タカオ編 第8幕「与え得るもの」
部屋に残った三人は、しばらく呆然としていた。達成感らしいものは殆ど無さそうだ。
当面の危機が去ったことへの安堵。今は安静にしていろという身体からの訴え、痛み。取り返しのつかないことをしてしまったのではないかという恐れ。おそらくはこの辺りの感情や感覚が混ざり合い、動こうにも動けなかったのだろう。
「すまん」
「ごめん」
「ごめんなさい」
やがて雨の音だけを聞くことに耐えられなくなったのか、三人が同時に口を開いた。
「お前の兄貴を助けられなかった」
「高瀬を守りきれなかった」
「お兄ちゃんを止められなかった」
そしてまた沈黙が続く。
「保世、電話を貸して。救急車を呼ぶ」
ふと、七後は思い出したように言った。小向から受け取った携帯のボタンを、押すのを躊躇っているように見える。身体の自由が効かない状態での転落。民家の二階だから極端な高さではないが、打ち所が悪ければどうなるか。
「俺がかけるか? とどめを刺したのは俺みたいなもんだからな」
「それには及ばない」
高瀬直太の申し出を断り、七後は消防署への連絡を簡潔に済ませた。そこで再び、三人ともが大きく息を吐いてへたり込む。
さて、良くも悪くも、場の空気を一変させる人間がいる。
それまでの緊張を打ち砕く呑気な声と共に、誰かが階段を上ってくるのが聞こえてきた。
「ホヨ~、直太くぅ~ん。こっちに由花が来てなぁ~い? ……って、うわぉ! どしたのこれ、テロでもあったのぉ?」
学校指定鞄を二つ――おそらく片方は七後のものだろう――抱えて上がってきた人物、茅は部屋の惨状に目を丸くした。割れた窓、散乱したガラス、雨で濡れたベッドと床、床には血痕、壁には開いた穴、震えている小向、びしょ濡れで靴を履いたままの七後、さらに怪我の増えた高瀬直太。……まあ、当然の反応だ。
さすがの茅も、どこから触れていいのか判断に迷っている。すると小向は膝を床に擦らせて、茅ににじり寄った。立ち上がるだけの体力も残っていないのだろう。
「ホヨ、どうしたの! 頭、ケガしたの? 病院! 病院!」
「わ、わたしは平気。美月、ちゃん……」
「えっとぉ……ホヨ?」
茅は鞄を投げ捨てて、小向の耳に唇を寄せた。
「うん。わ、わたしは、わたしだよ? 美月ちゃん、どうしぅわっ!」
そして中身が俺ではなく保世だと分かった茅は、一も二もなく両腕を小向の首に回し、抱き締めた。
「よかったぁ! なんだかよく分かんないけど、とにかく戻ってよかったぁ! おかえり、ホヨぉ!」
「ふぇ? あ、うん、ただいま?」
「ねぇホヨ。……ごめんね」
「ど、どうしたの、美月ちゃん?」
「階段でのアレ、やっぱりあたしがホヨを怒らせちゃったんだよね? あたし、バカだからさ、たまに加減が分かんなくなるんだ。ほんと言うと、まだ、なんでホヨを怒らせたのか分かってないんだもん。……ごめん。あたしにダメなところがあったら言ってよ。あたし、気をつけるからさぁ」
ついさっきとは百八十度変わって、茅の声はしおらしくなった。小向の胸にはまた込み上げるものがあったのか、嗚咽交じりに言葉を紡いだ。
「……ち、違う、よ。美月ちゃんは、悪く、ないの。わたしこそ、ごえ、ごめ、ごめん、なさい。わ、わたし、美月ちゃんが、う、うらやまし、かった。ご、ごめんなさい。だ、だって……わたし、ひっく、わたし、も、た、た、高瀬くん……」
「ちょっと待って、保世」
どういうわけか七後は、その言葉を遮った。まさかここへきて小向の恋路を邪魔するとは思えないが。
「由花ちゃん?」
「その先を聞くより前に、確認しておかなければいけないことがある。……美月は、どうやってこの家に入ってきた?」
どういうことだ?
「え? どうやってって、普通に玄関から」
「鍵は?」
「かかってなかったけどぉ? あ、っていうかさ、下もなんだかぐちゃぐちゃになってたよ。変な音もしてたし。何があったの?」
茅が何気なく返した答えは、七後を戦慄させるものだった。俺も数瞬遅れて含意を理解する。耳を澄ませると、確かに階下からガツンガツンという打突音が響いていた。
「高瀬、外を見て」
「外? ……って、おい、小向の兄貴がいねえぞ! どこ行った! なんであれで動けるんだよ!」
そうだ。そういうことだ。
俺はしっかりと鍵を閉めた。七後は窓を破ってここに来た。この状況下で、外から小向邸の鍵を開けられる人物は一人しかいない!
「私は彼を見誤っていた。人間の常識では測れない。……嫌な予感がする」
「え、なになに? どしたのぉ?」
「美月ちゃん、高瀬くん、早く逃げて! 今のお兄ちゃんは、何をするか分かんない!」
いきなり言われた茅も、何が何だか分からないだろう。だが小向の声に鬼気迫るものを感じたらしく、急かされるまま素直に階段を戻り下りる。七後はそれを追い越すように駆け、小向は倒れている高瀬直太の手を引いて起こした。
一階の廊下には、玄関から続いているであろう泥がのたくっていた。しかも歩いて出来た跡ではない。何かを引きずったような感じだ。そして床のそこかしこに付いているものが足跡ではなく、手形であることに気付いたとき、俺はぞっとした。片腕が折れて、立って歩くこともままならない身体で、利一は這いずりながらも進み続けていたんだ。
ここから先の出来事は、にわかには信じがたいことの連続だった。実際にはほぼ全てが同時に起きたものだが、一つずつ順番に述べるしかないだろう。
まずは、利一の行動。
奴は新たに都合したハンマーを左手に――もちろん尖った方を使うように――携え、台所でコンロの前に佇んでいた。そんなもので、そんなところで、何をしていたのか。それはひしゃげたコックと破れたガス管を見れば明らかだ。痺れは既に薄れたらしく、利一は稲穂のようにゆららかと、しかし二本の足で立っていた。俺には何故かその横姿が、風が吹けば今にも消えてしまいそうな儚さをまとっているように映り、あの日の踊り場にいた小向と重なって見えた。
次に、小向たちの行動。
廊下を走っていた小向、七後、茅、高瀬直太の四人は、ドア越しに利一の姿を視界に入れた。同時にその危険性も感じたはずだ。どれだけの規模になるか定かでないが、至近距離でのガス爆発に巻き込まれれば無事では済むまい。せめて家の外にでも出れば最低限の安全は確保されるだろう。むしろそうすべきだ。災害に見舞われたときには、まず自分の身を守りなさいと学校では教えられる。
だが、こいつらは誰一人として逃げようとしなかった。二度と兄から目を逸らすまじと再起した妹。高瀬直太を必ず守ると約束した推定忍者。常に自分が傷付くことも構わず、他人を助けようと考えているお人好し。頭より先に身体が動く学級委員長。全員が全員、傍らの友を想い、怒号を上げ、利一めがけて突き進んだ。
そして、俺の行動。
自分でも驚いたことに、膝上の毛布を跳ね除け、ベンチ席を跳び出していた。
タカオである俺は、本来この世には存在しないはずの人格だ。身体の主導権を小向に返した今や現実世界に対して何の干渉も出来ないし、すべきでないと思っていた。
だがそんなものは誰が決めた? ルールが定まっているわけじゃない。小向の意識を引き戻したところで俺はもうお役御免だと、勝手に思い込んでいただけだ。確かに普通だったらそうだろう。もう一度舞台に上がるなんて、反則もいいところだ。しかし利一は俺たちの予測や想定を容易く超えている。ならこっちも、そんなものに捉われてじっとしているわけにはいかないんじゃないか。
出来るかどうかは関係ない。ただ、ここでやらなきゃ俺は何のためにいるんだ? 俺の意識はまだこうして存在している。だったら何か可能性はあるはずだ。だいたい、舞台って何だ? 観客席? 人生に観客席なんて用意されているのか? そうだよ。傍観者に徹するにはまだ早過ぎるぜ。覚悟ってのはその程度のものじゃないだろう。宿命ってのは、そんなに軽い言葉じゃないだろう。
実際にはそんなにぐだぐだ考える暇も無く、俺は一段飛びに舞台へ駆け上がった。夢中だった。コンロのスイッチに手をかけようとする利一の所作と、それを止めようとする四人の躍動がスローモーションになる。俺は時感覚を無視するように素早く走り抜け、利一に接近し、そのまま奴の手首を掴もうとした。
そしてなんと、本当に掴むことが出来た!
不思議な感触だった。まるで冷水に浸りかじかんだ手で物に触れたときのように、熱も圧も半端にしか伝わってこない。
今の俺には身体が無い。より正確に言えば実体が無い。身体の感覚はあるにはあるのだが、現実に高瀬直太と小向がいる以上は、それが実在しているはずはない。おそらく小向たちの目に俺の姿は見えないはずだ。そんな幽霊みたいな俺が物理的な干渉など可能なのだろうかと、今さらながらに思った矢先、
「……保世?」
利一は焦点の合わない目で、俺の方に首を回した。
瞬間、周りの風景が霧散して失せ、小向たちも消えた。板張りの舞台の上で辺りは真暗く、俺と利一を照らすスポットライトが一条あるだけだ。
こいつには俺が見えている……のか?
「保世の方から僕に触れてきたのは初めてだね」
俺のことを知覚しているのは間違いないらしい。しかし奴は俺を保世と呼んだ。本物の妹を殴り、肘鉄を打とうとさえした男が、だ。
直感した。
『妹を守る兄』という責の根本。利一を苦しめた最大の原因であり、奴がすがった最後の逃げ道でもある、小向の幻。それと俺とを混同しているのだろう。何故だ、と思うと同時に納得もした。俺がここにいる理由だ。
利一が妄信していた妹は二人いる。現実と幻覚。そのうちの前者は、小向自身が立ち上がったことで打ち破られた。だから利一は幻覚に溺れた。幻だけに全てを委ね、誰の声も届かなくなってしまった。じゃあ、奴をそこから解き放つにはどうすればいいか。はっきりとは分からないが、どんな常識的手段も通用しないだろう。七後でさえお手上げを表明したくらいだ。ここまでぶっ壊れた利一を正常に戻すなんざ、普通に考えたら無理だ。あり得ない。……でも非常識で「あり得ない」ことなら既に何度も起きた。「あり得ない」出来事を奇跡と呼ぶのなら、俺の意識は奇跡の産物であり、俺がこうして利一と相対しているのも奇跡のお膳立てによるものだ。
小向はもう充分に頑張った。あとは俺が――あいつの想いによって生まれた俺が――こいつを止めてやる!
「おあああぁあぁあっ!」
とりあえず叫びながら殴ってみた。だが利一は全く避ける素振りを見せず、俺の拳が奴の頬骨にめり込んでも――予想はしていたが――微動だにしていない。
「どうして僕を打つのかな?」
「俺からも一発は食らわせてやらないと、気が済まねえんだ。それだけだよ」
「……きみは本当に、保世なのかい?」
「そんなわけ、ないだろう。俺はお前の妹なんかじゃない。お前がずっと見ていた暗がりや、物陰や、瞳の向こうに、お前の妹はいない。そこには何も無い。俺だって実は、ここにはいないんだ」
「…………」
「分かってたんだろう? お前、自分でも言ってたよな。幻だって。それでもその視線から、逃れられなかったんだって」
「じゃあ、きみは……誰だい?」
ここでこいつ相手にタカオを名乗るのはなんだか癪だな。
「俺は……人呼んで『菩薩』だ」
「こっちの保世の正体が菩薩様とは、驚きだよ」
「だから違うというに」
「まあ、よく考えたら、きみが何者かなんて問いただしたところで詮無いことだね。それより早くこの手をどけてくれないかな? 火を着けられないじゃないか」
「やらせてたまるかよ。ガス爆発なんか起こしたら、お前だけじゃなくて小向もただじゃ済まねえぞ!」
「僕のことはどうでもいいんだ。保世を守るためなら、この身が滅びようとも構わない。邪魔なものは全て排斥する。可能であれば跡形も無く、ね」
無茶苦茶だ。こいつと話していると頭が痛くなってくる。
「自分勝手なヒロイズムに他人を巻き込むんじゃねえ! ……小向は知っていた。その兄貴で、頭のいいお前だったら薄々は気付いていたはずだ。自分のやっていることが無意味だって。自分の首を絞めているだけだって」
「もちろん理解しているさ。矛盾だらけであることはね。でも、もう言ったかもしれないけれど、どうでもいいんだよ。僕は自分の行いが正しいとか間違っているとか、無意味だとか有意義だとか、そんなことは気にしていないんだ。何も迷わないことに決めたのだから」
感情と思想に一切のブレが無く、善悪の物差しさえ通用しない、完全なゼロフラット。それが今の利一だ。こいつは悪人ですらない。
「僕は罪を犯した。それは認めるよ。だけど反省も後悔もしない。幻覚であっても保世が見える限り人を殴り続けるし、その先へ進むことも厭わない。それでもいいと言うのなら、いくらでも罰を受ける。むしろ望むところさ。その方が、よほどこの世界の為になる。地獄に落ちるのであれば、僕は喜び勇んで針の山を踏み締めよう。焦熱に身を浸し、血の池でバタフライでもしてみたい」
利一は穏やかに微笑んだ。この笑みを見るのは何度目になるだろう。ずっと変わらない。救いようが無いとはこのことだ。人間には限界がある。人間が対し得る相手は人間だけ。
悩み、迷い、考えることを捨てた人間は、もはや人間ではない。悟りを開けば仏と敬われ、狂気に堕ちれば化物と恐れられる。それだけの違いだ。
「だったらもう、お前は何も見るな! お前みたいな奴が行ったら地獄も迷惑だ! この世で永遠に、暗闇の中をさ迷い続けろ!」
俺の口は、奴を突き放す言葉しか吐き出せなかった。
俺の腕は、奴の顔に掴みかかることしか出来なかった。
怒り、悲しみ、哀れみ、悔しさ……誰に対するものともない、様々な想いが刹那のうちに浮かんでは消えていった。俺が小向の身体で目覚めてから見たもの、聞いたこと、感じた情の諸々が去来した。今の俺はどんな顔をしているだろうか。
願わくは、どうか奇跡の起こらんことを。神の愛でも仏の慈悲でも何でもいい。
掌が利一の目蓋に触れた瞬間、雷のような衝撃が走った。
わずかな吐き気と強い痺れを覚えながら目を開くと、俺は観客席に弾き飛ばされていたことを知らされる。
再び台所の姿へと戻った舞台の上では、なおも利一が着火を試みている。俺の身体は重くて全く動かない。幻が現実に触れるなんて無理があったのか、今度こそ打つ手が費えた。小向たちは……間に合いそうもない。随一の健脚を持つ七後でさえ疲労と緊張には逆らえないらしい。
俺の目にはあらゆる動作がコマ送りで展開していた。
カチッ
そして雨と怒声の隙を抜けるように、無慈悲なスイッチ音が響く。