雨音の唄は謳われて
雪村の報告の、すぐ後。
『雑貨屋 アトランジェ』からほどなく近い駅の中で、公衆電話にもたれかかるようにして静馬は立っていた。遠目で、何を見つめるわけでもなく。その視界を所々で遮る人の群れは輪郭もはっきりしないまま過ぎていく。
隣では朝とは違う色のヘアゴムで髪をまとめた柚樹が、それまでの爛漫さが嘘だったかのように眠っている。こくり、と頭を漕ぐたびに柔らかな髪がふわりと揺れ、静馬の視界の傍で柑橘系の類の香りを撒いた。ベストの下に見えるカラフルな色彩のTシャツに、淡い茶のショートパンツ。さっきまで頭に被っていたハンチングと重ね合わせると、どこか昔の少年探偵のような、そんな雰囲気が感じられる。ただ時代錯誤とまではいかないので、どれもこれも瀬川の影響と言い切るのは難しい。というよりは、瀬川が単にファッションセンスが無さすぎと言うのが正しい。
静馬は時折欠伸を交えながら、何を待っているのかも忘れそうになりつつ、ただ駅の構内を眺める。視界に映えるのは変わらず、名も知らない雑踏の群れ。革靴の擦れる音、ハイヒールの閑とした音。明らかな日常の中で、くしくもそれとは違う状況下に置かれた静馬は、羨むとも似つかないただ少し悲しい目線を向け、頭を垂れる。
「えぇ、それじゃあ今からそちらに……」
少し後ろのほうから、途切れ途切れで端正な女性の声が聞こえる。声の主は、静馬たちをこの状況に置いた雪村だ。
雪村がデッサンルームで"蟲"が発生した旨を告げた後、休む間もなく雪村は静馬たちを連れて近くの駅に向かった。"蟲"が出現した場合、通常なら可能な限り徒歩や車で移動することが多いのだが、特別な場合は電車や新幹線で移動することがあるらしい。特別な場合と言うのは、大抵はかなり遠い場所だからとの理由が多いそうだが、真意は分からなかった。最も、その真意が本当に正しいものなのかは分からないが。
と、別れ挨拶を告げたと思うと、会話を終えたらしい雪村が二人の元へと戻ってきた。その表情には険しいとはいえない、少し不安を抱えた笑みが浮かべられている。
雪村は髪を軽く掻き分けると、その口を開いた。
「大体のことは行動していくうちに分かるから、よろしくね」
「……習うより慣れろ、ということですか?」
「ん、まあ、そういう具合」
雪村は年齢を感じさせない笑顔を作ると、胸ポケットに入れていた古い万年筆と一枚の紙切れを取り出して、流れるように数字の羅列を書き、静馬に突き出した。
「私の携帯番号よ。もしも何かあったときは連絡してくれたらいいわ」
納得しそうになったものの、すぐに違和感に気付いて静馬は答える。
「連絡って、一緒には行動しないんですか?」
「いや、そういうわけではないけど……もしものときのために、ね」
「はぁ……」
その言葉の意味は後々知ることになるが、このときはまだどういうことかよく理解できていなかった。というより、一方的に突きつけられたに近い感覚がある。優しい口調ではあるが、雪村の言葉の端々にはどこか他人を否応なしに承諾させるような、不思議なものがあった。気のせいだと言ってしまえばその一言で終わるが、そうではないと考えると、もしかしたら雪村"も"他人には見せることの出来ない何かを持っているのではと、静馬は考えた。ただ、何の根拠も無しにそういう思索をめぐらせてもたどり着く答えはやはり、「謎」。いくらか雪村や瀬川……そういう人物と関わりを持ったところで、彼らの秘めている何かは決して分かることはない。ましてやこのように"蟲"といったものに起因するものであれば、言うまでもなく、その真実は複雑怪奇のうちに閉ざされる。結局のところ、自分から手にすることのできる情報は雀の涙にも満たないということを、静馬は確信する。
「それじゃあ、現地に向かいましょうか」
「……はい」
改めて列車の時刻を確信した雪村を見て、静馬はさっきまで口元に出かかっていたことを、ようやく思い出した。
「あ、そういえば、瀬川さんは?」
「瀬川? けい……、あ、瀬川祐一君のこと?」
「え、えっと……はい」
雪村の口から漏れた明らかに不自然な言葉が少し気になったが、今はそういう場合ではない。
静馬に言わせれば、今の状況は少しおかしかった。静馬が見ている限りでは、小さな"蟲"の現れだろうと必ず瀬川が先陣を切って行動を起こしているはずだった。もちろん先にあちらに行って待機していると言うことも考えられたが、それでも連絡の一つないのは不思議なものだった。いくら瀬川が無頓着そうだと言っても、そこまで抜けているとは考えられない。人間的にいえば、あまり考えたくはない。
その質問を当然と思うかのように雪村は頷いて、端正に答える。
「瀬川君は携帯を持っていないから連絡が取れないのよ。本当、どこからどこまで時代錯誤な人なのよね」
「そうなんですか……」
時代錯誤な人。
その言葉を聞いて、静馬はまだ自分が普通の人間であることを感じ取った。
同じ感覚を持っている人がいると思うと、それがどんなことだろうと少しは心が紛れる。今はそれで、それでよかった。
「じゃあ、改めて向かいましょうか」
「そうですね」
静馬が柚樹の肩をぽんと叩くと、柚樹は一瞬びくんと起き上がった。
「ほら柚樹ちゃん、行くよ」
「……あ、はーい」
柚樹暫く目をぱちくりさせていたが、状況を理解したように見えると、静馬の横に付いて歩き出した。
静馬はそれを見て笑うと、視線を前に戻し、表情を厳しくした。
何も、起こらなければいいな……
そんな、決して叶わないだろう願いを思いながら。
†
カーテンを閉め切った、暗い自分の部屋。机や本棚といった必要最低限のものしかない空間。
和也はベッドの上に寝転んで、呆然と天井を見上げていた。特に何をするでもなく目線を漫然と動かし、その脳内では、気の紛れることを考えて。それでもやはり、和也は何か落ち着かないものを感じた。落ち着いてる方がおかしい。
第一に、学校のこと。生徒が何人も行方不明になっているのに、未だに警察も何も動いてないのはどうもおかしい。確かに和也たちが住んでいる地域には警察がおらず、隣町まで行く必要があったが、それでも何も公になっていないのは明らかに不自然。テレビのチャンネルを適当に回してみても、このことがニュースで取り上げられていることは一度もなかった。あまつさえ教師が注意を促すこともほとんどなかったので、和也はこれは誰かの陰謀ではないかと疑った事もある。その都度、特に証拠もなくて、断念したのは言うまでもない。
まだアイロンをかけたばかりの制服を床に放って、和也は銀の刺繍の入ったTシャツを着る。そのまま、また上を見ると、やはりそこには天井があった。
特に飾り気のない、この家が出来た頃と同じままの天井の模様。その黒い染みが点々と続いたような模様を眺めながら、和也は深く溜め息をついた。
どうしようもない、この状況。外出もろくに出来ずに、ただ自分の部屋にこもることしか出来ない今。それを何とか早く終わらせたいがために、和也は単独ながら必死でこの事件の根幹を探っていた。しかし、有力な情報も何もつかめないまま、時は一日、一週間と、刻々と過ぎていった。
……それでも、一応解決の手立てはあった。
クラスの知り合い――――もう、死んでしまった友達から、こういう謎の事件を解決する専門の集団があると聞いて、和也は直ぐにそこに連絡をした。対応は意外にもいいもので、とりあえず二、三日ほど調査をさせて欲しい、と言うことだった。和也はこういう霊能者とかオカルトじみたものには関心がなかったが、この状況下においてはそういう類のものに頼らざるを得なかった。
はぁ、と軽く溜め息をついて、和也は傍においてある携帯を眺めた。
特にストラップも何もつけてない質素な黒い携帯のランプは、点かなかった。つまり、まだ連絡はないと言うことだ。その死んだ友達の代わりに宗太が代わりに連絡を受け持ってくれていたので、何か報告があればすぐに宗太から連絡が来る。まずそれが第一段階だったので、和也は下手に動き回ることも出来なかった。
それよりもこの段階になって初めて、和也には不審な点があった。
あの、家に帰り着いたときに聞こえた、"持ち主のいない水音"。普段なら電線から雨粒が滴り落ちたとも考えられたが、今となっては何か別のことが原因で音がしたと脳が察していた。それくらい、和也の頭は不安や懸念で満たされていた。比例して、連絡が来ないことへの焦燥感も著しくなる。
暫く携帯の方へ目配せしていたが、次第に面倒くさくなって、和也は立ち上がった。その拍子に木製のベッドがきしんで、ぎ、と音を上げる。
ボリボリと頭を掻くと携帯をズボンのポケットに突っ込み、少しずり落ちた服を整えて、和也は部屋のドアノブに手をかけた。ドアを開けると、閉め切っていた部屋に温い外気がすうと流れ込み、あっという間に部屋を満たした。和也は大儀そうに歩いて、階段をそっと駆け下りた。それでも、床板のきしむ音がいくらかした。
「あら、和也。どこか行くの?」
それに気付いた母親の問いかけに、和也は適当な言葉を返す。
「別に。暇だから散歩してくる」
「ふーん……。最近物騒だから気をつけなさいよ」
あぁ、と表面上の返事をして、和也は玄関の戸を開けた。部屋を閉め切っていた分、外の空気が鮮やかに、眩しく感じた。
「さて、どうしたもんかな……」
行く当てもなく家を出た和也は、溜め息混じりの嘆息を漏らした。
……………………
和也が家を出る、少し前のこと。
和也と別れを告げた宗太は、ひょうひょうとスキップを交えながら帰路を進んでいた。今回の事件に関して宗太は特に興味もなく、ただ事なきままに終わればいいと思っていた。が、そうもいかなくなった。
実は宗太は和也からある頼み事をされていたのだ。それは、和也がこの事件を解決してもらうために呼んだという何か霊能者的な、そんな人からの連絡があり次第伝えて欲しいと言うもの。宗太は和也からの頼みを純粋に喜んでいたし、何より最近オカルトに興味を引かれている宗太としては、何よりも代えがたいものだった。
普段余り頼み事をしてこない親友から、頼りにされている。
その一念だけが、宗太の、やる気から精気までといった全ての気力をはちきれんばかりに増大させる。
宗太は道端の石を転がしながら、喜々溢れる顔で今にも家に帰り着こうとしていた。
ちょうど、その時。
上着の胸ポケットの中で、携帯が小さな震えを起こした。
「おっ、来たかな? 霊能者とやら」
まさにそれは、宗太が最も待ち望んでいる着信のバイブレーションだった。
電光石火とまではいかないが、宗太はすぐに携帯を取り出して画面を確認した。逆光で少し見づらかったが、確かに見えた。
『Eメール着信 一件』
その画面を見て、思わず宗太はにやりと笑った。周りに人がいたら、迷わず通報されそうなほどの、怪しい笑みだったが。
それが切望するものとはまだ知れないものの、宗太は全く疑うこともせずにメール画面を開く。
が、くしくも、それは決して望んでいたものではなかった。
『From 不明』
「っかー……、何だ、悪戯か」
見分けがつくようにと、既に宗太のアドレス帳には「霊能者」との登録がされてあった。しかし、差出人のところにその名がないということは、送り主はその「霊能者」ではない。目的のメールでないのと同時に、アドレス変更して一週間経っていないにも拘らず迷惑メールが来ているので、宗太は大げさに肩を落とした。
「全く、今度はどこのどいつだよ……。ドイツ人。なんてな」
一人で溢した洒落に含み笑いを浮かべながら、宗太はメールを開いてみる。
『
』
が、そこには悪戯どころか、文面すら表記されていなかった。ただの白が続く文面で、それには思わず白のゲシュタルト崩壊が起こりそうなほどのものだった。何の感情もこもっていない、ある意味では一番面倒くさい迷惑メール。しかも必要以上に文面が長く、横に見えるスクロールバーは稀にしか見ないほど縮小されていた。
「なんだこれ。まさかあれか、一番下の方になんか書かれてるってやつか?」
その様式は、宗太も使用したことがあるものだった。最初にやたら空白を入れ、最後の方に用件を書いてあるというちょっとしたメール遊びの一環。ちょうど周りの友達がこれを多用し始めていたので、名前は知らずともその存在は宗太も知っていた。
「ふふん、なら見てやろうじゃないか」
さっきまで湧いていた脱力感が一瞬で精力に変わったかのように、宗太の目は煌々と輝く。
方向キーの下を、必要以上に強めに押す。そうした方が早くスクロールするかもしれないと、宗太は思っている。
かち。
『
』
かち。
『
』
どこまでいったかも分からない画面は、空白にライトアップされたままで、一向に違う表情を見せようとしない。それに飽きることもなく、宗太は期待に胸を膨らませながら、じっと画面を見つめていた。
鳥の声も止んで、妙に静まり返る周囲。
その中心で、携帯を一心に見つめる宗太。
しん、
とした閉鎖されたような空間が広がったことに、宗太はまだ気付かない。
生き物の気配が消えて、動きが見えなくなった世界の中で、ただ、携帯の画面だけがせわしなく白い画面を動かした。
『
』
暫くの空白の後、ようやくそれは姿を見せた。
あまりにも、極端な形で。
メールの最後尾。
『
蟲が来た 』
「蟲が……来た? 何だよ、それだけかよコノヤロー」
あまりにも拍子抜けな内容に、宗太は半ば呆れの声を漏らした。
これでまだ文面が恐ろしく長いものだったらそれはそれで興味深いものなのだが、それすらも裏切られて、再びリバウンドした脱力感。たった四文字の文章、いや文字のためにこれだけの時間を費やしたかと思うと、やるせない。
「あーあ、信じた俺が馬鹿だったかな」
電源ボタンを連打して画面をメインに戻すと、宗太は放るように携帯を鞄の中へと収めた。途中少しストラップが引っかかったが、問題なく外して鞄を閉めた。
流石に少し期待していただけあって、宗太はちょっとした絶望感にも襲われた。が、息つく暇もなく、その表情いつもの明るいものに戻し、歩みを再開する。
直後。
ぴちゃっ、
少し後ろの方で、水滴の落ちる音がした。
それも雨粒のような小さなものではなく、少し大きめの液体の落ちる音。
そして同時に。
"この世のものとは思えない何か"が背後に立っている。
そんな人間離れした異様な気配が、宗太の背中をゆっくりと覆った。
「……………………」
理由も無しに、体が凍りつく。猛獣にでも睨み付けられているように、身体がいきなり硬直し、竦みあがって足が震えだす。意志とは裏腹に、全くもって動こうとしない自分の身体を見て、宗太は寒気立つ。
「何だよ、これ……」
自分でもよく分からない感覚が、全身を襲う。
それゆえに一気に不安が募り、額をつうと、冷や汗が伝う。
ぴちゃっ、
また、背後から液体じみた音がする。
完璧にもう、少し大きな雨粒とは聞こえない。もはや、水の落ちる音とも取れない。
――しいて言うならば、そう、"水に濡れた足が立てる音"。
ぴちゃっ、
段々と、"足音"が近くなってくるのが分かる。
既にそれが安全なものの気配だと言うことは、断じて受け取れなかった。
嫌な空気を持つ何かが、確実に自分の元へ迫って来ているのが分かった。
ぴちゃっ、
時間が止まった。
その異様な気配に、意識が吸い込まれる。
瞼が凍りついたように静止し、意思のない空涙が目元に溜まる。
がたがた、と、膝が震え始めていた。
ぴちゃっ、
ぴちゃっ、
考える間にも音の感覚が狭くなっていく。
全身の肌という肌から嫌な汗が溢れ、服を濡らす。
声が出せなくなり、口の中が渇いていく。
ぴちゃっ、
ぴちゃっ、
すぐ近くまで、"それ"がやって来ている。
嫌だ。
嫌だ。
見たくない。
絶対に。
心中で必死に懇願しても、眼球が無意識にきりきりと横を向き、視界がずれてゆく。
まだ明るいはずの景色が、箱の中に閉じ込められたように暗くなる錯覚がする。
堪えようとしていた恐怖感が、じわりと心の中から沁み出てくる。
そして――――
ぴちゃっ、
ぴちゃっ……
"ぼとっ"、
背後で、鈍器が地に転がったような音がした。
「…………!!」
硬直していた体から緊張が一気に抜け、宗太は間一髪のところで後ろを振り向いた。
そこには――――
頭部のない"人間だったらしい"生き物が、ぶよぶよにふやけた手を伸ばし、今にも触れそうなところにまで届いていた。
それでその口のような場所から……
げぼ、
と、嗚咽に似た声と共に、"人間の中身"が、なだれを打って噴き出した。
「………………」
一瞬、声が出なかった。
呼吸が、出来なかった。
目の前の光景が、びちゃびちゃと嫌な音を立てた。
暫くして、深く息を吸って――――
「うわああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
宗太は、絶叫した。