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序奏

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「……何を言っているんですか?」
 青年――――葉月は驚いた素振りをしながら、訊き返す。
「そのままよ。私、これ以上生きていても意味がないもの」
 雪村は困ったように笑う。
「だって私、"蟲"なんだから」
「………………」
 葉月は眉をひそめて、何も言わない。
 思いついたように雪村は立ち上がると、扉のそばの壁に肩を預けて、少しだけ真剣な表情をする。
「……というわけで、提案が」
「みなまで言わないで下さい、分かります」
 雪村の声を遮って、葉月が口を開く。
「あなたが提案することなど、容易に予想できます。そして僕はその提案について反対はしませんし、賛成もしません。ただ、あなたがそうしたいと言うなら構いません」
 そう言って、服の胸ポケットから小さな鍵を取り出した。
 複雑なパターンをした鍵で、昔使われていたコピー不能の鍵だった。
「…………本当に、勘がいいんだから……」
 呆れたように言う雪村を見て、青年は唇に手を当てて笑う。
「単に時枝さんの行動が予想しやすいだけですよ」
「……昔からそうだったわね。それじゃあ行きましょ」
「ええ」
 葉月が壁にある扉に斜線がかかった絵のボタンを押すと、扉が瞬きの間に消滅した。
 雪村が先行して二人は部屋から出ると、廊下をゆっくり進みながら会話を続ける。
「……こうなると、僕の命もそろそろと言うことになりそうですね」
「何言ってるのよ、葉月君。死ぬのは私、あなたは関係ないわ」
「いえ、大いに関係あります。"今"はまだ言えませんが」
 葉月は愉快そうに笑う。
「死ににいく人間にかける言葉としては、甚だ適当じゃないわね」
「はい。自覚しています」
「………………」
 その言葉の後、雪村は躊躇うように口を僅かに動かしたが、
「……どうしました?」
 葉月の一言で、意を決したように話し始めた。
「あなたは反対しないの? "あれ"を目覚めさせることに」
「もちろんです」
 雪村の質問に対して、葉月は微笑みを零しながら答える。
「さっきも言ったはずです。私はあなたの提案に、賛成も反対もしません。ただ、事の成り行きを見届けるだけです」
「……それが、あなたとあなたのお兄さんの言う『運命論』?」
「はは、僕と兄はこの世界においては少々異端ですから」

 それを最後に、二人の間にはしばしの沈黙が訪れた。
 建物の隅に隠れるようにしてある手術室のような場所の扉を開けると、更に進んでその奥にある扉を、先ほど葉月が取り出した鍵を雪村が差し込んで開ける。
 その先に存在する赤絨毯の敷かれた廊下の先には、一つのエレベータがあった。
 長らく掃除されていない様子で、率先して葉月が静かに進んでいくとそれでも埃が舞い上がった。
 おもわず葉月が咳き込むと、いつの間にか車椅子の取っ手を雪村が握っていた。
「……す、すみません時枝さん」
「ふふ、気にしないで。あと……」
 さん付けはしなくていい、と雪村は言いかけたが、すんでのところで喉元にとどまらせた。
「あと……? どうしましたか?」
「何でもないわ、早く行きましょ」
 葉月が不思議そうに頷くと、雪村は車椅子を押しながらエレベータのある方へと歩き始める。
 慎重に歩いているつもりでも、目に見えるほど埃が舞い上がった。葉月は両手で口と鼻を押さえ、目は瞑って埃が入らないようにしている。雪村はというと、さすがに雪村の顔の高さまで埃が舞い上がることはなかったが、黒のロングスカートがみるみるうちに埃で汚れていった。
 それすら意に介することなく、雪村と葉月がエレベータの前まで辿りつくと、扉の上にあるセンサーが反応し、自動的にエレベータの扉が開き、単調に鉄板で作られた内部が現れた。
「あら、いつの間に自動式にしたの?」
「このほうが楽ですからね」
 葉月が心なしか俯きながら答える。
 雪村はすぐに、不自由になった葉月の足に起因するものと察して、それ以上は何も訊ねなかった。
 エレベータに乗り込んで車椅子の向きを変えると、扉が閉まる。
『研究室ヘト自動移動イタシマス』
 女性の声を模した電子音が鳴ると、エレベータは階下へ降りはじめた。

「…………"あれ"の調子は、どうなの?」
 無音が広がる狭い空間で、雪村は小さく訊ねる。
「良好と言うと変な感じですが、今のところ問題は出ていません」
「……そう」
 雪村はぼそりと呟いて、そのまま口を閉ざした。
「……大方、自分の起こした問題は自分で解決しようって話ですか。案外あなたも瀬川さんのこと言えないかもしれませんね」
 葉月は両手を組むと、足を組んで腿の上に肘をつく。
「確かにあれは時枝さんが起こした"モノ"ですが、焦って消す…………いえ、消えることもないでしょうに」
「そうはいかないの」
 葉月の言葉を否定して、雪村は強い口調で言う。
「あれは私の目標にして、"蟲"として生きていく上での終着点。あれが生きている限りは、私は生きることも、死ぬことも永遠に出来ないのよ」
 雪村がそう告げた刹那。
 階下到着の電子音がなり、エレベータの扉はゆっくりと開いた。


「……行きましたね」
 清掃員の格好をした少女は、モップを持つ手に顎を乗せる。
「成る程…………あの部屋の更に奥、この建物にしては、やけに時代遅れの鍵がついていると思いましたが、やはりそこでしたか」
 少女は青色の帽子を取ると、床の上に乱暴に放る。
 帽子は大理石の床を滑って、やがて一つの大きな"繭"にぶつかって止まった。
「このままだと、埒があかないですね。少々段取りは異なりましたが、いよいよ手筈は整いました」
 次いで黒く汚れた清掃服も長靴も全て脱ぎ去ると、そこには少女ではなく、一人の少年が現れた。
 灰がかった前髪の奥に、切れ長な目を光らせる少年は、雪村と葉月の向かった方向へとゆっくりと歩みを始めた。
 その僅かな眼光に見えるは、悦び。

「今こそ甦るときですよ――――《神蟲》」

 期待を込めるように呟くと、少年は口の端を吊り上げて、不気味に笑う。

          †

 会話のないタクシーがひた走ること、一時間弱。

「……着いたよ」
 終始無口だった運転手が初めて口を開いた場所は、既に目的地だった。
 扉が開いて、瀬川、静馬、柚樹の順で車から降りる。天気は小雨に変わって、傘を刺す人は周囲にはほとんど見当たらなかった。それ以前に、人が全く見当たらない。
 タクシーはほとんど樹林に迷い込んだようになっていて、頭上からは陽光は一切降り注いでこなかった。樹木はどれも息を潜めるように苔むし、まるでその一帯だけが時間が止まったままにされているようだった。緩やかに風が流れても、それは少し嫌な臭味のする風。周囲をいくら見渡そうと、樹木以外の生命体は見受けられない、更に言えば樹々の立ち並ぶ風景しか視界には飛び込まなかった。
 そんな中、瀬川が運転手の方向を向いて、小さくお辞儀する。
「有難うございました、時雨屋さん」
「お前ら、本当に向かう気なのか? 今は良くねえ噂が立っているとのことだぞ」
 時雨屋と呼ばれたタクシー運転手が、彫りの深い顔を怪訝そうに歪める。
 訊ねられた瀬川は、笑顔を浮かべながら静閑に答える。
「はい、そのよくない噂が僕たちに関係している可能性がありますので、尚更です」
「ふうむ……」
 時雨屋は焦慮するような面持ちをするが、やがて呆れるように息を吐くと、
「それならいいんだが、あまり深く関与しないことだな」
「……ご心配なさらずに」
 瀬川のその言葉を聞くと、時雨屋は窓を閉めてタクシーのエンジンをかけて、首を捻って周囲の安全をはかると、バックで勢い良く走り去っていった。
「せめて武運の長久を祈る」
 三人に聞こえるように叫んで、間もなくタクシーは姿を消した。
 それを見届けると、静馬はすぐに瀬川に訊ねる。
「瀬川さん、ここは一体……何処ですか?」
 その質問に対して、瀬川は少し驚いたような顔をした後、
「あれ? 静馬君ならすぐにどこか分かると思ったんだけどなあ」
 と、予想外だと言う風に答えた。
 それならば、と静馬は再び風景を観察し始める。
 ひっそりと生い茂る、苔むした樹林の群れ。相変わらず嗅覚を刺激する微風。きぃん、と耳鳴りのような金属音が鼓膜を震わせる。くしゃくしゃになって落ちたビニル袋。名状しがたい恐怖感、不吉に笑うような葉の擦りあう音。透明な包装紙で巻かれた黄色い花。溢れる巌に、露呈した根茎。やせ細った樹、群ぐ蘚苔、転がり砕けた動物の"骨"――――。
 それらは共通して、静馬に一つの感情を抱かせた。
 ほぼ同時に、静馬はこの世界から隔離された光景の広がる場所を、一つ思い出した。
「その表情を見ると、理解したみたいだね」
 瀬川は静馬の視線をなぞると、たどり着いた動物の骨の元へ歩き、しゃがみこむ。
「ここは昔自殺の絶えない土地として知られていた…………樹海だ。今はそんな事件は年に数件しかなく、ただの国の天然記念物として知られている」
 瀬川は骨に軽く土をかけると、その場に立ち上がる。
「そしてこの奥に、僕たちの目指す場所、《パラマグラタ》がある」
「《パラマグラタ》、ですか。瀬川さんは、どれくらい行った事が?」
 静馬は特に変な意味合いもこめずに訊ねた。
「いいや、僕は一度も行った事がない」
「え? で、でも、ここは<インセクター>の本拠地なんでしょう?」
「本拠地へ行くのは、雪村さんのような各<ブランチ>の代表者だ。僕はただの戦闘員の端くれだから、こんな所に来る機会なんてないのさ」
「そうなんですか……」
 思いのほか予想外で、静馬は小さく口を開けたまま頷いた。
「私も来たことないんですよ、一体どんな所なんでしょうね?」
 若干表情を強張らせている柚樹が、震える声で静馬に話しかける。その瞬間、静馬の脳裏にはその震えの理由が自然に流れ込んできたような気がした。
「…………もしかして柚樹ちゃん、怖い?」
「そそ、そんなことないです! ただ少しここの景色が異様で、なんだかちょっと変わってるなーとは思いましたけど、怖いとかそういうのじゃありませんから!」
 やっぱり怖いんだな、と静馬は心中で零しながら微笑する。
「それじゃあ時が来るまで、話すべきことを話しておこうかな」
 切り出すように喋りだした瀬川は、樹の幹を手で触れながら話す。
「僕らが向かっている《パラマグラタ》。行ったことこそないけれど、そこには<インセクター>の全てが記されていて、分からない事はないらしい。言い換えれば、<インセクターの情報庫>とも言えるね」
 そこまで言って、瀬川は樹から手を放す。
「それともう一つ、《パラマグラタ》には重大な役割があると言う」
「重大な役割? 各支部の統治とか、そういうことじゃないんですか?」
 瀬川は首を横に振る。
「このことは一部の<インセクター>しか知らない事なんだけど……」
 その先の言葉を瀬川が紡ごうとしたときだった。

「あそこではかつて猛威を振るった巨大な蟲、"《神蟲》"が封印されていて、あなたたちが遭遇した<傀儡師>はそれを目覚めさせようとしてる。そういうことでしょ」
 刹那に聞こえた声。静馬はデジャビュのようなものが脳裏を過るのを感じた。
 振り返るとそこには、赤黒い髪をたなびかせながら闊歩する一人の少女。
 膝の高さまである、漆黒のブーツを履いた少女。
「エリカさん……」
「名前なんて言われなくても分かってる」
 一度静間を睨むと、エリカは不機嫌そうに静馬に詰め寄る。
「あんた、ここに来れるだけでも幸せ者だと思いなさいよ? 私なんて三年間<インセクター>をやってきて、ようやくここまで来れたんだからね。言っとくけど、あんたを認める気なんてさらさらないから」
 そう吐き捨てて、返事も待たずにエリカは首を背け、近くにある苔石に座り込む。
 唖然として言葉が出ない、静馬。
 その耳に次に届いた声は、エリカを柔らかく叱咤するような声だった。
「こらエリカ君……。ごめんね、静馬君」
「いえ…………あ、五條さん。お久しぶりです」
「うん。祐一も…………久しぶり」
「……………………はい」
 後を追って現れたのは、小さな紺のリュックを背負った五條だった。黒のジャケットに白いカッターシャツ、黒のスラックス――――言うなれば、喪服を模したような格好で、この場に現れるには少し異様な格好だった。
「五條さん、その服には何か意味が?」
「ああ、たまたまこんな服しかなくてね。ちょっと不吉だけど、仕方ない」
 五條は苦笑いしながら答える。嘘だ、と静馬は思った。
「まあ僕も<インセクター>と言えど、一線から退いた身だからね。特に戦闘用の装備はないんだ。……っと、なんて話してる暇もないかな」
 五條が僅かに表情を硬くし、腕時計を覗き込む。
「……まさか」
「そのまさかだ、祐一」
 瀬川の漏らした言葉に、五條は時計を見る目を逸らさずに答える。
「<傀儡師>が既に、《パラマグラタ》に到着しているようだ」
「………………!!」
 五條の発言に、場の空気が凍りつく。
「行こう。無駄話も、必要な話もする余裕はなさそうだ」
 簡潔に告げると、表情から笑顔を消した五條は足早に森の奥へと歩き始めた。
 奥なのかどうかも分からない、緑の天蓋が連なる領域へ。
36, 35

  

 遊歩道から外れた進路を辿る五人。人工物が一つとしてない、青木ヶ原の作り出した自然街道を、ひた進む。ざぁと喚く枝葉、白い斑点で覆われた樹皮。一度足を踏み入れたら二度と出ることは出来ない噂。その全てが、人の心の底にある「畏怖」に近い感情を引きずり出す。
 しばらく歩いた後、静馬はある一つの違和感に気がついた。
 静馬たちが歩いている、樹海の中のある一つの道。
 そこだけまるで人為的に刈り取られたように、樹が一本も生えていなかった。
「…………瀬川さん」
「うん?」
 少し先を進む瀬川に、静馬は訊く。
「どうしてこの道だけ、樹が生えていないんですか?」
 樹が生えていないと言うよりは、明らかに人の手によって敷石が置かれたというのが正直な感想だった。静馬たちが歩く、もとい先頭の五條が導く道だけ、他の地面とは違って握りこぶし程度の苔石が敷き詰められ、古来の参道のような雰囲気を醸し出している。
「ああ、それはね……」
「創始者が、作った道だ」
 瀬川の言葉を継いで、五條が背中を見せたまま話す。
「創始者?」
「うん。僕ら<インセクター>のトップであり、《パラマグラタ》を創設した人だ。彼はこの国へやって来たときに、ここ富士の樹海でこの国最初となる蟲と遭遇した。それが、《神蟲》」
 言い聞かせるように、優しく話す五條。
「《神蟲》はあらゆる"蟲"を生み出す存在と言われていて、放っておけば倍加的に"蟲"は増殖していってしまう。そのことを知っていたからこそ、創始者は単身で《神蟲》と接触した」
「た……単身でですか!?」
 瀬川が「それは知らなかった」と言いたげな表情で声を上げる。
 それを聞いても、五條は語り口を変えずに続ける。
「彼は<インセクター>史上に名を残す存在だ。激戦の結果、彼は己の身体を犠牲にしつつも《神蟲》を封印することに成功した。そしてその封印した《神蟲》を隠すためにも、彼は樹海の奥深くに僕ら<インセクター>の本拠地となる、《パラマグラタ》を建てた。そこは長らく秘密の場所とされてきて、ごく一部の<インセクター>にしか場所は教えられていなかったはずなんだ。
 ……だけど今回、最も知られてはいけない相手《傀儡師》に、その場所が嗅ぎ付けられてしまった。もちろん《神蟲》を目覚めさせるために、奴は《パラマグラタ》内部をしらみつぶしに詮索するだろう。で、丁度今くらいの時間に、《神蟲》の潜む場所を発見していると思うよ。と、同時にだ」
 五條は肩越しに振り返ると、少し剣呑な顔をする。
 して、告げる。

「雪村さんもおそらく、《神蟲》を目覚めさせようとするだろう」

「え…………!?」
「……………………」
 その発言に驚きを漏らしたのは、静馬と柚樹。
 瀬川は何も言わず、ただ少し苦しそうな顔をして歩みを続ける。
「雪村さんは言った」
 五條は再び前を向き、淡々と話す。
「もしも何者かが《神蟲》の居場所を突き止めるようなことがあれば、自分が犠牲になって《神蟲》を完全消滅させる、と」
「……雪村さんのような人が、どうしてそんなことを」
 口を閉ざしたままだったエリカが、抑揚なく呻く。
「自分の戦いを終わらせたかったんだろう。彼女が<インセクター>となる、そして"蟲"となるきっかけは《神蟲》にあったと言っても過言ではないからね」
「それはつまり、雪村さんは《神蟲》と接触したことによって"蟲"に?」
「ん、いや、それは少し違っていてね…………」
 静馬の解釈に、五條は歯切れの悪い言葉を返す。そして、
「…………言うしかないか」
 ふぅ、とあまり気が乗らない調子で、物憂げに言う。

「雪村さんは、《神蟲》の片割れなんだ」


          †

「……どうして、こんなにも早くここが分かったの?」
「ははっ、ちょっとある人に協力していただきましてね」

 《パラマグラタ》の地下にある、表向きには「機密資料安置室」と呼ばれる巨大な地下室。
 かくして実態は、秘密裏に封印し続けてきた《神蟲》を安置する場所。
 その地下室、まさに《神蟲》の元へと繋がる扉の前で、雪村と一人の少年が対峙していた。
 片方は、臨戦態勢剥き出しで。片方は、薄ら笑いを浮かべながら。
 雪村の身体に、名状できない戦慄が静かに走る。
「誰かは知らないけど、ここを通すわけにはいかないわ」
「おやおや、自分と喧嘩腰ですねえ」
 雪村の物言いに、少年は白髪をかき上げながら笑う。
「私はその奥にある"モノ"に用があるんです。退かないのならばそれで結構。私はあなたの屍を乗り越えて先へ進みます」
「……随分な言われようね」
 こめかみに汗筋を流しながらも、不適に笑う雪村。
「時枝さん……」
「葉月君、心配には及ばないわ。私を倒した所で、永遠に《神蟲》は甦らなくなるんだから」
「ほう……?」
 雪村の言葉に、少年がその表情を訝しげなものに切り替える。
「どうやらそれは、未知の情報のようですね」
「へえ、ここまで忍び込んでくるような<傀儡師>にも、わからないことなんてあるのね」
 そんな雪村の微笑を聞くと、少年は気味の悪いモノクロフィルム映像のように笑う。
「……まあいいでしょう。殺さない程度に痛めつければいい話です」
 そう言い捨てると、少年は右腕に巻いている包帯に手をかける。
「あなたの正体は分かりませんが、調べた限りでは、それとあなたの発言からして殺すわけにはいきませんからね」
 次の瞬間、幾重にも重なった包帯が解かれて――――


 "ぶつっ、"


 と、皮膚が内側から突き破られるような嫌な音がした。
 それは断じて、比喩などではない。
 少年の右腕から突き出るのは、銀色や薄灰色をぎらつかせるおびただしい量の刃、刃、刃。
 それだけにはとどまらず、長大な鉄の針がや肉厚の鉈が我こそはと主張するが如く、競って少年の右腕という狭い空間の中でひしめき合う。ぶら下げられた右腕から垂れる、黒みを帯びた鮮血ならぬ腐血が金属製の床を穿つたびに、少年の引き攣った笑顔がつり上げられる。
 少年は腰を低くして酔拳のような姿勢をとると、雪村に手の平を見せる形で右腕を掲げる。
 その表面には、濡れ手で粟という諺を硝子で表現したかのように突き刺さった硝子片。

「僕の"痛み"に、あなたは耐えられるでしょうか?」

 そう言って、少年は"にぃ"と笑う。
「<神斬蟲>……!? いや違う、そんな生半可な名前じゃ表せないくらい……」
「殺気に満ちている、ですか?」
 少年は、指の間から顔をのぞかせながら言う。
「でしょうねぇ? これは僕が今の今まで喰らって来た傷、そしてそれに対する恨み・憎悪・私怨何もかもがこの右腕には詰め込まれているでしょうから、他人からすれば尋常じゃないでしょうねぇ」
 そのままゆっくりと指を動かすと、雪村に照準を合わせるようにして、無造作に突き出た凶器を重ね合わせる。白髪の奥でその歪んだ顔貌には、嘲笑。
「ま、大丈夫です。すぐにそんなもの、感じることすら出来なくしてあげますから」
「言ってくれるわね、私があなたに負けるとでも?」
 今度は雪村が嘲笑する。そして汗が滲む拳を解いて、誘惑するが如くゆっくりと手招きした。嬲ることを楽しむサディストのように雪村の表情が段々と艶かしい笑みに変わる。そこにはもう、情愛に満ち溢れた雪村の笑顔などは微塵も残っていない。雪村は次第に、

 にぃ、

 と発条が狂ったからくり人形よろしく表情を引き攣らせる。
「……驚きましたね。それがあなたの本性ですか」
 特に驚いた素振りも見せずに、少年は一歩後ずさる。
「だと言ったら退いてくれるかしら?」
「まさか、そんなことするはずがないでしょう」
 そう答えた、刹那。

 答えを待たないで振り上げられた雪村の腕が、少年へと伸びる。
 原形を留めず"黒い百足状の生物の散乱する腕"が空気を凶暴に唸らせ、その目指す先は少年の肩口。
 ――そして。


 "ぐしゃっ!!"


 と、人体を叩き割る重く湿った音。直後、少年の体からは鮮血が滂沱として流れ出て、少年は一度その身体をふらつかせた。ばしゃ、と大量の血が床に飛び散って、血液特有の鉄臭さが漂い始める。
 雪村は右腕を少年の肩に噛み付かせたまま、無表情で少年を睨む。
「………………」
 双方、沈黙。それを確認するやいなや、雪村はそのまま少年の身体を食いちぎるように腕を引っ込める。幾多もの蟲が蠢く腕をぐるん、としならせて、薄明かりの中に一筋の黒い影が走る。
「………………」
 尚続く沈黙。
 少年は、虚ろな表情を浮かべたまま、微動だにしない。たとえその身体から滝にも負けない勢いで血潮がほとばしっていようとも、人を小馬鹿にしたような、瑣末の笑みを含んだまま。
 それに不満を覚えたのか、雪村はもう一度、少年に向けて右腕を構える。その表面でのた打ち回る鵺的な黒い生命体は、海中で揺れる海藻のようにゆっくりと身体をうねらせる。
 そして暫しの対峙後、今度は少年の胸部めがけて、雪村の持つ蠢動する塊が放たれた。
 直後、少年を中心に過剰の血液が在るべき場所を失って放出される。

 ぽたっ……

 腹部を黒に覆われたままの少年の手から、一滴ずつ血滴が垂れる。
 生命活動を停止したように、少年の身体からは回避行動どころか瞬きさえ失われていた。
 身体にめり込む切っ先が皮を"ぶつっ、ぶつっ"と喰い破り、肉を素手で握りつぶす音に似た不快音が静かに響く。それでもまだ、彼は動けない。動かない。

 ぽたっ……

 雪村の表情に僅かに人間味が戻る。
 そして即座に、今現在目の当たりにしている状況が信じられないものに思え始める。
 あれほどの傷を負ったにも拘らず、立ち尽くしたまま動きもしない少年。だからと言って、死んでしまったと言うわけでもない。瞬きはしているし、その顔には心なしか笑みのようなものも窺える。
 おかしい。明らかに――――異常。たとえ<傀儡師>言えど、あの傷は致命傷のはず。だとするとどうして、彼は立っている? どうして立っていられる? 私の力が弱すぎたの? どうして彼は立っているの? 何がワルかッタノ? 何ガ……
 そうやって脳内で自問を繰り返していた雪村の元に、一つの事実が訪れる。
 それは少年のことでもなければ葉月のことでもなく、雪村自身の"異常"だった。
 して、刹那。

「素晴らしい……」
 少年が待ちきれたと言わんばかりにポツリと漏らす。
「相手の隙を窺う狡猾な能力、一瞬の隙を見逃さない俊敏さ、そしてその殺傷力…………最高です。そのような強大な力、<インセクター>には手に負えないわけです……!!」
 胸部に空洞をつくったまま、少年は興奮気味に言葉を並べ立てる。
「何という力! 何というスピード! これだ、これこそ私が求めていた完全なる力、しかもその片鱗程度でこの破壊力……!! もう私、感激で涙が止まりません!」
 血塗れになった両手を頭に押し当て、糸が切れたように言葉を発し続ける。
「私たちの長らく追い求めた《神蟲》の力……しかと見届けさせてもらいましたよ! ……だが、やはりこれだけでは物足りない! もっとだ! もっと、《神蟲》の力を解放しろ!! 私の想像を超えてみろ《神蟲》!!」
 生きていることが不自然な身体のままで、少年は饒舌に話す。
「さあ……早く!!」
「うっ………………」
 勢いに圧倒され、優位に立っているはずの雪村は一瞬窮地に立たされた様な心持ちになった。
 だがすぐに邪念を振り切って、雪村は目の前に敵に向き直る。

 ぽたっ……ぽたたっ……

 少年の腕から落ちる滴が、一層勢いを増し始める。今にも一筋の流れになりそうなほど、滴る血液が床を穿ち、地下室の部屋を赤く染めていく。
 途端に訪れる緊迫感。血生臭さで思うように呼吸が出来ず、誰かの苦しそうな阿吽の音だけが地下の巨大な空間の中にこだまし、現実感のない景色が視覚を埋め尽くす。
 その中でうっすらと聞こえる、血の、落ちる音。

 ぽたたっ……ぽたっ……

 ゆっくりと、その勢いは弱まっていく。理由は、身体から血液が切れかかっている…………というわけではない。
 正確に言うなら、その逆。

 少年の身体にぽっかりと開いていた風穴が、徐々に狭くなりつつあったのだ。

「な……………………!!」

 絶句する雪村。
 その間にも少年の回復は止まることなく、やがてそこにあったはずの傷痕は一つ残らず消えてしまった。
「やはりその程度ですか……残念です」
 一呼吸置いた後、少年は呟く。
「あなたは《神蟲》の力を最大限に引き出せていない。私の研究結果によると、あなたほどの大きさの《神蟲》であろうとも、人一人瞬殺する程度の力は持ち合わせているはず。しかしあなたは…………なんて弱いんだろうか」
 もはや言葉も出ない、雪村。
 その脳裏にはもう、たった一つの単語しか浮かんでいなかった。
「あなたの器では使いこなせなかったと言う話ですね。だから早くそこを退いて欲しいと言ったのですが…………。まぁ、いいでしょう。軽いウォームアップにはなりました」
 指先に残った血痕を舐めると、少年は雪村の元へと近寄る。
「もうあなたに、用はありません」
 そうして、かちゃりと音を立てながら、右手の平を雪村の身体に突きつける。
 直後。

「さようなら、哀れな《神蟲の片割れ》さん」


 いとも容易く、彼の右腕は雪村の身体を貫通した。
38, 37

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