休日明けの月曜日だというのに、春子の心はとても軽やかだった。退屈な授業も休み時間のソフトボールもそこそこに、放課を迎えるやすぐさま校舎を飛び出して。夏の陽射しの下、普段より脚に力の込めてのサイクリングも、一時間以上かかる道のりも、何の苦にもならない。
「こんにちは」
扉を開き、ひょっこりと顔をのぞかせる。そんな仕草が、春子もまた普通の女子高生なのだということを確認させる。
「ああ、滴草さん。また来たんだ」
名目上は、あくまでも父のお見舞い。健人のちょっと無愛想な言い草は、そんなところからくるものであったが。
健人は今日も本を読んでいた。春子の持ってきた本は明雄よりも先に全て読み終えてしまい、こうして春子が新たに本を持ってくるのもこれで二度目。入院生活というものの退屈さを訴えるかのように、夢中で読書に励むのだった。
「もう。お父さんはまたどこかほっつき歩いてるの?」
空のベッドを見て春子は腰に両手を当てた。その実、春子にとってこれ程喜ばしい事も無いのだが。
「具合はどう?」
春子は健人のベッドの傍の椅子に腰掛けた。新品のように真新しいそれを見て、健人に友人がいないという話がふと頭を過ぎったのは、単なる春子の邪推であろうか。
「まあまあ。変わり栄えの無い毎日だよ」
健人は本を閉じ、残念そうに笑みを浮かべた。
「滴草さんがこの病室に入ってきて、春子が見舞いに来るようになったのが救いかな」
果たして、赤面を抑えるというのは人体の構造上可能なのだろうか? 両頬に熱を感じながら春子はそんな事を考えた。
こんな大胆な物言いも、学校に通ってこなかった事ときっと無関係では無いのだろう。普通の人にとっての普通や常識も、それは全て人との関わりの中で学ぶものであって、生まれつき備わっているようなものじゃない。
「う、うん。私も、浅川くんと会えて良かったかな。話してると楽しいし……」
『会えて良かった』なんて本来ならこっ恥ずかしくて言えないだろうが、健人につられてか思わず口にしてしまう。春子の頬は更に赤みを増していた。
ガラッ。そんな、恋愛小説のような空気を崩壊させるように、病室の扉が開いた。
(お父さん……。タイミング悪すぎ)
春子が。自分の目で確認する前にそれが明雄だと判断したのは、あくまで自然の流れだろう。医者や健人の肉親という考えもあったが、この時想定し得る最悪のパターンが明雄なのであって、それ故、春子は目を病室の扉へと向ける前から、それが明雄だと信じ切っていた。自分と、自分の父と、片想いの相手。これ程最悪な三つ巴もなかなか無いだろう。
だが、それは単なる誤解であり、最悪よりも最悪な事などいくらでもあるのだと、春子はこの時思い知った。
「菜美」
名前を呼んだのは、健人。春子は反射的にその人物の方へと顔を向けた。
長く、真っ直ぐに伸びた綺麗な黒髪。175cmくらいはあるのだろうか高身長に、それにしても長い脚。
「こんにちはー……」
健人が菜美と呼んだ女性は、春子という見舞い人が意外だったのか健人の元へと歩み寄る足を一度止め、品定めするように春子を凝視した。
「遠慮しないでよ、菜美。同室の方の娘さん」
そう言って健人は返した手のひらを春子の方へ向けた。
「ああ……、そう」
菜美は、無愛想に健人の元へ近付いてきた。
ベッドのすぐ傍まで来て、しかし春子が椅子に座っているのを見るとUターンし、病室の隅からガラガラと椅子を引きずってきた。ゆっくりと、怠惰な動きのこの間、完全な無言。春子は気まずさに息苦しくなっていた。
「小林 菜美。春子に会うまで唯一の友達だったんだよ」
健人は、今度は春子に菜美を紹介した。菜美が不機嫌そうに頭を下げたのを見て、春子も会釈する。
「……滴草春子です」
頭をすぐに上げた後、菜美は春子と目を合わそうとしない。露骨な程に目線を逸らし、一人で長髪の毛先をいじったりしていた。
「菜美も、昔この病室にいてね。退院した今もこうして時々お見舞いに来てくれるんだよ」
健人は楽しそうに菜美の事を話し始めた。しかし健人のテンションとは裏腹に、春子は菜美への警戒心を強くするだけだった。
自分がそうだからか、春子にも分かる。見舞いがなんだのとはつまり、結局のところ菜美も健人の事が好きなのだと。
――だが。そう考えると同時に、二人の容姿の差に論点が移る。長い黒髪も女性にしては高い身長も、全てがその大人びた顔立ちを引き立てる。その特徴的な目は、女性である春子すら吸い込まれてしまいそうな目力を持っており、とにかく簡潔に言ってしまえば美人。普遍的な意見を元に二人の容姿を比べるならば、おおよそ春子に勝ち目は無かった。もっとも、これは菜美の生活習慣的なものが原因なのか、顔中にニキビができているのがどうしても気になるけれど。それでいて一見して美人だという時点で、つくづく顔立ちの良さが窺える。
「セーラー服……。北高ですか?」
菜美の制服を見て春子は尋ねた。東西南北を名に冠する北海道の四大進学校の一つ。菜美は目を合わさぬまま、黙って頷くだけだった。