り、俺のチームは、負けちゃったみたいなのだ。
「じゃあ、きつね。明日の一時に、学校の正門前に来れる?」
「わかったのだ。お昼ごはん食べたら、迎えにいくのだ」
「うん。それじゃ、また明日ね」
それから、水原はナギを肩に乗せて、帰っていった。そういえば、水原と「また明日」って言ったのは、初めてだったかもしんないなー。
「えへへへへっ、残念だったなー、かっつん」
そう言ったけど、実は、ちょっと後ろめたかった。
絶対間に合うと思ったから、だから悔しくって、つい変身してしまったのだ。
あやかしきつねになると、体がすっごく軽くなって、力が沸いてくる。それから、風の流れを自分で操れるようになる。その力を使えば、宙返りするぐらい、朝飯前なのだ。
ヒトの時にはできなかったことも、あやかしきつねになったらできる。
でもやっぱり、皆と一緒に遊ぶ時には、反則だよなぁって思うから、いつもは使わない。それに、絶体絶命のピンチじゃない時にお面を使っちゃうと、母ちゃんに怒られるし。
げんこつで済めばいいんだけど、昨日の父ちゃんみたいに、雷落とされたり、青白い狐火に囲まれたり、おっかないのだ。
お祭りの夜も、やっぱり後で怒られた。
女子を助けるために、仕方がなかったって説明したら、一応わかってもらえたんだけど、げんこつはしっかり、降ってきた。
(……さっきのも、バレたかなー。家から結構離れてるし、どーだろ)
母ちゃんの近くで、お面の力を使ったり、ずーっとお面の力を使って変身し続けてたら、必ずバレる。だけど、さっきは、ほんのちょっと使っただけだったし、大丈夫かな。
「どしたんだ、きつね。あんまり嬉しくなさそうだけど」
「えっ……そ、そんなことないのだっ!」
かっつんは、やっぱり鋭い。
妖怪は見えないんだけど、なんていうか、人が考えてることなんかを、ずばっとあててくるのだ。
「宙返りしたせいで、今さら、気分悪くなったとか言うなよ?」
「大丈夫っ!」
「それならいいんだけどさ。けど、今の格好良かったし、俺も練習してみるかな」
「うむ、修行あるのみなのだっ!」
やっぱり、かっつんはすげーなぁ。かっつんなら、いつか普通にできそう。
でも、俺の本当の耳としっぽは、これからも先、ずっと見えないんだろうなって思う。
見えないヒトには、どうしたって見えない、きつねの耳としっぽ。
あやかしきつねの耳としっぽが見えるヒトは、父ちゃんだけ。そう思ってた。でも最近、そうじゃなくなった。
「水原がなぁ……」
「ん? 水原がどうかしたのか?」
「な、なんでもないっ!」
「なんだよ、お前等、また喧嘩したのか?」
「ちげーよ。なんでもないって言っただろー!」
「へぇ、あやしいなぁ」
かっつんの、にやり。
むむむ、我が親友ながら、本当に鋭い男なのだ。
でも、かっつんは相手が秘密にしてることを、無理に聞きだそうとしたりしない。
そういうとこが、いいとこなんだよなー。とか思ってた時だ。
「――――なにすんのよ、あんた達ーーーっ!!」
『きゅーーーーー!?』
学校の校舎から、女子の悲鳴が聞こえてきた。
聞いた覚えがするなぁって思うのと一緒に、すぐに、一人の女子の顔が浮かんだ。
「なんだ、今の声、水原か?」
「……た、たぶん」
俺たちは、声がした上の方――たぶん、図書室のところを、見上げた。
やばい。今の変身が見られてたら、すっげーやばい。きっと水原は、
「変身したの、あんたのお母さんに、言いつけてやるからね!」
そう言ってくるに違いないのだ。
得意気な様子で、黙ってて欲しかったら、耳とかしっぽとか触らせなさいって、そう言ってくるに違いないのだぁっ!
「……水原っ、恐ろしい女子……!」
「お前らって、簡単そうで、割と複雑だよな」
「えっ、どういうこと?」
かっつんが、またもや、にやりって笑う。
「わからなかったら、聞き流せ。そっちの方が、個人的に面白いから。それにしても水原の奴、あんなとこで、なに騒いでんだ?」
「……さぁ?」
本当、一体どうしたんだろ。
「三匹なら勝てるとか、甘くみてるんじゃないわよーーーっ!!」
『やれやれだね。困ったね』
『……強敵……っ!』
『あーん、こーしゃまぁー!』
あれ、なんか聞いたことのある声がしたような。
(カマイタチ……? 山を降りてきたのか……?)
どたどた、ばたばた。どがしゃん、がっしゃん。ばごーーんっ!
『あーん、やめてぇ~!』
『敵わないね。姉者、カタナ、撤退ですね』
『……無念……っ!』
他の皆には、水原一人の声しか、聞こえてない。だけど俺にはしっかり、三匹の妖怪の声も、聞こえてた。
水原も、普段は黒い「もやもや」がぼんやり見えるだけで、はっきりとは見えてないはずなんだけど。
「どしたんだ、水原のやつ」
「ゴキブリでも、でたんじゃねーの」
「げぇ~、三匹もかよっ!?」
「―――三匹まとめて! 全部で九枚おろしにしてやるっ!!」
『たべちゃだめーーっ!!』
開いた図書室の窓から、三匹の妖怪「カマイタチ」の姿が見えた。
少し遅れて、窓から顔をだした水原も。
『こーしゃまー!!』
三匹の妖怪が、上手に風に乗って、落ちてくる。
木の葉が落ちてくるみたいに、ふわふわ揺れて、それでもしっかり、一番小さなカマイタチが、俺の肩に乗っかった。
『こーしゃま、あいたかったのー!!』
「ナギ、久し振りなのだ」
『えへー!』
それから、ノッポのカマイタチと、ちょっと太ったカマイタチ。
俺の足元近くに着地する。
皆にバレないように、小声でこっそり、
「タチ、カタナ、久しぶりなのだ」
『若様、お久し振りですね。さきほどはね、あぶないところでしたね』
『……危機、回避……』
カマイタチの三匹は、俺が小学生にあがった頃から知ってる、仲の良い妖怪だ。
俺や母ちゃんが従えてるわけじゃないんだけど、時々こうやって、遊びにきてくれる。
「―――きつねっ! なんなのよ、そいつらっ!」
でも今は、懐かしいなって思う暇がない。
「きつねっ! そいつらと一緒に、じっとしてなさいよっ!!」
言って、水原が、ずだだだだーっと廊下を走っていくのが見えた。
いつもは、男子に廊下を走るなって言ってる癖に、ずるい。
皆の眼が一斉に、俺んとこに集まった。
「なになに、どったの、きつね?」
「水原、なんで怒ってるんだ?」
「お前、またなんかやらかしたのかー?」
「えーと……なんのことか、ぜんぜんわからないのだ」
「嘘つけよ」
「ウソだなー」
「お前、わかりやすー」
うーん、困ったのだ。
嘘はよくないって思うけど、こういう時、上手に嘘がつけたらなーって、ちょっと思う。
水原につれられて、体育館の水飲み場までつれてこられた。
野球の続きをやってる運動場は、最後の九回表に入ったところ。試合は、とっても盛り上がってる。
「戸田ぁー、打てよー!」
最初のバッターは、かっつんだ。
かっつんは親友なんだけど、俺の生涯の手強いライバルでもある。
点差は、一点。かっつんなら、打つだろうなぁ。
かきーん!
とか思ってたら、やっぱりなのだ。
第一球を、いきなり狙い撃ち。ボールが、空の中を、すっげぇ勢いで飛んでいく。
外野は充分に下がってたんだけど、それでも届かなくて、大急ぎでボールを追いかける。俺が打ったときよりも、ずっと遠くに飛ばしてる。むむむー、悔しいけど、さすがなのだ。
「すげー! やっぱお前すげーな、戸田!」
「こりゃー、一点もらったなー!」
かっつんは、ジョギングでもするような感じで、ゆっくりホームベースを踏みつける。せっかく逆転してたのに、また、あっという間に同点だ。
「おのれ~! 俺が守ってたら、絶対にホームまで戻さなかったのだ~!」
まだ、九回の裏がある。
今すぐにでも戻って、三人抑えて、今度は俺が、かっつんもびっくりするぐらいの、大ホームランを打ってやりたいー!
「はいはい、こっち、ちゅうもーく」
「わふっ!? いたたたたっ!!」
運動場の方ばっかり見てたら、水原に頭の上の耳を引っ張られた。妖怪が見えてない人なら、頭の上の耳とか、しっぽとか、触られてもなんともないんだけどなー。
「ひっぱることないだろー……」
水原の方を、振り返る。
きっとまた、怒った顔して、睨まれるんだろうなって、思ったんだけど。
「ねぇ、きつね」
違った。なんか、すっごく楽しそうな顔で、にっこり笑って、こっちを見てた。
普段、怒ってる顔ばっかりだから、逆に、笑った顔が妙に怖いのだ。
背中が、ぞくぞくする。
「ほら、白状しなさいよ。そこの三匹のこと」
「……えーと」
水原が俺の肩に乗ってるナギ、それから左右の足下にいる、タチとカタナを指差した。
「やっぱ、見えてんの?」
「うん。腰に小さな壷を縛りつけてる、イタチみたいなのが、三匹でしょ」
「……えっ? 黒いもやもやじゃなくって? はっきり見えちゃってんの?」
「うん、ばっちりよ」
水原が頷いた。
俺と母ちゃん以外で、妖怪を見えるやつって、初めてだ。ちょっと、どきどきする。
今までは、妖怪の姿が見えるヒトを、父ちゃんしか知らなかった。その父ちゃんも、俺と母ちゃんの耳としっぽは見えてるんだけど、ほかの妖怪になると、やっぱり黒いもやもやの煙にしか、見えてない。
だから、水原が初めてだった。
初めて、ヒトと一緒に、同じ妖怪の姿を見ていた。
「そこの三匹、妖怪なんでしょ?」
「えーっと……」
うんって言おうとしたんだけど、ちょっと困った。母ちゃんから、妖怪が見えることは、言っちゃダメって、釘を刺されてるのだ。
約束を破ったら怒られる。だけど水原は、もう見えちゃってるしなぁ。
『若様』
悩んでたら、左足のとこにいた、ノッポのタチが言った。
『今更ね、隠す事もないでしょうね。素直に言ってもね、よろしいと思いますね』
「そうよ。また嘘ついたら、許さないんだから」
「水原、タチの声も、聞こえてんの?」
「一字一句、筒抜けよ」
「おぉー」
水原のやつ、本当に、妖怪が見えてんだ。
今まで母ちゃん以外に、妖怪のことで、話をしたことなんてなかった。
妖怪が見えることは、絶対秘密。でも、秘密じゃなくしたところで、誰にも信じてもらえない。それは、ちょっと、寂しい。
「そっかー、嬉しいなー」
「えっ?」
「妖怪のこと。ヒトで見える奴って、水原以外に、いなかったのだ」
「……そうなの?」
「うん、俺の母ちゃんは見えるんだけどさ、母ちゃんは俺とおんなじで、普通のヒトじゃないしなー」
「あやかしきつね、なのよね」
「うん」
頷いた時だった。
『……こーしゃま。それも、おはなし、しちゃったのー?』
肩に乗ってたナギが、黒い瞳をちょっと細めて、こっちを見てる。
しまった、余計なこと、言っちゃった。
「ち、違うのだ! 一番の秘密は、言ってないのだ……!」
「一番の秘密? なによそれ、あんた、まだなにか隠してるの?」
「ち、ち、ち、違うのだぞ!? 正義の味方に、隠し事なんてないのだぞ!?」
『……こーしゃま……』
一人と三匹。
全部で八つの黒い目が、俺のことをじーっと睨んでくる。冷や汗だらだら。
『こーしゃま、うそにがてなのー』
『相変わらずね、若様はね。墓穴を掘るのが上手ですね』
『……不変』
もふーって、三匹の溜息が重なった。
「あんたってば、妖怪にもアホ扱いされてるのねー」
「むぅ……」
ちょっと悔しいけど、言い返せないのだ。
また母ちゃんに怒られるなぁ、おやつ抜きは嫌だなぁ。しょんぼりしてたら、水原もちょっと困った顔をした。
「べ、べつに、無理に秘密を聞いたりしないからっ! あたしだって、一番の秘密は言えないもん!」
なんでかしらないけど、今日の水原は、とっても機嫌がいいみたいだ。
笑ったり、怒ったり、赤くなったり、忙しそう。
「そ、そろそろ、自己紹介してもいいかしら? あたしは、水原幸っていうの。背の高いのはさっき聞いたから。反対側の足にいるふとっちょと、肩に乗ってるちびっちゃいのは、なんて名前?」
『……太……違』
『ナギ、ちびじゃないー! おねえさんー!』
「あー、はいはい。あんたはナギっていうのね。無口の太っちょは?」
『……刀』
「ナギに、タチに、カタナか。よろしくねっ!」
そう言って、もう一度笑う。
いつもそんな顔してたら、かわいいのになぁって、ちょっと思った。
「それで、この三匹って、なんていう妖怪なの?」
「カマイタチっていうのだ。知ってる?」
「本で見たことあるかも。確か、転ばせて、斬って、薬塗って、治すんでしょ?」
「妖怪の本に書いてあるのは、そうなんだけど。こいつらは、ちょっと違うのだ」
『そーなのー!』
肩にいるナギが、二つの足で立ちあがる。水原みたいに両腕を組んで、えっへんって、威張ってみせた。
『ナギたちー! せーぎのよーかいー!』
『僕たちはね、鎌は薬草を取る時しかね、使いませんね』
『……我等、薬師……』
「お薬屋さん?」
「うん。三匹とも、薬を扱ってるのだ」
『得意の分野は違いますけどね。捻挫とかね、打ち身とかのお薬はね、僕に任せてくださいですね』
『ナギのおくすりー、おはだ、しゅべしゅべー!』
『……切傷、火傷、水膨れ……』
「便利で、人畜無害な妖怪か……ねぇ、きつね、ちょっと相談があるんだけど」
水原が、とっても楽しそうな笑顔のまま、聞いてくる。
なんか、その相談って、絶対に断れない気がするんだけど。
「どれか一匹、ちょっと貸して♪」
「……え?」
「あたし、マンションだから、ペット禁止なのよ。でも妖怪なら誰にも見えないでしょ。だからお願い、一日だけ」
「そ、そ、そ、そんなこと言われても……困るのだ……っ!」
「ふ~ん、でも貸してくれなかったら、もっと困るかもしれないわよ?」
「な、なんで?」
怖いのだ。水原の笑顔が、とっても怖いのだ。
これならまだ、普通に怒ってた方が、いいかもしんない。
「あんたのお母さんに、ぜ~んぶ、言っちゃおうかな?」
「……!!」
鬼だ。鬼がいるのだ。
尖った角が頭のてっぺんに生えてるのを、隠してるに違いないのだっ!
「ほらほら、どうすんのよ?」
「うー……」
俺は、母ちゃんにバレたらマズそうなことを、頭のなかで並べてた。
野球の試合の時に、きつねのお面をつけたこと。
この前のお祭りで、妖怪の耳としっぽが、水原にバレちゃったこと。
それからもう一つ、一番大事な秘密を、言いそうになったこと。
一度に全部バレたら、雷程度じゃすまない。
お菓子を一ヶ月禁止、いや、一年間禁止令が、発動するかもしれないっ!
「お、俺は……! お菓子を食べなくては、生きていけないのだ……っ!」
「大袈裟ねー。ほら、どの子を貸すか、決めちゃって」
「うぅ……っ!」
どうしよう。本当に困って、足下のタチとカタナをみた途端、顔を逸らされてしまう。
『お断りですね』
『……拒否』
絶対絶命のピンチ!
残るは、肩に乗ってるナギだけど。
「……わかったのだ。ここは潔く、母ちゃんに怒られるのだ……」
「えーっ?」
水原が顔をしかめる。怒った顔もやっぱり怖いけど、仕方ない。
「正義の味方は、仲間を裏切らないのだっ!」
「なによ、それ。あたしが悪者みたいじゃない」
「えっ……悪者じゃないの――――いたい、いたい、いたいのだー!」
耳を、むぎゅーって引っ張られる。
なんとか水原の手を外そうとした時、
『けんか、めー!』
「……いたっ!」
ナギが、水原の手の甲に、噛みついた。
しっぽをふりふりして、威嚇する。
『ナギが、いきましゅ。だから、けんかしちゃ、めー!』
「よくもやってくれたわねっ! ちっちゃいのっ!」
『ちっちゃくないもんー!』
おぉっ、なんか、火花が散ってる。
『さちしゃん。なぎがいくから、こーさまいじめちゃ、めー』
「仕方ないわねー」
『でもぅ、さんまいおろしー、は、いやですよー』
「おとなしくしてたら、そんなことしないわよ」
『じゃ、いくですー』
「ま、待つのだっ!」
『姉様!』
俺と残りの二匹が、慌ててナギを止めにかかる。
「やめるのだ! ナギ! 行ったら丸焼きにされちゃうぞっ!」
『姉様、この女子はね、なんかさらっとね、凄いことをやっちゃいそうですよね』
『……危険、危険、危険……!』
「うるっさいわね、あんたたち! あたしの家に来てもらう以上、お客様なんだから! そんなことしないわよっ!」
『そーでしゅ。しんぱいすること、ないです、のー』
ナギが、水原の肩に飛び移る。
すりすり頬を寄せると、水原の怒ってた顔が、緩んだ。くすぐったそうな顔で、笑う。
「あはっ、かわいー」
ナギが頭を撫でられて、気持ち良さそうに、目を閉じる。
「それじゃ、一日だけ、遊びに来てくれる?」
『はーい』
なんでかしらないけど、ナギは、水原のことを気に入ったみたいだった。その証拠に、しっぽがゆらゆら、嬉しそうに揺れてるのがわかる。
『嗚呼、姉様……今生のね、別れにね、なるかもしれませんね……』
『……哀……』
「水原、ぜったい食べちゃダメだぞ」
「あんたと一緒にしないでってば。食べないわよ」
「本当に?」
「本当だってば。あんた、あたしをなんだと思ってんのよ」
『こーしゃま、だいじょーぶー。たべられそーになったら、にげましゅー』
ナギが決めちゃっなら、仕方ない。
ちょうど、運動場の方からも「ゲームセット!」って声が聞こえてきた。喜んでるチームの顔を見る限り、俺のチームは、負けちゃったみたいなのだ。
「じゃあ、きつね。明日の一時に、学校の正門前に来れる?」
「わかったのだ。お昼ごはん食べたら、迎えにいくのだ」
「うん。それじゃ、また明日ね」
それから、水原はナギを肩に乗せて、帰っていった。そういえば、水原と「また明日」って言ったのは、初めてだったかもしんないなー。
あたしは、お母さんと住んでるマンションに戻ってきた。
『ここー、さちしゃんのおうちー?』
肩に乗ってるカマイタチが、こっちを見上げてくる。帰る途中、何人かとすれ違ったけど、誰もこの子に気がついた様子はなかった。
ナギっていう妖怪は、やっぱりあたしと、きつねにしか、見えてないみたい。
『ひの、ふの、みー。よん、かいー!』
「言っとくけど、全部あたしの家じゃないわよ。このなかの、一部屋だけだからね」
ナギが、どれぐらいヒトのことを知っているかわかんない。けど、今の様子だと、家を大豪邸と勘違いしているみたいだから、一応釘をさしておく。
『じゃあ、みんなの、おうちー?』
「そういうこと」
間違ってはいないので、一応、それで良しにする。
「えーと、鍵は……っと」
学校の鞄から、家の鍵をとりだした。
今日は月曜日。時間は、お昼を少し回ったところ。朝ごはんを食べてから、なにも口にしてないから、お腹空いたなぁ。
(お母さんも今頃、職場で、お昼ごはん食べてるのかな)
それでも、もしかしたら。
毎日、心のどこかで、期待してる。
先にお母さんが、家に帰ってるかもしれないって。
この玄関の扉を開けたら、廊下を歩く音が近づいてきて、
「おかえり、幸」
そう言ってくれるかもしれない。だから。
家に帰って、玄関を開けた時、あたしは、必ず言うんだ。
「ただいまー……」
でもやっぱり、返事はなくて。
こんな時間に、お母さんが家に帰ってないってことぐらい、わかってる。
わかってるって思って、ちょっと寂しくなる。
「……」
夏休みなんて、いらない。
一人でいる時間が増えるだけじゃない。
『おかえりなしゃーい!』
「……え?」
あたしの肩から、ナギが、飛び跳ねた。
玄関の靴入れの上に降りる。木彫りの熊の横に置かれた、小さな妖怪イタチ。
こっちを見てる。しっぽを振って、笑ってた。
『ここー、さちしゃんのおうち、ねー?』
「う、うん」
『じゃあ、おかえりー!』
胸が熱くなる。この前の、お祭りの「もやもや」は、怖いだけだったのに。
優しい妖怪も、いるんだなぁ。
体が、ぽかぽかしてくる。なんだか嬉しいな。こういうの。
「――ただいま、ナギ」
今までずっと、おばけっていうだけで、見ないフリをしてきた。でも、きつねっていう男子のせいで、少しずつ、心が変わっていった。
今のあたしは、妖怪のことを、もっと知りたいって想ってる。
まだちょっと怖いけどね。それでもね。
妖怪と、仲良くなれたらいいな。
家に帰ってから、持っていた手提げ鞄を部屋に置いて、流しの前に立つ。エプロンをつけて振りかえると、テーブルの上で辺りを見回してる、ナギが目に留まった。
「ナギ、ごはん作るけど、食べる?」
『たべましゅー!』
大きな黒い瞳を輝かせて、びしっ! と右手をあげる。
何気なく時計を見ると、もうすぐ一時だ。
油断してると、お腹の音が鳴っちゃいそうで困る。今日は学校の給食がなかったから、もうお腹ペコペコ。まぁ、朝礼と掃除しかなかったから、仕方ない。図書室に居残ってたり、きつね達の野球を見ていて、帰りが遅くなったせいだ。
「うーん……」
『すずしー!』
冷蔵庫を開けて、中をじーっと見てたら、いつのまにか足元に、ナギがいる。
そういえば、妖怪って、なに食べるんだろ。
「ナギってさ、食べられないものとか、ある?」
『たべられない、ものー?』
「普通のイタチなら肉食だと思うけど……チーズとかは、無理?」
『ちーず?』
「これなんだけど」
真っ先に目についた、スライスチーズ。
封を切って、机の上に置く。
『……きゅー?』
ナギが、床から机の上に、ひとっ飛び。机の上に置いたチーズを、小さな鼻を動かして「ふんふんふん……」って様子を見てる。なんか、普通の動物っぽい。あっ、食べた。
『はうーっ!?』
「ど、どうしたの?」
『はぐはぐはぐーっ!!』
急に大きな声をだすから慌てたのに。
ナギは、夢中になって、チーズを食べ始めた。気に入ったみたいだ。小さな頭を撫でてあげると、嬉しそうに、鼻を寄せてくれる。
『さちしゃーん! これ、おい、しー!』
「乳製品は、大丈夫なんだね。他に、食べられないもの、ない?」
『たべられない、ものー?』
「なにかあるなら、先に言ってね。って言っても、お母さんがいない時は、火を使った料理をするのはダメだから。たいした物は作れないけどね」
『そうなんでしゅかー?』
「うん、お母さんとの約束だから。というわけで、朝の残りのお味噌汁と、野菜炒め、レンジで温めるぐらいになっちゃうけど、それでいい?」
『たべられないものー、たべられないものー?』
ナギが、随分唸ってる。気軽に聞いただけなんだけど。
頭を撫でて待ってたら、突然思いだしたように、顔をあげた。
『さちしゃん、なぎー、たべられないの、ありまちたー!』
「なに?」
『ひとー!』
「……安心して、誰も食べないから。食べちゃいけないから」
『ねー!』
ナギが両手をあげて、万歳してる。こういうことを、冗談で言ってないところは、やっぱり妖怪なんだなって思う。そういえば、きつねも繰り返し、ナギのこと食べちゃダメだって言ってたし。
「まったく、もう。妖怪ってば、食いしんぼうばっかりねっ!」
ナギとご飯を食べてから、一休み。そうしたら、次は晩御飯の準備だ。
一人の時に、火を使うのはダメなんだけど、包丁を使うのは、去年やっと許してもらえた。野菜を洗って、盛り合わせた器を二人分用意して、冷蔵庫に入れる。それからニンジンとタマネギを細かく砕いて、タッパーに詰めておく。後はお米を研いで、お母さんが帰ってくる時間に合わせておけば、おしまい。
『さちしゃん、まいにち、ごはんつくってる、のー?』
「うん。お母さんお仕事で疲れてるから。あたしができることは、あたしがやらないとね」
『えらいでしゅねー』
「そんなことないわよ。それに……」
あたしのお母さんは、心配性なんだ。
忘れたことなんてない。こうして台所に立っていれば、思いだせる。
「おかーさん、さちもねー、おてつだい、するー!」
小学生になった時、もうお父さんと呼べる人はいなかった。あたしは一年生だったけど、その時のお母さんが、どれぐらい大変なのか、わかってた。わかってたから、手伝えることは、なんでも手伝ってあげたかった。
「ありがと、さっちゃん」
そう言ってくれる顔が、嬉しくて。
でも一年生の時、まだお料理することに慣れてなくて、背も今よりもっと小さかったから、流しからこぼれてきた熱湯が、腕にかかって、火傷しちゃったことがある。
「――――幸っ!」
お母さんが、あたしの腕を強く掴んだその時。熱くてヒリヒリすることよりも、怒られちゃうって思った。怖くて、ぎゅっと目を瞑った。それなのに、
「ごめん、ごめんね……っ!」
涙を浮かべながら、あたしを抱き上げて、それから水道の蛇口を捻って、ずーっと、あたしの腕を水に浸してくれた。その時、思ったんだ。
「……心配、かけたくないから、だから、頑張らなきゃ」
あたしは、お母さんが、大好き。
お母さんみたいに、なんでも一人で、できるんだから。
そうしたらきっと。お母さん、安心してくれる。
『さちしゃんー、やさしい、におい、ですー』
肩に乗ってくる小さな妖怪。
ナギが、ほっぺを、ぺろって舐めた。くすぐったい。
『こーしゃまの、おかーしゃまも、そんなにおい、なのー』
「……そうなの?」
『はいー!』
きつねのお母さん。一度見たら忘れられそうにない、とっても綺麗な――妖怪。
「――――内緒にしておいて、頂戴ね」
参観日の日に、頭の上とお尻に、黒いもやもやが見えた時、そう言われた。優しく微笑んでくれたその顔は、本当に綺麗で、思いだしただけで、ちょっと顔が熱くなる。
『さちしゃん、こーしゃまの、おかーしゃまと、あったこと、ありますかー?』
「うん、お話したことは、ないけどね」
そう言うと、幸が小さく頷いた。
どうしたんだろ。
『さちしゃん』
「なに?
『こーしゃまの、およめしゃまに、なりません?』
「………………は?」
えーと、今、あたし、なに言われ……………………。
ぷしゅ~!
夏の空でも、八時を回れば暗くなる。
一人で居間の椅子に座っていたら、玄関の方から、鍵が差し込まれた音が聞こえてきた。
読んでいた本を閉じて、席を立つ。
「おかえり、お母さん」
「ただいまぁ、さっちゃん! おかーさん、もうだめぇ!」
「お腹空いてる?」
「うん! とってもすいてるぅ! ぐ~きゅるるるるぅっ!!」
「じゃあ、火使っていい? 切った食材とご飯で、チャーハン作っちゃうから。冷蔵庫にサラダと、朝のお味噌汁があるからね。よかったら、出来あがるまで摘まんでて」
「あ~ん! なんていい子なのっ! おかーさん、全力で応援してるからねっ! ふれー、ふれー、さっちゃんっ!」
「うん、頑張って作るね」
それから、ちゃっちゃとチャーハンを作った。
食卓について、お母さんと一緒に、手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
『いただきましゅー!』
昼間、失礼な発言をした妖怪が、ちゃっかり机の上にいる。さりげなく、べしっと払いのけて、
『あ~~~ん!』
下に、落としておく。まぁ、すぐに戻ってくるんだけど。
『さちしゃ~ん! なぎも、おなか、すいた、のー!』
大きな黒い瞳をきらきらさせて、あたしを見上げてくる。
「……まったく、もう」
お母さんにバレないように、お皿の端を、スプーンでこつこつ叩く。そうしたら、すすすっと寄ってきて、小さな口で、作りたてのチャーハンを食べていく。
『おいしー!』
もう、かわいいなぁ。
この妖怪、ずるい。
「どうしたのー、さっちゃん。ご機嫌じゃない」
「えっ! あっ、うん、今日は上手にご飯ができたから。えへへ」
「ほんとよー! もう、えっくせれんとだわっ! あんびりーばぼー! ビバビバ~!」
「ありがとう、お母さん。ほっぺに、ご飯粒ついてるよ」
「いやん」
恥ずかしそうに、ほっぺのご飯粒を取るお母さん。
それから、食器を置いて、あたしを見た。
「さっちゃん、重大発表があります」
「はい、なんでしょう」
「おかーさん! 明日の朝一番で、出張に……いきたくありませんっ!」
「えっ?」
「こんなにかわいい一人娘がいるのに……あの、バーコードハゲがぁぁッッ!」
お母さん、仁王立ち。
なにもないところに、しゅっしゅって、パンチを繰りだしてる。
『な、なんですのー!?』
ナギが、びっくりして、四つん這いになってる。
お母さんの豹変ぶりに、警戒態勢だ。しっぽをブンブン振りまわす。
「お母さん、落ち着いて」
「うん、大丈夫! お母さん、いつでも、おーるぐりーんっ!」
「お母さん、深呼吸して」
「すー、はー、すー、はー……フゥーーーーーッ!」
「お母さん、はい、お水」
「くわーーーーーーーっ!!」
だだぁん!
ガラスコップに入った水を一気に飲み干して、それを勢いよく机に叩きつけた。
「明日五時に起きて、朝一の新幹線に乗らないといけないとか。もうもうもうっ! ふざけんな畜生ーーー! もぉーーーーーーーっ!!」
「お母さん落ち着いて……どうどうどうっ」
「さっちゃんと離れたくないーーーっ! なにかあったら、やだーーーっ!」
涙で、うるうるしてる。
大変だ。お母さんの心配症が、最高潮に達してる。
あたし、また、心配させちゃってる。
「さっちゃん! 二人でズル休みしようっ!!」
「お母さん、ダメだよ。お仕事でしょ」
「……はうぅ……」
「あたしなら平気だよ。もう一人で、なんでもできるよ」
ぎゅうって、胸が苦しくなった。
あたしは、嘘ついてない。嘘ついてないけど、一人は、嫌だ。
夜になっても、誰も帰ってこない家の中は、冷たくて、寂しくて。
「……幸、おかーさん、お仕事いってきても、大丈夫?」
「うん、大丈夫。ちゃんと夜は戸じまりするし、火も使わないよ。明日は晴れるから、お布団干して、それから部屋の掃除もしちゃうね。ご飯だけど、一日だけなら、スーパーのお惣菜とお弁当、レンジで温めて食べてもいいよね?」
「……さっちゃんっ!!」
お母さんが席を立つ。ぎゅーって抱きしめられた。
「絶対、お嫁さんには行かせないわよーーーっ!!」
ぎゅーってされると、ちょっと照れ臭いし、恥ずかしい。だけど、それ以上に嬉しかったから、そのまま、ぎゅーってされてた。
寂しいけど、辛いけど、一人の夜は怖いけど。
たった一日だけだもん。仕方がないよね。お母さん、お仕事なんだから。
お母さんと一緒に、お皿の後片付けをして、ちょっとだけテレビを見た。
それから、一人でお風呂に入って、着替えて、自分の部屋で一人、布団に潜った。
扉がトントンってノックされる。
「おやすみ、幸」
「おやすみ、お母さん」
返事をして、暗闇の中で、目を閉じる。
すぅ、と一つ息を零した時だった。
『ふわふわー!』
布団の隅っこが、もぞもぞ動いた。肌に触れて、ちょっと背中がぞくってする。
「ナギ、くすぐったいから、あんまり動かないで」
『さちしゃん、おかーさんのこと、だいすきなんでしゅね』
「……え? あ、うん。あたしには、お母さんしかいないから」
『おとーさんは?』
「いないよ。前はいたみたいなんだけど、覚えてないや」
『そうでしゅか』
「うん」
それから、ナギは、あたしのほっぺを少し舐めてくれた。
気を使ってくれたのかな。妖怪なのに。
「ありがと」
元々は、あんなに怖かった、おばけの妖怪。
しっかり目を凝らせば見えたかもしれない「もやもや」を、怖いからって理由で、ずっと避けてきた。でも、今は違う。違うから、きっと、こうして見えている。
『さちしゃん。おひるにね、いったこと、おぼえてるー?』
「……お嫁さんの話なら、しらないわよ」
言ったら、ナギが首を傾げて「きゅ?」って鼻を動かした。
『さちしゃん、こーさまのこと、すきじゃないんでしゅか?』
言われて、顔が真っ赤になる。
ぎゅうって、胸がしめつけられていく。
「あ、あのねっ、ナギっ! ……そーいうことは、気軽に言っちゃダメなのっ!』
『そうなんでしゅか? すきって、きいちゃ、だめー?』
「……ダメじゃ、ないけど……でもね。お嫁さんになるのは別問題っ!」
『そうなの~?』
『す、すきなだけじゃ、ダメなんだからねっ! ほ、ほかにも沢山、必要なものがあって……っ! そもそもっ、あたしもきつねも子供だから、今すぐには決められないっていうか……」
あたし、なに言ってるんだろ。
もう、ごちゃごちゃ言葉が混ざっちゃって、わけわかんない。
『そうなんでしゅかー』
撃沈しちゃったあたしに向かって、ナギは、なんでかしらないけど、得意気だ。
『それなら、こーさまのおよめさんー、やっぱり、なぎなのー!』
「……え?」
『なぎー、こーしゃまの、いいなづけ、なのですー!』
布団からでて、むふんっ! と腕組みをしてみせる。
あたしの目の前ににいるのは、イタチの妖怪。推定身長は、十センチ弱。
「…………かわいー」
『きゅー!』
よしよしって、頭をなでたら、ほっぺを舐めてくれるところも、かわいい。
「あのね、ナギはかわいいんだけど、きつね――光樹のお嫁さんになるのは、ちょっと無理だと思うわ」
『どうしてー?』
「だって、一応アイツって、ヒトの姿してるじゃない。これからどんどん大人になっていくし、ナギは、ヒトにはなれないでしょ」
『うーん……』
ナギが、しょぼんって落ち込む。あたし、今、すごく嫌なこと、言ったかも。
「あ、あのね……っ!」
慌てて布団からでる。
なんか、さっき、きつねが……取られちゃうって思ったら、トゲトゲした言葉が、いっぱいでてきた。最低だ。
『ねぇ、さちしゃん』
「うん、ごめ――――」
『わたくしが、ヒトの姿だったら、コウ様のお嫁に、相応しいとおっしゃるのですね?』
「……ん?」
黒くて大きな瞳が、見つめてくる。
含むような、微笑み。
吸い込まれそう。
「ナギ?」
『これより童の姿は、ヒトにも見える姿に変わりまする。けっして、驚かれてはなりませんよ。貴女のお母様に、見咎められたくはないでしょう」
「…………えっ?」
ナギが、くるんって、宙返りした。
うっすらと、部屋の中に白い霧が立ちこめた。
甘い香りが広がっていく。
そして、内緒話をするような、囁く小さな声が。
耳に、届いた。
「――――改めて、ご挨拶をさせて頂きます。わたくし、霊峰石鎚山より参りました、凪と申します」
少し茶色の、細くて長い髪の毛。
柔らかくって、微かに触れたところが、気持ちいい。
日に焼けた肌。淡い桃色の着物が似合ってる、かわいい女の子。。
やんわり、微笑んだ。
「妖怪ゆえに、字はありませぬが、天より神通力を承り、次代の、あやかしきつねのご当主であらせられる、光樹様の許嫁を命じられております―――以後、お見知りおきを」
綺麗な着物をきて、ぴしりと正座をして、頭を下げられる。
それを見て、パジャマ着てぽかんとしてる自分が、なんか恥ずかしくって。
「え……えぇと、こ、こちらこそっ!」
なんて、同じように、慌てて正座して、頭を下げる。
「…………えーっと」
「うふふふふー」
口元を、着物の裾で隠した、含んだ笑い声。
「幸様。驚かれました?」
「……驚いたっていうか、詐欺だわ」
「うふふ。それは褒め言葉ですわ。相手を騙し、驚かし、その慌てる姿を見て喜ばしいと思うのは、女と妖怪の、専売特許ですもの」
ナギがまた笑う。なんか、すごく楽しそうなんですけど。
「それにしても、残念ですわ。幸様が、身を引かれるとは、想いませんでしたから」
「……え?」
「せっかく、良い競争相手が見つかったと想いましたのに。これではわたくし、遠慮なくコウ様を頂いてしまうしかありませんわ。なにせ、許嫁ですからね」
「……!」
ナギの見た目は、あたしやきつねと、そんなに変わらなく見える。
同じ小学校の子だったら、あたしは六年生相手にだって、物怖じなんてしたことなかったのに、今は、気圧されちゃってる。
「幸様」
「な、なによぅ!」
陽に焼けた、二つの腕が伸びてくる。
抱くように、顔を包まれる。
ナギの顔と、笑う唇が、すぐ目の前にある。
「もう一度、よくお考えになって。時間は悠久に見えて、その実、限りなく乏しいもの。まだ子供だからと想って、お心を決めていなければ、一生分の後悔をされてしまうかもしれませんわよ?」
透き通るぐらいに、きれいな黒い瞳に、あたしが映ってる。
真っ赤な顔して、頭から湯気を「ぷしゅー」ってこぼしてる。
「べ、べつに……ナギが許嫁なら、それで、いいじゃないの!」
「いいえ。許嫁とはいっても、単なる形式上のものですわ。最後の決め手となるのは、コウ様のお心一つだけですよ。ですからね、幸様……」
紅い唇が、耳元で、息を吹きかけてくる。
くすぐったくて、どきどきする。
「もし、貴女が本心を告げてくださるのなら、わたくしは、コウ様の秘密を、貴女に伝えましょう」
「……その秘密って、学校できつねが、うっかり口を滑らしかけたやつ?」
「はい」
「どうして、知ってるの?」
「コウ様は、一番の秘密とおっしゃっていますが、霊峰、石鎚山に住む妖ならば、知らぬ者はおりませんので」
ナギが、にっこり笑う。
なんだか、胸がすごく、すごく、痛い。
「…………」
あぁ、やだなぁ。
ヒトが大事にしてる秘密を、聞くなんて。
そんなの、あたし、大っ嫌いなのに。
でも、目の前の「女の子」が知ってる秘密を、あたしが知らないことの方が、すごく嫌。そう思っちゃう自分も嫌で、苦しくて。
「……聞きたい、ですか?」
「うん……」
きつねは、どう思うかな。あたしが、そんなこと考えたって思ったら。
嫌われちゃうって思ったら、怖くなった。でも、それ以上に、知りたかった。
「それでは、お話致しましょう。しかしその前に、一つお聞かせ願えますわね」
「……なにを?
「幸様、コウ様のこと、好きですか?」
黒い、二つの眼が、あたしをじっと見てる。逸らさない、逸らせない。
顔が、あつくなる。心臓が苦しい。膝に乗せた手を、強く握りしめる。
「うん」