三傑
赤黒いストレートヘアが、空を裂く。
「<狂った墓標の下に>ッ!!」
少女――エリカが声高々にそう叫んで床に鉈を突き刺すと、
どごっ!!
と耳を聾する轟音が響き、リノリウムの床を突き破って、"鉈"が首を出した。
一本ではなく――――何本も。エリカが鉈を刺した場所から湧き出るようにして何本もの鉈が突き出、同心円から僅かに切り取ったように床を砕きながら突き進む。
間をおくことなく次々と飛び出す鉈は、手当たり次第に床を破壊しながら少年の元へ――ソーマの元へと伸びる。
「ふん」
軽く鼻を鳴らすと、ソーマは横っ飛びして鉈の群生から軸をずらす。直後、少年の横を掠めて、波動のごとき鉈の山は壁に到達し、騒々しく破壊する。
眼球だけ横に向け、パラパラと散る壁片を眺めながら、ソーマは笑う。
「なるほど、《破壊者》ですか」
「だったら、何?」
微笑を浮かべたまま、エリカは鉈を引き抜き、そのままソーマへと向ける。
「私の能力がなんだろうが、アンタには関係ない。私は《破壊者》と与えられた使命に従って、全てを破壊するだけ。アンタが敵だろうが味方だろうが関係ないわ」
「ふむ、実に正しい見解ですね」
ソーマは右腕をぶらさげて揺らしながら、左手で手招きする。
「受けて立ちます。どこからでもかかってきてください」
「言われ……なくともっ!!」
今度は単身で突っ込み、右手に携えた鉈を大きく振りかぶる。標的のソーマも、右腕を盾にするように構えて。直後、地下室に耳を劈く金切り音が鳴動し、エリカが振り降ろした鉈をソーマの右腕が受け止めた形となる。
間髪入れずにすぐさま刀身を弾くとエリカは大きく後ろへ跳び、バネが力を蓄えるように膝を曲げて、刹那のうちに凶器を持つ少年へと疾駆する。
「ふ…………!!」
あまりにも単調すぎる攻撃にソーマは一笑し、真正面から対峙して、鉈を薙ぎ払うかのごとく横一文字に右腕を振るった。空気が、粗暴に唸る。
読みは当たり、エリカの持つ鉈は快音と共に弾かれ、少し離れた地面に突き刺さった。
「ッ……!!」
「これで丸裸ですねぇ」
嘲笑うようなソーマに、エリカは同じく嘲笑を返す。
「私を甘く見ないことね――――<狂った墓標の下に>!!」
再びエリカがそう強く吟じると、遠く突き刺さった鉈の根元から幾重もの鉈が溢れんばかりに突き出し、道を作るようにしてソーマの方へ雷光の如く迅る。
それを一瞬にして感じ取ったソーマは、後方の壁へと跳躍。
「(この鉈の波は先刻壁に衝突して消滅していた…………が)」
眼下を噴水に劣らぬ勢いで破砕する鉈の群生。
「(本当に消えるわけではあるまい)」
逡巡することなく、ソーマは近くの壁に置かれてあった本棚の上に飛び乗る。
「(……かかった)」
そうとは知らず、本棚の上に避けたソーマを見て、エリカは笑う。
先ほどはわざと壁まで到達した"鉈の道"を消した。あくまで、鉈の道は地上のみに生える、と思い込ませるために。うまいこと、引っかかってくれた。本棚の上に行けば、壁を伝う鉈の道からは避けられない。そうなれば必然的に、地上へと飛び降りざるを得なくなる。そうなれば今度こそ……本体を叩ける。
「こうなったらもう、こっちのもんよ」
誰に言うでもなく呟くと、エリカは本棚の上に意識を集中させる。
そして。
「死ぬがいいわっ!!」
裂帛の叫びと同時、壁に衝突した鉈の道が壁伝いに上る。
本棚の上で屈み込んでいる、ソーマめがけて。
「な…………!?」
と、予想外の展開に驚く素振り、を演じるソーマ。その目前にまで、突き出す鉈が撒き散らした壁片が迫る。
それでもやはり、彼は笑った。
ソーマは壁を思い切り蹴ると、放物線を描いて地面へと降りる。するとそこには、待ってましたと言わんばかりに突っ込んで来るエリカ。
飛び降りて硬直するソーマと今にも攻撃を繰り出さんとするエリカ。
勝負はあったかと思われた。
「<行く先を閉ざすものは、ここで消え去れ>!!」
そう、焦りの混じった声が聞こえたかと思うと。
エリカの周りを、赤い"蟲"の群集が覆った。
その直後、無数の刃の嵐が赤い蟲――――もといエリカめがけて降り注いだ。
「な…………!?」
双方、驚愕。
エリカは、いつの間にかめぐらされていた刃に関する驚嘆。ソーマは、第三者によって自分の攻撃が防がれたことに関する驚嘆。
そして、二人が同時に合わせた視線の先には。
「二人だけで戦うなんて、ずるいな。僕も混ぜてくれよ」
微かな笑みを浮かべた、瀬川。
その薄く開かれた眼の奥には、冷酷さのにじみ出る憤慨があった。
「瀬川祐一。あなたのような人間が多勢に無勢のような状況を許すと?」
「君が一人だろうが、全くもって見解の余地にない」
冷淡にあしらうと、瀬川は目線も合わせずに二人の元へと近付く。
「瀬川さん…………」
「言っただろう、熱くなりすぎない様にと」
「それは……………………」
それだけ言うと、瀬川は赤い蟲で覆われた右手に、黒い手袋をはめる。直ぐ後、エリカを纏っていた赤い防護壁が消滅した。
訪れる、緊迫した空気。
ソーマからすれば、この上ない好機。このままエリカを殺して瀬川とのタイマンに持ち込めれば、上出来と言えるところだった。
しかし、身体は動かない。
意識しているわけでもなく、足の裏が地面に貼り付けられたように動かせなくなる。
ソーマは、明らかな異常を感じ取れずにはいられなかった。
足が動かないとなれば、考えられる理由は二つ。一つは、瀬川が何かしらの力によって動きを封じている。しかし瀬川の力、《黙示録の業火》については熟知していたので、そのような力は持っていないという事は自明の理だった。
とすれば、残る理由は一つ。
自分が、瀬川の奴の力に臆している。
「……………………!!」
ソーマは怒りを込めて歯噛みした。
怒りの対象は瀬川に対してではなく、それに対して知らず知らずのうちに恐怖の念を抱いていた自分。
「(瀬川祐一、これほどの力を有していたというのか!?)」
予測できなかった事態に、ソーマは若干気後れする。下手したら、負ける可能性もあるかもしれない。
そうとさえ考えた、その時だった。
背後から響いた、猛獣が呻くような重低音。
くしくもその方向は、《神蟲》がいる方向。
して、刹那。
悲しみの限界を超えた人間の悲鳴を極限まで低くした――――としか形容の余地がない、心臓に響く獰猛な大音声が、張り詰めた空気を一気に切り裂いた。
「<狂った墓標の下に>ッ!!」
少女――エリカが声高々にそう叫んで床に鉈を突き刺すと、
どごっ!!
と耳を聾する轟音が響き、リノリウムの床を突き破って、"鉈"が首を出した。
一本ではなく――――何本も。エリカが鉈を刺した場所から湧き出るようにして何本もの鉈が突き出、同心円から僅かに切り取ったように床を砕きながら突き進む。
間をおくことなく次々と飛び出す鉈は、手当たり次第に床を破壊しながら少年の元へ――ソーマの元へと伸びる。
「ふん」
軽く鼻を鳴らすと、ソーマは横っ飛びして鉈の群生から軸をずらす。直後、少年の横を掠めて、波動のごとき鉈の山は壁に到達し、騒々しく破壊する。
眼球だけ横に向け、パラパラと散る壁片を眺めながら、ソーマは笑う。
「なるほど、《破壊者》ですか」
「だったら、何?」
微笑を浮かべたまま、エリカは鉈を引き抜き、そのままソーマへと向ける。
「私の能力がなんだろうが、アンタには関係ない。私は《破壊者》と与えられた使命に従って、全てを破壊するだけ。アンタが敵だろうが味方だろうが関係ないわ」
「ふむ、実に正しい見解ですね」
ソーマは右腕をぶらさげて揺らしながら、左手で手招きする。
「受けて立ちます。どこからでもかかってきてください」
「言われ……なくともっ!!」
今度は単身で突っ込み、右手に携えた鉈を大きく振りかぶる。標的のソーマも、右腕を盾にするように構えて。直後、地下室に耳を劈く金切り音が鳴動し、エリカが振り降ろした鉈をソーマの右腕が受け止めた形となる。
間髪入れずにすぐさま刀身を弾くとエリカは大きく後ろへ跳び、バネが力を蓄えるように膝を曲げて、刹那のうちに凶器を持つ少年へと疾駆する。
「ふ…………!!」
あまりにも単調すぎる攻撃にソーマは一笑し、真正面から対峙して、鉈を薙ぎ払うかのごとく横一文字に右腕を振るった。空気が、粗暴に唸る。
読みは当たり、エリカの持つ鉈は快音と共に弾かれ、少し離れた地面に突き刺さった。
「ッ……!!」
「これで丸裸ですねぇ」
嘲笑うようなソーマに、エリカは同じく嘲笑を返す。
「私を甘く見ないことね――――<狂った墓標の下に>!!」
再びエリカがそう強く吟じると、遠く突き刺さった鉈の根元から幾重もの鉈が溢れんばかりに突き出し、道を作るようにしてソーマの方へ雷光の如く迅る。
それを一瞬にして感じ取ったソーマは、後方の壁へと跳躍。
「(この鉈の波は先刻壁に衝突して消滅していた…………が)」
眼下を噴水に劣らぬ勢いで破砕する鉈の群生。
「(本当に消えるわけではあるまい)」
逡巡することなく、ソーマは近くの壁に置かれてあった本棚の上に飛び乗る。
「(……かかった)」
そうとは知らず、本棚の上に避けたソーマを見て、エリカは笑う。
先ほどはわざと壁まで到達した"鉈の道"を消した。あくまで、鉈の道は地上のみに生える、と思い込ませるために。うまいこと、引っかかってくれた。本棚の上に行けば、壁を伝う鉈の道からは避けられない。そうなれば必然的に、地上へと飛び降りざるを得なくなる。そうなれば今度こそ……本体を叩ける。
「こうなったらもう、こっちのもんよ」
誰に言うでもなく呟くと、エリカは本棚の上に意識を集中させる。
そして。
「死ぬがいいわっ!!」
裂帛の叫びと同時、壁に衝突した鉈の道が壁伝いに上る。
本棚の上で屈み込んでいる、ソーマめがけて。
「な…………!?」
と、予想外の展開に驚く素振り、を演じるソーマ。その目前にまで、突き出す鉈が撒き散らした壁片が迫る。
それでもやはり、彼は笑った。
ソーマは壁を思い切り蹴ると、放物線を描いて地面へと降りる。するとそこには、待ってましたと言わんばかりに突っ込んで来るエリカ。
飛び降りて硬直するソーマと今にも攻撃を繰り出さんとするエリカ。
勝負はあったかと思われた。
「<行く先を閉ざすものは、ここで消え去れ>!!」
そう、焦りの混じった声が聞こえたかと思うと。
エリカの周りを、赤い"蟲"の群集が覆った。
その直後、無数の刃の嵐が赤い蟲――――もといエリカめがけて降り注いだ。
「な…………!?」
双方、驚愕。
エリカは、いつの間にかめぐらされていた刃に関する驚嘆。ソーマは、第三者によって自分の攻撃が防がれたことに関する驚嘆。
そして、二人が同時に合わせた視線の先には。
「二人だけで戦うなんて、ずるいな。僕も混ぜてくれよ」
微かな笑みを浮かべた、瀬川。
その薄く開かれた眼の奥には、冷酷さのにじみ出る憤慨があった。
「瀬川祐一。あなたのような人間が多勢に無勢のような状況を許すと?」
「君が一人だろうが、全くもって見解の余地にない」
冷淡にあしらうと、瀬川は目線も合わせずに二人の元へと近付く。
「瀬川さん…………」
「言っただろう、熱くなりすぎない様にと」
「それは……………………」
それだけ言うと、瀬川は赤い蟲で覆われた右手に、黒い手袋をはめる。直ぐ後、エリカを纏っていた赤い防護壁が消滅した。
訪れる、緊迫した空気。
ソーマからすれば、この上ない好機。このままエリカを殺して瀬川とのタイマンに持ち込めれば、上出来と言えるところだった。
しかし、身体は動かない。
意識しているわけでもなく、足の裏が地面に貼り付けられたように動かせなくなる。
ソーマは、明らかな異常を感じ取れずにはいられなかった。
足が動かないとなれば、考えられる理由は二つ。一つは、瀬川が何かしらの力によって動きを封じている。しかし瀬川の力、《黙示録の業火》については熟知していたので、そのような力は持っていないという事は自明の理だった。
とすれば、残る理由は一つ。
自分が、瀬川の奴の力に臆している。
「……………………!!」
ソーマは怒りを込めて歯噛みした。
怒りの対象は瀬川に対してではなく、それに対して知らず知らずのうちに恐怖の念を抱いていた自分。
「(瀬川祐一、これほどの力を有していたというのか!?)」
予測できなかった事態に、ソーマは若干気後れする。下手したら、負ける可能性もあるかもしれない。
そうとさえ考えた、その時だった。
背後から響いた、猛獣が呻くような重低音。
くしくもその方向は、《神蟲》がいる方向。
して、刹那。
悲しみの限界を超えた人間の悲鳴を極限まで低くした――――としか形容の余地がない、心臓に響く獰猛な大音声が、張り詰めた空気を一気に切り裂いた。
「うっ………………!?」
その場に居合わせた誰もが、耳を押さえて呻く。
突如鳴り響いた大地を震わす怒号は、まるで猛獣が咆哮するような生き物じみた鳴き声。
「まさか――――」
片目を閉じて歯を食い縛り、何とか持ちこたえた瀬川が見た先には、
"ぎろり"、
焦点の合わない眼で睨む、《神蟲》がいた。先ほどから微動だにしなかった《神蟲》が、明らかに"異端者を威嚇するような眼"で、瀬川のいる方を捉えたのだ。
僅かに上下する下顎から垂れる唾液。今にも走って動き出しそうな、宙に浮いたり地に着いたりを繰り返す六本の脚。血走って瞳孔以外が真っ赤に染まった、やや楕円形になった眼球。そして先の咆哮――――――――それらが示すものは、唯一つの真実だった。
――――《神蟲》の、復活。
「くそ、もう甦ってしまったのか……」
悔いるようにぎり、と歯軋りをする瀬川。
《神蟲》の咆哮で僅かに平衡感覚が崩れたような感覚はしたものの、しっかりと二本足で地に立つと、右手の黒手袋を掴んだ。
眼前には《神蟲》を隔てて、自分と同じように《神蟲》と対峙する二人。
片方は敵、片方は味方。
瀬川は、本気を出せば《神蟲》を倒すことも出来ると確信していた。自分の力――――《黙示録の業火》を命を消費する覚悟で発動すれば《神蟲》さえも倒せる。そう自負していた。
しかし今目の前には、傷つけてはならぬ存在が一人いる。
言うまでもなく、それは駿河エリカだった。
「…………駄目だ」
手袋にかけた左手をそっと離す。
――無理だ。僕には無理だ。
誰かの命を犠牲に、障害を消し去ることなど。
邪魔をしたのは、やはり今だ瀬川の心に眠る躊躇い。
何年と<インセクター>の生活を歩んでいようと、瀬川の心や身体から消えることのない、<人を殺してしまうことに対する恐怖感>。<インセクター>は自らのトラウマと"蟲"の力を融合させ個々の能力を発揮するのだが、瀬川は<インセクター>になった当時の記憶はほとんど消えているため、自分が何に恐怖を感じているのか、その理由はどうしてなのか、全くもって分からなかった。
今になって気付けば、自らのトラウマを思い出せないことさえトラウマに変わりない。
原材料の分からない料理を咀嚼するような、先の見えない恐怖。
それは、ただでさえ追い込まれた瀬川の心を、勢いよく突き飛ばした。
「くっ…………!!」
左手を中途半端に空に浮かせたまま、《神蟲》を睨む瀬川。
その時。
《神蟲》と、はっきり"目が合った"。
†
「あれが……《神蟲》!?」
顔の前に腕を構えて、飛散する床片から視界を守る静馬。
僅かに開いた腕の隙間からは、ぶよぶよと揺れる《神蟲》の眼球がはっきり見えた。
「そうだよ」
五條は、無機質に答える。
「日本において最初に発生した"蟲"である、《神蟲》。古来から伝わる<神虫>からとってつけられた名前だ。その力はあまりにも強力すぎて、創始者でさえも封じ込めるのがやっとだった」
眉根を寄せながら、五條は腕組みする。
「残念ながら、祐一とエリカ君では倒すことは出来ないだろう。絶対にありえないだろうけど、<傀儡師>の彼がもし味方に加わってくれたとしたら……、いや、それでも封印が精一杯なのかもしれない」
「そんな」
落胆よりも驚嘆を滲ませて、静馬は呻く。
「あの二人が力を合わせても、敵わないなんて……」
静馬の中では、瀬川とエリカという組み合わせは最強じゃないかと思うくらい強力だった。それは単に他の<インセクター>をほとんど知らないと言うのもあったが、それを加えても今だ頂点に立つほど、二人の力は強大に見えた。
自分の命を救ってくれた、瀬川。
静馬とほぼ同年齢でありながら、瀬川と同等の力を有するエリカ。
その存在は、静馬の中でも一際強い光を発していた。
しかしその二人が力を合わせても、《神蟲》には太刀打ちできない。ましてや、向こうにはまだ<傀儡師>のソーマもいる。そうなれば恐らく、二人に勝ち目はない。
そこまで考え、諦めの念が脳裏に浮かんだ所で、静馬はある一つの解決案を思いついた。
「ご、五條さんは、戦えないんですか?」
声だけを五條に投げかける。
前に五條と共に"蟲"――――《女王蜂》と戦った時、確かに五條はあの凶悪な蟲と衝突していた。その全容こそは明らかにはならなかったが、五條は静馬の思う以上の力を持っているのではないかと、静馬は考えた。
「………………どうだろう」
俯き加減で、五條が曖昧に言う。
「僕はもう一度退いた身だ。戦闘用の力なんて久しく使っていないから、感覚も既に忘れてしまっているよ」
静馬に顔を向け、苦笑する。
静馬は即座にそれが嘘だと感じたが、言葉にはしなかった。
「……そうですか」
そうとだけ答え、再び《神蟲》のほうを見据える。
「…………………………………………………………」
後ろで静馬の服の裾を、きゅ、と掴む力が、強くなった。
「方法なら、ないことはありません」
「え?」
静馬が振り返る先には、五條が避難させた葉月の姿。
「《神蟲》を倒す方法です」
静馬、それに五條の返事を待たないまま、葉月はやや饒舌に語りだす。
「僅かですが、《神蟲》からはまだ時枝さんの意識が感じ取れます。それが時枝さんが《神蟲》の封印を解いた理由なのかもしれませんが、時枝さんの《神蟲》に対する抗いが見て取れます。現に、完全に復活したと見える《神蟲》は今だ動こうとしていません」
「確かに……そうだね。どことなく《神蟲》は迷っているようにも見える」
《神蟲》は瀬川たちの方を睨むようにしながらも、飛び掛って喰らうとか、そういう攻撃行動はしていなかった。
故に張り詰める、凛とした空気。
裏を返せば僅かな物音がしただけでも、対峙する四は動き出してしまいそうだった。
「ですが、それも長くは持たないでしょう」
「…………厳格に言えば、どれくらいですか?」
静馬が訊くと、葉月はにっこりと微笑んで答えた。
「ごめんなさい、もう時間切れみたいです」
静馬が驚く間もなく。
――――グぎゃあアあああああアああああアアあアああ!!
と、"悲鳴を出鱈目に押しつぶしたような咆哮"が鳴り響き、《神蟲》が大きく頭をもたげた。
その衝撃で、あまりにも巨大な《神蟲》の身体が天井へと衝突して――――
雷鳴のような空気を割る音がし、地下室が文字通り"吹き飛んだ"。
その場に居合わせた誰もが、耳を押さえて呻く。
突如鳴り響いた大地を震わす怒号は、まるで猛獣が咆哮するような生き物じみた鳴き声。
「まさか――――」
片目を閉じて歯を食い縛り、何とか持ちこたえた瀬川が見た先には、
"ぎろり"、
焦点の合わない眼で睨む、《神蟲》がいた。先ほどから微動だにしなかった《神蟲》が、明らかに"異端者を威嚇するような眼"で、瀬川のいる方を捉えたのだ。
僅かに上下する下顎から垂れる唾液。今にも走って動き出しそうな、宙に浮いたり地に着いたりを繰り返す六本の脚。血走って瞳孔以外が真っ赤に染まった、やや楕円形になった眼球。そして先の咆哮――――――――それらが示すものは、唯一つの真実だった。
――――《神蟲》の、復活。
「くそ、もう甦ってしまったのか……」
悔いるようにぎり、と歯軋りをする瀬川。
《神蟲》の咆哮で僅かに平衡感覚が崩れたような感覚はしたものの、しっかりと二本足で地に立つと、右手の黒手袋を掴んだ。
眼前には《神蟲》を隔てて、自分と同じように《神蟲》と対峙する二人。
片方は敵、片方は味方。
瀬川は、本気を出せば《神蟲》を倒すことも出来ると確信していた。自分の力――――《黙示録の業火》を命を消費する覚悟で発動すれば《神蟲》さえも倒せる。そう自負していた。
しかし今目の前には、傷つけてはならぬ存在が一人いる。
言うまでもなく、それは駿河エリカだった。
「…………駄目だ」
手袋にかけた左手をそっと離す。
――無理だ。僕には無理だ。
誰かの命を犠牲に、障害を消し去ることなど。
邪魔をしたのは、やはり今だ瀬川の心に眠る躊躇い。
何年と<インセクター>の生活を歩んでいようと、瀬川の心や身体から消えることのない、<人を殺してしまうことに対する恐怖感>。<インセクター>は自らのトラウマと"蟲"の力を融合させ個々の能力を発揮するのだが、瀬川は<インセクター>になった当時の記憶はほとんど消えているため、自分が何に恐怖を感じているのか、その理由はどうしてなのか、全くもって分からなかった。
今になって気付けば、自らのトラウマを思い出せないことさえトラウマに変わりない。
原材料の分からない料理を咀嚼するような、先の見えない恐怖。
それは、ただでさえ追い込まれた瀬川の心を、勢いよく突き飛ばした。
「くっ…………!!」
左手を中途半端に空に浮かせたまま、《神蟲》を睨む瀬川。
その時。
《神蟲》と、はっきり"目が合った"。
†
「あれが……《神蟲》!?」
顔の前に腕を構えて、飛散する床片から視界を守る静馬。
僅かに開いた腕の隙間からは、ぶよぶよと揺れる《神蟲》の眼球がはっきり見えた。
「そうだよ」
五條は、無機質に答える。
「日本において最初に発生した"蟲"である、《神蟲》。古来から伝わる<神虫>からとってつけられた名前だ。その力はあまりにも強力すぎて、創始者でさえも封じ込めるのがやっとだった」
眉根を寄せながら、五條は腕組みする。
「残念ながら、祐一とエリカ君では倒すことは出来ないだろう。絶対にありえないだろうけど、<傀儡師>の彼がもし味方に加わってくれたとしたら……、いや、それでも封印が精一杯なのかもしれない」
「そんな」
落胆よりも驚嘆を滲ませて、静馬は呻く。
「あの二人が力を合わせても、敵わないなんて……」
静馬の中では、瀬川とエリカという組み合わせは最強じゃないかと思うくらい強力だった。それは単に他の<インセクター>をほとんど知らないと言うのもあったが、それを加えても今だ頂点に立つほど、二人の力は強大に見えた。
自分の命を救ってくれた、瀬川。
静馬とほぼ同年齢でありながら、瀬川と同等の力を有するエリカ。
その存在は、静馬の中でも一際強い光を発していた。
しかしその二人が力を合わせても、《神蟲》には太刀打ちできない。ましてや、向こうにはまだ<傀儡師>のソーマもいる。そうなれば恐らく、二人に勝ち目はない。
そこまで考え、諦めの念が脳裏に浮かんだ所で、静馬はある一つの解決案を思いついた。
「ご、五條さんは、戦えないんですか?」
声だけを五條に投げかける。
前に五條と共に"蟲"――――《女王蜂》と戦った時、確かに五條はあの凶悪な蟲と衝突していた。その全容こそは明らかにはならなかったが、五條は静馬の思う以上の力を持っているのではないかと、静馬は考えた。
「………………どうだろう」
俯き加減で、五條が曖昧に言う。
「僕はもう一度退いた身だ。戦闘用の力なんて久しく使っていないから、感覚も既に忘れてしまっているよ」
静馬に顔を向け、苦笑する。
静馬は即座にそれが嘘だと感じたが、言葉にはしなかった。
「……そうですか」
そうとだけ答え、再び《神蟲》のほうを見据える。
「…………………………………………………………」
後ろで静馬の服の裾を、きゅ、と掴む力が、強くなった。
「方法なら、ないことはありません」
「え?」
静馬が振り返る先には、五條が避難させた葉月の姿。
「《神蟲》を倒す方法です」
静馬、それに五條の返事を待たないまま、葉月はやや饒舌に語りだす。
「僅かですが、《神蟲》からはまだ時枝さんの意識が感じ取れます。それが時枝さんが《神蟲》の封印を解いた理由なのかもしれませんが、時枝さんの《神蟲》に対する抗いが見て取れます。現に、完全に復活したと見える《神蟲》は今だ動こうとしていません」
「確かに……そうだね。どことなく《神蟲》は迷っているようにも見える」
《神蟲》は瀬川たちの方を睨むようにしながらも、飛び掛って喰らうとか、そういう攻撃行動はしていなかった。
故に張り詰める、凛とした空気。
裏を返せば僅かな物音がしただけでも、対峙する四は動き出してしまいそうだった。
「ですが、それも長くは持たないでしょう」
「…………厳格に言えば、どれくらいですか?」
静馬が訊くと、葉月はにっこりと微笑んで答えた。
「ごめんなさい、もう時間切れみたいです」
静馬が驚く間もなく。
――――グぎゃあアあああああアああああアアあアああ!!
と、"悲鳴を出鱈目に押しつぶしたような咆哮"が鳴り響き、《神蟲》が大きく頭をもたげた。
その衝撃で、あまりにも巨大な《神蟲》の身体が天井へと衝突して――――
雷鳴のような空気を割る音がし、地下室が文字通り"吹き飛んだ"。
瞬間、全てが消滅したような感覚を静馬は覚えた。
眼前が瓦礫で覆われ、思わず瞑ってしまった、視覚。
轟く《神蟲》の咆哮が延々とこだまする、聴覚。
破壊の衝撃で怪我を負った身体から流れる血の匂いが充満する、嗅覚。
渇いた中に砂混じりの壁片がざらつく、味覚。
自分の服の袖を僅かに握り締めていた、触覚。
それが全て"消えた"。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
目の前で原子爆弾でも爆発したように、目を瞑っているにも拘らず狂気的に襲い掛かってくる閃光が、静馬の網膜を焼き尽くす。頭痛の域を超えた痛みが頭全体に広がり、巨大な鉈が頭を貫通したような痛みが一瞬の内に何十回と押し寄せてくる。聴覚はもはや存在の意味ををなくし、耳を削ぎ落とされたかと思うほどの――――両方の鼓膜を同時に突き破られたに近い激痛が迅る。身体は大きく吹き飛ばされ、飛び散っているだろう瓦礫と共に空に舞った。
同時に、右腕に激しい痛みが訪れる。骨が折れているか、もしくは腕がもげているか。その判断もつかないほど静間の意識は「痛み」と言う感覚に奪い取られ、精神が倒錯したような心持ちがした。
それでも静馬は真っ白な視界の中でひたすら目を凝らし、自分の周りで同じように被害にあった五條と柚樹を探す。
視覚はまだ戻らない。意識は大分、回復してきた。
「くそっ……」
静馬は自分の現状を確かめる。
足はどうにか地に着いている。足の裏で強く地面らしきものを踏みつけても、それは崩れなかった。
聴覚は今だ耳鳴りのような音が大半を占めていたものの、僅かに《神蟲》らしき大音声を聞き取れた。それ以外の、"人"の声は聞こえない。
(やっぱり、《神蟲》が死ぬはずは無いか……)
この衝撃なら《神蟲》は自滅するかもしれない、という静馬のささやかな希望はあえなく崩れ落ちた。
それと同時に、今度は自らに降りかかる絶望。
絶望の正体は、瓦礫だった。
人間の肌よりも遥かに硬い物体が、静馬めがけて雨のように注ぐ。
「ぐあぁっ!!」
全身を襲う痛みに、叫ぶ静馬。身体中を鋭利な刃物で切り裂かれる錯覚を感じて、静馬の意識には再び「痛み」が舞い戻る。
もはやその「痛み」も、徐々に静馬の感覚からは消えつつあった。
残るは、何が起こっているか想像するしか出来ない第六感。
静馬は偶然手で触れた大き目の瓦礫を盾代わりにして、自らを襲う豪雨から何とか身を守った。
「他の……皆は…………?」
ようやく白以外の色感覚が取り戻した視覚で、静馬は冷静に辺りを見回す。
黄砂のごとき砂塵が吹き荒れている中に、スリバチ状になった《パラマグラタ》の残骸――――地下室ごと建物自体を吹き飛ばされて地下室を中心とした砂地獄と化した荒廃地があった。《神蟲》の砲声と共に、凶暴に唸る空気。軽傷ではあるものの、傷だらけになった自分の身体。粉末になった壁片を吸い込んで、激しく咳き込む。
響く轟音。
吹き荒ぶ瓦礫。
灰色の空。
例えようが無い、絶望的な景観。周りから人の声は、聞こえない。
静馬が本当の絶望と言うものを感じた、その時。
「……やれやれ。死ぬかと思いましたよ」
目の前に詰みあがった瓦礫を崩して現れた生き物は。
「ですがこれで、思う存分暴れられますねえ」
歪んだ声で、静馬の絶望に追い討ちをかける。
「……………………!!」
「そこにいるのは…………どうやら静馬君のようですね」
僅かな瓦礫の動きを察知したのか、それともそれ以前に"そこに誰かがいる"ことを知っていたのか。
悪意の集合体のような薄気味悪い笑い声を上げながら、その生き物――――ソーマは呟く。
「どうですか、この絶望的な状況は? 僕にとっては、この上ない好条件なのですがね」
静馬の答えを待たずに、ソーマは口走る。
「邪魔な<インセクター>は倒れ、残ったのは決定的な殺傷能力を持たない<インセクター>……。僕はまだまだ自由に動ける身。そしてこちらにはまだ《神蟲》が……。ははは、もう勝敗は決まったようなものですね」
「馬鹿言うな!! 瀬川さんやエリカさんはこの程度でやられるような人じゃない!!」
「はて、それに確証はあるのでしょうか?」
静馬の必死の供述も、ソーマは軽くあしらう。
「まあたとえ生きていたとしても、僕よりも早く立ち上がることが出来なかったんです。そこまで弱ってしまった<インセクター>は、僕の敵ではありません」
「だけど…………」
「もうこれ以上、無駄な抵抗を続けるのは止めることですね」
そう言うと、ソーマは包帯を解き放った自らの右腕を静馬へ向ける。
「あなたの存在は今は邪魔ではありませんが、きっと今後邪魔になる可能性がありますからね。早々に排除しておきましょう」
かちゃり、とソーマの凶器が呻き声を上げる。
「さようなら、弱き<インセクター>」
「う………………!!」
静馬は自らの死を覚悟した。
今まで"蟲"によって幾度となく死に際には追いやられてきた静馬だったが、そのたびに何とか生きながらえることは出来た。
しかしそれは、静馬自身の力では、ない。
全て、誰かしらによる助けがあって初めて、静馬は生き延びていた。
もうすぐ死ぬと言う時に、改めて静馬は自分の不甲斐なさを感じた。
支えがなければ何も出来ない、弱き<インセクター>。
まさにその言葉通りだと、静馬は、落胆した。
耐え切れず悲観した。
消えてなくなってしまいたかった。
拠所なく哀惜した。
死にたくなった。
何もかもが、弱すぎた。
僕は……………………死ぬ。
静馬は恐ろしいほど冷静に、"死"を感じた。
幾刹那。
「<狂った墓標の下に>ッ!!」
くしくも再び、静馬の絶望はかき消された。
途端、静馬の眼前から無数の"鉈"が飛び出した。
「……おや、生きていたんですね」
舌打ちをし、顔つきを豹変させて静馬の背後を睨むソーマ。
静馬はもう、振り返ることさえしなかった。
ただ、一言。
「ありがとう、エリカさん」
「あんたを助けたつもりはないわ。あんたがいてもいなくても私は奴を攻撃していた」
一瞬の逡巡もなく、剣呑に言い放つ。
「はは、エリカさんらしいですね」
それでも静馬は、エリカを逆撫でするだろう言葉を口にした。
「……知ったかぶらないで、私はそう言う奴が一番嫌いなの」
結局律儀にそう答えると、エリカは手にした鉈の先端をソーマに向ける。
「"人間"なんて皆嫌いだけどね」
「となると、あなたはあなた自身のことも嫌いだと?」
「あんたには関係ない」
遮るように言うエリカ。
「今から死んでいく人間が知ったところで無意味よ」
「やれやれ、冥土の土産もくださらないのですか。いいでしょう」
ソーマは一度下ろした右腕をもう一度、同じ方向に構える。
ぎちぎちと鳴る、凶器の塊。
「今度こそ、一思いに殺してさし上げます」
直後、そこには再び轟音が鳴り響いた。
†
言葉にならない悲鳴のような声を上げる、《神蟲》。
全く傷のついていない表面は脈動するか如く蠢き、なだらかな穿孔の中央で佇む《神蟲》は、その安定しない柔らかい眼球でただ一つの点をじっと見据えた。
「…………………………」
獰猛な呼吸を繰り返し、下顎を僅かに上下させる《神蟲》。僅かに脚を動かしたり、威嚇するように"ゆらり"と全身をゆっくりと動かしたりして、何かしらの動きは見せていた。
ただ、攻撃態勢に入ろうとはしない。
そのなかなか定まらない視線の先にいる――――"五條"に対しては。
「…………………………」
同じく、五條も沈黙を覆さない。
破壊の衝撃で気を失った柚樹を両腕で抱え、整然と屹立した体勢を崩さない。その目つきは、普段の五條とは段違いで眼光炯々だった。
影を模した服には壁片による傷が一つもついておらず、砂塵に対しても全く受け付けていないようだった。
暫時、時が止まったように対峙する五條と《神蟲》。
どことなく、それは対立する二つの対等な存在にも見えた。
「最初から、こうするしかないとは分かっていた」
誰に言うでもなく、五條は平板に呟く。
「《神蟲》を完璧に殺してしまう方法なんて、一つとしてなかったんだ。
――――そう、"殺してしまう"方法は」
五條のその言葉のすぐ後。
《神蟲》が、大きく仰け反った。
それは傍から見れば、攻撃態勢に移るために天に向けて大きく咆哮したように見えるかもしれない。だが実際は、それとは大きくかけ離れていた。
《神蟲》の脚は、地面に固定されたように全く離れない。
その眼球は再び瞳孔が血飛沫のように不鮮明になり、眼窩から赤黒い"血"が垂れた。
前翅は完全に膠着して、身動ぎは見せるものの全く動き自体は見せない。
不釣合いに巨大な口が、恐怖におびえる人間のものに大きく歪む。
ぶんぶんと、憑き物を払うように頭を乱暴に振り回す《神蟲》。
それはまるで、一種の凶悪な恐怖が《神蟲》を脅かす光景。
対象は、すぐに知れた。
《神蟲》の背後に"立つ"、葉月。
「…………予想通り、です」
先刻まで車椅子に座っていた葉月が、自らの足で地面を踏む。比類なく力強く、二度と踏むことのない地を噛み締めるように。
葉月は感情の欠けた顔で、《神蟲》を背後から見つめる。
それに気付いたかどうか、喚声をあげて呻く《神蟲》。
その光景を、五條は何も言わずに見つめていた。
「…………時枝さん」
一歩ずつ、《神蟲》へと近付く葉月。
「だから言ったでしょう。僕自身も、もう長くはないと」
また一歩、《神蟲》との距離が縮まる。
瓦礫の山が積み重なる隙間を縫って、葉月の視界に《神蟲》の全貌が見えてくる。
「あれは、狂言なんかじゃありません」
また、一歩。
「全て、予想の一環です」
瞬間。
正気を取り戻した《神蟲》が、脚の一つで近付いてくる葉月を大きく薙ぎ払い――――
跡には、"無数の蝿"が飛び回る。
「もう、逃げられることは出来ませんよ。《神蟲》さん」
そのまま脚に掴まり、背中へと降り立つ葉月。
怒声を響かせて、葉月へと必死で足を伸ばす《神蟲》。
だが、いくらその脚が葉月に触れようとも、葉月の身体は刹那に"蝿"へと姿を変え、再び肉体へと舞い戻る。
先刻頭をそうしたように、今度は必死で身体を震わせる《神蟲》。
地震のように揺らぐ上で、葉月は何事もなくうつ伏せに寝転ぶ。腐卵臭のする身体が、嗅覚を著しく刺激する。
されど、既に葉月の身体に"感覚"は、ない。
「そんなに恐れなくてもいいじゃないですか……」
葉月は前翅に頬杖を突き、大儀そうにもう片方の手でとんとんと《神蟲》をつつく。
「あなたと僕は、兄弟みたいなものです」
そこまで言うと、《神蟲》の身体が、諦めたように力なく崩れ落ちた。
脈動のような微動を繰り返し、全てを受け容れるかのごとく停止する《神蟲》。
その眼球は、塗り潰した真紅に染まっていた。
「そうです、それでいいんです…………」
褒め称えんばかりに、葉月は《神蟲》の身体を優しく撫でる。
「これで、全てが終わりますから………………存分に休んでください」
そう言って、《神蟲》から手を離す。即時、
「――――<ありがとう>」
《神蟲》の身体から、黒紫色の煙が噴出する。
やがて、その前翅の隙間から、元々あった六本の脚と同等の長さの"人間の足"が現れた。
「……おや、生きていたんですね」
舌打ちをし、顔つきを豹変させて静馬の背後を睨むソーマ。
静馬はもう、振り返ることさえしなかった。
ただ、一言。
「ありがとう、エリカさん」
「あんたを助けたつもりはないわ。あんたがいてもいなくても私は奴を攻撃していた」
一瞬の逡巡もなく、剣呑に言い放つ。
「はは、エリカさんらしいですね」
それでも静馬は、エリカを逆撫でするだろう言葉を口にした。
「……知ったかぶらないで、私はそう言う奴が一番嫌いなの」
結局律儀にそう答えると、エリカは手にした鉈の先端をソーマに向ける。
「"人間"なんて皆嫌いだけどね」
「となると、あなたはあなた自身のことも嫌いだと?」
「あんたには関係ない」
遮るように言うエリカ。
「今から死んでいく人間が知ったところで無意味よ」
「やれやれ、冥土の土産もくださらないのですか。いいでしょう」
ソーマは一度下ろした右腕をもう一度、同じ方向に構える。
ぎちぎちと鳴る、凶器の塊。
「今度こそ、一思いに殺してさし上げます」
直後、そこには再び轟音が鳴り響いた。
†
言葉にならない悲鳴のような声を上げる、《神蟲》。
全く傷のついていない表面は脈動するか如く蠢き、なだらかな穿孔の中央で佇む《神蟲》は、その安定しない柔らかい眼球でただ一つの点をじっと見据えた。
「…………………………」
獰猛な呼吸を繰り返し、下顎を僅かに上下させる《神蟲》。僅かに脚を動かしたり、威嚇するように"ゆらり"と全身をゆっくりと動かしたりして、何かしらの動きは見せていた。
ただ、攻撃態勢に入ろうとはしない。
そのなかなか定まらない視線の先にいる――――"五條"に対しては。
「…………………………」
同じく、五條も沈黙を覆さない。
破壊の衝撃で気を失った柚樹を両腕で抱え、整然と屹立した体勢を崩さない。その目つきは、普段の五條とは段違いで眼光炯々だった。
影を模した服には壁片による傷が一つもついておらず、砂塵に対しても全く受け付けていないようだった。
暫時、時が止まったように対峙する五條と《神蟲》。
どことなく、それは対立する二つの対等な存在にも見えた。
「最初から、こうするしかないとは分かっていた」
誰に言うでもなく、五條は平板に呟く。
「《神蟲》を完璧に殺してしまう方法なんて、一つとしてなかったんだ。
――――そう、"殺してしまう"方法は」
五條のその言葉のすぐ後。
《神蟲》が、大きく仰け反った。
それは傍から見れば、攻撃態勢に移るために天に向けて大きく咆哮したように見えるかもしれない。だが実際は、それとは大きくかけ離れていた。
《神蟲》の脚は、地面に固定されたように全く離れない。
その眼球は再び瞳孔が血飛沫のように不鮮明になり、眼窩から赤黒い"血"が垂れた。
前翅は完全に膠着して、身動ぎは見せるものの全く動き自体は見せない。
不釣合いに巨大な口が、恐怖におびえる人間のものに大きく歪む。
ぶんぶんと、憑き物を払うように頭を乱暴に振り回す《神蟲》。
それはまるで、一種の凶悪な恐怖が《神蟲》を脅かす光景。
対象は、すぐに知れた。
《神蟲》の背後に"立つ"、葉月。
「…………予想通り、です」
先刻まで車椅子に座っていた葉月が、自らの足で地面を踏む。比類なく力強く、二度と踏むことのない地を噛み締めるように。
葉月は感情の欠けた顔で、《神蟲》を背後から見つめる。
それに気付いたかどうか、喚声をあげて呻く《神蟲》。
その光景を、五條は何も言わずに見つめていた。
「…………時枝さん」
一歩ずつ、《神蟲》へと近付く葉月。
「だから言ったでしょう。僕自身も、もう長くはないと」
また一歩、《神蟲》との距離が縮まる。
瓦礫の山が積み重なる隙間を縫って、葉月の視界に《神蟲》の全貌が見えてくる。
「あれは、狂言なんかじゃありません」
また、一歩。
「全て、予想の一環です」
瞬間。
正気を取り戻した《神蟲》が、脚の一つで近付いてくる葉月を大きく薙ぎ払い――――
跡には、"無数の蝿"が飛び回る。
「もう、逃げられることは出来ませんよ。《神蟲》さん」
そのまま脚に掴まり、背中へと降り立つ葉月。
怒声を響かせて、葉月へと必死で足を伸ばす《神蟲》。
だが、いくらその脚が葉月に触れようとも、葉月の身体は刹那に"蝿"へと姿を変え、再び肉体へと舞い戻る。
先刻頭をそうしたように、今度は必死で身体を震わせる《神蟲》。
地震のように揺らぐ上で、葉月は何事もなくうつ伏せに寝転ぶ。腐卵臭のする身体が、嗅覚を著しく刺激する。
されど、既に葉月の身体に"感覚"は、ない。
「そんなに恐れなくてもいいじゃないですか……」
葉月は前翅に頬杖を突き、大儀そうにもう片方の手でとんとんと《神蟲》をつつく。
「あなたと僕は、兄弟みたいなものです」
そこまで言うと、《神蟲》の身体が、諦めたように力なく崩れ落ちた。
脈動のような微動を繰り返し、全てを受け容れるかのごとく停止する《神蟲》。
その眼球は、塗り潰した真紅に染まっていた。
「そうです、それでいいんです…………」
褒め称えんばかりに、葉月は《神蟲》の身体を優しく撫でる。
「これで、全てが終わりますから………………存分に休んでください」
そう言って、《神蟲》から手を離す。即時、
「――――<ありがとう>」
《神蟲》の身体から、黒紫色の煙が噴出する。
やがて、その前翅の隙間から、元々あった六本の脚と同等の長さの"人間の足"が現れた。