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高瀬直太編 第4話「彼女のいた家」

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 しかもそれだけじゃない。俺の想像が正しいとすれば、もっと重大なことが事実として導かれる。小向保世の人格が、心がどこにも無い。消えてしまったのか? まだどこかにあるとすれば、どこに?
 ああ、頭がおかしくなりそうだ。何かが、何かが狂っている。でも何が? 狂っているのは俺か? それとも、俺以外の何もかもか? 誰か教えてくれ。
「小向さん、本当に大丈夫? 家の人に連絡して、迎えに来てもらった方がいいかしら?」
 いつの間にか、保健の先生まで俺の傍に来ていた。
 ……家? そうだ、家! この滅茶苦茶で理不尽な状況を覆せないのなら、俺は当面、小向の家で生活しなけりゃならないんだ!
 とにもかくにも、俺は小向になってしまった。少なくとも彼女の姿をしている以上、周りは俺のことを小向だと判断して、そう扱うだろう。現に七後でさえ、俺を小向として接している。
 この状態で例えば「俺は高瀬直太だ!」と喚いて主張したとする。そうすればどうなる? 「見た目は小向保世だけど中身は高瀬直太だ」って? 目の前に「見た目も中身も高瀬直太」がいるのに? 誰がそんなあり得ないことを信じるよ。俺だったらまず信じない。下手すりゃ精神病院送りにされる。しかも高瀬直太としてじゃなく、頭のおかしくなった小向保世として、だ。こうなることは俺自身が嫌だし、小向の名誉のためにも避けたい。
 仮に信じられたとして、どうなる? ここにいる俺(高瀬直太)や七後が俺(小向保世)の話を信じたとして、他の奴らにはどう説明する? 全員が全員信じてくれるわけはない。誰か一人でも信じない奴がいたら、それだけで事態はややこしくなる。いちいち説明するのも面倒極まりない。可能な限り秘密にして、俺はあくまで小向として振舞うのが得策だろう。
 そもそも「あり得ないこと」があり得てしまったんだから仕方ない。俺がするべきはこの「あり得ないこと」を否定することじゃない。どうして俺だけこんな目に遭うんだなんて、駄々をこねたって無意味だ。「あり得ないこと」が起こった事実を受け入れた上で、どうにかしていくしかない。
 でも、どうやって、どうにかしようか。この状況を隠すとして、一番バレやすいのは小向の家族だ。最も単純にして避けられない相手と、必然的に初日から当たることになる。つくづく、小向との打ち合わせが出来ないことが惜しまれる。俺が小向になりきれるかどうかは、その身辺情報を予め確認しているかどうかが大きく影響するからな。
「先生、その必要はありません」
 俺の心境を知らないはずの七後が、俺に代わって小向の家族への連絡を断った。
「保世は現在一人暮らしをしています」
 なに、そうだったのか!
「なに、そうだったのか!」
 例によって、俺(小向保世)が思い浮かべたことと同じ文句を俺(高瀬直太)が口にした。ちょっと腹が立つ。
 ……ああ、もう面倒くさい。俺は「俺」! こいつは「高瀬直太」! この呼び方区別で統一することにしよう。自分のことを名字で呼び捨ても名前で呼び捨ても嫌だから、フルネームで「高瀬直太」! 確かに俺も高瀬直太であることに違いはないし、そこは譲れないところではあるが、どっちも同じ呼び方だと「俺」が混乱する。ただでさえ訳が分からないのに、これ以上ややこしくなって堪るかよ。
 そんな俺の悩みを余所に、七後は心配する保健の先生に対して平然と言ってのけた。それは俺にとってやっぱり初耳というか、意外な情報だった。
「保世の両親は一ヶ月ほど前から仕事で海外にいます。三つ上のお兄さんは国内にいますが、大学の寮に入っています。彼に連絡をして迎えに来てもらうことも出来ますが、保世を家に送るなら私だけでも充分に可能です」
 小向はそういう事情で一人暮らしだったのか。まあ、俺はこいつが一人暮らしだったことすら知らなかったが。でも大好きな「お兄ちゃん」と離れて暮らしているってのは、相当寂しいんじゃないか? いやそれ以前に、両親が仕事で海外は分かるとしても、子供二人が日本に留まっているのはどこか不自然のような気もする。特別な事情でもあるのか? それとも俺の考え過ぎか?
 ……きっと考え過ぎだな。いつもの俺だったらこんなに深くは悩まない。こんな異常時だから、俺も少し過敏になっているのかもしれない。俺に今必要なのは冷静な思考力と沈着な判断力。小向に何か複雑な事情があるとしたら、これから嫌でも分かってくるはずだ。まずは……、まずは物事を穏便に済ませることが優先だ。
「小向さん?」
 考え事で頭を満たしていると、保健の先生が真偽を確かめるように俺の顔を覗き込んできた。正直な話、七後の証言が正しいかどうかは分からない。だが今のところは、結果的にこいつが出してくれた助け舟に乗るより効果的な選択肢は無いように思える。
 俺は無言で頷いた。
「小向、俺も付いて行ってやろうか? 何だか最近物騒なことがあるみたいだからな」
 すると高瀬直太は俺を、つまり小向の身を心配して家まで送ることを申し出た。俺も立場が逆だったら、やはり同じことを言うだろう。こいつが言った「物騒なこと」には俺も心当たりがある。昨日、お袋に言われた話を思い出しているに違いない。
 だが、現段階でこいつを近くにいさせるのは危険だ。七後なら小向のことをよく知っていて、それでいて深くは詮索してこない性格だ。だから二人でいても、俺が答えられない質問をされてピンチに陥る確率は低いだろう。だが高瀬直太は、余計なことを聞いてくる可能性が大いにある。俺が小向の身辺情報を集めるまで、そうなることは避けたい。
「だ、大丈夫、だから」
 改めて、自分で考えて発した言葉が女の声であることに違和感というか、居心地の悪さを覚える。
「高瀬、エロい」
「ち、違う! っていうか七後、それはどういう意味だ?」
 すかさず七後のツッコミと高瀬直太の切り返しによるかけ合いが始まった。
「ボディーガードの振りをして女の家に近付くのはナンパ男の常套手段」
「そういう意味で言ったんじゃねえ! 大体、昨日はお前が誘ってきただろうが。茅の見舞いは良くて小向を送るのはダメなのかよ」
「病院と家では次元が異なる」
「七後はああ言えばこう言う……。おい小向、お前からも何か言ってくれよ」
 高瀬直太に下心が無いのは確かだろう。俺が保証する。しかし、ここで自分に同情して俺の状況を危うくさせることは回避したい。俺はなるべく、なるべく、小向の喋り方を再現するよう努めた。例えば単語の最初をどもるように。例えば文章を必要以上に区切るように。
「た、高瀬くん。わ、わたしは、本当に、大丈夫、だから」
 うまく似せられたか分からないが、これで切り抜けるしかないだろう。
 自分で自分の名前をくん付けで呼ばなければならないとは、歯痒い。文字通り、口の中がむずむずする。
「それに高瀬。暴漢の三人や四人までなら、私が共にいれば危険として数えるまでもない」
「まさか七後、お前は格闘技まで使えるのか?」
「護身術。特殊な技能は身を助ける」
 ここまで言われたらもう引き下がるしかないらしく、高瀬直太はもう一度俺に向かって激励の言葉をかけてから保健室を出て行った。


 結局、俺は七後に送られて帰ることになった。俺はまだ高瀬直太としてお呼ばれしたことがなかったから、小向の家の住所も通学路も知らない。
 ふと気が付くと、横を歩いていたはずの七後が俺の三歩ほど後ろで佇んでいた。ひょっとして俺、道を間違えたか? でもここ、交差点じゃないし、普通に歩いていただけなんだが。
「……保世?」
 道端で目を閉じていた七後が、ぽつりと呟いた。
「な、なに? ……ゆ、由花、ちゃん?」
 ここで七後のことを「七後」などと呼んで違和感を与えるようなヘマはしない。小向は親しい女子を呼ぶときは、下の名前にちゃん付けをしていたはずだ。
 ちなみに俺自身は女子をちゃん付けで呼ぶことは殆どしない。だから七後の名前をこうして口に出すのは内心凄く恥ずかしかった。
「……ん、いや……」
 七後は口元に手を当てて、珍しく歯切れが悪い。まさか俺、何か失言したか? 実は小向と七後は二人きりのときだけは秘密の呼び方を決めていたとか? 七後と小向は小学校からの親友同士のはずだから、よく考えたらどんな地雷があってもおかしくない。もしそうだったらアウトだぞ。俺はあくまで俺だ。小向しか知り得なかった情報は、俺は知りようがないんだからな。
 しかし目蓋をわずかに上げた七後が疑問に感じていたのは、俺が懸念していたことよりもずっと単純で初歩的なことに対してであった。
「メガネが無くて平気?」
 それもそうだ。俺は今、メガネをかけていない。小向と丸メガネはもはやセットみたいなものだ。七後が心配するのも当然だろう。っていうか俺、さっきから心配されてばっかりだな。当然と言えば当然だが。
「あ、ちょっと、忘れてた」
 ここは下手に嘘を吐かない方がいいような気がする。俺はポケットに入れたままだった小向のメガネを取り出した。
 本日五度目の違和感。……もういい加減にしてくれ。
 メガネをかけたのに、視界に変化が現れない。ちょっと目から離してレンズを覗いても、向こう側に何の歪みも生じていない。要は伊達メガネだ。
 俺は高瀬直太だが、それは心・精神面でのことだけ。肉体は小向保世だ。筋力や体力はもちろん、視力や聴力も小向のものと考えていいだろう。
 そして正味な話をすると、俺は今、別にメガネが無くても困っていない。高瀬直太時の視力は裸眼で1,0はあったはず。そのときと比べても遜色ないどころか、遠くをよりはっきり見えるくらいだ。さらに細かいことを言えば、高瀬直太の身体だった頃に比べて若干、小向保世の目に映る物の色彩は明るいように思える。例えば、あのコンビニの看板。今は赤っぽいけど、前はもうちょっとオレンジに近かったような気がするんだよな。言ってみれば、同じ番組でも映すテレビによって色が違うようなものだと思う。人によって物の見え方は違うって話だからな。
 ついでに言えば、耳もそうだ。俺が知っている七後の声と、今聞こえている七後の声は微妙に違って感じる。うまく説明出来ないが、わずかに今の方が高い。
感覚が人によってここまで変わるのなら、他人の考えなんて分からなくて当然だなどと思いつつ、それはそれとして、つまり、どういうことだ?
 小向は目が悪いわけでもないのに、伊達メガネをかけていたってことか? ……いや、よく考えたら伊達メガネをかけていること自体は問題じゃないよな。むしろこういうのは目の良い奴がファッションとして着けるものだ。問題は……、問題は、なんで小向がこんな格好悪いものをわざわざ使っているのかということだ。センスがおかしいのは俺か? それとも小向か?
 まあ、こんなのは詰まるところ趣味の話だ。小向が純粋なメガネっ子じゃないことに多少驚きはしたが、これ以上考察を深めたところで何も出やしないだろう。
 その後も俺は七後と歩調を合わせ、出来るだけ言葉少なに小向の家へ向かった。まだ調子が戻っていない振りをすることで、会話が続かないことの不自然さは隠せた……と、思う。やっぱり七後は目が細いから、なかなか感情が読めないんだよな。


「保世、どこへ行く?」
 学校から徒歩三十分くらいの住宅街で、突然七後に呼び止められた。オレンジ屋根の二階建て一軒家。どうやらここが小向邸らしい。
「ご、ごめん。ぼーっと、してた」
「自分の家を忘れるとは相当。今夜はたっぷり養生することを勧める。高瀬の言葉ではないけど、美月の怪我が治っても保世が倒れたら無意味」
「うん。送ってくれて、あ、ありがとう。ここで、大丈夫、だから」
「では、さらば」
 七後とは玄関の前で別れた。
 今日の優先事項は小向に関する情報を集めること。家主の許可無く女子の部屋を物色しなければならないことに疑問と罪悪感を覚えるが、緊急事態だ。
 あと、それ以前にこの家、玄関扉に鍵がかかっているんだよな。一人暮らしなら当たり前か。……右ポケットに手応えあり。見付からなかったらどうしようかと思ったが、それは杞憂だった。
 中に入ってみると、これも一人暮らしだから当たり前なんだが、電気が点いてなくて薄暗い。っていうか、真っ暗だ。俺のお袋は専業主婦だから年中家にいたが、小向は……、繰り返すけど一人暮らしなんだよなあ。俺、これからしばらくは誰もいない家に帰らなけりゃいかんのか。料理なんてろくに出来ないし、いろいろと不安を感じる。だからと言って、家族がいたらいたで俺が動きにくくなるわけだが。つまりどっちにしろ前途多難というわけだ。
 とにかく探索開始。一階にはリビングとか風呂とか台所とか。こっちは後でも良さそうだな。二階には個人の部屋と思われる部屋が三つあった。小向の部屋があるとしたらこっちだろう。
 まずは手前の方から、表札がかかっていないドアを開けてみる。広さは八畳くらいか? そこにタンスやら化粧台やらがあって、ベッドが二つ。おそらく両親の寝室だろうな。
「ここは特に見るものは無さそうだな。小向の親のことを調べても、だ。次は……。おいおい、大好きな『お兄ちゃん』の表札が裏返しになってるぜ」
 俺は周りに誰もいないのをいいことに、せめてものくつろぎを得たくて男言葉で独り言を漏らしながら、二番目のドアを開けようとした。ちなみに四角い表札には《リーチ》と書いてある。多分小向の「お兄ちゃん」の名前だと思うんだが……、あだ名? 小向にとっての「ホヨ」みたいなものか?
 入ってみると、これがやけに閑散としていた。荷物らしい物は殆ど無く、床はフローリング板が剥き出しで、目立つのはベッドと本棚くらいだ。そこには難しい医学書やら、重厚な装丁の本やらが納まっている。ロシア文学だろうか。俺でも知っている有名なものもあれば、全く無名なものも。
「まあ『お兄ちゃん』の部屋はどうでもいいさ。重要なのは次だ」
 廊下に戻る。一番奥のドアには丸っこい文字で《保世》と書かれた楕円形の表札がかかっていた。
  ドクンッ
 ドアノブに手を触れた瞬間、胸がざわめいた。俺自身が緊張しているのかもしれないし、小向の身体が「俺」を部屋に入れることに抵抗しているのかもしれない。
「……わるいな小向。今はどうしても、お前のことをよく知らなきゃならないんだ」
 覚悟を決めてドアを開ける。
 先の胸騒ぎが予感させたような怪しいものは無く、中身はごくごく普通の女の子の部屋だった。まあ、あくまで俺が知っている「女の子の部屋」というのは、小さい頃に遊んだ覚えがある従姉妹の部屋くらいだが、それと比べても大差はあるまい。
 要はベッドやタンスの上にぬいぐるみが飾ってあったり、本棚に少女漫画が並んでいたり、座り心地の良さそうなクッションが床に置いてあったり、そんな感じだ。強いて言うなら、本棚には漫画以外にもいろんなジャンルの本が多く並んでいるというところだな。映画化もされたベストセラー小説から、年代物の古書、占いの本、ファッション誌、果ては哲学書や仏教の解説本まで。兄妹揃って難しい本を読んでいるようだ。
 さて正直、どこから手をつければいいのか分からない。とりあえずいつもの俺の癖で勉強机の足元に鞄を置くと、机の上に水色の携帯電話が置いてあるのが見えた。
「ちゃんと携帯しとけよ。……っていうか小向、携帯なんか持ってたんだな」
 俺の記憶では、小向が携帯をいじっていたのを見たことが無い。だから俺もアドレスとか番号とかを教えたこともなかった。まあ何にせよ、これは個人情報の宝庫だな。小向には済まないが覗かせてもらおう。
 メールの送受信履歴を開くと、殆どが「小向利一(りいち)」とのやり取り。あの「リーチ」は本名だったのか。内容は例えば最近ので言うと、
『今朝は吐く息が真っ白で驚いたよ。これから一気に寒くなるらしいから、保世も風邪を引かないように気をつけなさい』
『うん、心配してくれてありがとう。お兄ちゃんも身体壊しちゃダメだよ』
『僕のことなら心配いらない。僕は保世が困ったときにはいつでも駆けつけてやる準備万端だからね。これでも健康管理はしっかりしているさ』
『頼りにしてるね。お兄ちゃん大好き(はーと)』
 等々、傍から見れば心底どうでもいいお互いの近況を報せ合っているものばかりだ。見ているこっちが恥ずかしくなってくる。小向は相当のブラコンだが、「お兄ちゃん」もかなりのシスコンらしい。
 他にはちょくちょく、茅と七後から遊びの誘いやドラマの感想等に関する微笑ましいやり取りが入っている。アドレス帳には父親と思われるプロフィールやクラスの女子たちの名前もあるが、履歴は少ない。
 とにかくこれで、茅と七後との会話を合わせるのはやりやすくなったな。小向の「お兄ちゃん」が突然来ても、ある程度は誤魔化せるはずだ。……どっちにしても一時しのぎにしかならないだろうけどな。
 小向の人格が、今どこで、どうなっているのかだけでもはっきりすれば、事態は格段に分かりやすくなるんだが、それは簡単なことではない。俺が小向になりすますのはあくまで手段であって、目的ではない。
 ……手かかりを探そう。
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橘圭郎 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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