タカオ編 第2幕「小向保世」
次に目を開けたとき、俺はよく分からない場所に立っていた。分からないというより、分かりようがない。頭上からスポットライトのような光が浴びせられている。足元はきれいに磨かれたフローリングのようだが、それ以外は一切の暗闇に覆われていて、周りがどうなっているのかが見えない。
ここはどこだ? これがおもい飴の導きか?
この向こう側には何があるのか。確かめようと一歩を踏み出したところで、真後ろから何かのスイッチを入れたような音が聞こえた。振り返ると、さっきまでは無かったオレンジ色の小さな光りが三つ、頭上高くに灯っていた。
新しい光源が加わったことに加え、目も少し慣れてきた。場所の全体像が見えてくる。
劇場みたいなところだ。俺が立っているのが舞台の上で、三つの光がある方向が客席だろうか。薄らぼんやりとした闇の中に浮かび上がって見える座席は、ベンチ形をしている。
目を凝らすと、一番手前、オレンジ光の真下の席に何かが横たわっているのが見えた。近付こうとするとスポットライトが俺の動きに合わせて動くため、徐々にそこにあるものの姿が分かった。何者かが毛布に身を包んで眠っている。
俺が舞台を降りてベンチの側に立つと、強いスポットライトがその人物を焦点に当てるよう動いた。やはりそうだ。毛布を剥ぐとそこには予想と期待通り、小向がいた。パジャマ姿で、メガネと髪留めは付けていない。舞台に顔を向け、膝を抱える形でうずくまっている。
「う……ん……」
明かりが眩しかったのだろうか。上から覗き込むと小向はまぶたをさらに強く閉じて、もっと背を丸くしていた。……ここでまた眠ってもらっては困る。
「小向? おい、小向?」
肩に手をかけて揺らすが、これといった反応はしてくれない。狸寝入りか? もっと、こいつの心の底に訴えかける言葉が必要なのか?
「起きろ、小向保世(ほよ)」
小向の本名。罪の意識と共に封じ込めようとしていた名前だ。それが耳に届くなり、小向のまぶたが弾くように開かれた。そして次はゆっくりと足を伸ばし、手の平で座席を押して、上体だけを起こした。その動きはまるでゼンマイ仕掛けの人形のように遅く、ぎこちない。
「…………」
小向は無言で首を動かし、俺に顔を向けた。その眼差しには二回ほど見覚えがある。俺が暴行魔に襲われそうになって、利一に連れ帰られて、洗面所で鏡を見たときの、あの淀んだ瞳だ。そうだ。小向の意識が無くなった日の、虚ろな瞳だ。光を寄せつけず、自ら放つこともない。
これに……俺の言葉は届くのか?
いや、迷っている暇なんかない。躊躇うな。七後が本気になって、おもい飴がここまでお膳立てをしてくれたんだ。このチャンスを逃す手があるか。
「目は覚めたか?」
俺がもう一度声をかけると、小向は二、三度まばたきをしてから目を細め、首をかしげた。
「……誰? 眩しくて、よく、見えない。どうしてあなたは、わたしを起こすの? まだ、わたしを見張るの?」
そして瞳は相変わらず虚ろなまま、自嘲気味に口の端を歪ませた。その表情は俺が見たことのない、こいつがこんな顔をするとは想像だにしなかったものだ。
「別にもう、いいよね? あなたが誰でも、関係ないよね? ……心配しなくても、大丈夫だよ。わたしは、ずっとここにいるから。何もしないし、何もされない。そうすれば、誰も傷付かずに済むでしょ?」
小向はのたのたと体勢を変えた。わずかに俺から距離をとり、背もたれに腰を当てて身を縮めている。泣き疲れた子供のように殆ど口を開かず、聞き取りにくい声で喋っているが、そこに俺が耳慣れた吃音は現れていない。
「ねえ、なんであなたは、わたしを起こすの? やっとこのまま、消えてしまえるはずだったのに」
小向はうな垂れ、腕から半分だけ覗かせた瞳は舞台の上を指しながら、しかしさっきよりもはっきりとした声で言った。
確かに俺は知っている。小向が自分を苦しめて、罪悪感に苛まれて、ついには現実世界という舞台から降りた経緯を知っている。俺はあの日記を読んだし、こいつの身体を通して痛みの一部を体験したから。
でも、違うんだ。俺がここにいるのは、お前を責めることが目的じゃない!
「小向……お前は本気で、心の底から、消えてしまいたいと思っていたのか?」
俺の質問に小向は一瞬、露骨に不機嫌そうな顔をした。
どうしてあなたがそれを知っているの?
どうしてあなたに、そんなことを訊かれなきゃいけないの?
今さら、当たり前のことを訊かないでよ。
大体、質問しているのはわたしだよ?
そんな感じのことでも考えたのだろうか。そしてまたすぐに、諦めの色濃い表情に戻って言った。その視線が捉える先は俺ではなく、中空の暗闇だ。
「そうだよ。わたしは、そこにいたらいけない女なの。消えてしまわなければいけない人間なの」
小向は顔を垂れて、腕の中に隠した。
俺の質問と小向の回答は微妙に食い違っていた。消えて無くなることがお前の望みなのかと訊いたのに、返ってきた答えは、消えなければならないという義務・使命感だ。しかもそれは、誰に押し付けられたものでもなく、小向が自分に課した枷だ。
七後はそれを外すことに踏み出せなかった。高瀬直太は、気付くことすら出来なかった。そして俺は、ここにいる。
日記を読んでいる途中で幾度となく頭に浮かんだ言葉を、今こそ伝えよう。
「保世。お前は一つ、大きな間違いをしている」
名前を呼んでも小向は反応を示さなかった。間違いをしている。そんなことは言われなくても分かってるとでも言いたげな態度だ。だがそれこそ、間違いだ。お前の考えている「間違い」と、今から俺が指摘する「間違い」は別物だ。
「勘違いをするな。思い込みを捨てろ。お前が救いようのない罪人だなんてのは間違いだ」
「…………」
小向の肩が、かすかに動いたような気がした。
「いいか? お前は罪人じゃない。嫌な女じゃない。存在することを許されない、ダメな人間なんかであるはずがない!」
「……じゃあ、わたしは何なの?」
うずくまったまま、小向は声だけで返した。
俺は拳を固め、
「どこにでもいる、普通の女の子だ」
強く言い切った。異論は認めない。
「ただ、疲れているだけなんだ。心の休ませ方を知らないだけなんだ。だから、消える必要なんてない。人を好きになっていい。人に愛されてもいい。お前は、舞台の上(あそこ)にいていいんだ!」
そして俺は手を差し伸べた。小向はその動きを察したのか、頭を上げて、不思議そうに俺の手の平を見詰めている。ここで強引に小向の腕を取って、舞台に引き上げることも可能だった。しかしそれでは、また苦しみの中に引き戻すだけだ。だがもし、小向自身の意思で手を取ってくれるなら、現実と向き合う意志を示してくれるなら、
「お前の痛みは、半分は俺が持ってやる。俺とお前は二心同体だ。俺の迷惑なんか考えるんじゃねえ。保世がどうしたいか。それだけを考えろ! お前は高瀬直太が好きか? 七後由花が好きか? 茅美月が好きか? そいつらのいる、あの世界が好きか? いいんだよ! お前はそこにいてもいいんだよ! 生きていていいんだよ! だから、手を取れ! 手を取ってくれ! 罪の重さで足が動かないのなら、俺が支えてやる! お前が一人でも立てるようになるまで、肩を貸してやるぞ!」
小向は戸惑っている。今まで誰からもかけられなかったであろう言葉を、正体不明の人間から突然言われたんだからな。
「あ……あなたは誰? どうしてわたしに、そこまで優しいことを言ってくれるの?」
「俺の名前は、タカオだ」
「タカオくん……? ごめんね、分からないや。……でも、どうしてだろ? 初めて会った気がしないの」
「いや、俺がこうしてお前と話をするのは初めてだぜ」
「そう? ……ねえ、タカオくん。本当に……いいの? わたし、高瀬くんや、由花ちゃんや、美月ちゃんの傍にいても、いいのかな?」
「誰が何と言おうと、お前が何を言おうと、俺は、お前がそこに生きていることを許すぞ」
偉そうなことを言っているが、本来なら、俺がわざわざ言うまでもない当然のことだ。でも、多分、誰も小向に言ってあげられなかった。
「あ、ありが、とう……」
小向の声が震えた。その瞳には一瞬、小さな光が宿ったように見えた。
「ダメだよ」
小向が俺の手に右手を預けるや否や、いきなり、態度とは裏腹に否定の意思を突きつけられた。何だ? 最後の一言だけ、やけに語気が強かった。でも、ここにいる小向の唇は動いていなかったぞ。この声は、どこから?
「自分が迂闊なことをしたせいで、塩田くんが大怪我したのを忘れたの? 自分の手で、美月ちゃんを怪我させたのを忘れたの? そんなの簡単に許されるわけないじゃない」
声の正体に気付いた。小向の一つ後ろのベンチ。いつからそこにいたのか。おそらく最初からずっといたのだろう。暗がりの中に人影が見える。その影は小向の右肩に左手をかけて、身を乗り出してきた。
今、俺の目の前には、同じ顔が二つ並んでいる。パジャマに素顔で、震えながらうずくまっているのが一人。制服姿にメガネと髪留めを付けて、その後ろから現れたのがもう一人。強いて区別するなら、前者が「ほよ」で、後者が「やすよ」だろうか。「やすよ」の顔には、これまた俺が見たことのない、強固な意志が浮かんでいる。
「タカオくん、だっけ? どこの誰だか知らないけど、なんでここまで入ってきたの? もう『ほよ』には近付かないで。ね? その方がお互いのためだよ。それに、『ほよ』は望んで舞台を降りたの。好きな人たちを守るためにね。その気持ちを、汲んでほしいな」
「もう関わるなってか? 小向のために? それがお前の考えか?」
「そうだよ。わたしは、世界を守ろうとする『ほよ』が変なことをしないように、ここで見張っているの。それが『やすよ』の役目。だって、それが『ほよ』の望みなんだもの」
そこで「やすよ」は、「ほよ」に残酷な批難を浴びせる。俺は握った手を引こうと試みたが、石のように固まって動かなかった。
「それなのに『ほよ』は、わたしを捨てようとしたよね? 自分でわたしを作っておきながら、好きな男の子と近付けたらもう用済み? わたしの六年間を無駄にする気?」
「あ、ご、ごめ、ん、なさい……。っで、でも、わた、わたし……」
責め立てられた「ほよ」の言葉は弱々しく、俺の聞き慣れた喋り方になっている。そうか。こいつが喋ろうとするとき、いつも後ろには「やすよ」がいたんだな。そこに見えなくてもきっと、無意識のうちに、感じていたんだ。
だからと言って、俺には、この「やすよ」の存在や考え方を頭から否定する気にはなれない。どんな想いで「やすよ」が作られたのかを知っているから。それを維持するためにどれだけ心をすり減らしてきたのかも知っているから。
「おい『やすよ』、そのくらいにしておけ。言いたいことは分かる。だが、お前は思い違いをしてるぜ」
「違うって、どういう意味かな?」
片眉を上げた「やすよ」に、俺は左手の指を三本立てて突き出した。
「一つ。世の中はそもそも辛いことばっかりで、小向一人が自分を押し殺したところで完全な平和になんかならないってこと。二つ。お前の心が消えて無くなることで、余計に傷付く人間がいるってこと。そして三つ」
そこで俺は、「ほよ」の肩に置かれている「やすよ」の手首を掴んで引き寄せた。
「俺にとっては、本当は『ほよ』とか『やすよ』とか、そんな区別はどうだっていいってことだ! こっちの小向は俺の手を取った。だから、来るならお前の方も一緒に来い!」
「ほよ」は怯えた表情が消え、隣にある「やすよ」の手首を呆然と見ていた。「やすよ」は困惑しながら、自分の手首を見詰めて目をぱちくりさせた。
「へえ……『ほよ』を連れ戻しに来たみたいだからてっきり、わたしみたいな偽者は消えろとか言うと思ったのに、違うんだ? わたしを認めるの?」
「もちろんだ。お前だって、小向だ。そうだろ? 本物も偽者もあるかよ。いいか? ほよ、隣にいるそいつは、恐れるべき相手じゃない。やすよ、隣にいるそいつは、縛るべき相手じゃない」
自らの感情を抑えて、他人を遠ざけようとする「やすよ」。素直になりたいのに、罪悪感で縛られる「ほよ」。俺に言わせれば、どちらも大して変わらない。同じ人間の裏表だ。
しかしこう言っても、「やすよ」はかぶりを振った。
「でも、でも、ダメだよ! 塩田くんは、美月ちゃんは、わたしを許してなんかくれないよ!」
「やすよ」の悲痛な叫びに、「ほよ」の肩がわなないた。枷は思いのほか重たい。だからこそ今、言わなければならない。
「それは自分で自分を許せないからだ。だから、他人が自分を許すわけなどないと思ってしまうんだ。でも、そうじゃない。断っておくが俺は、この世界は悪いことばかりじゃないとか、きっと許してくれるとか、そんな楽観的な慰めを言うつもりはねえ。俺が言いたいのは、お前は二人に謝ってすらいない、出発点に立ってもいないってことだ。自分で気持ちを伝えなけりゃ、相手に許してもらうことも出来ないだろ? 俺は塩田と茅の代わりになって、お前のしたことを許すことは出来ないんだ。ただ、もう一度立ち上がって、本当に望むことをしていい。それを言うだけなんだよ」
そう、それだけだ。別に億万長者になるとか、ハリウッド女優になるとか、世にも素敵なバラ色の人生を歩んでほしいと思っているわけじゃない。ただ、普通に生きたい人間が普通に生きてほしい。
「だけど、わたし……。塩田くんとどうやって会えばいいのか、分からないよ。今、どこに住んでるのかも……」
「今すぐじゃなくてもいい。落ち着いたときに、お前が望むときでいいんだ。……塩田の住所なら心配するな。俺たちには忍者の末裔が味方に付いてる。そいつがその気になったら、すぐに当たりが付くさ」
半べそをかく「やすよ」に、俺は冗談交じりに微笑んだ。さすがにシリアスばかりだと息が詰まるからな。二人揃って顔をほころばせるのが見えた。効果あり、か?
「忍者って、もしかして、由花ちゃんのこと?」
「タカオくん。いくらなんでも、忍者は言い過ぎだよ」
さっきまでの張り詰めた雰囲気が薄れた二人は、ひとしきり無邪気に微笑んだ後、互いに見詰め合って頷いた。
「でも……そうだね。タカオくんの言う通りだね。わたし、そうやって結局、自分を苦しめてたんだよね。被害妄想だ、脅迫観念だって、分かってたのに。どんどん自分が嫌いになっていって」
「うん。それで、自分はこうならなきゃいけないって思い込んでた。自分は他人と関わる資格の無い人間だって、決め付けてた」
先に口を開いたのは「やすよ」だ。続けて「ほよ」が紡ぐ。
「分かってた。分かってたんだよ。でも、誰にも言えなくて、」
「だけど、許してほしかった。誰かに言ってほしかった。タカオくんに言われたようなことを、ずっと……」
もう一度、「ほよ」と「やすよ」は深く頷いた。その横顔は二人とも同じ、憑き物が取れたように晴れている。そう、全く同じ表情だ。
「わたしは『ほよ』がいるから、ここにいられる」
「わたしは『やすよ』がいたから、ここにいられた」
「「だから、一緒に行こう」」
そして二人は声を重ね、目を閉じた。俺に掴まれていない方の手を合わせ、指を絡ませながら、額を合わせた。まるで鏡のように。
すると、どうだ。途端に俺の視界が、全体もやがかったように曇りだした。辛うじて、二つの人影が寄り添っているのが見えるだけだ。続いて、立ちくらみにも似た感覚が襲ってきた。目を開けることさえおぼつかない。ただ俺は、掴んだ手を離さないように力を込めることだけを考えた。
それがわずか数秒で終わったのか、それとも、実は何十分も続いたのかは分からない。再び視界が開けたとき、そこにいたのは一人だけだった。俺の知っているトレードマークを外した素顔で、制服に身を包んだ、ベンチに深くうずくまっている小向保世(ほよ)。しかもその瞳には、しっかりとした生気がみなぎっている。そんな気がする。
「立てるか?」
俺はいつの間にか、保世の右手を両手で握っていたのだが、そんなことは気にせずにその手を引いた。小向は腰を浮かせ、ベンチの端から足を滑らせそうになりながらも、床に降り立った。その拍子にバランスを崩し、俺の胸にもたれかかる。
「あ、ご、ごめんね、タカオくん……っ!」
慌てて身を離した小向が息を呑み、表情を固めた。俺、何かしたか?
……いや、俺じゃない。こいつが見ているのは、俺じゃない。小向の視線の先は、俺の肩越し。おそらく、舞台の上。一瞬にして小向の瞳孔が開き、光が消えた。何だ? 何が起こっている?
後ろには、何があるんだ?
「あ、や……いやあぁぁあ!」
俺が振り向いてそれを確かめるより先に、掴んでいた手が振り払われた。小向の細腕からは想像も付かないほどの強い力だった。
まるで映画やドラマのシーンが切り替わるように、急に目の前が一面の暗闇になったかと思うと間もなく、俺はリビングのソファの上でうな垂れていた。心臓が強く脈打っている。何がどうなったのか、よく分からない。
あの舞台と、その周りに置かれていた無数のベンチ。使い古された言い方をすれば、あれが小向の心の中とでも言うべき場所なのだろうか。だが問題にするべきは、あそこがどこであるかの考察ではなく、小向救出に失敗したという結果についてだ。
何があった? あの瞬間に、小向は何を見た?
俺が頭を抱えていると、視界の端で七後がゆっくりドアを開けて部屋に入ってくるのが見えた。振り向けば七後は、俺を観察するように半開きの目を向けている。ここにいるのが俺か小向か、見定めているのだろうか。
「すまん、七後。……ダメだった」
「高瀬。あなたが何を見たのか、聞かせてほしい」
俺の斜めに座った七後へ、おもい飴を舐めてから起こったことを話した。七後は基本的に口を挟まず、俺の言葉が詰まったときにだけうまく続きを引き出す言葉をかけてくれた。相変わらずの聞き上手だ。
俺の手が払われ、現実の世界に押し戻されたところまで話した。七後は口元に手を当ててしばらく考え込むような仕草をしてから、はっきりと言った。
「だけど、保世は前に進もうとした。例えそれがわずかでも、大事な一歩」
「?」
「それに、保世の心がまだそこにあること。保世がもう一度立ち上がる意志を見せたこと。それらが確認出来ただけでも、私にとっては大きな励み。ありがとう、高瀬」
七後はまだ諦めていない。むしろ、俺の失敗報告を聞いてさらに小向を助ける気持ちを強めた。
そうだよ。七後の言う通りだ。ここで立ち止まるわけにはいかない。まだ、これからだ。だが、今すぐここでおもい飴を舐めても、また同じことになるだろう。時期が重要だ。だからそれまでは……。
「七後、頼みたいことが二つある」
「私に出来ることなら」
「俺のことは高瀬じゃなくて、タカオって呼んでくれ」
「分かった。二つ目は?」
「髪型を、変えてくれないか?」
「……何故?」
一つ目は何も訊かずに了解してくれた七後だが、二つ目の意図はさすがに理解しきれなかったらしい。
「ちょっとしたおまじないだ。次に目を覚ました小向が、前と同じじゃ意味が無いだろ?」
「それならば、お安い御用」
七後はすぐさま立ち上がり、自分の鞄から櫛と輪ゴム――にしてはカラフルでお洒落だな。飾りも付いてるし、ヘアゴムとか言った方が正しいのか?――を抜き出した。
「なるほど。確かにあなたは、高瀬ではなくタカオと呼ぶべきかもしれない。高瀬だったら、わざわざ女子の髪型なんかに気を遣わない」
「ああ、そうかもな」
俺の後ろに立った七後は、手早く髪に手を加えた。梳かされる感覚が心地良い。ヘアメイクが終わったら、戸棚の上にある鏡と、七後の手鏡とで出来映えを確認。やっぱりメガネも髪留めも着けない方がすっきりして見える。
「今までの保世は後ろ髪を低い位置で束ねただけだったから、年の割にやや重たい印象。しかし多くを変え得るほどの髪量も無いので、暫定的に上の方でまとめてみた。本気でいろいろ考えるなら、美月に相談するのが吉」
思い返してみれば、茅は背中まである髪をちょくちょく変えていたな。
「ありがとな。いい感じだぜ。……でもまあ、茅への髪型の相談とか、そういった日常は小向のものだ」
「だから取り戻す。そう、今度こそ」
それから少し、互いに無言の状態が続いた。
小向の異常なまでの怯え。他人に助けを求めることすら出来なかった理由。七後の意志。本当に立ち向かうべき相手。あの舞台の上に何を見たのか、こうして落ち着いてみれば、いくら鈍感な俺でも見当が付く。
大丈夫だ。俺も、小向も、もう孤独じゃない。いや、最初から孤独なんかではなかった。支えられていた。それに気付いていなかっただけなんだ。
いつの間にか、カーテンの外が赤くなっている。
夜明けだ。