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少年は蟲と闇に

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時刻は、子を過ぎた。
点々と明かりが見える、街の中。
その中でも特に明々と光を灯しているのは、あるアパートの一角だった。
見た目は赤錆が覆い、「ボロアパート」というだろうか。
特に人の気配は感じられないその場所で、非現実的な現象が起こったことは、まだ誰も知らない。
知っているのは一人の少年と、一人の男だけだった。



「………う………」

その部屋の中で、少年は静かに目を覚ました。
頭が鉛のように重く、身体を起こすだけで精一杯だった。
意識がはっきりせず虚ろで、暫く、ぼう、とした感覚に落ちた。
起きた瞬間ずきんと頭が痛んだが、遮るように頭を振りまわった。
その瞬間。
目の前に、あるものが現れた。
掃除を欠かさないはずの床板に、何か黒いものがこびりついている。
海部津は最初、それがなんなのか思い出せなかった。
こんなものを見た覚えは、ある。
それがどういうものだったかは、全く覚えていない。
毅然としない記憶に苛立った、その時。



「お、やっとお目覚めか?」



聞きなれない声が、耳の中を劈いた。
自分しかいない部屋の中から、どうして他人の声が聞こえるのか?
海部津は不審に思い、その声の方を向いた。
―――そしてすぐに、事を察した。
自分が座るベッドの際。そのやや離れた方に、変な男が座っていた。
乱雑な髪、古びた着物、包帯に包まれた左手。









"黒い手袋をした、右手"。




「………………!!」

途端に、記憶が舞い戻ってきた。
海部津の脳内を、記憶が、記憶が、記憶が埋め尽くした。
『蟲が来た』という謎の紙切れ。
床で蠢いていた、小さな黒い虫。
突如として膨れ上がった、「黒い塊」。
そして。
名も知らない男が放った、「赤い塊」。
いや……"虫"。
海部津は、全てを思い出した。
そして改めて床にあったこびりついた黒を見ると、全身に悪寒が走った。
体内で激しく、第六感が警鐘を鳴らした。
冷や汗がつうと頬を伝い、首、そして服を濡らす。
見かねたのか男は、繕うように口を開いた。


「…まぁ、当然の反応、だな。いきなりこんな目にあったんじゃあ」
男は襟を掻いて、困惑の表情を浮かべた。
そしてそのまま、猫を宥めるような声で続けた。
「とりあえず、このままじゃ危険だ。ちょっと、ついて来てもらえるか」
「………」
「…なんだ、どうかしたか?」
どうかした、という問題ではない。
本音は、「どうかしている」が正論だった。
…しかし海部津は一呼吸おくと、真摯な声で応対した。
「…何でもない。だが、あれは何だ。お前は誰だ。どうしてここに俺以外の人間がいる」
「おぉ、思ったよりは、大丈夫そうだな、よしよし」
海部津は苛立った。
此方は真面目に訊ねているのに、男が軽んじた声で受け答えたからだ。
海部津はすぐに調子を取り戻し、異議を唱え続けた。
「…誰かって、聞いている」
「俺か?俺は瀬川。SEGAWAだ」
「その瀬川が何の用だ?」
「おっと、名前を教えたんだから、君の名前も教えてもらおうかな?」
「…海部津だ」
「りょーかい、AMATUだな」
男…瀬川はそういうと立ち上がり、首を鳴らして身なりを整えた。
といっても、汚らしい風貌には変わりなかったが。
「何の用か、さっさと言ったらどうなんだ」
「おう、忘れてた。君は今日、変な手紙を見なかったか?」
「変な手紙?」
「そうそう。多分『蟲なんとか』って書いてあったはずなんだけど」
「…その、ゴミ箱の中にある」
瀬川は指差した方向を見ると、すぐに駆け寄った。
そして中を弄り、対象を見つけると、頷き、此方へ戻ってきた。
「これだこれ。…なるほど、『蟲が来た』、ねえ」
「で、何なんだそれは」
「………」
瀬川は答えず、じっと黙り込んだ。
聞きかねて海部津も、声を出さずに息を飲み込んだ。
そして、暫く後。
「…何はともあれ、ついて来てもらおう」
「何故だ」
「理由はすぐに知れるさ」
「却下する。理由もなしに、不審者について行くことなどできるか」
「…参ったね。あ、それじゃあ、君に質問しよう」
そういうと瀬川は、途端に真面目じみた顔になり、調子を変えて、訊ねた。



「君は、無抵抗に死にたいのか。それとも、這いずり回ってでも、生き延びるのか。
二つに一つだ。さぁ、答えてもらおう」



海部津は息を呑んだ。
男の形相が、焦燥に駆られたように見えた。
この男の言っていることは、本当なのか?
それとも新手の悪徳業者の、紛い物か?
判断がつかず、暫く黙り込んだ。
全身の汗が引き、逆に今度は異常なほどの寒気に襲われた。
…そして海部津は男の言葉を受け入れ、ついて行くことを決めた。















…というのが、普通の人間だ。
刹那に、海部津は無表情、それでいて軽蔑の眼差しを男に向け、告げた。


「戯言は他で言え、そして帰れ、今すぐ」


そして海部津は男を押しのけ走り、玄関のローファーに足を入れ、飛び出した。
新たに、針の音だけが響きだす、空間が完成した。
そこに取り残された瀬川は少し呻き、ぼりぼりと頭を掻いて、溜め息をついた。


「…何も、知らないってことか」


男の目線は、海部津のいた場所にあった。
その…ベッドの上。












"黒い何かがこびりついた、ベッドの上"。












***












草木も眠った夜半の郊外。
ぼうと点く水銀灯が、青白く黒い道を照らした。
その中央を、一つの影が、通り抜けた。
息を荒げ躓きながら、海部津はただ一心に駆けた。
何も、当てはなく。
―何かを恐れているわけでもなかった。
ただ、許せなかったのだ。
…ほんの少しでも、他人と干渉してしまった、自分が。

家から大分離れ、ひっそりとした公園。
海部津は走りを止め、その中へ足を進めた。
中央にある噴水の横を抜けて、隅のブランコへ。
そこは、幼いときいつも、海部津が逃げていた場所でもあった。


「……………」


身体が熱く、うだるようだった。
汗ばんだ額を拭い、深く深呼吸をした。
衣服も、冷や汗とも分からない汗で湿りを見せていた。
そのまま、ブランコへと座る。
きい、と、錆びた鉄と鉄とが立てる音が軋んだ。
ゆらり、と、思うこともなくブランコを揺らした。


きい。


本能に任せ、ただその身を揺らす。


きい。




「…全く、なんだって言うんだ」


海部津は、軽い絶望感に襲われていた。
其れも全て、さっき起こった謎の現象のせいだった。
『蟲が来た』。
変な男。
黒い塊。
全てが非現実的で、馬鹿げていた。
しかし、ある一つのことが脳裏を過った。


"現実に見た"


その事実だけが、海部津が逃げる全ての道を塞いでいた。










昔、海部津静馬は、至って「普通」の少年だった。
幼稚園が終わると友達と一緒に、日が暮れるまで公園で遊んだ。
帰るとすぐに風呂に入って、一人で水と一緒に戯れた。
食事も一つ残さず平らげて、好きなアニメを眠くなるまで見た。
本当に普通の、一般的な男の子だった。
両親も、至って優しい、理想的な人間像だった。
何か欲しいものがあれば、買ってくれて。
時には叱責もあったものの、ためになる叱り方で。
静馬は非常に、幸せな毎日を送っていた。



そんな五歳のある日。









家で、火事が起こった。



少年の静馬は、呆然とした。
遊びに行って帰ってくると、その場所に、自分の居場所は、なかった。
自分の家に群がった、野次馬の群れ。
その目線の先に広がる、黒く焼け焦げた建造物。
駆けつけた救急車から、走っていく救急隊員。
そして担架に載せられた…






―原形を留めていない、黒く炭化した"人のようなモノ"。




静馬は、このとき見た「モノ」が、自分の両親と知ることはなかった。
それよりも、彼の興味はその群集や家の方にあった。
黒くなった家に、かかる白い放水。
それに群がるような、人間の塊。
その、ひしめいて動きあう姿を見て、少年静馬は一つだけ呟いた。







「アリさんみたい」





…………
……………………………



出火の原因は知れなかった。
世間には煙草の不始末によったものと公示されたが、静馬は理解できなかった。
今思えば、煙草の不始末など、自分の父親がするはずがない。
原因は絶対、絶対に別の何かにあった。

身寄りのない静馬はその後、少し離れた祖父母の家に引き取られた。
祖母は両親とは全く持って異なり、そこは異常なほど厳粛な家庭だった。
幼稚園が終われば即刻家につれて帰らされ、勉強を強いた。
しかも一日五時間も。勉強中に寝ることなど、死に値するほどのものだった。
そのため、幼い頃は傷が絶えなかった。
小学校に上がると厳しさは増し、家庭教師もついてくる。
彼は一年生のとき既に、五年生の勉強をしていたのだ。
正直、止めたいと思うこともあった。
―それを留めたのは、ただ一人、祖父だけだった。
祖母は、テストで百点を取っても当然の如く受け流した。
祖父は、取る度に真剣に、静馬を褒めた。
優しく頭をなで、「よくできたね」と、評価してくれた。
静馬はそれだけが嬉しくて、勉強をひた続けた。
そのころから、静馬は既に「勉強」という存在に洗脳されつつあった。

この日々は、長らく続く。
そして、ある六年生の日。

静馬は祖母の出かけた部屋を漁り回っていた。
年頃の少年がよく起こす、家捜し行動だった。
これは好奇心によったもので、特に目的はなかった。
静馬には、この「探す」という行為がこれ以上に楽しかったのだ。
箪笥やドレッサーやクローゼット。
とにかく探して探して探し回った。
何かを、目に見えない、漠然とした何かそのものを。


…そして運悪く、大事なその何かを見つけてしまった。
それは、倉庫の奥の古びた櫃から出てきた。
埃をかぶって、大分年季が入っているように見える。
開けてみると嫌な空気が広がって、一瞬鼻をつまんだ。
すぐに慣れて、その中を覗いてみた。
そしてあるものを、その底辺から拾い上げた。




写真だった。
大人の男性と女性が、間に小さな男の子を隔てて、三人仲良く手を繋いでいる写真。
静馬は少しだが、その男性と女性に見覚えがあった。
そして暫く後、裏に書かれた筆跡を見て、背筋がゾッとした。



『僕と里美と静馬。夕方の公園にて。撮影者、友人。』









…の上からマジックで一本線が引かれ、その下には同じマジックでこう綴られていた。





『静馬は私の「モノ」。私が育て、私がこの手で殺す。死ね』





「……………!!」

全てを理解した。
そして今までわからなかった大きな謎が、頭の中で合致した。
両親は、火の不始末で焼死した。


嘘だ。
両親は…"祖母によって焼き殺された"のだ。
そしてその文章は、更なる悪夢を予感させるものだった。






『私が、この手で殺す』





祖母は、自分までもを殺すつもりなのだ。
それだけの文章があったならば、多少なりとも信じることはなかったかもしれない。
ただ…「倉庫の奥に隠されていた」ということだけが、その可能性を全否定した。


自分は、「モノ」。
人間ではなく、「モノ」。
HumanやPersonとも極めて異なる、「It」。
モノ。
下あごで扱う、下等種族。
もの。
モノ。


ただの、動く人形。









静馬は気付くと、家を飛び出していた。
背負ったリュックに通帳と、衣服とやらを添えて。
それに混じった、多大な恐怖感。
あまりのことに身を押しつぶされそうな衝撃に襲われたが、利口になり過ぎた少年はすぐに事を推した。
その利口にした「張本人」が起こす、最悪の事態を免れようと。
静馬は、走った。
当てもなく、行き先もなく。
ただ―――逃げるために。





***






公園に来て、しばらく経った。
意識は眠気で遠のいて、頭は段々と舟を漕ぎはじめていた。



きい。


ブランコの音と相まって、頭がこっくりと揺れる。



きい。

こっくり。



きい。

こっくり。



静馬は、今の自分と昔の自分を照らし合わせていた。
自分は――また、逃げているのか。
自らが恐れた、その存在そのものから。
静馬は心底では、あの「黒い塊」を恐れていた。
いや、それだけではない。ついさっき起こった、現象そのものを、だ。
静馬は、ブランコの揺れを小さくした。
意識も相乗して、段々と薄れていった。




きい。

こっくり。



きい。

こっくり。



き…











「ギギギギギギギギギギギギギギギギギぎギギギギギギギギギギギぎギギギギギギぎギギギギギギギギギギギギギギギギギギぎぎぎギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギぎギギぎギギギギぎギギギギギギギギぎギギギギギギギギギギギギぎギギギギギギギギぎぎギギギギギギギギぎギギギギギギギギギギギギギギギギぎぎギギギぎギギギギぎギギギギギ!!!」




「………………!!!」


突如、ブランコの鎖が解け、静馬はその場に伏した。
同時に、自らが通ってきた道の有様を、目の当たりにした。




自分がこのブランコに至るまで、通った道。
















―その全てが、虫にも何とも似つかない、粘着性のある黒の集合体で、包まれていた。
それは月に照らされて黒光りし、段々とその全貌をあらわにしていった。







そして、全ての異変に気付く。















自分の足。
手。
ブランコの鎖。
地面。







"全てが不気味な黒に包まれ、泡を吹き蠢いていた"。






「ッッ…………!!」



声も出なかった。
本来は、絶句した。
ただ、言葉は言葉となって喉元から漏れてこなかった。
漏れるのは、息だけがかすかに、ひゅうと、空を切った。
涙が出た。
しばらく流すことのなかった雫が、頬を伝った。
そう、あの日以来。
「祖母に暴力を振るわれた、あの日以来の涙」が。
その黒い「モノ」は、見る見るうちに全身を覆った。
手に絡み付いて、手がただの黒い団子のように見えた。
足はもう、黒い粘粘があるだけにしか見えなかった。



そして――







「アが…………ッッ!!!」











一斉にして、それが全身に齧りついた。







2

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