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小向保世編 第4片「膨らむ重い」

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 《四冊目 7ページ》
 わたしとお兄ちゃんの進路が決まりました。
 わたしは市内の高校に通います。「お前の成績ならもっと上の学校も狙えたのに」と先生たちからは残念がられましたが、わたしは何より近い場所がいいのです。お兄ちゃんと同じ高校を勧める人もいましたが、それだけは絶対に嫌です。
 お兄ちゃんは東京の大学に進んで、寮に入ります。わたしとも離れて一人暮らしになりますが、それでもその大学で勉強したいことがあるのだそうです。
 ただ、お兄ちゃんがこの家を出て暮らすことに、わたしは胸の内で嬉しさを感じてしまいました。これでお兄ちゃんから開放されるのだと。
 でもすぐに、その考えは自責の念に変わりました。だって、思い返してみると、お兄ちゃんはわたし自身を傷つけたことはないのですから。いつでも、結果はどうあれ、わたしを守ろうとしていた。善意の行動。だからこそ、それを邪魔に感じたことがとてもやましく思えるのです。お兄ちゃんがずっと悪意を持っていたら、わたしを苦しめるために行動していたなら、憎むことも可能だったでしょう。
 だけどお兄ちゃんが何をしても、わたしに好きな人が出来ても、お兄ちゃんに対する感情が前と異なるものになっても、小向利一がわたしと血の繋がったお兄ちゃんであることに変わりはないのです。どうして彼を遠ざけたいと、排除したいなどと考えることが許されるのでしょうか。この世にたった二人の兄妹なのに。

 《四冊目 25ページ》
 四月からはわたしがひとりで家にいることも多くなるだろうからと、個人用の銀行口座が作られました。お兄ちゃんの引越しや、わたしの入学準備が忙しくなる前に済ませようとのことです。お父さんが付き添いで来ていたので、「こむかいほよ」としての開設でした。「こむかいほよ」の保険証も渡されました。危うく、自分の本名を忘れるところでした。

 《四冊目 60ページ》
 予想はしていたことですが、携帯電話を持ってからというもの、お兄ちゃんからのメールや電話が頻繁にかかってきます。今日もメールだけで16件ありました。全部に返信していたら気が持ちません。だからと言って、無視をするとまた余計に心配する文面が多く届いてきます。お兄ちゃんが物理的に離れたことで、逆にいつでも見張られているような感覚がベタついています。この液晶画面の向こうから、お兄ちゃんの瞳が透けて見えるような気さえします。
『学校では、携帯の持込みが禁止されてるの。だからお兄ちゃん、日中は返事出来ないから、ごめんね』
 なんて白々しい、苦し紛れの嘘。だけどこうでも言わなければ、きっと耐えられません。学校まで、学校にまで、お兄ちゃんを踏み込ませるわけにはいきませんから。

 《四冊目 81ページ》
 クラスの女の子に一人、とても目立つ人がいます。彼女の名前は茅美月です。茅さんはとても美人です。女でも見惚れるくらいのプロポーションです。とても脚がきれい。だけど気になるのは、それだけではありません。
 なんだか茅さんの場合、自分が美人であることを理解した上で、わざと人目を引くように動いたり喋ったりしているように思えるのです。人当たりが良くて活発で、いつでも、誰にでも、ニコニコしているように見えます。きっと世渡りも上手なのでしょう。
 これはわたしのひがみでしょうか。妬みでしょうか。わたしが彼女に抱いた第一印象は、はっきり言って、あまり良くありません。むしろ、悪いです。わたしの嫌いな女の一面を、あからさまに押し出した典型例だと思いました。
 だけどわたしは一体、わざわざこんなことをここに書いて、何をしているのでしょうか。何をしたいのでしょうか。

 《四冊目 109ページ》
 お父さんとお母さんがいつものように仕事で家を空けて、お兄ちゃんも帰ってこない週末は、完全に独りです。独りでいるのはとても怖いです。
 寂しいのではありません。ただ、怖いのです。お兄ちゃんは課題が沢山あるからこっちには帰れないと言っていたけど、それは嘘なのではないでしょうか。本当は姿を見せず近くに潜んでいて、わたしを監視しているのではないでしょうか。それすらも定かでないのに、わたしはどうしてまだ高瀬くんを好きでいられるのでしょうか。わたしに生きる価値などあるのでしょうか。
 いいえ、分かっています。他人が見れば、こんなわたしの妄想など根拠の薄い、取るに足らないものなのでしょう。だけど誰とも会わずに昼を過ごし、夜を迎えると、日と共に気持ちまで沈んでいって、この世の全てがわたしを責め立てているような気がするのです。木の葉を揺らす風が、塩田くんの呻き声に聞こえます。近所の犬の吠え声が、高瀬くんからの軽蔑に聞こえます。夢を見ているときにそれが夢だと分からないのと同じように、妄想と幻覚も、それに捉われている間は、振り払えないのです。
 お兄ちゃんの幻覚も、今ではよりはっきりと見えるようになりました。誰もいないはずの場所にお兄ちゃんが立って、わたしの方を見ています。そしてわたしがそっちに目を向けると、大抵はすぐに消えてしまいます。
 心の中で罪の意識が、ガン細胞のように増殖していきます。それが悪影響だと分かっていながら、止められません。こうして日記を書いているときだけ、自分の感情を冷静に見つめられるのです。

 《四冊目 126ページ》
 今日はいつもより遅い時間、日付の変わる直前にこれを書いています。
 今週もまた長い、長い、鬱屈した独りの時間に苛まれるのかと思っていた矢先のことです。由花ちゃんが急に遊びに来て、家に泊まりたいと言ってきたのです。わたしは一も二もなく承諾しました。
 正直に言って、助かった、と思いました。
 由花ちゃんは、わたしの家で特別なことはしません。ただ、傍にいてくれます。それが今のわたしにとっては、一番心地いいのです。そして寝る前に「これからも迷惑でなければ、保世が一人でいる週末には泊まりに来たい。逆に、保世が私の家へ泊まりに来ても構わない」と言ってくれました。大歓迎です。

 《四冊目 127ページ》
 由花ちゃんは、わたしのことをどこまで知っているのでしょうか? 前々から由花ちゃんは、わたしの気持ちを汲み取って気を配ってくれることが多くありました。昨日も、わたしが孤独の恐怖を感じ始めたその瞬間に突然やって来ました。今までお泊りなんてしたことがなかったのに、急に、です。タイミングが良すぎませんか?
 あまり深い話はしていないから、大したことは知らないはず。でも、由花ちゃんはお兄ちゃんとも仲がいい。もしかしたら、色々なことを聞いているかも? 逆に由花ちゃんから、お兄ちゃんにわたしの近況が流れているかも? もしそうだったら、わたしが唯一見出す安らぎさえも消えてしまいます。
 ダメだ、イヤだ。親友の由花ちゃんを疑いたくない。自分に隠し事が沢山あるからって、相手にも隠し事があるなんて、思いたくない。でも分かっています。先に嘘を吐いたのは自分の方。わたしの最悪の想像が当たっているとしても、始めに「こむかいやすよ」として接したわたしに、由花ちゃんを責める権利なんて有るはずないことは、分かっています。そもそも、自分から何か深い部分を打ち明けてもいないのに、どうして由花ちゃんを親友だなんて言えるの? わたしは由花ちゃんを、人目からの隠れ蓑として利用しようとした、卑怯な女に過ぎないのに。
 訊いて確かめたいのに、訊けば全てが崩れてしまうかもしれません。だからわたしは確かめません。知りたくありません。この選択が逃避に過ぎないことは、自覚しています。

 《四冊目 131ページ》
 この前由花ちゃんが家へ泊まりに来た日から、少しずつ、学校でも居心地の悪さを覚えるようになりました。誰かがわたしにものを訊ねてきたり、わたしの行動を見られたりする度に、その人がお兄ちゃんと通じてわたしを監視するスパイなのではないかと思えてしまうのです。
 こんなことを考えるわたしを、愚かで被害妄想癖のある女だと思いますか? わたしは自分でそう思います。スパイだなんて、ドラマではないのだし、まずあり得ません。今のところお兄ちゃんが、わたしが伝えていない学校での生活を知っている素振りはありませんから。それに、疑い始めたら一番怪しいのは由花ちゃんです。由花ちゃんはいつでもわたしを気遣ってくれます。そんなことあり得ません。
 だけどこんなことを言い切れるのは、今は部屋でこうして机に向かっているからです。学校にいる間は、気にしないように努めていても、ふとした瞬間に他人への疑心がもたげてきます。本当にいつでも監視されているのではないかと怖くなります。それでいて相手に、見張られていることに感づいていることを悟られないように、なるべく言動を選ぶのです。
 そして家で独りになるといつものように、目眩と吐き気が襲ってきます。ときには、血の代わりに泥水が身体を流れている錯覚も蘇ってきます。

 《四冊目 154ページ》
 期末テストの結果が返ってきたとき、茅さんがわたしの答案を覗き込んで話しかけてきました。
『うわっ、すっごいねぇ。どうやったらそんないい点数取れるの? 今度コツ教えてよぅ、ホヨちゃん』
 突然の出来事でした。一瞬、相手が何を喋っているのか理解出来ませんでした。茅さんが自分の、赤点ギリギリの答案を苦笑して見せながらまた何か話しているのを、最初は呆然と聞き流して見ているしか出来ませんでした。
 その態度があまりに馴れ馴れしかったこともあります。だけど何より、茅さんがわたしを「ホヨ」と呼んだことが何を意味するのかが分からなかったのです。どうして? どうして茅さんがわたしの本当の名前を知っているの? どこかから漏れたの? 誰かが話したの?
 その答えはすぐ明らかになりました。隣でこれを聞いていた別の女の子が「あれ? 小向さんの下の名前って、やすよ、じゃなかった?」と言うなり茅さんは、
『え、そうだっけ? ごっめ~ん! あたしつい、ホヨ、って読んじゃってたぁ! あぁそっか。これで、やすよ、って読むんだね』
 と、ウインクをしながら言ったのです。気付かれていたわけではなかったみたい。偶然。だけど偶然とはいえ、核心を突かれました。

 《四冊目 157ページ》
 先日、茅さんが間違えて(本当は合っている)わたしを「ホヨ」と呼んだことに端を発して、早くもわたしのあだ名が「ホヨ」で定着しつつあります。
『やっぱり、ホヨ、の方が似合ってると思うなぁ。なんて、あたしが勝手にそう思ってるだけなんだけどさ』
 茅さんがそう言って何度もわたしを「ホヨ」と呼ぶので、他の皆もそれに倣うようになりました。
 偽名のあだ名が本名だなんて、滑稽です。この名前を学校で呼ばれないために、今まで頑張っていたのに。それがようやく実って、学校側も「やすよ」と信じて疑っていないのに。茅さんは無意識に、簡単に、それを覆しました。

 《四冊目 200ページ》
 ニュースでは連日、この前起きた通り魔殺人事件の報道をしています。
 犯人は「誰でもよかった。人を殺して死刑になりたかった」と供述しているそうです。辛口のコメンテーターが「そんなに死にたければ一人で死ねばいいのに。罪もない人を巻き込むなんて最低だ」と憤っています。
 犯人は最低の人間です。わたしもそれに異論はありません。でもわたしには、犯人の気持ちが少しだけ分かるような気がします。正確には、死にたいのではありません。裁かれたいのだと思います。
 きっと世の中には、どうしようもなく自分のことを嫌いな人間がいるのです。どうしても自分の価値を信じられない人間がいるのです。ときどき、自分はこの世にいてはいけない人間なのではないかと、疑ってしまうことがあるのです。それに気付いていながらも、まだ生きていることに自己嫌悪するのです。
 だけど、自殺をするのにも罪の意識を感じてしまって、踏み切れません。生きることは良いことで、死ぬことは悪いことだと決められているから。もしかしたら、自分が死んで悲しむ人がいるかもしれないから。
 そんな中途半端な場所に居続けることにも、とうとう耐えられなくなったとき、こう思い至ってしまうのではないでしょうか。
「どうかわたしに、死んでも良いという許可を下さい」と。
 分かっています。そのために人を傷付けることは最低の行為です。こんな考えは甘え以外の何ものでもありません。それでも、そんな甘えから逃げられなくて、そんな自分にまた嫌気が差してしまう人間が、悪い方向へしかものを考えられなくなってしまった人間が、この世にはいるのです。
 だからひょっとしたら、いつかわたしも、人を

 ――書きかけの文章が、インクで塗り潰されている――

 ここに書いたことは、あくまでわたしの想像です。もう寝ます。おやすみなさい。

 《四冊目 214ページ》
 今日、二学期の始業式の後、服装検査が行われました。そこでわたしの赤いバレッタが、派手だからという理由で先生に没収されました。最終的には返してもらいましたが、あれが他人の手に渡っていた数時間、わたしは気が気でなりませんでした。まさか机の鍵を中に入れていることが簡単に悟られるとは思えませんが、万が一のことがあります。さらに万が一、それがお兄ちゃんの耳に入ったらと思うと、ひと時も落ち着いていられませんでした。そこに何かが隠されているということ自体を、知られないようにしたいのです。
 だけど先生は、二度とこのバレッタを学校に持ち込まないようにしなさいと言いました。それはわたしに、死ねと言っているのでしょうか。今のわたしは、この日記を書きながら感情を冷静に見ることでようやく、自分の意識を保っていられるのに。一日を落ち着いて振り返ることで辛うじて、正気と狂気の境で留まっていられるのに。あれよりもいい鍵の隠し場所を、わたしは知りません。

 《四冊目 217ページ》
 わたしが訴えを起こそうと職員室へ向かっている途中の廊下で、茅さんが近寄って、肩を叩いてきました。
『ねぇホヨ。また今日も、そのバレッタのことで先生とケンカしに行くの?』
 わたしは軽く頭を下げるだけで通り過ぎようとしましたが、茅さんは困ったような顔で追い駆けてきました。
『あっ、ムシしないでよぅ。あたしも協力したげるからさ』
 いきなり何を言い出すのかと思い、わたしが立ち止まって振り向くと、茅さんは無邪気な仔猫のような瞳でわたしの顔を覗き込んできました。
『あたしね、ホヨと友達になりたいんだよぉ。だって正直、地味であんまり喋らないイメージしかなかったんだけど、こうやって先生相手にも立ち向かってるじゃない? 意外だったっていうか、その勇気に心うたれた、みたいな? そんな感じ。あはは、あたし、なに言ってるんだろね? まぁとにかく、あたしにもホヨの協力させてよ。ついでにあたしも、ここの服装なんとかってのには言いたいことあるしさ。ほら、この学校のスカート丈って、ちょっと長いと思わない?』
 それから茅さんは、膝丈のスカートの端をつまんで喋り続けました。これ以降の話の内容はあまり憶えていません。ただ予感するのは、これから先も、茅さんはわたしに付きまとってくるだろうなということです。
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