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喪失の夜は暴かれて

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『とりあえず何か知らせるまで、絶対に家を出るな。もし知人から強要されたとしても、絶対にだ。特に、友人や親しい間柄のものならば、連絡でさえもな』


 いつまでも脳裏に焼きつくその言葉を反復しながら、宗太は暇を持て余しテレビを眺めた。
 この時間帯といえば特に面白い番組もなく、子供向けの放送が順繰りにして組み込まれているだけ。かつて何年前に見たことがあるとは言え、その当時とは出演者も構成も何もかも変わっていて、まるで一瞬にして過去から現在へとやってきたような感覚が駆り立てられた。
 休みとして過ごす平日。その響きには万人を惹き付ける願望があるが、実際自ら体感してみると、実はそこまで面白いものではないと痛感する。
 テレビも普段見ていない番組ばかりで、特に興味をそそるものも放映されない。
 いざ何か出来ることはないかといきり立ってみても、一人で何かにひた耽るということは、必要以上に神経を使う。それゆえに、長続きせずにすぐ飽きてしまう。
 結局のところ、平日は平日のままであればいいと。物凄く無駄な一日を過ごした、と後悔できるのが休みとなった平日の終焉だと、宗太はこの時間帯でようやく気付いた。
 時計の短針が午後四時と五時の境目を惑う頃。
 宗太は前に述べた感想を抱いたまま、国の放送協会が流す幼児向けの番組を傍観した。

「……」

 その口には、言葉は無かった。
 正確に言えば、それはつい何時間か前のことに起因する。





 ………………
 …………………………




 
「俺に出来ることなら、聞いてください」
 宗太がそう口にすると、男はにっこりと微笑んだ。ちょうど吹いてきた風が淀んだ空気を流し、男は左手で頭に被る帽子を押さえた。
 同時に、その右腕に構えられていた赤い"蟲"は、蜘蛛の子を散らすようにその場で弾け、消えてなくなった。何事も、なかったように。
「そうか、有り難い。僕の名前は瀬川だ。中山君」
 男、瀬川はそう返し、額に流れる汗を袖で拭いながら宗太の方へと近付いた。瀬川にはどことなく近寄りがたい空気が漂っていたが、宗太は微弱な不安も感じなくなっていった。
 つい何秒前までは疑いの心理がとめどなく溢れていたが、男の豹変振りを見て、宗太は眼前に立つ人間が疑うべき対象ではないと察知した。
 たどたどしい言動ばかりの宗太だが、その五感だけは他人に追随を許さないものがある。
 宗太は大分昔に父親から言われた言葉を思い出し、まさに今、その言葉通りの感覚を実感することとなった。
 瀬川は右手にはめた黒手袋を確認するように凝視し、そのまま話し始めた。
「早速だが、君に確認したいことがある」
「は……はい」
 打って変わって低く透き通った男の声に、宗太は一瞬怯む。ほぼ自分の意志とは裏腹に、宗太の身体は瀬川から逃げるように一歩後ずさる。
 それを見た瀬川は少し困り顔をして、出来るだけ柔らかな声で続けた。
「何も恐れることはない。ただ、君には事の始終を見届けてもらいたくてね」
 瀬川はそう言うとジャケットの内側――懐に手を入れ、一枚のくしゃくしゃになった紙を引っ張り出した。それを、宗太に示すように掲げる。
「こんな"モノ"を、君は見なかったかい?」
 紙にはただ四文字。




『蟲が来た』




「…………!!」
 宗太はその文字に確かめるように目を通すと、若干だが身構えた。意識的にではなく、動物の何か本能的なものが。言うなれば、第六感が即座に反応した。
 うお、と瀬川は仰け反ったが、一呼吸置くと、再びその口を開いた。
「その驚きようからすると、図星みたいだね」
「……はい」
 気持ち柔らかくなる瀬川の声。宗太も決して淡々と話せる状態、平静を保っていられる状況ではなかったが、喉元にこみ上げる何かをぐっと堪え、静かに呻いた。
「携帯の……メールにその文字が書いてありました。差出人が不明の、メールに」
「そうか」
 毛羽立ったジャケットを整えて、瀬川はふうと溜め息をつく。
「ならば、もう遅いのかもしれないな」
「……?」
 その言葉に浮かべた宗太の言葉なき疑問に、瀬川はその核心を汲み取り、呟く。
「"蟲"の侵攻だ。今の君に言っても、理解できることは何一つないだろう。ただ、これだけは覚悟しておいて欲しいことがある」
 髪をなびかせていた風がぴたりと止み、空間は波を打ったように再び静まり返る。
 瀬川の風貌が風貌のため、まるで風景画のようだとはいかなかったが、それでも充分すぎるほど美しく、冷たい空気が辺りを覆う。
 瀬川は睨むでもなく宗太の眼を、さながらその奥深くに存在する意識までもを読み取るように、強く視認した。
「君の友達、言ってしまえば君の親友と深く関わる人物……。その中に、この地方で起きている謎の大量誘拐事件の首謀者がいる」
「な……!?」
 宗太は一瞬自分の耳を疑った。それよりも前に目の前の男が話す考えもしなかった言葉を、言葉として認識することが出来なかった。
「今……何て……?」
 激昂と言うよりも畏怖に近い眼の宗太に、瀬川は取り繕うように、されどその奥を行くような言葉を並べ立てる。
「二度は言わない。君にこんな事を何度も言うのは性に合わないからね。君が信じたくないなら、それでいい。君は何も変わらず、今までどおりの生活をするといい」
 瀬川は宗太に背を向け、靴の踵で地面を軽く叩いた。
「ただ、君がもし仮に僕の話を信じるとするならば――――次のことを守ってもらいたい」
 宗太は男の後姿を呆然と見据えたまま、動けなかった。
「とりあえず何か知らせるまで、絶対に家を出るな。もし知人から強要されたとしても、絶対にだ。特に、友人や親しい間柄のものならば、連絡でさえも拒むんだ。……それ自体も、あとは君が決めることだ」
 それだけ言い残し、瀬川は風に溶けるように、次第に宗太の視界から姿を消していった。
 後に残された、宗太。
 ふと気付けば、先刻まで全くといっていいほど静まり返っていた路は、雑談をする主婦、鬼ごっこしているらしい子ども達の声に埋め尽くされていた。

「………………」

 何も言わない、宗太。
 その頬には何が原因かも分からない、きわめて人間的な涙が流れた。
 誰も、何も言わない。何も、変わらない。
 何一つ知らなかったように、いつも通りの見慣れた景色が、宗太の周りの世界には溢れかえっていた。
 まるで、今起きた物事全てが嘘だったかように。





 ………………
 …………………………



「………………」

 その時から変わらず、宗太はだんまりを続けていた。いつもとは明らかに違う様子で帰宅したため、両親に何かあったのかと切迫されたが、無理矢理造った笑顔で、その場は何とかやり過ごせた。
 だが、一人となった今、そこにはもう笑顔も言葉も無かった。

「………………」

 自分でも良く分からない。何故今こうしてメールも電話も何もせず、テレビをじっと眺めている、むしろブラウン管に映像が流れている事を認めているだけでいるのか。
 あの霊能者のことを、完璧に信用したわけではない。逆にその男の言動に疑心暗鬼を生じたが、これと言ってその猜疑心の根拠となる事象は一つとして見当たらなかった。
 今まで生きた中で、出会ったこともない恐ろしい"モノ"に遭遇したのも事実。
 ましてやそれを、あの霊能者が退治してしまったのも事実。 
 その男が言った言葉を覚え、今も尚時折思い出したように呟いているのも、また事実。その中で疑いを持てる現実は、微塵ともなかった。
 その理由もごく簡単――――自ら、その現場に居合わせていたから。
 小ぢんまりとした部屋の片隅。回転椅子の上からテレビを眺めながら、宗太はようやく、その重い口を開いた。

「これは……夢なんだよな?」

 本来ならもう少し強い言葉を以て否定したかったが、これ以上の言葉は喉が震えて声に出すことが出来なかった。
 ためしに自分の頬を強くつねってみる。
 それでもやはりこの現実味が増すだけで、強くつねった頬肉がひりひりと痛んだ。
 ああ、痛い。やっぱり、これは現実なのか。
 眉唾の念をもってしても、やはりどうしようもなく、変えられない真実。ちっぽけな自分が覆そうとしているのは、世界定義にも似たことだと、察知した。

「だとしたら……」

 あの言葉も、本当なのかもしれない。
 あの時はまさかそんな事があるはずないと、高をくくっていた――――




『君の友達、言ってしまえば君の親友と深く関わる人物……。その中に、この地方で起きている謎の大量誘拐事件の首謀者がいる』



 絶対に信じたくはない、出任せにしか見えなかったその一節。
 急にその言葉の羅列が、嘘の塊から不変の真理にすりかえられた気がして、宗太は思わず身体を震わせた。
 嘘だ。とは、口からは発せなかった。代わりに、


「一体誰が……犯人なんだ……?」


 と、震える唇から零れ落ちたのは、意思のない銃口のような懐疑だった。
 その後、宗太は一切言葉を吐露することなく、やがて夜を迎えた。





         †




 都会よりも多い烏の鳴き声も止み、宵闇。
 見掛け以上に広い五條の家、そこの縁側のように設えられた廊下に、静馬は一人でそれも静かに座っていた。 
 目の前に広がる、洋風の部屋とはかけ離れて、枯山水のような格好をした庭。縁に垂らしたつま先が滑らかな小石の粒に触れ、ひんやりといい気持ちがした。
 雨上がりの輪郭のはっきりとしない月の影は、静馬の容を薄く照らし出し、背の方にぼやけた陰を作り出す。雲が思い思いに流れるたび、それは濃さを強弱させていた。
 柚樹は料理やら掃除やらで疲れたのか、こんな早い時間にも関わらず、寝床で横になり穏やかに寝息を立てていた。もう一時間も前のことだが、少し焦げたハンバーグの味は中々のものだった。
 静馬は後方で枕に頭をあずけている柚樹を起こさないように、できるだけ大声を出さずに今日の出来事を振り返っていた。

「今日は……僕は何をしたんだろう」

 言ってみればそうだった。今日ここに来てからと言うものの、雪村は足早にこの家を出て行ってしまい、それっきり。取り残された静馬はならば夕食ぐらい腕を振るおうかと思ったが、あまりにも親切すぎる柚樹と五條に抑えられ、特にするべきこともなく、漫然と午後を過ごした。それは、ここ最近落ち着かなかったため、ありがたいものであったものの、その裏面は非常に申し訳ない、そんな一念で満たされていた。
 結局出来たことといえば、「怖くてしょうがない」と懇願してきた柚樹が寝てしまうまで傍にいてあげることだけだった。

「僕に、出来ることなんかあるのかな」

 つい漏れた言葉さえ取り繕う気力もなく、溜め息交じりに項垂れた。
 風に揺れてかさかさと声を上げる木々の群れが、不気味なくらい身体に凍りついた。

 その時。


「出来ることならいくらでもあるよ、静馬君」

 不意に届いたその言葉に、静馬は驚いて身体を震わせた。

「ただ、静馬君はまだ"力"が目覚めていないようだからね。出来ることも少ないだろう」

 声の主は、まだ湯気の立っている頭、首に青い刺繍の入った白いタオルを巻いている、この家の主、五條正博。
 五條は慌てる静馬に構わず、その隣に腰を落とした。
「力……ですか。本当に僕なんかに、そんなものがあるんですかね」
「あるともさ。少なくとも、僕よりかはね」
 五條はそう言って、同じようにぶら下げていた両足を、軽く前に突き出した。
「何も力がないなら、"蟲"の被害に遭っている君が、今ここにこうして無傷でいられるはずがない。想像を絶する"蟲"の殺戮、残虐極まりない光景。君はそれに耐え切れられたからこそ、その分"蟲"に対抗できるだけの力を、必ず手にする」
「そう……ですか」
「だから何も焦燥することはない。ゆっくり、日を追うごとに自分の力と言うものと向き合っていけばいいんだ。それが明日かも、何年後かも僕には分からないけれど」
「………………」
 静馬は黙ったまま、何も答えることはなかった。
 五條の言葉が、嘘のようだったからではない。むしろその逆だったから、怖くて何も考えることが出来なかった。
 非力で、言葉だけは達者な、人間性の矮躯な自分。
 そんな自分が手にする力がどんなものだと想像すると、言葉に出来なかった。いや、想像を絶するのではないかと思うほど、妙な恐怖感が胸にこみ上げ、心臓が激しく波打った。
 五條は静馬の表情を一瞥すると、誰に言うでもなく呟いた。

「何年か昔、同じようにこの地方で"蟲"が発生した」
「……?」
 いきなり独り言のように呟きだした五條が不思議に思えたが、静馬は黙って耳を傾けた。
 それを察したように、五條も口調を和らげて続ける。

「そこまで規模の大きい蟲ではなくて、苦戦はしなかったんだ。僕と他の<インセクター>三人だけでも充分に撲滅できる、本当に強くはない蟲さ。ただ、その蟲は恐ろしく繁殖性が強くてね……。僕らはそれが<蟲化>した瞬間に仕留めたから、まさかその種が残っているはずがないと、思っていた」

 少し寂しげに、五條は言葉を繋ぐ。

「そのまさかだよ。僕ら<インセクター>とは別にその蟲と関わっていたある一人の青年に、蟲は卵を産みつけた。非常に小さい、眼に見えない卵を。それが存在していることは事件の一週間後ほどでようやく判明した。彼はまだ<蟲化>こそはしていなかったものの、非常に危険な状態といえた。何にしろ、意識がほぼ蟲に乗っ取られかけていたからね。何とか彼を助けることには成功したけれど、彼はもう、絶望的だった。精神的にも肉体的にも破滅。彼は皮一枚繋がった状態で、そのまま一週間が経過した。
 ところが、あるとき変化が起こった。僕がいつものように、彼専用の寝室へ様子を見に行ったときのことだ。――彼は、その前日までの沈黙が嘘のように、窓際に立って、外の景色を眺めていた。挨拶もしてきた。少しだけ、話すことだって出来た。僕らは驚いたよ。なんせ、昨日まで死人同然だった人がいきなり立って喋りだしたんだからね」

 いつの間にか五条のほうをじっと見ていた静馬にも気付かずに、五條は今度は楽しげに、それも抑揚を聞かせて言葉を流し続けた。

「それからの彼の飛躍振りは凄かった。次の日に僕らと共に食事が出来るようになると、その次の日にはもう外で散歩も出来たんだ。 だけど一つだけ、彼にはどうしても出来ないことがあった。それは――自分の名前を思い出すこと。そう、彼は自分の名前を喪失していたんだ。
 僕らはそれを真っ先に危惧した。もしもこの先彼が社会に進出することとなると、それは重要な問題になる。それで散々悩んだ僕らは、彼に名前をつけることにした」


 一呼吸置いて、一言。











「瀬川、祐一と」

「………………!!」

 虚の彼方に追いやられた静馬を見て、五條は付け加えるように漏らした。

「これは僕だけが知っている事実さ。雪村さんや、もう一人の<インセクター>にも、このことは一切告げていない。ただ一言、彼が名前を思い出したとは伝えたけどね」
「ということは、瀬川さんは……」
 その言葉の先を知っていたかは知らないが、五條は遮って述べた。
「『瀬川祐一』は、本当の名前じゃない。自分の名前を取り戻すことが出来るのは、自分自身だ。だから祐一は、今も自分の名前を取り戻すために、憎い"蟲"と戦い続けている」
「………………」
 なるほど、と静馬は納得する。静馬の脳裏にあった数々の疑念も解消されていく気がした。
 五條はもう一つ、話の最後を付け加えた。

「そして、そこから今に繋がる。エリカ君が今回の蟲は当時と同じ種族だ、と言ったよね?」
「……はい」
 一瞬間をおいて、続ける。
「じゃあ、今回祐一が"蟲"と相対するとなると、重大な問題が発生することは分かるかい?」
「? ……! まさか、トラウマ的な……」
 五條が肯いて、紡ぐ言葉の端々をいっそう強く噛み締める。
「そうだ。<インセクター>言えど、その精神力そのものはすこし強くなっているだけで、常人と大して変わらない。そんな彼が、昔致命傷を負った"蟲"と再び、今度は<インセクター>として対峙するとなると、何が起こるか……分からない」
「…………」

 不意に訪れた沈黙。
 静寂を破るのもまた静寂。遠くの虫の声と頭上に飾ってある風鈴が輪唱して、夏夜を寂しく包み込んだ。空はいっそう曇天が翳り、夜の暗さはますます増してゆくばかりだった。
 静馬は、心中で述懐した。
 その答えは、本当に僕たちが求めているものなのか?もし、そうでないとしたら、それは一体、僕らにどんな被害をもたらすのか?それとも、僕らには直接関係のないことなのか?

 思索するだけで思考は回らず、何を考えても堂々巡りするだけ。
 今はまだ何も出来ない静馬にとって、それほど辛いものはなかった。





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黒兎玖乃 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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