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二君

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 五條の発言から、感覚的に十分ほど後。

 怪訝そうに眉をひそめる静馬は、朴訥に言う。
「《神蟲》の片割れ、ですか」
 驚くことすら儘ならなくなった、現在。
 今ならどんな衝撃の事実を告げられても、もう驚かない自信があった。驚き慣れたというよりは、非現実の世界に慣れてしまった感覚。
「そうなんだ。話してないことが多くて済まないね、静馬君」
「いえ……」
 申し訳なさそうに瀬川が言う。
「これでもう分かったと思うけれど、雪村さんは最初から<インセクター>ではなかったんだ。片割れというのがどういう状態なのかは僕にも分からないけど、恐らく《人蟲》になりながらも理性を保っている、ということなんだろうね」
「じゃあ、雪村さんの能力って言うのは……」
 静馬の言葉に、瀬川が肯く。
「<インセクター>の力ではなく、《神蟲》固有の能力なんだ。《アザ・トース》という名前は、保持者でもある雪村さんが自分でつけた名前だ。そうすれば怪しまれることもないからね。そもそも<インセクター>の持つ力には少なからず"蟲"が関係してくるから、詳しい人間からすると"蟲"を利用せずに攻撃行動の可能な雪村さんの能力は<インセクター>のものではないとすぐに目星がつくんだろう。それで、あのソーマという少年も雪村さんを狙ってやってきたと考えられる」
「確かに、そうですね。そうなるとやはり彼が狙っているのは雪村さんの力――――《神蟲》の復活ということになるんでしょうか」
「それが妥当だろうね」
「…………」
 そこで会話を切り、静馬は視線を前に向ける。
 「もうすぐかな」と言って先駆けするように走っていった五条の姿を見失ってから、数分。
 《パラマグラタ》へと繋がる道は段々細くなり、最初は自動車二台分はあった道幅が、いつの間にか人一人が普通に歩けるかどうかというまでに狭まっていた。
 瀬川の後ろに、静馬。そのすぐ後ろに、幾許の不安を表情に募らせた柚樹。駿河は瀬川から少し距離をとって前を行き、その先には五條がいる。
 変わりない見映えの風景が、かさかさと平板な呻き声を立てる。日が射さないで辺りは夜のように暗く、歩く道の上を覆う止め処がない樹々は、外部からの侵入者を遮断し続けているようにも見えた。
 見ていれば不安が渦巻くだけの景色。
 静馬は視界に入るそれを、無意識に取り払った。
 そしてまた、沈黙が現れる。

「……………………」
 静馬は前を進む瀬川に目線を合わせ、無心で歩き続ける。
 だがそれはすぐに限界を迎えて、静馬の頭にはある疑問が浮かんだ。

(確か、五條さんは雪村さんも《神蟲》を復活させようとしているって言ってたなあ……。一体、どうやって目覚めさせるんだろうか)

 どうもそれが気になってしょうがなかった。
 いつのことかは分からないが、確かに《創始者》なる人物が封印を施して、この樹海の奥に安置したという《神蟲》。その解放手段となれば、それは厳重なものなのだろう。では一体、その方法とは一体何なのか?
 何らかの呪文を唱えて、それこそ魔法的な何かで封印されたものを解く。幾重にも縛られた鎖を解き放つ。実は巨大なシェルターで封じ込めていて、それを開放する。化学薬品か何かで反応を起こし、結果的に封印を解く。例えを挙げてみれば、とりとめもなかった。
 だが、そのどれもが《神蟲》と対峙した状況で実行できる封印方法とは思えなかった。一人で行ったとすると、尚更だ。
 それ故に、静馬はいつまでも結論を導き出せずにいた。

(もしかしたら、物理的なものじゃないのかもしれない……。でも、それだと何も思いつかないな)

 考えれば考えるほど、深みにはまっていくようだった。
 静馬は一旦、疑問の焦点をずらす。
 何も、疑問となりえることはそれだけではない。

(そもそも《神蟲》を復活させて、雪村さんはどうする気なんだろう。それじゃあ、自らを死地に追いやるようなものじゃないか。雪村さんは、そんなことをする人ではないはずなのに……)

 静馬の経験した限りでは、雪村は誰よりも命を重んじる人間だった。例え相手が"蟲"であろうとも、対象を殺す際、雪村の顔には哀惜の念が窺えた。――――今となっては、同種族であったからという解釈を取ることができるが、それでも雪村は、命というものを守るために戦う"人"だった。
 ……ならばなぜ、自らの命を捨てるようなことを?
 その疑問に対して、静馬の脳裏には一つの答えが現れた。

「……自己犠牲、なのかな」

 逆に、そうとしか考えられなかった。
 誰よりも命を大切にし、誰も死なないようにと周囲に気を配り続けてきた雪村。だがそれと引き換えに、雪村自身の命は絶え間なく危機に晒されてきたと静馬は聞く。
 誰かの命を守るためならば、自らの命は顧みない。雪村がやりそうなことだった。
 しかしそれでも、消えない疑問が一つ。
 それはやはり、先に考えた封印手段とその解放法だった。

(雪村さんは決死の覚悟で《神蟲》の封印を解こうとしているんだよな。それで、雪村さんはその《神蟲》の"片割れ"で――――――――)


「あ…………………………」

 瞬間。
 沈んだ闇の中に、一閃の光が見えたような錯覚がした。

(雪村さんが《神蟲》の片割れで、その雪村さんが《神蟲》に接触することで、封印が解かれる? 待てよ、それってつまり、"雪村さんじゃないと解放できない"って事なのかな? もし、そうだとしたら……)

 パズルのラストピースがはめられるようにして、静馬の頭の中で次々と仮説が組み立てられてゆく。
 …………それはやがて、一つの結論に達した。


(《神蟲》を解放する方法って、まさか…………)


 静馬がそう考えた直後。


「……着いたよ」

 ふと風のように現れたのは、五条の声。
 我に帰った静馬が顔を上げると。


 大きく開けた場所に、病院のような建物が一つ、建っていた。
 荘厳という形容がふさわしい、目の前に建つ建造物。樹海のような場所に建っていれば蔦や蔓が纏わりついていてもおかしくないが、妙に小綺麗でそれなりに違和感があった。敷地には一面に玉砂利が敷き詰められており、いかがわしい防護塀などは見当たらない。その代わり、入り口と見られる箇所には見るからに厳重そうな光沢のある扉が、ずっしりと身を構えていた。
 それを除けばいたって普通の大病院のような建物で、ここが<インセクター>の最重要拠点と言う事実と重ね合わせると、静馬は変な心持がした。
「ここが、《パラマグラタ》ですか……」
 上京したての田舎者のように、瀬川は眼前の建物を見上げる。
 されどその顔に感嘆の色はなく、その言動と心情は伴っていないようだった。
「そうだ」
 必要最低限の発言だけをして、足早に入り口へと向かう五條。
「割と普通の建物ね。もう少し近代的なものと思っていたけど」
 愚痴を零すように言う駿河は、帯刀した鉈を引き抜きながら歩く。
 鬱蒼とした樹林に空いた空間から射す淡い陽光に照らされて、銀色に鈍く光る。
「なんだか、すごく嫌な感じがしますね……うう……」
 そう不安げに呻くのは、静馬の後ろで首から上だけをひょっこりと出して眺める柚樹。小さな手で静馬の服の裾をきゅ、と掴んで、離そうとはしない。
 《パラマグラタ》を目の前に、押し黙る瀬川。
 入り口にある暗証番号入力装置みたいなものと向き合ったままの五條。
 不安げに歪めた表情を見せまいと、顔の前に鉈を掲げる駿河。
 静馬の後ろにぴったりとくっついたまま、恐る恐る見上げる柚樹。
 銘々が、普段とは異なる思いを抱える中。


 なぜか、静馬は微笑んでいた。
 その理由は、当の本人でさえよく分からなかった。

(なんだろう。怖いのは怖いんだけど、不思議な感じだ)

 恐怖に打ちのめされるよりも、高揚する気持ちのほうが強いような感覚。
 恐怖感とは違う、どこか古めかしい雰囲気。
 どうも言葉には出来ない感覚を、静馬は一言で呟く。


「……なつかしい」

 一瞬、辺りの樹が笑うようにざわめく。
「…………」
 静馬の言葉が聞こえたかどうかは分からないが、五条が振り返って静馬の方を向く。
「行こう。もう時間はない…………正確に言えば、もう時間切れだ」
 その言葉に、全員が沈黙のまま頷く。
 して、一分もしないうちに《パラマグラタ》の周りには再び人一人いなくなった。

 …………………………

          †

 騒がしい沈黙が訪れる。
 凍りついた空気が張り詰める《パラマグラタ》の「機密資料安置室」及び、《神蟲》が封じられし場所へと繋がる扉が存在する空間。

「う――――ぐぁ――――――」

 途切れ途切れの悲鳴のような声を上げる雪村。
 その胸部は、"凶器で作られた凶器"と言うべき異物が、静かに貫いていた。
 だが、そこからは血は流れない。
 真実を言えば、血では、ない。
 そこから流れ出、滴り落ちるのは――――――――"蟲"。百足、蜘蛛、蟷螂、蝿、蛞蝓………………夥しい極小の蟲の群れが、針や刃が突き破った皮膚の断面から湧水のように溢れ出す。そしてやがてはその皮膚までもが、得体の知れない六本足を持つ生き物と変貌し、削げた肉のようにぼろぼろと崩れ落ち始めた。無造作に飛び出した凶器の先端が、空恐ろしく光る。

 少年は表情一つ変えずに、凶器の右腕を"無理矢理捻る"。

 ごき、

 と、強引に肋骨を折るような恐ろしい音がして、捻った方向に雪村の上半身が動く。めりめりめり、と生肉か何かを引き裂く音が露骨に響き、皮膚を引っ掻く針が細長い楕円状の穴を作り、次々と引き破ってゆく。

「ひ――――ぐ――――――――げぼっ!!」

 半ば開いた口からは蟲の混じった唾液が垂れ、溺れたような悲鳴をあげる。瞳孔が開ききった死人のような眼からは、反射的に涙が流れ落ちる。しかしその涙もすぐに"蟲"へと変わり、雪村の身体のいたるところから血肉として構成されていた"蟲"が、滝にも負けない勢いで飛散した。
「う………………!!」
 言葉すら出ない、葉月。その膝の上の手は、静かに震えていた。
 しかし、それは恐怖とは少し違う、別の感情。――――「哀しみ」、に近かった。
 眉をひそめて、雪村に矛先を向ける少年を睨む。
「…………」
 少年は変わらず侮蔑の視線を雪村に向け、今度は大きく、腕を横一文字に薙ぐ。

 "ごしゃっ"、

 と先刻よりも重い、人体の内部を無茶苦茶に破壊しつくすような音がすると、雪村の身体が「く」の字に折れて、本来あるべき場所から僅かに、雪村の上半身が"ずれた"。べりっ、と皮膚を生肉から引き剥がす凄惨な音がして、血飛沫がすぐに蟲の塊へと変わり、周辺に飛び散る。折れた肋骨が内側から皮膚を引き攣り、幾許のうちに突き破って姿を現す。
 雪村の身体は大きくバランスを崩し、ぼたっ、と力なくその場に倒れこむ。身体は鳩尾辺りで二つに分断されていて、境目からはおぞましい数の蟲がぞろぞろと流れ出した。
 やがてそれらも、酸を浴びるように融けてゆく。

 ぎちぎちぎち……

 空に掲げたままの少年の右腕が、食事を終えたように金属音を立てて喚く。隙間からとどまることなく赤黒い蟲が零れ落ち、同じく染まった凶器の腕は徐々にその姿を消し去りつつあった。突き出た刃が身を縮め、病的に白い少年の地肌が露出する。少年はどこからともなく取り出した包帯を手早く巻くと、ようやく侮蔑以外の表情をその顔面に表した。
 といっても、それは限りなく侮蔑に近い嘲笑。
「……死にはしないでしょう? そもそも死なれては困ります」
 口をがたがたと震わせ、眼球が飛び出んばかりに目を見開いた雪村を見下ろし、少年は傲慢に言い放つ。
「思い出しましたよ。あなたは"死んでも死ねない"存在であるということをね」
 もはや人間とは思えない、"人間の部位で無造作に作られた"状態の雪村。
 それを少し離れていた所で見ていた葉月は、虚ろな表情をして言う。
「…………こうなることは、薄々分かっていました」
「ほう、あなたは随分と冷静ですねぇ? あれだけ寄り添っていたものですから、てっきり大粒の涙を流して泣くものかと思っていましたよ」
「…………それができれば、苦労はしないんですが」
 葉月は涙も流さずに、無残な有り様の雪村を見つめる。
 雪村は心臓が脈動するように定期的に痙攣し、その度にあらゆる箇所から蟲が零れだしてくる。廃棄されてしまったマネキンの様に身体の各部が損壊し、目を背けたくなるような光景が、それこそ一つの静止画のように鮮明に描かれていた。
 生きる死人と化した雪村から視線を外し、少年は正面に見える南京錠のかけられた扉に目をやる。
「さて、そろそろ拝見しましょうか」
 少年はゆっくりとした足取りで扉の前に立つと、勢い良く錠を引きちぎった。
 鉄製の錠を、まるで赤子の腕を断つように容易く。
 そして静かに、扉は開く。長い間閉ざされていたせいか、古紙の匂いのする埃の混じった空気が、一気に噴き出して来る。前髪を煽られた少年は、それを気に留めることもなく内部へと進んでゆく。
 その中は、実に簡素な作り。
 想像以上に狭い四畳半程度の部屋の中央に、SF映画さながらの円柱状ガラス水槽のようなものがあり、中は僅かな明かりに照らされて、暗く透き通る緑色の溶液で満たされていた。

 その中心にぽつりと浮かぶ、一匹の"蟲"。

「とうとう見つけましたよ――――"《神蟲》"」

 カブトムシ程度の大きさのそれを見つめて、少年は面妖に微笑んだ。
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「とうとう、この日がやって来たんですね。僕、いえ私達の願いがついに叶うときがきたのです、我が同胞<傀儡師>達よ……! ……ですが、」
 少年はガラスに両手をべたりと張り付かせ、その間から覗き込むようにして、《神蟲》を見る。して、表情から笑みを消すと、怪訝気に呟く。
「……確かに強力な封印を施してあるようですね。呪文か物質か、はたまた別の方法か?」
 無邪気に、首を捻りながら楽しそうに言う少年。顔つきを変えずにくつくつと不気味な笑い声を上げながら、軽く両手に握りこぶしを作る。
 悔しさとか、そんな感情の類ではない。むしろ、半ば興奮気味に身震いしている。
 少年はひとしきり水槽の中を眺めると、ガラスからゆっくりと手を放す。
「まあいいでしょう。一人残った葉月君とやらから聞きだせそうですからね」
 そう言って、僅かに口の端を吊り上げる。



 刹那。



「ま――――まだ――――――」

「ん?」
 少年が笑いをやめて振り向くと…………


「まだ――――始まらない」


「……なるほど、そういうことですか」
 少年は、感嘆と納得とが入り混じった相貌を見せる。
 その視線の先には。


 ふらつきながらも、五体満足で立ち上がる"雪村"。
 その容姿にもはやかつての面影はなく、顔の右半分ほどが豆粒ほどの真っ黒な"蟲"で構成され、眼球のあった場所には深い暗い窪みができていた。血液は全く飛び散っていない身体にその代わり膨大な量の"蟲"が頭、腕、足、顔、耳、口、あらゆる身体の部位に張り付き、あたかもそれ自体で身体を形成しているかのように、人間を形作る。
 すぐに、切断された部位に"結合"したらしい腹部付近の蟲の色が、人間の肌の色へと変貌する。そしてやがて、その上にまで着込まれていた衣服までも緻密に再現し、蟲は跡形もなく消えて、代わりに傷一つなくなった雪村の腹部が忠実に再現された。
 蠢きながら、徐々に雪村と同化していく蟲。
 それこそまさに、雪村は"蟲"の力を使って"再生"した。

「はぁっ…… はぁっ…… はぁっ……」
 大きく肩で息をする雪村。
 つう、と脂汗を頬に伝わせ、苛立ちを隠せずにいられないといった剣呑な眼差しを、少年へ向ける。
「まさか、再生までするとは思いませんでしたね」
「はぁ……はぁ…………ざ、残念だったわね……」
 雪村は息切れしながら、少年の方へと無防備に近付く。
「今度は何です? 油断させておきながらまた僕を殺そうと?」
「……ふふ……。さあね、私にも分からないわ」
「………………」
 双方、小さな笑みを浮かべる。

 言葉はない。
 本棚がいくつかあるだけのがらんどうな部屋に、阿吽にかき混ぜられるだけの沈黙が広がる。
 ただ一人、錆びた金属音を立てる扉。
 その奥に見える――――《神蟲》の入った水槽。

「言ったでしょう? 私がいなければ《神蟲》は甦らないと」
「…………何を………………」
 少年が饒舌を排し、刺すような目線を向ける。
 それを横目に、雪村は少年の言葉を無視して《神蟲》の前に立つ。
 取り巻く表面のガラスを、子どもの頭を撫でるように触りながら。
「そう。私がいなければ、《神蟲》が復活することはない。絶対にね」
「………………」
 身構えた体勢を崩し、傍観するように、少年。
 雪村は尚、両手を使って円柱状のガラスを覆うようにさする。そして、
「《神蟲》が甦るには――――――――」



 半壊した顔に、温厚で柔らかな笑顔を浮かべる。




「――――"私自身"が、鍵となる」

 次の瞬間。
 雪村が纏っていた服を突き破って、数十本もの"蟲の脚"が姿を現した。
 頭から。顔から。腕から。肩から。首から。手から。指から。胸から。腹から。腰から。足から。爪から。数え上げればきりがなくなるくらい、つい先刻身体を凶器が突き破ったように、今度は雪村自らの意思でその体内からいくつもの触手が湧き出してきた。
 間もなく各々が意思を持ったように動き始めると、すぐにその全ての照準が、溶液に浸かる《神蟲》の元に定まる。
 やがて、一度全ての脚がぴたりと動きを止めると。


 "轟っ"!!


 と空気を凶暴に震わせ、一斉に《神蟲》めがけて絡みついた。程なくして騒々しい音を立ててガラスが割れ、露となった《神蟲》に触手が群いで、"突き刺さった"。

「……これは………………!!」

 信じられない、と言わんばかりに少年が二三歩後ずさりしてたじろぐ。
 目先を雪村に向けると、既に彼女は身体からびっしりと生えた脚に包まれて、既に人間の姿を拝めなくなっていた。
「まさか……自らの命を捧げて《神蟲》を……!? ……いや違う。奴が《神蟲》の片割れで、こうして吸収"される"ことで、完全体に……!?」
 よくよく見てみれば、突き刺された《神蟲》の方は、次第にその大きさを増していった。
 相対して、"雪村だった《神蟲》の片割れ"は、段々としぼんでいくように見えた。
「そこまでして……何の意味が! なぜ故意に私に《神蟲》の力を与えるようなことを!?」
 触手の塊に対して疑問符を投げかける少年。
 もちろん、返事はない。
 神蟲は幾何級数的に膨張し、僅か数秒の間に部屋の半分を占めるまでの大きさになる。角をもぎ取られたカブトムシのような容貌はそのままに、黒ずんでいた身体をじわりと紅く、染めてゆく。
 

 その光景より、少し後ろの方で。

「時枝さん…………」
 残された葉月が、哀しげに呻いた。


「……さようなら」
「お……おおお…………」

 少年は思わず感嘆の声を漏らす。
 その視線の先では、《神蟲》なる巨大な甲虫を模した生物が、べきべきと音を立てながら肥大化を進めていた。闇色に覆われていた身体は徐々に鮮血のごとき真紅に染まり、装甲のような役割を果たしていたと見える外殻は、その役目を全うしたのか、ぼろぼろと崩れ落ち始める。殻が剥がれると、そこからは生々しく脈打つ赤い本体が垣間見えた。

「これは、なんと素晴らしい……!!」

 背中に見える羽のような部分が、小刻みに震え始める。深緑の前翅に黒ずんだ斑が浮かび上がり、やがて紫斑のような紋様が形成される。僅かに開いた前翅の隙間から折りたたまれた後翅が覗いたものの、それが動くという事はなかった。次いで、昆虫の脚と言うより龍の脚に近い、同じく斑模様を扮した"脚"が関節など無視して無造作に動き始める。先端の鉤爪が薄明かりに照らされて、鉛灰に光る。大の大人二人分はあろうそれは、そのうち地面があることを確認すると、力強く踏みしめた。
 この辺りまでは、まだ、通常の甲虫が巨大化したといってもいいくらいの風貌。

 少しして、その前方にある人の頭程度の大きさの"眼球"が、ゆっくりと開いた。取ってつけたような違和感のある目は、人と同じ色の血を走らせ、ぐるり、と回転する。分裂を繰り返すアメーバのようにぐちゃぐちゃになった瞳孔が、惑いながら段々と目の中央までやって来る。腐ったようにぶよぶよと揺れる眼球は焦点をあわせられないのか、ガチャ目のようになっていた。
 して、その眼球の少し下の「顔」にあたる部分に、特化した深海魚を彷彿とさせる、虫の類としては異様なほど巨大な口が現れる。臙脂色の歯茎から、"どろり"、と粘ついた血混じりの唾液が糸を引いて垂れる。その上に生える、歪んだ円錐の形をした牙が唾液で滑って鈍く光り、一層不気味さを醸し出す。
 ………………そして。

 人智の想像では及ばない、"虫"の域を超えた巨躯が完成した。


「そ、想像以上…………いえ、想像しようとも出来ませんでしたね、これは」
 大型トラックほどにまで膨張し、封印されてあった部屋に収まりきれないまでになった《神蟲》を目の当たりにし、少年は驚きをこめて溜め息を吐く。
「何はともあれ、計画通りです」
 僅かに痙攣し、まだ動けないように見える《神蟲》に背を向け、少年は背後の人の気配の方へと、視線を移した。
 そこには、車椅子に座ったまま眉をひそめる葉月。
「さて。あなたの"処分"はどうしましょうかね」
「…………処分、ですか」
 葉月は更に表情を険しくする。
「僕ならどうなろうと、全く構いません」
「やはりそうですか。どうも納得いきませんね」
 返事にやや上塗りして、少年は言い放つ。
「あなたに生に対する執着心と言うものは、微塵もないんですか? それともあなたは単なる、かのガンディーのような『非暴力不服従』を貫き通す人間なのですか?」
「いいえ、そうではありません」
 饒舌に問いかける少年に、葉月は穏やかに答える。
「こうなることは最初から決まっていたことです。なので僕は空前の恐怖を拒絶することはありませんし、眼前の障害を避けようとも思いません。流れるままに、生きて行くだけです。だからあなたに殺されてもあなたを恨みませんし、あなたに殺されずとも僕はもうじき死ぬでしょう」
「…………"あなたも"、『運命論』ですか」
「?」
 あなたも、という少年の言葉に葉月は首を傾げる。
「こちらの話、あなたには関係ありません」
 何を聞くでもなく、少年は一方的に話す。
「この調子ならば、あなたを殺しても殺さなくても差し障りないようですね」
「はい。それはあなたも同じことです」
 葉月は険しい表情を解き、微笑んで言う。
「あなたの"運命"も既に、決まっているんですからね」
「その『運命論』というものは、どうも信じられませんが」
 少年は呆れたように、ふう、と溜め息をつくと、右腕の包帯に手をかける。
 凶器を封じ込めている――――――包帯に。
「それでは、あなたには死んでもらうとしましょうか」
「予想できていたことです」
「……………………………………」
 迫る死を目の当たりにして、尚も笑う葉月。
 少年は不愉快そうに、表情を歪めた。包帯を解こうとする左手を、一層強く握り締める。
 そして、無言のまま少年が勢い良く包帯を解くと同時に、寄り添うように右腕から"びっしりと"生えた包丁、カッターナイフ、大鋏――――利剣の群れが、再び露わになった。
 少年は強かに、"右腕"を擦り合わせる。
「せいぜい予想でもしておいてください」
 そう皮肉げにいい捨てると、視線と凶器のベクトルをゆっくり合わせ――――

 少年の右腕が葉月の肉体に、






 "ぐしゃっ、"





「…………………………!!」


 肉を握りつぶすような音を立てたのは、"葉月の身体ではなかった"。


「な…………に………………!?」

 目を大きく見開いて、歯を食い縛る少年。
 その脇腹は、"大きく抉り取られていた"。
 一瞬よろめいて項垂れ、すぐさまどういうことかと状況判断のために少年が頭をあげると。

「……………………!!」
「どうも始めまして」
 血で染まってしまったかのように、薄闇に照らされて赤みを帯びる黒のジャケット。皴一つなく、真っ直ぐと伸ばされたスラックス。右腕に持たれた、黒光りする等身大の棍のようなもの。
 全身が黒で覆われている、冥界からやってきた、そんな印象が窺える一人の男。
 少年はその男の姿を確認すると、はっきりと舌打ちした。
「貴様…………!!」
「ん? 始めまして、じゃなかったかな?」
 男はあしらうようにふふっと笑い、数歩後退する。
「言っておくけど、僕が何かするのはここまでだよ、<傀儡師>君」
「……………………」
 射るような眼差しを向けたまま、僅かに肩で息をする少年。
 対して男は、余裕と言うよりも平静と言う言葉が似合う口調で、
「後のことは全て、"彼ら"に任せるから」
 そう言って、後ろへ行く足を止めると。


「頼んだよ、<インセクター>」


 彼の後ろから、二つの人影が飛び出した。

「来るか…………!!」
 少年は、退かない。
 さらけ出した右腕を盾のように構えると、直後。
 すぐに甲高い金属音がして、少年の右腕は一本の肉厚な鉈と鍔競り合った。
 持ち主の赤髪の少女は、不機嫌そうに舌打つ。
「なんだ、不意打ちで倒せると思ったのに」
「……残念でしたね」
 何とか耐えたと言う相貌を演じながら、少年は少女を振り払う。
 そして、

「――――<ここで消え去れ>」
「…………!!」
 不意背後から聞こえた声に、少年は大きく身を翻らせる。
 すると、先刻まで少年が立っていた場所を、巨大な赤い"蟲"の群生が通過する。
「……面倒ですね」
 少年は無差別に右腕を振り回すと、自らを襲ってきた二つの勢力を追い払う。空気が凶暴に唸って、壁にぶつかり、破砕音と共にぼろぼろと崩れた。
 それをかわすようにして、少年と間を取って降り立つ二つの影。

「……エリカ君。真っ先に飛び込むのはどうかと思うけど」
「分かってます。でも、瀬川さんも飛び込みましたよね」
「まあそうだけど……」
「なら、おあいこです」
 二人の<インセクター>、瀬川と駿河は横並びで少年と対峙する。
 瀬川の顔には、緊張が相乗したような強張った表情。
 駿河の顔には、殺人鬼のような狂った笑顔。

「やはり、衝突は避けられないということですか……」
 明らかに不利な状況に直面して、それでも少年は、哂う。
 右手に携えた武器を、舐めるように顔の前に構えて。
「……分かりました、始めましょう」

 口元を、今までにないくらい吊り上げる。



「<インセクター>と<傀儡師>の、前例なき直接対決を」




 《神蟲》の眼が、僅かに動いた。

42, 41

黒兎玖乃 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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