人間は理と虚空に
壊れていた。
自我も何も、自分自身の全てが。
全身を得体の知れない何かに喰われ、静馬は絶叫した。
声の出ない、息だけの絶叫。
その間にも黒く粘ついた"生き物"は、身体中を這い回った。
服を、齧る。
その下の肉も、徐々に貪られる。
その度に、声にならない悲鳴が自分の中でこだまする。
神経をすりつぶされるような痛みが、静馬を襲った。
腕が。
足が。
耳が。
身体が。
僕が。
ぼくが。
全身を黒の集合体に覆われ、食い破られた。
そして…
腕の真新しい傷から、鮮血が垂れた。
黒い蠢きの中から、真っ赤な血が滴り落ち、足元を濡らした。
嫌だ。
嫌だ。
痛い。
嫌だ。
死にたくない。
死にたくない。
ボクは。
僕は。
全身の血の気が引き、顔面が蒼白した。
身体がよろめき、頭ががくんと項垂れた。
間一髪で近くの木の幹を掴み、黒い何かを振り払った。
それはあっけなく解かれて散り、身体から隔離されたが、意味は無かった。
すぐにのたうち回り始め、狂った芋虫のように静間の元へ舞い戻ってきた。
「…………!!」
地獄絵図だった。
静馬は出来るだけ冷静に、瞬間的に思った。
放っておけば、とりとめもなく全身を食いちぎられる。
振り払っても、すぐに戻ってくる。
噴水に飛び込んだりしても、恐らく無駄だ。
激痛が末梢まで行き渡っても、静馬は考えをやめなかった。
どうしてこうなった?
何が僕を、喰っているんだ?
この、黒い生き物は、何なんだ?
僕は…
瞬間。
ブチッ。
と、無慚な音を立てて、二の腕の大部分が、"喰われた"。
食い破られた「腕だった」部分が飛び散り、ただの白い肉片として、足元へ堕ちた。
その塊から更に、黒い生き物が湧いてきた。
滑った脂と血と肉とが混ざり合った、黒い「蟲」が。
「――――――――――――!!!!!!!」
叫びたかった。
腕をもぎ取られた痛みが、声となって漏れてくるはずだった。
が、息が詰まって、声が出せない。
喉の奥までもが、黒い「蟲」を詰め込まれたような、感覚に襲われる。
その何かを吐き出そうと咳き込んだが、咳は出ない。
ただ、ひゅう、と、空気の束が僅かに喉元から溢れるばかりだった。
全身が、身震いを始めた。
この時、静馬は初めてある感情を浮かべた。
『誰か…誰か来てくれ!』
瞬刻。
「俺を、呼んだか?」
不精な声が、背後から耳の中へ届いた。
次の瞬間。
全身を覆っていた「黒蟲」が、突如として飛び散った。
そして、無残にも食い荒らされた全身が、露わになった。
「……………?」
脳が、働かなかった。
喰われているのかどうかも、分からない。
自分が助かったのか、生きているのかも定かではなかった。
足元に散らばった黒は、先程とは違い、ぴたりと動かなくなった。
自分の来た道の黒も、その速度を遅くした。
その視界に、新しい情報が飛び込む。
"赤い蟲が、黒い道に散乱した"。
「!!!!!!!!」
刹那、頭が何がどうなっているのかを察知した。
と共に、背後の声が前へと躍り出た。
ハットを被り、赤に染まったその右手。
つい何時間前に出くわした、瀬川と言う男の後姿だった。
「あ…………」
「全く、世話が焼ける奴だぜ」
男はそういうと、赤い右手を更に掲げて叫んだ。
『俺の行く道を閉ざすものは、ここで消え去れ!』
その言葉と共に、赤い蟲が一斉に舞った。
そして、黒いものを覆い尽くすようにして、被さった。
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」
黒蟲が、悲鳴に似た破壊音を上げた。
金切り声が、あっという間に耳の奥まで劈いた。
静馬は血だらけの手で、耳を塞ぐ。
黒が泡を吹き、渦巻いて、じっとりと溶けていった。
タールのような液状物体が、眼下に段々と広がった。
次第に、意識がはっきりしてきた。
数十秒か、擱いて。静馬は原状を目の当たりにした。
赤い鮮血で染まった、自らの肉体。
夥しい黒で覆われた、公園の地面らしき場所。
右手から赤い蟲が滴り落ちる、男の姿。
その男、瀬川はこちらを向いた。
彼の顔は、慈愛と悲しみが混じっていた。
「これで分かったか?海部津君」
「……………」
返答が出てこなかった。
喋ることは出来たが、何を言っていいかが、分からなかった。
二の句が告げずにいると、男は哀れむように続けた。
「いい加減懲りたろ、自らこんな目にあったんじゃ…」
「…嘘だ」
「え?」
静馬は目線を瀬川へ向けると、夜にも冷酷な形相で睨みつけた。
「いや、嘘じゃない。これは現実で…」
「嘘だ」
「蟲って言う生き物の仕業で」
「嘘だ」
「人の心を…」
「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!!!!」
狂ったように言うと、静馬は傷だらけの身体を奮い立たせ、瀬川を跳ね除けて再び駆け出した。
その足取りは、重症人にもかかわらず軽快なものだった。
あっという間に瀬川を振り切ると、夜の闇の中へ溶けていった。
「………………」
瀬川はしばし呆然と立ち尽くし、少年の去った方角を見据えた。
黒い手袋を右手に戻すと、黒い液体の上を、にちっ、と音を立てて歩いた。
それは靴の裏にへばりつき、糸を引き、そして千切れた。
瀬川は公園の入り口、もとい出口まで歩き進んだ。
そこには真新しい、"黒い蟲の蠢き"があった。
静馬の後を追うようにして、それらはひしめきあっていた。
瀬川は、顔をしかめた。
「また、逃げられたの?」
途端に、前方から声がした。
夜の闇を貫くような、凛とした声の持ち主。
声質からして、女性だった。
「…みたいだな」
「もう…狂っているのかしら?」
「変異体<ミュータント>、ってわけでもなさそうだ。意識は、はっきりしてる」
「なら、追いかけた方がいいわね」
「…あぁ」
声の主はそういうと、再び暗中に消えた。
瀬川は、「黒い足跡」の残る道を見つめ、行き先を察知した。
「…やっぱそこか」
瀬川は風のように、走り出した。
***
「はぁ……はぁ……」
息が切れ、動悸が激しくした。
傷という傷が痛み、その度に小さく呻きを漏らした。
自分の部屋の、ベッドの上。
床に赤い血の跡を残しながら、静馬はベッドに横になった。
…その床に、まだ「黒い跡」があるとは知らずに。
静馬は額に手を乗せると、目を閉じた。
血が伝い、目の縁に入って、沁みた。
その程度の痛みはもう、感じることはなかった。
「…………………」
自分は、何がしたいのか?
何を恐れて、あの場から逃げてきた?
静馬は、脳裏で色々なことを考えた。
あの男に従った方がよかったのか?
ならば、どうして自分はそうしなかった?
無論。
プライドの高い自分の「心」が、それをさせなかった。
泰然自若、きわめて冷淡な自分の精神が。
他人に頼ることなど、今まで生きた上でこれといってなかったのだ。
そんな自分が、人を頼るはずがない。
人を、赦すはずがない。
人を、人を。
人を。
自分を「モノ」として扱った生き物が属する、人間を。
人を頼りにすることなど、馬鹿らしかった。
なんて惨めで、恥ずかしい行為だと罵り、嘲笑した。
全て自分の力で切り拓いてこそ、人間というもののあるべき姿だ。
近代の人間像というものは、昔に比べ随分と落胆した。
くだらない理由で死に。
くだらない理由で逮捕され。
くだらない理由で生きている。
人間は、屑だ。
間違いなく、歴史上で最もおろかな哺乳類だ。
いや、「生き物」という枠の中でも。
人間なんて、大嫌いだ。
絶滅すべき、偉大な腐敗物だ。
…それでも、僕も「人間」という枠の中で生きるものに過ぎなかった。
僕も、人間だ。
愚かな行為を繰り返す、人間だ。
窃盗。
殺人。
強姦。
脅迫。
誘拐。
自殺。
くだらない。
つまらない。
低俗な、行為。
下卑た笑いしかしない生物。
無味乾燥な、歩く生き物。
人間。
ニンゲン。
ニンゲン。
ニンgん。
人げん。
にんげん、にんげん。
心の底から人間そのものを、憎んだ。
その途端に、身体の奥に何か熱いものが生まれた。
殺意や憎悪にも似た、感情が…
「消え去れ!!」
咄嗟のこと。
身体の奥に芽生えつつあった感情が、打ち消された。
そして、床の上にあった黒い道も、綺麗に消えた。
ふと目を遣ると、先には男がいた。
「…これでもう、大丈夫か」
瀬川はやれやれと言った調子で、座り込んだ。
もう何が何と、区別がつかなかった、
次の瞬間、今まで忘れていた全身の激痛が、身体中を刺した。
「……………!!!」
「どうした今度は…、そうか、傷か」
男は静かに立ち上がり、帽子を深く被った。
静馬は激痛に耐えられず、そのまま気絶した。
瀬川はその身体を、軽々と持ち上げた。
「大丈夫だ、君は死にはしない。まだ、生きてもらわなければいけない」
瀬川は哀しく言うと、部屋を後にした。
家主のいない、その部屋を。
そして、
時計の針の音が、止まった。
……………………
……………………………………
丑の刻が終わる頃。
ひっそりと蟲が群れる街灯や、気配の消えた家々が立ち並ぶ大通りの一角。
静馬の血の跡が、黒く道を固めるとき。
静馬のアパートから数キロ離れた、雑貨屋の店。
かりそめの名、『雑貨屋 アトランジェ』の中。
更に、その奥。
気絶して動かない静馬の側に、三人の人間がいた。
凛とした表情で、静馬を見つめる女性。
枝毛だらけの髪を、手串で整える男性。
静馬を心配そうに見つめる、少女。
ここは彼らの居住地であり、「本拠地」だった。
外の店の看板が風にゆられ、ごんと音を立てた。
そんな音も響くほど、中は静寂に犯されていた。
「…当然の結果ね」
「まぁ、そうだろうな…。柚樹(ゆずき)ちゃん、容態はどうだ?」
「あ、えっと、応急処置はしました。そこまで重症というわけでもなさそうです」
「そうか…ありがとう」
その男は徐に立ち上がると、帽子を乱暴に投げた。
柚樹は慌ててその帽子を拾い、元あったと思われる帽子掛けへ戻した。
女性は、男性の方を向いて訊ねた。
「瀬川君、どうしたの?」
「どうもこうも、色々と動き回って疲れたんだ。ちょいと寝かせてくれ」
「そう…分かったわ、ご苦労様」
「あぁ、互いにな」
そういうと瀬川は、店の奥の更に奥、個室らしい部屋へ入っていった。
女性は元通りの体制に戻り、再び静馬を見つめた。すぐに奥からは、寝息が聞こえた。
柚樹が女性を対にして座り、その橙色の髪を書き分けながら言った。
「雪村(ゆきむら)さん。静馬さんは…助かりますよね?」
するとその雪村という女性は、難しい顔をして答えた。
「まぁ…十中八九ね。蟲化<ヘルミンス>は、防げたみたいだから」
「そうなんですか。よかった…」
柚樹は胸を撫で下ろし、安堵の表情を浮かべた。
その、数分後。
少女が、思いついたように立ち上がった。
「私、お茶淹れてきますね。静馬さんが起きたときのために」
「うん、よろしくね、柚樹ちゃん」
少女はにこっと微笑むと、店の奥に消えた。
女性―雪村と静馬を残し、店の中は静かになった。
雪村は小さく欠伸をつくと、静馬の方を一瞥した。
その時に、やっと気付いた。
静馬が、目を開けていたことに。
「…海部津くん?気が付いた?」
「……………」
「ここは、『雑貨屋アトランジェ』よ。
何がなんだか分からないと思うけど、とりあえずゆっくりして…」
「終わってない」
「え?」
「まだ…終わってない」
静馬は実にはっきりと、毅然な表情で呟いた。
その声に反応したのか、奥から瀬川と柚樹が飛び出してきた。
「どうした、雪村。何か…、…海部津君?目を覚ましたのか」
「し、静馬さん、ですよね…?」
二人の声は、落ち着きながらも、どこか焦燥の念が感じられた。
雪村ははやる気持ちを抑えて、訊ねた。
「終わってないって…どういうこと?」
「この、事件がです」
空気が凍りついた。
何故かは、また、後で知ることになる。
「なんだ、今回は海部津君を助ければよかったんじゃないのか、雪村」
「私はそう思っていたけど…。違うの?海部津君」
雪村がもう一度訊ねると、海部津はいっそう静かに答えた。
「まだ…僕を狙っている"蟲"は、たくさんいます。
ここじゃない…どこか遠く、人がたくさんいる場所。人間が、ひしめき合ってる場所。
この僕が、一番嫌っている、その場所に」
「海部津君、どうして君がそこまで…」
「どうか僕を…、僕を連れて行ってください。
僕の最も忌み嫌うあの場所――――、『学校』、に」