一節 大都市の光と影
「ってぇ……」
「ソレ!」
脇腹に感じる鈍い痛みで意識を取り戻すと、アイが心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。
「……動くなよ。落ちる」
大丈夫だ、そう口に出して言いたかったが、動く気力も喋る気力すらも、体からすっかり抜け落ちていた。ジェイの大きな背中におぶさり、情けない事に自分の体を全て預けていた。
見慣れない陰気な細い道をジェイとアイは歩いていた。もしかしたら一度通った道なのかもしれなかったが、視界の端から端へ移動していく薄汚れた壁の染みを、ただただ目で追っていた。
「ソレっ、もう……大丈夫だから、ね」
小さく頷き、それに応える。アイは輪をかけて大粒の涙をこぼしている。……そんなに泣くなよ、死んじまったみたいじゃないか。
「ごめんね、わたしのせいで……。わたしね、ソレがいつも無茶するから……、怖かったの。ソレ、お母さんが亡くなってからずっと剣を振り回してばっかりで……、どこか、自分を傷つける場所を探してるみたいだった」
そんな事、考えたこともなかった。
「だからね、傭兵になるって言い出した時、本当はすごく反対だったんだよ! でも……、でもね、『サンドリアの民ならば、常に志を持て』って、いつもわたしのお父さんが言ってたから。だから本当は……、本当はイヤだったけど、すごく我慢したんだよ」
そうか、アイは――。
「でもね、一つだけ我慢出来なかったことがあったの。わたし、ソレを止める事はできないけど、そばにいて守ってあげるくらいはできるって……。だから、わたしもソレと同じ傭兵になろうってそう思ったんだよ。……あの時は、いっぱい怒られちゃったね」アイが無理矢理に表情を緩ませる。
「今……、我慢してたこと全部話しちゃった。自分への約束破っちゃった……あはは」
――本当に『子守』をしてたのは、アイの方、だったんだな。
「……アイ……、あり……がとう……な」
「うん……うん。もう、絶対に無茶しないで……ね。約束だからぁ」
そんなに目をこすったら腫れちまうぞ。泣き虫め。……本当にありがとうな。
「うっ!」
「ソレ! 大丈夫?」
ジェイが立ち止まる。
「頭に……」背の高いジェイにおぶわれていたせいで、羽虫を捕まえようと、高く居を構えていた蜘蛛の巣を引っ掛けた。
「もう、びっくりしたよ!」
ジェイが無言のまましゃがみ込み、アイは少し背伸びをして、頭に絡まった糸を優しく払っていく。これじゃまるで、父親におんぶされて母親に頭を撫でられてる子供だな。
「ふっ……」
「ど、どうしたのソレ?」
「なんでも……ない」
「ふぅん……、変なのぉ」アイは少しだけ不思議そうに首を傾げていたが、すぐに嬉しそうな顔を浮かべた。
まだ捕らえられて死ぬわけにはいかないんだ。俺はこうやって生きて戻って、アイの笑顔を守って暮らして生きていくんだ。悪いな。
路地を抜けると、ジュノ警備隊と数人の若者がもみ合っていた。人目をはばからず、大通りのど真ん中での騒動だ。珍しい事じゃない。
一際体格の大きなガルカの隊員が、けたたましく罵声を放つ、威勢のよい若者の首根っこを乱暴に掴んで軽々と上へ持ち上げた。隊のリーダーであろうヒュームの男が、すぐさま制止をかける。他の若者達は強烈な出来事を目の当たりにして戦意を喪失し、大人しく連行されることに決めたようだ。市民を守るための組織としてはやりすぎな気はするが、日々荒事の中で生きている俺が言える筋合いではないだろうな。
警備隊が、うなだれて歩く若者達を急かしながら、騒ぎの場を去っていく。リーダーの男は隊列の一番後ろを歩いていたが、不意に立ち止まった。男の視線の先には、赤い髪を頭の横に一つ結ったタルタルの女がいた。タルタルの女は、不安げな表情を隠す事無く浮かべていた。男は女に軽く会釈をし、女もそれに応じる。
察するに、過剰に騒いでいた若者達――きっと、酒を大量に飲み我を忘れて暴れていた――を、危険と感じ、警備隊へ通報したんだろう。ジュノでは、市民がお互いの事を思いやる気持ちを忘れないが、代わりにお互いを監視し合う様な風潮がある。治安を守るのは警備隊だけでなく、自分達でもあるという自負がある。それがいい事なのか悪いことなのか、セイントの中でも意見は割れているが、世間的には概ね理解されているようだった。アイもジェイもその光景に対し、特に何も思う事はないようだ。俺を気遣いながら、騒ぎを尻目にゆっくりと通りの歩道を歩いて行った。
「悪いなウンディ」
「いいのよ、いつお客さんが来られても良い様になってるから」
こんなことを真面目に言う。『客』じゃなくて『患者』だろう。やはり、アイの天然さ加減は家庭教師譲りだな。
「それじゃ、私はもう行くわね。一応個室は用意させてもらったけど、あんまり大騒ぎして他のお客さんの迷惑にならないようにね。……傭兵の方たちって声の大きな人が多いんだから」ウンディはしかめていた表情を崩し、背を向けてドアノブに手をかけた。
言い忘れた、とでもいわんばかりに素早く振り向いた。
「あと、あまりアイちゃんを悲しませちゃだめよ? あの子は本当にあなたの事ばかり考えてるんだから」
「わかってるよ。気をつける」
若さっていいわね、にしても傭兵は……と、ブツブツ独り言を言いながらウンディが出て行った。
横になったまま部屋を見渡す。左手のサイドチェストに飾られた青い花は、清流を思わせる爽やかな香りを放っていて、病室然とした独特の匂いを感じない。様々な花をかたどった模様の薄茶色の壁紙。右手の壁には威厳漂う骨董品の時計が掛けてあり、短針が十時を指している。
窓からは海が覗けるが、今は日光をさえぎるためにカーテンが閉まっている。ベッドの両側には、蝶のレリーフを象った椅子がそれぞれ二つずつ、左手側には三人掛けのソファーがあって、大勢でも見舞いに来られるようになっている。足を向けた先の壁に飾られた一枚の絵画。確か、アンなんとかっていうウィンダスの画家が描いた『太古の血潮』だ。雷やら卵のような物が、一見不規則に描かれているが、何か意味があるんだろう。
意外にもジェイは絵画や彫刻といった物が好きで、気まぐれに自分の部屋に呼びつけては小さな鑑賞会を催してくる。この絵もジェイの部屋にも飾られていたな。以前画家からの仕事を受けた時に報酬として貰ったらしい。どうせ貰うなら世界に一枚だけの絵が欲しいと思うんだが、量産品でもいいものはいいんだろうか。
まったく品のいい部屋だ、何となく居心地が悪くなるくらいに。
個室を貸してもらえたのも、アイの元家庭教師であるウンディとの面識があるおかげだ。俺としてはあまり仰々しいのは好かないが、アイのたっての頼みで押し込められた形だ。切り傷や刺し傷ならアイの治癒魔法だけで処置できるが、銃弾を受けたとなれば、弾を摘出しない限りは傷を塞いでも意味がない。アイが応急処置として傷を塞いだものの、結局は病院送りというわけだ。
ジェイが、『俺にまかせろ』と言ってナイフを取り出した時は、さすがにアイも止めたようだ。ジェイの事を信頼していないわけじゃないが、人が気絶してる間に、物騒な物で体を掻き回されるのは勘弁願いたい。
物騒な物を扱う――この『モンブロー大病院』の医者も同じ事か。元々は、上層区の一角にあったこじんまりとした個人病院だったらしい。今や教会の鐘塔はおろか、上層区名物の時計塔すらをも超える高さの大病院だ。件の麻薬で精神を侵された人間も、ジュノ所属の傭兵団もみんなここに厄介になっている、もちろん例に漏れず俺もだ。
七階建ての病院は、病室もめまいがするくらいにある。以前セイントに緊急の依頼が入った時に、非番のアイを呼びに訪れた事がある。その時は、本当にめまいがするくらい走り回って――もちろん病院の廊下は走ってはだめだが、あの時は一刻を争う事態だった――やっとの事で、倉庫から医療器具を運び出していたアイを探し出せたんだ。『受付で呼び出してもらえばよかったのにぃ』とアイに言われた時は、顔から火が吹き出るほど恥ずかしかったな。……あの時は本当に緊急だったんだ、俺がマヌケなわけじゃないぞ。
院長のモンブローは、優しい人柄と類稀なる医術の腕を買われ、ジュノ政府の支援を受けて国立の大病院を設立。友人にジュノ親衛隊隊長がいるらしいが、縁故などではなく実力だろうな。ここに通う患者達の顔を見れば分かる、ここへ来れば何とかしてくれると、みんなが安心しきっている。ここでは魔法に頼らず医術による治療をする。魔法に頼らないのは院長の意向ではあるらしいが、実際に魔法は万能の力なんかじゃなくて、病原体に感染したり精神を病んだ時はどうしても薬を使う必要がある。俺の脇腹から銃弾を取り出したのも魔法じゃなく、医術だ。――人を救うための刃と人を殺すための刃、さて、俺はどっちだろうな。
扉がノックされる。入るね、とアイの声だ。
アイが、ベッドの横にある椅子に腰かける。
「えへへ、気分はどう? なんか病人さんみたいだね」と言って、クスクスと笑っている。
実際、似たようなもんだ。
「ああ、少しだるいが特に問題はないな。でも、この部屋はやっぱり大げさじゃないか?」
「いいの! 魔法で傷は癒せてもどっと疲れが出るんだから。鉄砲で撃たれて、その上手術までしたら、いくら頑丈な人だって安静にしてなきゃだめなのっ!」
「うーん……、うん」
白魔道士に言われると説得力があるな。それにしても表情が少し恐い。
「それに、危険な目にはあったけどちゃんと成果は挙げたんだよっ。少しくらい休んでも罰は当たらないと思うよ?」アイはそう言い、鞄から水玉模様のりんごを取り出して器用に剥き始めた。
「成果、か。……『危険の目』といえば、パンナは?」
「パンナさん? うーん、わかんないけど……、あ! 『とりしらべ』っていうのの最中なんじゃないかな! パンナさん刑事さんだし! なんかワクワクする響きだねぇ! とりしらべ!」
パンナは刑事じゃなくて、麻薬取締官だけどな。まぁ、違いを言ったところで野暮ってもんか。
「ワクワクはしないけど、あのゴブリンは捕まえたってことだな? ……あの成金野郎、一発ぶん殴ってやらないとな」
「ゴブリン? ヒュームの男の人達じゃないの?」
「見たことないマスクを被った太ったやつだよ」
「ふぅん、わたしは見てないよぉ。でも、ゴブリンさんで太ってるってちょっと面白いね!」
「はぁ、何にでも喜べるおまえがうらやましいよ」
そうかなぁ、はい、と照れながらツルリと剥いたりんごを差し出してくる。本当にかわいいやつだよ、おまえは。『たまには両親に顔を見せに、サンドリアに戻ったらどうだ?』なんて切り出してみようかとも思ったけど、『今朝言った事気にしてるんでしょ? 別に無理して付いてきてるわけじゃないよ』と、返されるのは分かり切ってるな。そんな無駄なことはやめて、アイの剥いたりんごをほおばるとしよう。
アイと他愛もない話をして一時間程経った頃、再び扉がノックされた。
「ソレさん、失礼します」
扉を開けて現れたのはエアだった。あの赤い帽子を脱いで一礼すると、足音を立てないようにアイの横へ来る。
「エアさん、来て下さってありがとうございます!」
「わざわざ来てもらって、なんか悪いな」
「いえ、そんな。アイさんから取締局へ連絡が来ていたのですが、私はまだ自室で休んでいたもので、来るのが遅くなってしまいました。それで、お体の方は大丈夫ですか?」
「ああ、この通り」と、少し体を起こす。「ててっ……」動かしてみるとやっぱり少し痛い。
「ばか! もう何してるの!」
アイに怒られるのも悪くない。
エアが壁際に据え付けてある三人掛けのソファーへ腰かける。ソファーとは少し距離があって、そちらへ顔を向けると少し首が痛い。
「ふふっ、あまり無理はなさらないでください。お手柄だったのですから、少々休んでも誰も文句は言わないでしょう」
見透かしたように、アイと同じ様な事を言う。退屈なのは苦手なんだけどな。
「そうそう、パンナさんも呼んでおきました。昨日の夜から活動しているというのに、彼は本当に熱心ですね。私が局へ足を運んだ時も、容疑者の取調べをしていたところですよ」
「あいつが仕事に夢中だなんて、今でも信じられないな。サボる機会をいつでも見計らってる姿しか想像できないぞ」
「パンナさんについては、昨日お話した通りですよ。……っと、噂をすれば何とやら、ですね」
ぱたぱたと廊下を走る音が近づいてくる。その音は部屋の前で止み、扉が唐突に開け放たれた。
「ソッレェー! 元気してるぅ?」
お馬鹿が、満面の笑みを部屋中にばらまく。エアは顔が引きつっている。静かにしろ、こっちはケガ人だぞ。
「元気じゃねぇよ。半分はおまえのせいでこうなったんだからな、もっと心配して早く来てもよかったんじゃねぇか?」
「あれぇ? まさにお荷物な人の言い分だねぇ。男なら、『別に見舞いになんて来なくてもいいんだぜ』くらい言って欲しかったんだケド」憎まれ口を叩きながら歩いてきて、アイの左側の椅子に座った。
「てめぇ、……たたっ」
「怒っちゃだめだよソレ! パンナさんだってお仕事で来られなかったんだから」アイが、体を起こそうとするのを手で制止する。
「わかってるよ。……わかってるけど、一言言ってやらないと気が済まなかったんだ」
おまえを悲しませる原因を作ってるからだよ。くそっ、脇腹がじんじんと痛む。パンナといると血圧が上がるよ、まったく。
「冗談だよぉ? はい、これ入院見舞い」そう言ってパンナが差し出してきた袋の中身は、チョコレート、スティックキャンディ、スナック菓子、と、およそケガ人が食べるような物はない。
「おまえなぁ、自分が食べるもん持って来てどうすんだよ。……もういいよ、とりあえず大人しくしてろよな」
「はーい」
そう言うと、パンナは持ってきた袋に手を突っ込んで、お菓子をまさぐりだした。
「ではソレさん、これは私からです」
エアが持ってきたのはパママだった。南国エルシモ島の特産品で長細い黄色の木の実。栄養価が高い上に体への吸収力が優れている、まさに打ってつけのお見舞い品だ。
「エア、ありがとな」
「いえいえ、病院へ寄る前に朝市で新鮮なパママがあったので……、アイさんとパンナさんもどうぞ」エアが房から二本ちぎってアイへ渡した。
「ありがとうございます! はいっ、パンナさん」
「うん、なかなかおいしそうなパママを選んだタルね!」
「あはは、ありがとうございます」
なぜか上から物を言うパンナに、エアはそつなく対応している。礼を言うのはパンナだろうが。
「そぉいえば、局に若いにーちゃん達が連行されてきてたよ。下層区で騒いでたから、警備隊がしょっぴいてきたみたい」パンナがパママを剥きながら言った。
「そいつらって……」
アイに視線をやったが、やっぱりパママを剥いていた。こいつが気に留めるはずもないか。エアはというと、何も口にせず考え事をしているようだった。
「そいつらは俺達も見た。酒でも飲んで暴れたのかと思ってたけど、……麻薬を?」
「うん、それも数種類の物をね。中にはこれもあったよぉ」
ちらっとエアを見たパンナが懐から差し出してきたのは、ヒュームの親指の先ほど大きさもある白い球体だった。タルタルのパンナが手のひらに乗せているせいで、とても大きく見える。
「それは……?」
「これが巷で話題の新型麻薬『ネオモスタミン』だよぉ。僕も資料では見たことあったけど、実物はこれが初めてだよぉ」
「こんなに大きな物だったのか」
顔を見合わせたアイも、この大きさには驚いているようだ。
「ネオモスタミンだけじゃなくて、以前に流行っていた麻薬も持っていたみたいだよぉ。仲間内で打ち比べでもするつもりだったのかなぁ? なんてね!」
「あながち間違いじゃないのかもしれないな。それにしても、噂の麻薬とすれ違ってたとはな、俺の思った以上に薬物は蔓延してるんだな」
「うんうん、だからこそ僕がわざわざ来てあげたんだよぉ。せいぜい足を引っ張らないようにしてよね?」
「おまえは本当に口が減らないな。……もう慣れたけど」
「こうやって僕のペースに巻き込まれていけばいいの! ふふっ、まぁソレに手を焼かされたら、これで気持ちよくなってストレス解消だよぉ」そう言ってパンナは、上を向いて口を開けて白い球体を飲み込むフリをした。
「おい、それはま――」
「パンナさん!」
まずいだろ、と言いかけたところで突然エアが立ちあがり、怒鳴り声をあげた。二人の間に座っていたアイは、エアの尋常ではない怒声にまたがれて、早くも涙目になっていた。
「やめてください! そんな事をしたら死んでしまいますよ!」
「冗談だよぉ、さすがにそんなことはしないタル」
「冗談でも不謹慎が過ぎます」エアがいつもの声色に戻り、パンナのそばへ行って、白い球体を強引に取り上げた。
「これは預からせて頂きます。……というより、パンナさん、これは持ち出してはだめでしょう?」
「捜査官なら麻薬の所持は認められてるよぉ?」
「ええ、ですがそれは手続きを踏んでいる事が条件です。これは、今朝押収された証拠物品ですよね? 許可が下りるまで最低でも二日はかかります。それをあなたは黙って持ち出した。……立派な違法行為ですよ」
「それは知らなかったよぉ」と、パンナはいつもの調子でへらへらしている。
はぁ、とため息を漏らしながら、エアが再びソファに腰を落ち着け、小さな紙袋に球体を入れて懐にしまった。
「知らなかったでは済みませんよ。私たちは法の番人でしょう? 常日頃から、違法行為に対して断固たる意志を持って立ち向かわなければなりません。ましてや、今回のように民間の方々とお仕事を共にするならなおの事です。この都市に住む人達が、一体となってこの麻薬の被害を少しでも小さくしていかなければならない、そう思いま……ごほっ……思いませんか?」
エアはひとしきり喋った後、咳が止まらないようだった。
「エアさん大丈夫ですか?」少し目を赤くしたアイが、咳をしながら伏せるエアの様子を覗き込む。
「だい……大丈夫……です」
「風邪ですよね? お薬なら持っているので、飲んでください」アイは、ベッド脇のサイドチェストの水差しからコップに水を入れ、薬と一緒にエアへ渡した。
「粒状なのでとても飲みやすいですよ」
「はい、ありがとうございます」
アメ玉のような薬をエアが飲む。パンナはその様子を食い入るように見ていた。
「おいパンナ、エアが飲んでるのはおまえの好きなキャンディじゃねぇぞ。そんなところにまで食い意地張るなよな。おまえは少し反省ってもんを覚えろ」
「僕はあの後、眠らずにずっとお仕事してたんだケドなぁ。ずっと休んでたソレとは違うんだよぉ?」
「おまえは――」
と、こいつのペースに乗せられてはだめだ。落ち着け俺。
「なぁ、連行されてきた若いやつら、どうしてた?」
「どうって?」
俺と同じ年頃の連中が、どういう処遇を受けるのかが気になる。なにかとその副作用が話題になっている麻薬に、わざわざ手を出すのは馬鹿のやる事だ。だからと言って、これからの人生が台無しになってしまうのはやはり可哀想だ。
「もしかして、心配してあげてるのぉ?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「他人の心配をするなんて優しいことだねぇ。感心と同時に……ほとほと呆れるタル」と、パンナはやれやれと両手を上げて首を振った。
「なっ――」
「いい? もうソレは部外者じゃないんだよぉ? まだ外からこの事案を見ているつもりなのかもしれないけど、そういう甘さが命取りになるってことを忘れないでね」
「わかって――」
「死んじゃえばいいんだよ」
わかってる、そんなつもりじゃない、と言いかけたが、パンナの突き出た口は動きを止めずにそう漏らした。
「パンナさん!」エアが再び立ち上がる。
「社会の秩序を乱す人間は、消えちゃった方がいいんだよ。あの若いにーちゃん達も死刑になっちゃえばいいよ」
パンナの口から放たれたその言葉は、まるで氷のように冷たかった。
「あーあ、本格的にお腹も空いてきたし、風邪を移されたら困るから僕は先においとまするねぇ」パンナは椅子の上から跳ね、「じゃあねぇ!」と言って病室を出て行った。
「おい! ……本当に行っちまいやがった。なんつー薄情者だよあいつは」
成金野郎の事を聞き逃したな。くそっ、あいつは何をしに来たんだ。
「なぁ、エアは上級捜査官なんだろ? さっきの件もあるし、あいつと一緒にやりたくないならチームから外してもいいんじゃないか?」
「ソレ! それはあんまりだよ」俺の提案に、アイが抗議の声を上げる。
エアはにっこりと笑ってソファに座ると、「そんなことはしませんよ。違法行為は許しがたいですが、まぁお恥ずかしい話ですがこういう事はよくあるんです。それに彼は少々変わったところはありますが、昨夜話した通りとても優秀な捜査官です。……ソレさんも既にお分かりでしょう?」そう言って、コップをサイドチェストへ戻した。
「まぁ……、まぁそうかもしれない」
俺じゃあ代わりになれない事は確かだ。色んな意味で。
「若者達の件ですが、安心してください。死刑になったりはしませんよ」
「……そうか」
「ソレさんのお気持ちは分かりますよ。ですが罪を犯したとはいえ、まだ若い人達ですから更生する機会もたくさんあります。それに他の捜査官から聞いた話によると、まだ未遂のようです」
ガルカの隊員に首根っこを掴まれていたのが主犯格の青年だった。彼は、上層区に屋敷を構える名士の息子で、お金と暇を持て余すあまり、友人を連れ歩いては何かと騒ぎを起こしていた。
取調べによると、二百四十万ギルという『お小遣い』を父親から受け取り、そのほとんどを支払って白い球体と呼べるほどの大量のネオモスタミンを入手した。使用目的は、既存の麻薬と効果の比較。前科は無いが、今回の件で彼は懲役五年執行猶予無しの実刑に相当し、他の青年達も、懲役一年執行猶予三年相当、と見込まれる。大人からの注意では済まされない。薬物に関連する刑罰は重い。と、エアが若者達を担当した、知り合いの捜査官から耳に入れたことを話してくれた。
「そんな重い罰でも、この病院に入院してる重度の患者よりましだな」
「本当にそうだね……」そう呟いたアイの表情は暗かった。回復の見込みのない患者がいる辛さは、この中で一番知っているんだ。一度落ちてしまえば闇だ、それが浅かろうと深かろうと。
それを考慮してか、「未遂で逮捕できたのも、この都市の自浄作用のおかげですね」と、エアの言葉には、社会の光が窺えた。
「監視社会、か」
「ええ、……悪く捉えれば。ですが素晴らしい事ですよ。私の生まれたバストゥーク共和国では、地域に住まう人達の関係はとても希薄ですから、見てみぬふり、触らぬ神に祟りなし、です。ジュノ大公国の人達は、関係は希薄ながらも公国民としての気高さがあります。中立国としての国民性、と言えるかもしれません」
「えらくジュノの事を買ってるんだな。バストゥークとジュノと言えば、他の二国よりも相性が悪そうだけど」
「あはは、今の国交状態ではそう思われても仕方ありませんね。……私はジュノが好きですよ。小さな頃から、弟と一緒にジュノで働く事が夢だったくらいです」
「弟がいるのか。弟はバストゥークに?」
「いえ、先を越されてしまいましてね。彼は十八の頃からこちらで仕事をしています。私はこの通り……、行ったり来たりで落ち着けません」エアは口元を緩めながら俯いた。
「弟さんとは会ってるんですか?」アイが気を回す。
俺もアイも一人っ子だから、離れて暮らす兄弟に顔を合わせる感覚は分からない。でも、家族に会いたいという気持ちは同じはずだ。
「ええ、ジュノ本部へ異動になったので、挨拶に。私ばかりが喋っていて疲れてしまったと思います」
「そうか、会える時に会っておくのはいい事だな。俺達も今回の仕事が片付いたら、一度戻るか」
「う、うん。そうだね」
連れ戻されるのを心配してるな。目が左右にひっきりなしだ。明らかな動揺が面白い。
「そういえば、さっきパンナがそれを食べようとしたけど、本当に死ぬのか?」エアの懐に指を指した。
エアは両膝に手を置いて、表情を強張らせた。
「はい。これは、経口摂取する種類の薬ではなく、注射器を用いて直接体内へ入れるんです。この大きさですと数十回分の量でしょう。飲み込めば例えここが病院であっても、治療も間に合わずに死に至るでしょうね」
俺とアイは同じ事を考えているだろう。パンナは何と恐ろしい事をしていたか。エアは続けた。
「それに、これは相当毒性の強い原料から作られているようです。噂……いえアイさんは知っておられると思いますが、本来の使い方で常用していても、人体にかなりの悪影響があります。未だに効果的な治療法も確立されていませんし、今後もその見通しは暗い――はずだったんですよね」
「はずだった?」
エアは小さくうなずいた。
「パンナさんが連行してきたブローカー達を取り調べた結果、分かった事があります。新型麻薬には名前が付けられていなかったんですが、最近ブローカー達の間では『ネオモスタミン』と呼ばれるようなったようです。名前の通りであるなら、キノコが原料でしょう。新型麻薬を製造している密造グループ『青い歯車』がジュノ近辺でしか活動してない事を考えれば、原料の特定も時間の問題ですよ。治療法も見つかるかもしれません。本当にお手柄ですね」
「俺はあいつの独断行動を認める気はないけどな。こんな事が何度も起きるなら命がいくつあっても足りないぞ」
エアとアイは、その通りだ、と言わんばかりにうなずいていた。とは言っても二人の表情はとても嬉しそうだった。なにせ、新型麻薬が出回って一年、謎に包まれていた原料のしっぽを掴んだんだ。誰が新型麻薬に名前を付けたかは知らないが、馬鹿正直なネーミングセンスに感謝、だな。――いかに巧妙に隠していたとしても、青い歯車とやらが組織である以上はどこかに隙ができるもんだ。
話も尽きてきたところで、二人はそれぞれ用事があるということで病室を出て行った。エアは捜査本部へ、新情報を元に捜査方針を固めに。アイは、俺が復帰するまでは病院の手伝いに戻るらしい。大きな事件を扱っているというのに、いつもの調子でいていいのか? と、疑問を感じるが、アイとパンナを二人きりにすると、今回の二の舞になるかもしれないしな。これでいいだろう。
「――ソレ、起きろ」
「キョ……ウ?」
キョウも見舞いに来てくれたようだ。目を開けると、カーテンがうっすらと夕日に溶け込んでいた。夕方まで寝てしまったか。
「伝えたい事がある。起きてくれ」
重たいまぶたを開くと、眉間にしわを寄せて、肩で息をしているキョウがいた。着物の胸元が、派手にはだけている。走ってきたんだ。
「見舞いって顔じゃないな。キョウ、今までどこへ?」
ただ事ではないと、一目で分かる。キョウが慌てる姿なんてそうそう見られるものじゃない。
どうやら俺は眠りの神様に見放されているらしい。
「わりぃ知らせだ。業突く張りのスコルニクスが、――死んじまッたぜ……」
三章
二節 閉ざされた事実
キョウはベッドの左脇に立ち、襟を直しながら俺の反応を窺っていた。その意図がよく分からず、キョウをじっと見つめる。おでこの左側が赤みを帯びていて、少し腫れている。打ち上げの時には無かった傷だ。
「どういうことだ?」
キョウが、ちっ、と舌打ちをした。かなり苛立っているみたいだ。
「……パンナはここに来たか?」
「来たけど、それとこれとどんな関係があるんだ? 逃がしたならともかく、どうしてスコルニクスが死んだんだ?」
「パンナが殺しちまッたんだ」と、吐き出すように言いながら頭を撫でている。はっきりと自分の口で言ったものの、それでも信じられない、と言った顔をしている。
俺も同じだ。パンナがスコルニクスを殺した、そう聞かされても相変わらず釈然としない。あいつがあの成金を殺す理由が見つからない。
「キョウ、おまえが動揺するのも分かる。でも、ただ『パンナが殺した』とだけ聞かされても、何も言えない。俺が気を失った後に何が起きたのか話してくれよ」
まずは座ってくれ、と言ってアイが座っていたところへ指を向けた。
「すまねェ……」
キョウが口元を握りこぶしで押さえながら一言言って、力なく椅子へ座る。そして、俺が気を失っていた空白の時間を話しだした。
「セイントの詰め所でぐっすりいってたら、アイが血相変えて来てよ。ソレとパンナが大事になッてるてェから、ジェイを連れて下層区のスラムへ向かッたんだ。……前にもあそこに足を運んだことはあるが、一層ひでェことになッてたな。
アイがおまえたちの所まで案内してくれるかと思ッたんだがな、どうやら道を覚えてないらしく、結局ジェイの勘に任せて修羅場に辿りついたんだ。ソレが『手裏剣』で雇われどもに応戦した頃だ。あの妙なマスクのゴブリン、アイが言ってたぜ、パンナはそのスコルニクスを捕まえる気だッてよぉ。
百戦錬磨の俺だ、ゴブリン一匹捕まえるくらいわけはねェ。だがよ、標的のスコルニクスが見たこともねェ型の銃を取り出したじゃねェか。まずはあの得物をどうにかしなきゃ近づけもしねェ。俺が屋根伝いにスコルニクスの背後に回ってるうちに、ジェイには狙撃地点に行ってもらッたんだ、もちろんあの銃を撃ち落とすためだ。……ここまでは良かッたんだがよ。わりぃ事に、ソレが撃たれちまった」
キョウが親指と人差し指をくの字にして、手首をくいっと斜め上に曲げる。『バンッ』だ。
「初めて銃で撃たれたよ。あの銃が量産されたら、剣の出る幕はないな」
「商人でもほとんど訓練なしで扱えるからな、傭兵も廃業だぜ」
まぁ、と言ってキョウが続けた。
「俺なら、焦ッて矢を放ッてただろうが、さすがジェイだ。あいつは冷静に好条件の狙撃地点まで行ッて、見事にスコルニクスの腕に命中させて銃を撃ち落とした。お膳立てしてもらえりゃあ、そッからは俺の出番だ。スコルニクスが慌てふためいてる所に、俺が背後から一気に詰めるッて寸法だ。
……だが、ここでポカしちまッたんだ。好機を逃さんとしてたのは、俺だけじゃなかッたッて事だ。俺が飛び出した瞬間、屋根の下からパンナがヒョイと現れてよ……、『ごッつんこ』だ。お互いが面食らッてる間に、スコルニクスは煙幕爆弾を使ってとんずらだ。
そん時の衝撃で思い出したんだがよ、このスコルニクスッてヤツは、以前『マッドニクス』ッて名で武器商やッてたヤツにそッくりだッたんだ。いや、そッくりッつッても、マスクをしてるから本当の顔なんて知らねェが、同じマスクだッたんだよ。――お株急上場の、新しい麻薬密造グループに手を貸して、大儲けしようッて腹だッたんだな。
回収した銃から分かッたんだが、スコルニクスは元バストゥークの技術者と組んで強力な武器を開発してたみてェだな。あちらの国で使われてる技術がたんまり詰まッてた上に、丁寧に刻印までしてあッたぜ。銃の他にも、見たことのねェ技術で作られた道具もどッさりだ。……俺達を撒いた煙幕爆弾も強烈でな、ヤツが放り投げた瞬間に拡散して、辺り一帯は煙の世界だッたぜ。だが、ここで逃したんじゃパンナとソレに申し訳が立たねェ。既に走り出していたパンナを追ッて、俺もがむしゃらに走ッたんだが……」と、一気に話したところで、キョウが一度話を区切った。
「それで?」
キョウはばつが悪そうに頭をぽりぽりと掻いている。
「踏み外しちまッた……」
「え?」
「屋根から落ッちまッたんだよッ!」
……キョウのおでこのたんこぶはその時のものか。俺も同じ様な失態を犯したぞ。
「ま、まぁ、それはしょうがないだろ。朝露で屋根も濡れてたし、前が見えなかったんだからな」
「そうなんだよッ! 足元が濡れてたからなッ! ソレは分かッてくれるか、ありがとなッ!」
いわゆる、『痛いほどに分かる』とは、まさにこの事だ。これが痛みを共有して分かち合う恥ずかしさというものだ。俺は自分の失態の場面を思い出して赤面しそうになったので、キョウに話の続きを促した。
「その後はどうなったんだ?」
キョウは一つ咳払いをしてその後の事を話し出した。
「けどな、これが怪我の功名、屋根の下までは煙が来てなかッたんだ。不思議なもんで視界をさえぎるものが無くなると、平静さも戻ッてくるッてもんだ。……耳を澄ましてみれば聞こえるじゃねェか、ヤツがどッちに逃げているかッてな。
俺はヤツの足音を頼りに、足場の悪い狭い路地を全力で走ッた。どうやら足を少し悪くしてるようで、右足と左足のリズムが微妙に狂ッてたな。まぁ、逃げ足がガクッと遅くなるッて程じゃなかッた。走りながら何度も上を見ていたが、遠くに離れるほど煙が薄くなッていッたぜ。そのうち、一瞬、足音が聞こえなくなッたんだ。きッと、へばッて足を止めたんだろう。その後再び足音が聞こえだしたが、走る速度を落としたのか、足のリズムが正確になッてたな。案外諦めの早いヤツだと思ッたぜ。年貢の納め時もいよいよだ。……だがよ、足音も近くなッてきてようやく追いついたと思ッた時だ。
――ドサッ、と前方に何かが落ちてきやがった。……スコルニクスだッた。捕まえようと、急いで駆け寄ったんだがな、仰向けになッてピクリとも動かねェ。まぁ、わけは一目瞭然だったがな。
胸からの大量出血、心臓への一突き。ジェイが放った矢で負った腕の傷を除けば、傷はただの一つだけ。殺意を持って一撃を与えたッてわけだ」
キョウが、自分の左胸を親指でトントンッと二回叩く。その仕草に思わず息をのむ。
「しかも、だ」とキョウが続ける。「あの傷……、スコルニクスの胸にあった傷は、おと――」キョウは急に黙り込んで、眉間にしわを寄せて小さくうなっている。
「どうした? おと?」
「いや、そんなはずはねェんだ。そんなはずは……」
キョウは、一時ひどく狼狽していたが、とにかく最後まで話す、と言った。
「……目の前の死体に、ちッと頭が混乱して、呆然としちまッたぜ。そん時に走ってくる小さな足音が聞こえてきて、パンナが煙の中からフッと現れたんだ。パンナのヤツ、屋根の上から俺とスコルニクスを交互に見据えてこう言いやがッたんだ。『あとの処理はよろしくね』ッてな」
事の顛末を全て言い終えたキョウは、ますます力無く肩を落としていた。
「この話は本当か?」
「嘘じゃねェ! その後すぐにパンナは消えて、俺が代わりに警備隊の連中に話をつけたんだ。……汚ねェ話だが、死んだのはジュノの民でもねェゴブリンだ。一匹死んだところで誰も騒がねェよ」
「そうじゃないんだ。いや、すまん。そうか、パンナがそんなことを……」
一人でスコルニクスに立ち向かっていたパンナ。あの時は殺しをするなんて微塵も思わなかった。白痴みたいな綺麗言で正義を振りかざしてたあいつが殺しなんて。……でも、病室で感じたパンナの雰囲気ならやりかねない気がする。
事態の齟齬。違和感。
「おいソレ! 今の話を聞いてそんだけか? 何も思う事はねェのかよ!」
立ち上がったキョウに胸倉を掴まれる。その拍子に椅子が倒れ、木材の鳴らす、抜けるような乾いた音が静かな部屋に響き渡った。
「……この話は誰かに言ったのか?」
「ああッ? 言ッてねェよ! あらかた処理が終わって、いの一番でおまえの所に報告に来たんだ! それにこんな話を誰に言えるッて言うんだ?」
キョウの気持ちは分かる。友人が、職権濫用で殺人を犯したんだ。団長であるティルダに報告をするならまだしも、ジェイやゾッド達には言えないだろう。だとしたら、俺に話した意図は――。
真っ直ぐキョウの目を見つめて、胸倉を掴むキョウの腕を掴み、そっと押し返して言った。
「分かってる。見張ればいいんだろ? ――パンナを」
役割が見えてきた。考えたくも無かったけど、どうやら俺はパンナを追う宿命にあるみたいだ。昨日、病室で見たキョウの顔が何度も頭をよぎる。『こんな事を頼んですまねェ。もし、あいつが暴走するような事があれば、次は俺が止めるからよ』そう言って、目も合わせずに決意を漏らした時の顔が。友を断罪の場に突き出さなければいけない心情は、計り知れない。
退院して、自室に戻って準備を整えたが、体が激しくだるい。アイいわく、治癒魔法は生命力の前借りなんだとか。寿命が縮むわけじゃないが、怪我の度合いによっては正常な体にある生命力が枯渇する。それがこの何とも言えない虚脱感を生むらしい。
けど俺が今休んでいる時間はない。キョウには何か思惑がある。どうやら俺にそれを話すつもりはないらしいが、パンナがこの先さらに罪を重ねる可能性を示唆している事は確かだ。俺に監視をさせるのがその動かぬ証拠だ。
パンナが何をしようとしているのかも、キョウが何を考えているのかも、自分で探りだす他ない。幸いにも、俺はつい先日パンナをよく知る人物と出会っている。彼女なら色んな角度からパンナを見ているはずだ。
ル・ルデの庭の、『オーロラ宮殿』、別名『大公宮』。ル・ルデの庭中心に位置する三国の大使館を十字で結んで、残った一本をずーっと行くと、眼前に広がって見えてくる。オーロラ宮殿は、大理石だか御影石だか分からないが、外観も内装も、そのほとんどを切り崩した石から造られている。外交使節が百人来ても宿泊でき、四国首脳会議もここで行われている。一度も見かけた事はないが、大公もこの宮殿で執務を執り行っている。建物も、その役割もとても大きい宮殿だ。
麻薬取締局ジュノ本部はこの中にあった。ジュノ警備隊本部もここにある。警備隊の連中とは、仕事上、何かと縁があって月に一度は訪れる場所だ。厳粛な雰囲気とは裏腹に、建物から出てくる連中はそれとは程遠い雰囲気の、見るからに荒くれの傭兵達だった。もちろん、礼服を着ている文官達や警備隊員も出入りをしているが、印象に残るのは見た目も声も『うるさい』人間達だ。
取締局の受付カウンターの前に行くと、受付のヒュームの女が視線を上げた。
「パーパ・ビッフェ捜査官と話がしたい。セイントのソレが来た、と伝えてくれ」
受付の女は、少々お待ちください、と言って受付帳簿をぱらぱらとめくりだした。清潔そうな白い制服を着崩す事無く着ている。山をかたどったピンク色のポケットチーフが印象的だ。パンナやパーパが付けていた小さな捜査官バッジは見当たらない。
「お待たせしました」受け付けの女はにこりと笑って、「第二応接室が廊下の突き当りを左に曲がってすぐ右にあるので、そちらでお待ちください」と、右手で廊下の奥を指し示した。
応接室に入ると、部屋の中心に置かれた移動式の暖房が、大きな獣が低くうなるような音を立てて動き出した。『クリスタル』という、エネルギーを内包する不思議な石を燃焼して使う型だ。冒険者連中は、クリスタルを使って製品を加工するらしいが、俺には全く仕組みが分からない。まぁ、そんな訳の分からない力で動いているが、俺の部屋の隅にある暖炉よりは効率よく部屋が暖まりそうだ。
冷たい石の壁が、味気ない部屋をより冷えさせていた。身を縮ませて寒さに耐えていると、扉が開いてパーパが現れた。
「ソレさん、お久しぶりですね」パーパは一言挨拶をすると、ティーカップを二つ載せたトレーを机にゆっくり置いて、「ソレさんもどうぞ。体が温まりますよ」と、挨拶もそこそこに湯気の立つお茶を一口すすった。向かいに座っているパーパは、一昨日見た時よりも幾分か体が大きく見える。
「ああ、ありがとう。頂くよ」
ロイヤルティーのいい香りだ。ウィンダス茶葉を使ったサンドリア風のお茶の中でも、厳選された高級茶だ。応接室は、机を挟んで大きなソファーが二つあるだけの質素な雰囲気だ。取締局を訪れる客――この応接室で待たされるのは、ジュノ政府や他国のお偉いさんだろう――には、この高級茶がせめてものお持て成しってわけだろう。セイントが贔屓にしてるのは、安物のカモミールティー。……ティルが猫舌なせいで、お茶に掛ける金はないようだ。
「今日は少し顔色が優れませんね? 風邪でもひいてませんか?」パーパは、ティーカップを机へ戻して言った。
「ああ、ちょっと色々あって疲れてるだけだよ。心配されるほどじゃない」
「そうですか、この季節だから体調の変化には気をつけた方がいいですよ。あ! 今日、ここへ初めて訪れたお客さんはソレさんなので、部屋が暖まるまで辛抱してくださいね」
「このくらいの寒さなら慣れてるよ。パーパの方こそ見るからに寒そうだぞ?」
パーパが着ているのは白を基調とした、ボタンが前面に二列あるダブルスーツ型の公国制式礼服だ。掛かっている二列のボタン部分が、はち切れんばかりに膨らんでいる。ティルと違って猫舌ではないようだが、ミスラらしく寒さに弱いようで、中に相当着込んでいると推測できた。
よほど俺の視線が勝手に物を言ったのか、パーパは、「あ! すいません! 着替えてから来るべきでした。不恰好な姿をお見せしてごめんなさい!」と、改めて自分の恰好を見て恥ずかしそうにしている。
「いや、別に構わないよ。俺も急に押しかけちまったしな。でも、今日はバッジを付けてないんだな?」
「あ! ……その、実は私、捜査官じゃないんです」
「一昨日は会った時は、捜査官だって名乗ってなかったか?」
「……ええ。嘘をついたわけではないんです。外に出てお話をお伺いする時は、捜査官の権限を持っていた方が何かと便利だと思ったので、上司に頼んで臨時捜査官のバッジを付けさせてもらっていました」
パーパが、「これを」と、名刺と小さなカプセルを差し出してきた。名刺には、『麻薬取締局研究室 薬系技官 パーパ・ビッフェ』と、長たらしく身分を示す文字が書かれていた。
「違法薬物は悪しき心を持った人たちによって研究され、日々進化しています。私のいる研究室では薬物の研究により、薬物汚染予防と症状の改善ができないかと考えているのです。……どうしても、後手に回ってしまうのが辛いところですが」
「このカプセルは?」
「まだ未完成ですが、精神錯乱状態の患者を正常な状態に改善する薬です。それで……」と、目を輝かせて話し出した。
――二十分くらいの間、プレやら、ポリなんとかやら耳慣れない言葉で説明を受けたが、湿った紙に黒鉛で物を書くかのように全然頭に入ってこない。パーパはというと、俺の興味など露知らず、夢中で話を続けていて止まる気配がなかった。
「話してるところ悪いんだが、今日は聞きたい事があって来たんだ」
「あ! ご、ごめんなさい! 私ったら自分の事ばかり話してしまって……」と、パーパは顔を真っ赤にして俯いた。
自分の事というか自分の研究、いや、間違いなくパーパの趣味だ。
「いいよ、話を聞くのは嫌いじゃないし、俺の身近にも好きな事に関しては話題に事欠かないヤツがいるからな。でも、まずは俺に協力してくれないか?」
「はい、もちろんです」
パーパの表情が、先程の趣味の話とは打って変わって大真面目になる。俺の疑問を解消する、いい回答が得られるかもしれない。
「……単刀直入に聞きたい。パンナについて知ってる事を話してくれ」
俺の言葉に、パーパは一瞬右耳をピクッと動かした。やはり、何か知っている。
「どうしてですか? 確かに彼は迷惑を振りまくような人間ですが、このように内偵される謂れはないですよ」
「本当にそうか?」
「え! ……ええ、そうです。ソレさんこそ、パンナの友人である私に尋問みたいな真似をするんですから、それなりに根拠があるんですよね?」
「もちろん」嘘だ。そんなものはない。
だが、隠している事はもう明らかだろう。時にはハッタリをかますことも大事だ。俺は自分でも気持ちが悪いくらいに、自信満々の表情を作ってみせた。
うーん、と小さくうなり声を上げたパーパは、
「仮にパンナにやましいことがあったとして、ソレさんがパンナの事を教えろと言っても具体的に何を話せばいいのか……」と、ささやかな抵抗の色を見せた。
それは、考えていたよりも早く察知できた陥落の兆しだった。
「じゃあ、こう言えばいいか? パンナの過去について、話してくれ」
『パンナの過去』というのも完全な当てずっぽうだ。ただ、俺の知らないパンナを知っている人物は周りにいる。ティル、キョウ、ジェイ、パーパ、そしてたぶんセイントの古参であるゾッドやしっぽも知っているはずだ。
『死んじゃえばいい』と、パンナは病室で冷たく言い放った。まるで一切の悪を、無慈悲に根絶やしにする事を願うような……。何か、きっと何か、パンナを突き動かす過去があるはずだ。それを知らなければ出発地点にも立てやしない。
「ま、参りましたね。まさかソレさんがパンナを疑うとは思いもしませんでしたよ。……私の当てはいい方に外れてしまいました」パーパはほっとしたのか、それとも少し呆れたのか微妙なあやのため息を一つ吐いた。
「当てが外れた……、どういうことだ?」
「……本当は私がソレさんを当てにしていたんですよ。これであなたは、この事案のキーマンに昇格決定ですね」
訳が分からない。……でも分かる、この感覚。服を着たまま、ぬるま湯に浸かっているような気持ち悪さ。思えばここ数日の間、感じていた気がする。無意識のうちに、違和感を体が捉えているんだ。……下っ腹が疼きだしている。
「ソレさんの事は調べさせて頂きました。もちろんセイントのみなさんも全員です。あなたと、あなたと一緒にジュノへ来られたアイさんには、特に不明な点は見つかりませんでした。何から何までごく自然なんですよ。……それが却って、セイントの方たちを異質なものにしてしまいました」
「調べるって、どうしてわざわざパーパが? 技官の仕事とは全くの無縁のように思えるが?」
「そうですね。個人的な興味とも言えますし、この事案をどうにかしたいと思っているのも事実です。麻薬を根絶したいと願っているのは、何も捜査官だけではありませんから。……それに、私が見つけた足掛かりなら、私にも追求する権利がある。そう思いませんか?」パーパは自分の胸倉を軽く掴んで言った。「だから、上司に無理を言って一時的に捜査権限を頂いたんです」
「セイントの連中が信用ならないから、俺を選んで接触した。……いや、信用ならないどころか、この新型麻薬にまつわる出来事に、ただの傭兵として以上に関わりがある、そう言いたいんだな?」
――沈黙が訪れる。これは笑えない冗談か、それとも……。
パーパは重い口を開いて言った。「もちろん、ソレさんも完全に信用していたわけではありませんでした。あなたも噛んでいるなら、それはそれで好都合と判断しました。勝ち目のある賭けだったんです。――結果は大勝ちです」
「なぜセイントが関わっていると? 見つけた足掛かりっていうのはもちろんセイントに繋がる証拠だよな? それは一体何だ?」
「気分を害されましたか?」
「当たり前だ!」
ついカッとなり、拳を机に叩き付けた。衝撃で、ティーカップがソーサーから跳ねて、少しぬるくなったお茶をくるくると回りながら吐き出している。
――コトリ、と音を立ててティーカップは踊るのをやめた。
「前に見たことのある光景ですね。こんなソレさんを見るのは二度目ですよ」パーパは、黙っている俺を見て続ける。「残念ですが、ソレさんにその理由を教える事はできません。あなたは、その場所から先入観を捨てて挑まなければならないんですよ。……それに、ソレさんも薄々気付いているんじゃありませんか? あなたを取り巻く嘘に」
そうだ。違和感の正体とは、『嘘』だ。俺を取り巻く嘘だ。
「……ああ、その通りだよ。分かってるなら、この気持ち悪い感じをなんとかしてくれ。頼りにしてたパーパまでキョウと同じように隠し事をするんだ。一体何が起きてるって言うんだ」
パーパがふふっ、と笑って言う。「ですが、今日は私の話をする番ではないんですよね? それに隠し事をしているのはお互い様のようですし。さぁ、ではパンナに関する資料を取りに行くので少々お待ちください」
パーパの少し勝ち誇った顔と笑いに釣られて、緊張の解けた俺も笑いをこぼす。「猫かと思ったらとんでもないな。あんたは狐か狸だよ」
「ふふふっ、男性をからかうのは好きですから」と、パーパは静かに笑って扉を開けて出て行った。
「これは?」
手渡された古い新聞記事に一通り目を通して、パーパに尋ねた。
手の平二つ分程の小さな記事は、パーパが切り抜いたんだろう。内容は、麻薬取締局の捜査官が殺害されたという三面記事だった。天晶暦八七一年、今から二年前の事件だ。
“優秀な捜査官への報復か? 昨日、三月十七日午後十時頃、上層区おはじき通りのアパートの一室で、麻薬取締局ジュノ本部勤務、捜査官、イーガエガ・フゲティさん(30)が血を流して倒れているのを――”
働き者の優秀な捜査官が、仲間を逮捕された事で逆恨みしたゴブリンに殺されてしまった、という悲痛な事件だ。
「パンナの、そしてジュノ大公国の抱える闇ですよ」
記事から顔を上げると、パーパはティーカップの口を無表情でなぞっていた。部屋を出て行って戻ってきてからはこんな調子で、重く暗い雰囲気を発している。
パーパはしばらくそうしていたが、目を瞑って首を横に振った。
「まず初めに、捜査官及び、当局の全職員は本名を名乗れません。パンナの名前も当然偽名です。彼がソレさんにどこまで自分の事を話したのかは分かりませんが、捜査官の身元が割れるという事は捜査上の安全に深く関わる事なので、私の口からは話せません。
そして、これからお話する内容は誰にも口外しないでください。特にその記事の件は、おいそれと部外者にお話できるような事ではありません。私自身覚悟の上ですが、私一人の責任で負える内容ではないので。……約束出来ますか?」
「ああ、約束する。パーパに迷惑はかけない」
パーパは無表情のまま頷いて、束の間の沈黙の後、ゆっくりと話し出した。
「……その記事の内容は捏造されたものなんです。――真相はこうです。……ジュノ大公国だけでなく、サンドリア王国、バストゥーク共和国、ウィンダス連邦の四つの国で麻薬を密売している巨大麻薬密造組織があります。その組織の末端のバイヤーである一匹のゴブリンが、ある若い下級捜査官によって捕らえられました。
ゴブリンは、『組織のジュノルートを手がける拠点の場所と、麻薬取締局にいる密偵を知っている』と言って、身柄の解放を条件に司法取引を持ちかけたのです。若く、野心に溢れる捜査官は、これは大手柄だ、と喜んで司法取引を内密に進めました。もちろん、彼が独断で決められる事ではありませんでしたが、良い結果を出せば余りあるお釣りが返ってくる算段だったのでしょう。一つでも局全体が沸き立つ情報なのに、それが二つとなれば大出世は間違いありませんでした。
彼はゴブリンから得た情報を元に、バディであり先輩であった中級捜査官を連れて、局の裏切り者の自宅へ押し入りました。……この事件の被害者、イーガエガ捜査官の自宅へ。
中級捜査官も、自分が取締局へ入ったばかりの頃を考え、若い後輩のバディのわがままを聞いてやったつもりだったのでしょうね。
イーガエガ捜査官は、自分には覚えが無い、何かの間違いだ、と主張しました。でも、若い捜査官は正義に酔い、そして功に焦り、イーガエガ捜査官を殺してしまいました。もちろん、初めから殺すつもりではなく、もみ合っているうちに頭に血が昇っての事だったのでしょう。『話を聞きに行くだけだ』と言って付いていった中級捜査官が止める暇も無く。――悲劇でした」
「もしかして、その中級捜査官が……?」
パーパは、そうです、と呟いた。
「パンナは、若い捜査官を止められませんでした。目の前でイーガエガ捜査官を見殺しにしてしまったのです。
そして最悪な事態は、これで終わりではありませんでした。……麻薬取締局付きの取調官によって、司法取引を持ちかけたゴブリンが、全くのでたらめを言っていた事が明らかになったのです」
「なんてことだ。……それで、この事件は?」
「はい、皮肉な話ですがとても迅速な対応でした。……取締局。いえ、ジュノ政府はこの不祥事を隠蔽する事にしたのです。その捏造内容がソレさんにお見せした新聞記事です」
闇に葬られたのは、ゴブリンだけじゃない、のか。
「人一人、優秀な捜査官の死の真相は明らかにされなかったってことか。いや、この先も永遠に、か」
「殺されたイーガエガ捜査官はバストゥーク共和国出身でした。今なお続くジュノ大公国とバストゥーク共和国との軋轢は、二年前の当時はより一層激しいものでした。ですから事実を公表する事はとても危険だと、ジュノ政府はそう判断したのでしょう。
この事件の若い捜査官は、今はサンドリア支局で閑職についています。彼にとってもすねに傷ですが、この事件が明るみにならないようにする処置です」
「飼い殺しってやつだな」
「パンナは、二週間後に上級捜査官へ昇級する事になっていました。彼は甘いところもありましたが、とても優秀だったのです。だから、事件の場に居合わせた事も不問になりました。……きっとそれが、今も彼を苦しめているのでしょうね」
パーパは相変わらず無表情のまま続けた。「……彼は、罰せられたかったのでしょう。イーガエガ捜査官を殺したのは自分だと、ずっと自身を責め続けていましたから。
結局、昇級を蹴って自らウィンダス支局への転勤を願いでました。それは永遠に罪を償う機会を失った彼の、せめてもの償いだったのかもしれません」
パーパは、葬られた真実を語り終えると、ふぅ、と一つため息をついてティーカップを両の手の中に収めた。
これがパンナの暴走の動機なのか。……あいつはずっと罪を抱えて、麻薬を憎んで生きてきたのか。止められるのか、俺に。……いや、俺にその資格があるんだろうか。
「ソレさんのご希望に沿えましたか?」
「あ、ああ。悪いな、こんな話をさせちまって」
「いえ、私の方こそごめんなさい」パーパは悲しそうな表情をして言った。
「どうしてパーパが謝るんだ?」
「私じゃきっと、パンナを救えません。パンナがこれ以上傷付く姿を直視する事も、ましてや制裁を下す事など……、私には無理です」
パーパは、パンナがスコルニクスを殺した事を知らないだろう。それでもジュノで起きている『何か』に、セイントだけでなくパンナが関わっていると考えている。
「パーパ……、俺達、追ってるものは同じなのか?」
「分かりません。ですが、これが私の思い過ごしである事を切に願うばかりです。……私はこの件から手を引かせて頂きます。ずいぶん勝手ですが、あとは全てソレさんに託したいと思います」
「……ああ、俺なりにやってみる。パーパ以外からも似たような事を頼まれてるしな」
「はい、ありがと……ございま……す」
パーパは、頭を下げながら声を抑えて泣き出した。堰を切ったように長く、静かに。
キョウはベッドの左脇に立ち、襟を直しながら俺の反応を窺っていた。その意図がよく分からず、キョウをじっと見つめる。おでこの左側が赤みを帯びていて、少し腫れている。打ち上げの時には無かった傷だ。
「どういうことだ?」
キョウが、ちっ、と舌打ちをした。かなり苛立っているみたいだ。
「……パンナはここに来たか?」
「来たけど、それとこれとどんな関係があるんだ? 逃がしたならともかく、どうしてスコルニクスが死んだんだ?」
「パンナが殺しちまッたんだ」と、吐き出すように言いながら頭を撫でている。はっきりと自分の口で言ったものの、それでも信じられない、と言った顔をしている。
俺も同じだ。パンナがスコルニクスを殺した、そう聞かされても相変わらず釈然としない。あいつがあの成金を殺す理由が見つからない。
「キョウ、おまえが動揺するのも分かる。でも、ただ『パンナが殺した』とだけ聞かされても、何も言えない。俺が気を失った後に何が起きたのか話してくれよ」
まずは座ってくれ、と言ってアイが座っていたところへ指を向けた。
「すまねェ……」
キョウが口元を握りこぶしで押さえながら一言言って、力なく椅子へ座る。そして、俺が気を失っていた空白の時間を話しだした。
「セイントの詰め所でぐっすりいってたら、アイが血相変えて来てよ。ソレとパンナが大事になッてるてェから、ジェイを連れて下層区のスラムへ向かッたんだ。……前にもあそこに足を運んだことはあるが、一層ひでェことになッてたな。
アイがおまえたちの所まで案内してくれるかと思ッたんだがな、どうやら道を覚えてないらしく、結局ジェイの勘に任せて修羅場に辿りついたんだ。ソレが『手裏剣』で雇われどもに応戦した頃だ。あの妙なマスクのゴブリン、アイが言ってたぜ、パンナはそのスコルニクスを捕まえる気だッてよぉ。
百戦錬磨の俺だ、ゴブリン一匹捕まえるくらいわけはねェ。だがよ、標的のスコルニクスが見たこともねェ型の銃を取り出したじゃねェか。まずはあの得物をどうにかしなきゃ近づけもしねェ。俺が屋根伝いにスコルニクスの背後に回ってるうちに、ジェイには狙撃地点に行ってもらッたんだ、もちろんあの銃を撃ち落とすためだ。……ここまでは良かッたんだがよ。わりぃ事に、ソレが撃たれちまった」
キョウが親指と人差し指をくの字にして、手首をくいっと斜め上に曲げる。『バンッ』だ。
「初めて銃で撃たれたよ。あの銃が量産されたら、剣の出る幕はないな」
「商人でもほとんど訓練なしで扱えるからな、傭兵も廃業だぜ」
まぁ、と言ってキョウが続けた。
「俺なら、焦ッて矢を放ッてただろうが、さすがジェイだ。あいつは冷静に好条件の狙撃地点まで行ッて、見事にスコルニクスの腕に命中させて銃を撃ち落とした。お膳立てしてもらえりゃあ、そッからは俺の出番だ。スコルニクスが慌てふためいてる所に、俺が背後から一気に詰めるッて寸法だ。
……だが、ここでポカしちまッたんだ。好機を逃さんとしてたのは、俺だけじゃなかッたッて事だ。俺が飛び出した瞬間、屋根の下からパンナがヒョイと現れてよ……、『ごッつんこ』だ。お互いが面食らッてる間に、スコルニクスは煙幕爆弾を使ってとんずらだ。
そん時の衝撃で思い出したんだがよ、このスコルニクスッてヤツは、以前『マッドニクス』ッて名で武器商やッてたヤツにそッくりだッたんだ。いや、そッくりッつッても、マスクをしてるから本当の顔なんて知らねェが、同じマスクだッたんだよ。――お株急上場の、新しい麻薬密造グループに手を貸して、大儲けしようッて腹だッたんだな。
回収した銃から分かッたんだが、スコルニクスは元バストゥークの技術者と組んで強力な武器を開発してたみてェだな。あちらの国で使われてる技術がたんまり詰まッてた上に、丁寧に刻印までしてあッたぜ。銃の他にも、見たことのねェ技術で作られた道具もどッさりだ。……俺達を撒いた煙幕爆弾も強烈でな、ヤツが放り投げた瞬間に拡散して、辺り一帯は煙の世界だッたぜ。だが、ここで逃したんじゃパンナとソレに申し訳が立たねェ。既に走り出していたパンナを追ッて、俺もがむしゃらに走ッたんだが……」と、一気に話したところで、キョウが一度話を区切った。
「それで?」
キョウはばつが悪そうに頭をぽりぽりと掻いている。
「踏み外しちまッた……」
「え?」
「屋根から落ッちまッたんだよッ!」
……キョウのおでこのたんこぶはその時のものか。俺も同じ様な失態を犯したぞ。
「ま、まぁ、それはしょうがないだろ。朝露で屋根も濡れてたし、前が見えなかったんだからな」
「そうなんだよッ! 足元が濡れてたからなッ! ソレは分かッてくれるか、ありがとなッ!」
いわゆる、『痛いほどに分かる』とは、まさにこの事だ。これが痛みを共有して分かち合う恥ずかしさというものだ。俺は自分の失態の場面を思い出して赤面しそうになったので、キョウに話の続きを促した。
「その後はどうなったんだ?」
キョウは一つ咳払いをしてその後の事を話し出した。
「けどな、これが怪我の功名、屋根の下までは煙が来てなかッたんだ。不思議なもんで視界をさえぎるものが無くなると、平静さも戻ッてくるッてもんだ。……耳を澄ましてみれば聞こえるじゃねェか、ヤツがどッちに逃げているかッてな。
俺はヤツの足音を頼りに、足場の悪い狭い路地を全力で走ッた。どうやら足を少し悪くしてるようで、右足と左足のリズムが微妙に狂ッてたな。まぁ、逃げ足がガクッと遅くなるッて程じゃなかッた。走りながら何度も上を見ていたが、遠くに離れるほど煙が薄くなッていッたぜ。そのうち、一瞬、足音が聞こえなくなッたんだ。きッと、へばッて足を止めたんだろう。その後再び足音が聞こえだしたが、走る速度を落としたのか、足のリズムが正確になッてたな。案外諦めの早いヤツだと思ッたぜ。年貢の納め時もいよいよだ。……だがよ、足音も近くなッてきてようやく追いついたと思ッた時だ。
――ドサッ、と前方に何かが落ちてきやがった。……スコルニクスだッた。捕まえようと、急いで駆け寄ったんだがな、仰向けになッてピクリとも動かねェ。まぁ、わけは一目瞭然だったがな。
胸からの大量出血、心臓への一突き。ジェイが放った矢で負った腕の傷を除けば、傷はただの一つだけ。殺意を持って一撃を与えたッてわけだ」
キョウが、自分の左胸を親指でトントンッと二回叩く。その仕草に思わず息をのむ。
「しかも、だ」とキョウが続ける。「あの傷……、スコルニクスの胸にあった傷は、おと――」キョウは急に黙り込んで、眉間にしわを寄せて小さくうなっている。
「どうした? おと?」
「いや、そんなはずはねェんだ。そんなはずは……」
キョウは、一時ひどく狼狽していたが、とにかく最後まで話す、と言った。
「……目の前の死体に、ちッと頭が混乱して、呆然としちまッたぜ。そん時に走ってくる小さな足音が聞こえてきて、パンナが煙の中からフッと現れたんだ。パンナのヤツ、屋根の上から俺とスコルニクスを交互に見据えてこう言いやがッたんだ。『あとの処理はよろしくね』ッてな」
事の顛末を全て言い終えたキョウは、ますます力無く肩を落としていた。
「この話は本当か?」
「嘘じゃねェ! その後すぐにパンナは消えて、俺が代わりに警備隊の連中に話をつけたんだ。……汚ねェ話だが、死んだのはジュノの民でもねェゴブリンだ。一匹死んだところで誰も騒がねェよ」
「そうじゃないんだ。いや、すまん。そうか、パンナがそんなことを……」
一人でスコルニクスに立ち向かっていたパンナ。あの時は殺しをするなんて微塵も思わなかった。白痴みたいな綺麗言で正義を振りかざしてたあいつが殺しなんて。……でも、病室で感じたパンナの雰囲気ならやりかねない気がする。
事態の齟齬。違和感。
「おいソレ! 今の話を聞いてそんだけか? 何も思う事はねェのかよ!」
立ち上がったキョウに胸倉を掴まれる。その拍子に椅子が倒れ、木材の鳴らす、抜けるような乾いた音が静かな部屋に響き渡った。
「……この話は誰かに言ったのか?」
「ああッ? 言ッてねェよ! あらかた処理が終わって、いの一番でおまえの所に報告に来たんだ! それにこんな話を誰に言えるッて言うんだ?」
キョウの気持ちは分かる。友人が、職権濫用で殺人を犯したんだ。団長であるティルダに報告をするならまだしも、ジェイやゾッド達には言えないだろう。だとしたら、俺に話した意図は――。
真っ直ぐキョウの目を見つめて、胸倉を掴むキョウの腕を掴み、そっと押し返して言った。
「分かってる。見張ればいいんだろ? ――パンナを」
役割が見えてきた。考えたくも無かったけど、どうやら俺はパンナを追う宿命にあるみたいだ。昨日、病室で見たキョウの顔が何度も頭をよぎる。『こんな事を頼んですまねェ。もし、あいつが暴走するような事があれば、次は俺が止めるからよ』そう言って、目も合わせずに決意を漏らした時の顔が。友を断罪の場に突き出さなければいけない心情は、計り知れない。
退院して、自室に戻って準備を整えたが、体が激しくだるい。アイいわく、治癒魔法は生命力の前借りなんだとか。寿命が縮むわけじゃないが、怪我の度合いによっては正常な体にある生命力が枯渇する。それがこの何とも言えない虚脱感を生むらしい。
けど俺が今休んでいる時間はない。キョウには何か思惑がある。どうやら俺にそれを話すつもりはないらしいが、パンナがこの先さらに罪を重ねる可能性を示唆している事は確かだ。俺に監視をさせるのがその動かぬ証拠だ。
パンナが何をしようとしているのかも、キョウが何を考えているのかも、自分で探りだす他ない。幸いにも、俺はつい先日パンナをよく知る人物と出会っている。彼女なら色んな角度からパンナを見ているはずだ。
ル・ルデの庭の、『オーロラ宮殿』、別名『大公宮』。ル・ルデの庭中心に位置する三国の大使館を十字で結んで、残った一本をずーっと行くと、眼前に広がって見えてくる。オーロラ宮殿は、大理石だか御影石だか分からないが、外観も内装も、そのほとんどを切り崩した石から造られている。外交使節が百人来ても宿泊でき、四国首脳会議もここで行われている。一度も見かけた事はないが、大公もこの宮殿で執務を執り行っている。建物も、その役割もとても大きい宮殿だ。
麻薬取締局ジュノ本部はこの中にあった。ジュノ警備隊本部もここにある。警備隊の連中とは、仕事上、何かと縁があって月に一度は訪れる場所だ。厳粛な雰囲気とは裏腹に、建物から出てくる連中はそれとは程遠い雰囲気の、見るからに荒くれの傭兵達だった。もちろん、礼服を着ている文官達や警備隊員も出入りをしているが、印象に残るのは見た目も声も『うるさい』人間達だ。
取締局の受付カウンターの前に行くと、受付のヒュームの女が視線を上げた。
「パーパ・ビッフェ捜査官と話がしたい。セイントのソレが来た、と伝えてくれ」
受付の女は、少々お待ちください、と言って受付帳簿をぱらぱらとめくりだした。清潔そうな白い制服を着崩す事無く着ている。山をかたどったピンク色のポケットチーフが印象的だ。パンナやパーパが付けていた小さな捜査官バッジは見当たらない。
「お待たせしました」受け付けの女はにこりと笑って、「第二応接室が廊下の突き当りを左に曲がってすぐ右にあるので、そちらでお待ちください」と、右手で廊下の奥を指し示した。
応接室に入ると、部屋の中心に置かれた移動式の暖房が、大きな獣が低くうなるような音を立てて動き出した。『クリスタル』という、エネルギーを内包する不思議な石を燃焼して使う型だ。冒険者連中は、クリスタルを使って製品を加工するらしいが、俺には全く仕組みが分からない。まぁ、そんな訳の分からない力で動いているが、俺の部屋の隅にある暖炉よりは効率よく部屋が暖まりそうだ。
冷たい石の壁が、味気ない部屋をより冷えさせていた。身を縮ませて寒さに耐えていると、扉が開いてパーパが現れた。
「ソレさん、お久しぶりですね」パーパは一言挨拶をすると、ティーカップを二つ載せたトレーを机にゆっくり置いて、「ソレさんもどうぞ。体が温まりますよ」と、挨拶もそこそこに湯気の立つお茶を一口すすった。向かいに座っているパーパは、一昨日見た時よりも幾分か体が大きく見える。
「ああ、ありがとう。頂くよ」
ロイヤルティーのいい香りだ。ウィンダス茶葉を使ったサンドリア風のお茶の中でも、厳選された高級茶だ。応接室は、机を挟んで大きなソファーが二つあるだけの質素な雰囲気だ。取締局を訪れる客――この応接室で待たされるのは、ジュノ政府や他国のお偉いさんだろう――には、この高級茶がせめてものお持て成しってわけだろう。セイントが贔屓にしてるのは、安物のカモミールティー。……ティルが猫舌なせいで、お茶に掛ける金はないようだ。
「今日は少し顔色が優れませんね? 風邪でもひいてませんか?」パーパは、ティーカップを机へ戻して言った。
「ああ、ちょっと色々あって疲れてるだけだよ。心配されるほどじゃない」
「そうですか、この季節だから体調の変化には気をつけた方がいいですよ。あ! 今日、ここへ初めて訪れたお客さんはソレさんなので、部屋が暖まるまで辛抱してくださいね」
「このくらいの寒さなら慣れてるよ。パーパの方こそ見るからに寒そうだぞ?」
パーパが着ているのは白を基調とした、ボタンが前面に二列あるダブルスーツ型の公国制式礼服だ。掛かっている二列のボタン部分が、はち切れんばかりに膨らんでいる。ティルと違って猫舌ではないようだが、ミスラらしく寒さに弱いようで、中に相当着込んでいると推測できた。
よほど俺の視線が勝手に物を言ったのか、パーパは、「あ! すいません! 着替えてから来るべきでした。不恰好な姿をお見せしてごめんなさい!」と、改めて自分の恰好を見て恥ずかしそうにしている。
「いや、別に構わないよ。俺も急に押しかけちまったしな。でも、今日はバッジを付けてないんだな?」
「あ! ……その、実は私、捜査官じゃないんです」
「一昨日は会った時は、捜査官だって名乗ってなかったか?」
「……ええ。嘘をついたわけではないんです。外に出てお話をお伺いする時は、捜査官の権限を持っていた方が何かと便利だと思ったので、上司に頼んで臨時捜査官のバッジを付けさせてもらっていました」
パーパが、「これを」と、名刺と小さなカプセルを差し出してきた。名刺には、『麻薬取締局研究室 薬系技官 パーパ・ビッフェ』と、長たらしく身分を示す文字が書かれていた。
「違法薬物は悪しき心を持った人たちによって研究され、日々進化しています。私のいる研究室では薬物の研究により、薬物汚染予防と症状の改善ができないかと考えているのです。……どうしても、後手に回ってしまうのが辛いところですが」
「このカプセルは?」
「まだ未完成ですが、精神錯乱状態の患者を正常な状態に改善する薬です。それで……」と、目を輝かせて話し出した。
――二十分くらいの間、プレやら、ポリなんとかやら耳慣れない言葉で説明を受けたが、湿った紙に黒鉛で物を書くかのように全然頭に入ってこない。パーパはというと、俺の興味など露知らず、夢中で話を続けていて止まる気配がなかった。
「話してるところ悪いんだが、今日は聞きたい事があって来たんだ」
「あ! ご、ごめんなさい! 私ったら自分の事ばかり話してしまって……」と、パーパは顔を真っ赤にして俯いた。
自分の事というか自分の研究、いや、間違いなくパーパの趣味だ。
「いいよ、話を聞くのは嫌いじゃないし、俺の身近にも好きな事に関しては話題に事欠かないヤツがいるからな。でも、まずは俺に協力してくれないか?」
「はい、もちろんです」
パーパの表情が、先程の趣味の話とは打って変わって大真面目になる。俺の疑問を解消する、いい回答が得られるかもしれない。
「……単刀直入に聞きたい。パンナについて知ってる事を話してくれ」
俺の言葉に、パーパは一瞬右耳をピクッと動かした。やはり、何か知っている。
「どうしてですか? 確かに彼は迷惑を振りまくような人間ですが、このように内偵される謂れはないですよ」
「本当にそうか?」
「え! ……ええ、そうです。ソレさんこそ、パンナの友人である私に尋問みたいな真似をするんですから、それなりに根拠があるんですよね?」
「もちろん」嘘だ。そんなものはない。
だが、隠している事はもう明らかだろう。時にはハッタリをかますことも大事だ。俺は自分でも気持ちが悪いくらいに、自信満々の表情を作ってみせた。
うーん、と小さくうなり声を上げたパーパは、
「仮にパンナにやましいことがあったとして、ソレさんがパンナの事を教えろと言っても具体的に何を話せばいいのか……」と、ささやかな抵抗の色を見せた。
それは、考えていたよりも早く察知できた陥落の兆しだった。
「じゃあ、こう言えばいいか? パンナの過去について、話してくれ」
『パンナの過去』というのも完全な当てずっぽうだ。ただ、俺の知らないパンナを知っている人物は周りにいる。ティル、キョウ、ジェイ、パーパ、そしてたぶんセイントの古参であるゾッドやしっぽも知っているはずだ。
『死んじゃえばいい』と、パンナは病室で冷たく言い放った。まるで一切の悪を、無慈悲に根絶やしにする事を願うような……。何か、きっと何か、パンナを突き動かす過去があるはずだ。それを知らなければ出発地点にも立てやしない。
「ま、参りましたね。まさかソレさんがパンナを疑うとは思いもしませんでしたよ。……私の当てはいい方に外れてしまいました」パーパはほっとしたのか、それとも少し呆れたのか微妙なあやのため息を一つ吐いた。
「当てが外れた……、どういうことだ?」
「……本当は私がソレさんを当てにしていたんですよ。これであなたは、この事案のキーマンに昇格決定ですね」
訳が分からない。……でも分かる、この感覚。服を着たまま、ぬるま湯に浸かっているような気持ち悪さ。思えばここ数日の間、感じていた気がする。無意識のうちに、違和感を体が捉えているんだ。……下っ腹が疼きだしている。
「ソレさんの事は調べさせて頂きました。もちろんセイントのみなさんも全員です。あなたと、あなたと一緒にジュノへ来られたアイさんには、特に不明な点は見つかりませんでした。何から何までごく自然なんですよ。……それが却って、セイントの方たちを異質なものにしてしまいました」
「調べるって、どうしてわざわざパーパが? 技官の仕事とは全くの無縁のように思えるが?」
「そうですね。個人的な興味とも言えますし、この事案をどうにかしたいと思っているのも事実です。麻薬を根絶したいと願っているのは、何も捜査官だけではありませんから。……それに、私が見つけた足掛かりなら、私にも追求する権利がある。そう思いませんか?」パーパは自分の胸倉を軽く掴んで言った。「だから、上司に無理を言って一時的に捜査権限を頂いたんです」
「セイントの連中が信用ならないから、俺を選んで接触した。……いや、信用ならないどころか、この新型麻薬にまつわる出来事に、ただの傭兵として以上に関わりがある、そう言いたいんだな?」
――沈黙が訪れる。これは笑えない冗談か、それとも……。
パーパは重い口を開いて言った。「もちろん、ソレさんも完全に信用していたわけではありませんでした。あなたも噛んでいるなら、それはそれで好都合と判断しました。勝ち目のある賭けだったんです。――結果は大勝ちです」
「なぜセイントが関わっていると? 見つけた足掛かりっていうのはもちろんセイントに繋がる証拠だよな? それは一体何だ?」
「気分を害されましたか?」
「当たり前だ!」
ついカッとなり、拳を机に叩き付けた。衝撃で、ティーカップがソーサーから跳ねて、少しぬるくなったお茶をくるくると回りながら吐き出している。
――コトリ、と音を立ててティーカップは踊るのをやめた。
「前に見たことのある光景ですね。こんなソレさんを見るのは二度目ですよ」パーパは、黙っている俺を見て続ける。「残念ですが、ソレさんにその理由を教える事はできません。あなたは、その場所から先入観を捨てて挑まなければならないんですよ。……それに、ソレさんも薄々気付いているんじゃありませんか? あなたを取り巻く嘘に」
そうだ。違和感の正体とは、『嘘』だ。俺を取り巻く嘘だ。
「……ああ、その通りだよ。分かってるなら、この気持ち悪い感じをなんとかしてくれ。頼りにしてたパーパまでキョウと同じように隠し事をするんだ。一体何が起きてるって言うんだ」
パーパがふふっ、と笑って言う。「ですが、今日は私の話をする番ではないんですよね? それに隠し事をしているのはお互い様のようですし。さぁ、ではパンナに関する資料を取りに行くので少々お待ちください」
パーパの少し勝ち誇った顔と笑いに釣られて、緊張の解けた俺も笑いをこぼす。「猫かと思ったらとんでもないな。あんたは狐か狸だよ」
「ふふふっ、男性をからかうのは好きですから」と、パーパは静かに笑って扉を開けて出て行った。
「これは?」
手渡された古い新聞記事に一通り目を通して、パーパに尋ねた。
手の平二つ分程の小さな記事は、パーパが切り抜いたんだろう。内容は、麻薬取締局の捜査官が殺害されたという三面記事だった。天晶暦八七一年、今から二年前の事件だ。
“優秀な捜査官への報復か? 昨日、三月十七日午後十時頃、上層区おはじき通りのアパートの一室で、麻薬取締局ジュノ本部勤務、捜査官、イーガエガ・フゲティさん(30)が血を流して倒れているのを――”
働き者の優秀な捜査官が、仲間を逮捕された事で逆恨みしたゴブリンに殺されてしまった、という悲痛な事件だ。
「パンナの、そしてジュノ大公国の抱える闇ですよ」
記事から顔を上げると、パーパはティーカップの口を無表情でなぞっていた。部屋を出て行って戻ってきてからはこんな調子で、重く暗い雰囲気を発している。
パーパはしばらくそうしていたが、目を瞑って首を横に振った。
「まず初めに、捜査官及び、当局の全職員は本名を名乗れません。パンナの名前も当然偽名です。彼がソレさんにどこまで自分の事を話したのかは分かりませんが、捜査官の身元が割れるという事は捜査上の安全に深く関わる事なので、私の口からは話せません。
そして、これからお話する内容は誰にも口外しないでください。特にその記事の件は、おいそれと部外者にお話できるような事ではありません。私自身覚悟の上ですが、私一人の責任で負える内容ではないので。……約束出来ますか?」
「ああ、約束する。パーパに迷惑はかけない」
パーパは無表情のまま頷いて、束の間の沈黙の後、ゆっくりと話し出した。
「……その記事の内容は捏造されたものなんです。――真相はこうです。……ジュノ大公国だけでなく、サンドリア王国、バストゥーク共和国、ウィンダス連邦の四つの国で麻薬を密売している巨大麻薬密造組織があります。その組織の末端のバイヤーである一匹のゴブリンが、ある若い下級捜査官によって捕らえられました。
ゴブリンは、『組織のジュノルートを手がける拠点の場所と、麻薬取締局にいる密偵を知っている』と言って、身柄の解放を条件に司法取引を持ちかけたのです。若く、野心に溢れる捜査官は、これは大手柄だ、と喜んで司法取引を内密に進めました。もちろん、彼が独断で決められる事ではありませんでしたが、良い結果を出せば余りあるお釣りが返ってくる算段だったのでしょう。一つでも局全体が沸き立つ情報なのに、それが二つとなれば大出世は間違いありませんでした。
彼はゴブリンから得た情報を元に、バディであり先輩であった中級捜査官を連れて、局の裏切り者の自宅へ押し入りました。……この事件の被害者、イーガエガ捜査官の自宅へ。
中級捜査官も、自分が取締局へ入ったばかりの頃を考え、若い後輩のバディのわがままを聞いてやったつもりだったのでしょうね。
イーガエガ捜査官は、自分には覚えが無い、何かの間違いだ、と主張しました。でも、若い捜査官は正義に酔い、そして功に焦り、イーガエガ捜査官を殺してしまいました。もちろん、初めから殺すつもりではなく、もみ合っているうちに頭に血が昇っての事だったのでしょう。『話を聞きに行くだけだ』と言って付いていった中級捜査官が止める暇も無く。――悲劇でした」
「もしかして、その中級捜査官が……?」
パーパは、そうです、と呟いた。
「パンナは、若い捜査官を止められませんでした。目の前でイーガエガ捜査官を見殺しにしてしまったのです。
そして最悪な事態は、これで終わりではありませんでした。……麻薬取締局付きの取調官によって、司法取引を持ちかけたゴブリンが、全くのでたらめを言っていた事が明らかになったのです」
「なんてことだ。……それで、この事件は?」
「はい、皮肉な話ですがとても迅速な対応でした。……取締局。いえ、ジュノ政府はこの不祥事を隠蔽する事にしたのです。その捏造内容がソレさんにお見せした新聞記事です」
闇に葬られたのは、ゴブリンだけじゃない、のか。
「人一人、優秀な捜査官の死の真相は明らかにされなかったってことか。いや、この先も永遠に、か」
「殺されたイーガエガ捜査官はバストゥーク共和国出身でした。今なお続くジュノ大公国とバストゥーク共和国との軋轢は、二年前の当時はより一層激しいものでした。ですから事実を公表する事はとても危険だと、ジュノ政府はそう判断したのでしょう。
この事件の若い捜査官は、今はサンドリア支局で閑職についています。彼にとってもすねに傷ですが、この事件が明るみにならないようにする処置です」
「飼い殺しってやつだな」
「パンナは、二週間後に上級捜査官へ昇級する事になっていました。彼は甘いところもありましたが、とても優秀だったのです。だから、事件の場に居合わせた事も不問になりました。……きっとそれが、今も彼を苦しめているのでしょうね」
パーパは相変わらず無表情のまま続けた。「……彼は、罰せられたかったのでしょう。イーガエガ捜査官を殺したのは自分だと、ずっと自身を責め続けていましたから。
結局、昇級を蹴って自らウィンダス支局への転勤を願いでました。それは永遠に罪を償う機会を失った彼の、せめてもの償いだったのかもしれません」
パーパは、葬られた真実を語り終えると、ふぅ、と一つため息をついてティーカップを両の手の中に収めた。
これがパンナの暴走の動機なのか。……あいつはずっと罪を抱えて、麻薬を憎んで生きてきたのか。止められるのか、俺に。……いや、俺にその資格があるんだろうか。
「ソレさんのご希望に沿えましたか?」
「あ、ああ。悪いな、こんな話をさせちまって」
「いえ、私の方こそごめんなさい」パーパは悲しそうな表情をして言った。
「どうしてパーパが謝るんだ?」
「私じゃきっと、パンナを救えません。パンナがこれ以上傷付く姿を直視する事も、ましてや制裁を下す事など……、私には無理です」
パーパは、パンナがスコルニクスを殺した事を知らないだろう。それでもジュノで起きている『何か』に、セイントだけでなくパンナが関わっていると考えている。
「パーパ……、俺達、追ってるものは同じなのか?」
「分かりません。ですが、これが私の思い過ごしである事を切に願うばかりです。……私はこの件から手を引かせて頂きます。ずいぶん勝手ですが、あとは全てソレさんに託したいと思います」
「……ああ、俺なりにやってみる。パーパ以外からも似たような事を頼まれてるしな」
「はい、ありがと……ございま……す」
パーパは、頭を下げながら声を抑えて泣き出した。堰を切ったように長く、静かに。
三節 傭兵の休日
明けて十一月二十五日。まだ日が天に昇り切らない頃、俺は上層区から工房橋を渡って、『バタリア丘陵』に来ていた。この季節らしく、空には大きな灰色の雲が重なっていた。辺りには、古戦場らしく今でも土塁跡がいくつも残っている。十数年前は、ここでアルタナ連合軍と獣人連合軍の会戦、『ジュノ攻防戦』が繰り広げられた。朽ちた砦、崩れた防壁、流れた血を吸って、よく肥えた土壌。激戦の爪あとをいくつも残すこの地だが、今となっては誰も剣を交えることはない、……そのはずだった。
なのに、どうしてこんな事になってしまったんだろう。――俺達は、寒風吹きすさぶ中で互いの剣を交えていた。
「……ソレ、そんなものか」
ジェイの振り下ろした剣を、寸でのところで防ぐ。剣と剣がぶつかり、金属音と共に激しく火花が散る。
これで何度目の打ちあいになる? ジェイの剣術はすさまじく、一切の無駄なく打ち込んでくる。俺の打つ手など、それら全てを必死で受け止める事だけだ。
「もうやめてぇ!」アイの叫び声が聞こえる。
「ジェイっ! どうしてこんな事を!」
問いかけに答える事なくジェイは打ちこんでくる。昨日パーパと別れてからやはり身が持たず、部屋に戻ってゆっくり過ごしたが、疲れが完全に癒えたとは言えない。このままじゃ負けは必至。しかし、いくら調子が悪いからと言っても、俺は片手剣一本でやってきたんだ。ジェイの剣に負ければ立つ瀬がない。
でも、……腕に力が入らない。息も絶え絶えで、こんなものを振り回してるどころじゃない。ふんっふんっと、ジェイの呼吸がやたら大きく聞こえる。俺の聴覚がこれでもかと働いているようだ。きっと、ろくに息も出来ないせいで視覚が頼りにならないからだろう。ここは一度距離を取って仕切り直しだ。
すうっ、と思い切り息を吸うが、空気が重量を持ったみたいにうまく入ってこない。肺に何かが引っかかってるような感覚も覚える。
俺は剣を前に構えたまま、筋肉の極度な緊張で震える足をなんとか制御し、ジェイを見据えつつ素早く後退した。そして、ジェイの動きを牽制するために胸の投げナイフに手をやった。
――うまくいくはずがなかったんだ。ジェイがそのわずかな隙でさえ逃すはずがなかった。ジェイは背中に背負ったクロスボウを即座に構え、俺の頭に狙いを定めた。
「……ソレ、終わりだ――」
ジェイが言い終わるか終わらないかの内に矢が放たれた。その矢を額に受けた俺は、ゆっくりと後ろに倒れこんだ。
「ソレぇっ!」アイが駆け寄ってくる。
「ジェイっ! どういう事なの? ソレは大怪我を負って、一昨日まで入院してたんだよっ!」なんでこんな事を……、と呟きながらアイが俺に覆いかぶさる。
息が……、できない。もう何も見えない。真っ暗な世界だ。……でも温かい――。
「――おもい」
「えっ?」
「……重いんだよっ! アイ、早くどけ!」
力を振り絞ってアイを払いのけた。アイが、きゃっ、と言って飛びのく。
はぁはぁと全身で息をしても呼吸が間に合わない。アイのせいであやうく窒息死するところだった。
俺は半身を起こしてジェイを見た。「なぁ……、何も……今訓練なんて……しなくてもいい……だろっ」息を切らしながら、額にぴったりと張り付く吸盤付きの矢を引き剥がして言った。
「そうだよっ! それに今日はすっごく寒いんだから、もう帰ろうよぉ」アイが、立てひざをついて言った。自分の体を抱えて縮こまり、ぶるぶると震えている。
「……だめだ。おまえは勝手に病院を抜け出していただろう。それ程の元気があるなら、この程度の訓練など問題ない」ジェイは表情は真剣そのものだ。
「ちょっ……、ちょっと待て! この程度っ……」息苦しさで言葉に詰まり、ごくっ、と生唾を飲む。「この程度っていうけどな! 俺とジェイじゃ力量差があり過ぎるだろっ! 勝手に病院を抜け出した事は謝る! せめて、休憩を……、休憩をさせてくれーっ!」
俺は病み上がりにだだ広い丘陵で、懇願と謝罪の意を込めて叫んだ。遠くまで響き渡る明瞭な叫び声だった。
料理の苦手なアイでも手軽に作れるおいしい食べ物がある。クァールという長い髭を持つ、巨大な猫のような魔物の肉をソテーしたものと、ミスラントマト、ラテーヌキャベツに、ゴブリン族伝統の涙が出るほど辛いマスタード。これらをサンドリア小麦粉を練って作る白パンに挟めば、はい、出来上がり。アイと外出する時の定番携帯食、『クァールサンド』だ。
毎度飽きもせずに作ってくるので、『そんなに好きなら』と、俺もセイントのみんなも何も言えないでいる。厳密に言えば、新しい料理に挑戦させた事はあるけど、今でもクァールサンドを作ってくるのがその結果を示している。
野外訓練場で、アイと一緒にあつらえ向きの石の腰掛けに座って談笑を楽しむ。ふんわりと柔らかな白パンとトマトの爽やかな酸味が、体に活力をみなぎらせていく。クァールの肉の濃厚な旨みがマスタードと絡みあって、獣特有の臭味を抑えつつ口の中にしゃりしゃりと広がる。――しゃりしゃり?
背後からしゃりしゃりと訓練用の剣を研ぐ音が聞こえてくる。……現実逃避には無理があった。東のシュ・メーヨ海から吹きつける冷たい風の中で、やはり冷たいクァールサンドを震えながら食べる。そんな姿を見せつけても、やる気になっているジェイは止められなかった。
俺はジェイの方へ振り向いて、手に持ったクァールサンドを差し出した。
「な、なぁジェイ。せめて食事中は……、一緒に食べないか? ほら、ジェイがそうやってると、こう……、食事を楽しめないというか、ますます背中がうすら寒いというか。なぁ、アイ?」
「う、うん。それに、今日はすごく冷えるし、もう帰った方がいいとおもうなぁ」アイがちらちらとジェイに視線を送る。
「……ふむ」
ジェイは、一理あるな、といった面持ちで鞄を開き、中からアイの顔ほどもある大きさの干し肉を取り出し、むしゃむしゃと食べ始めた。そして、一分も経たない内に平らげてしまった。
「……早く食べて、早く訓練を終わらせる」そう言ってしゃりしゃりと、また剣を研ぎ始めた。
なぁなぁジェイよ。なぁ、「というか……」
「……ん?」
ジェイが手を休めてこちらを見る。
「訓練用のなまくらをいくら研いでも意味ないだろ」
「……気分だ。問題ない」
いやいや、『刀は武士の魂だ。魂は常に磨くもの』ってハゲが言ってたけど、これはなんか違うだろ。
「……もう、投げナイフはやめろ。スコルニクスを追った時にもよく分かったはずだ。そんなものは子供のおもちゃだ。……役に立たん」
「えっ。いや、だって携帯性も抜群だし、距離が開きすぎるとどうにもならないけど、牽制くらいにはなるぞ」
正直、図星を突かれた。なんとなく自分でも分かってたんだよなぁ。……恰好をつけるためだけに投げナイフを使ってたなんて、恥ずかしくて今更言えない。
「……午後からは射撃訓練だ。今のうちにクロスボウを扱えるようになっておけ」
ジェイは言った事を絶対に曲げない。言ってる事は間違ってないし、この人の判断はいつも正しい。
「はぁ……、分かった分かった」俺はジェイの強硬な態度に早々お手上げをして、「でも、なんだってこんな急に? 合同捜査が一段落してからでもよくないか?」と、最後のクァールサンドを飲み込んで尋ねた。
横でアイが、うんうん、と頷いている。こいつは寒いから早く帰りたいだけだな。
ジェイは剣をひっくり返し、『かえり』を落としてから刃の反対側を研ぎ始め、
「……死んでもらっては困る」と、悲しむんだか迷惑になるからなのか分からない、相変わらず感情がこもらない声で答えた。
「ああぁ。……あの時は、運が悪かったんだ。なんせ、連射可能な新型の銃だぞ? こっちは見たことも聞いたこともないっていうのに。それにスコルニクスってヤツは、昔武器商をやってたとかでかなり特殊な例だと思うぞ」
「……運や特殊な例とやらで落とせるほど、おまえの命は安くないだろう」
「いや、まぁそうだけど……」
「……ソレ、おまえだけじゃない。そんな事でアイを守れるのか?」
アイが素早く俺に視線をやる。……なんだその目は。そんなに俺の実力が疑わしいか。
「……おまえがセイントに入って一年も経たない頃、おまえはスランプで仕事がうまくいかず、酒に酔って暴れた事があったな。覚えているか?」
「や、やめてくれよ。もう昔の話だろ? 時効だ! 時効!」
「あー! そんな事もあったねぇ!」アイが嬉しそうな顔をして話に入ってきた。
「おまえまで……」
「ふふんっ! あの時はわたしが介抱してあげたんだよっ!」と、立ち上がって腰に手をやったが、すぐに身震いをしてまた座り込んだ。
こいつは自分の専門分野の話になると、本当に得意げになるな。
「……俺は今でもあの時ソレが言った事を覚えている」ジェイが、刃先の研ぎ具合を確認しながら言った。
「俺、なんか言ってたか?」
うーんとね、と、指を組みながらアイが目を輝かせた。「『アイっ! 俺が立派になったら結婚してくれっ!』って言ってた気がするっ!」
「それは絶対に無い」
「絶対ってなに! 絶対ってぇ! もう、知らない! ふんっ!」
アイは俺の一言がよほど気に入らなかったのか、口を尖らせ、頬を膨らませて怒りだした。
「……アイ、今のはソレなりの照れ隠しだ。この前の打ち上げだって、アイと――」
「わー! ちょっ、ちょっと待て! そ、それより俺が酔った時に言った事ってなんだよ?」
アイはきょとんとした表情で、俺とジェイを交互に見て首を傾げている。危うく俺の考えが明るみになるところだったぞ、ジェイのヤツめ。
ジェイは両の刃を研ぎ終えて、柄を地面の石に、とんとん、と軽く叩いてかえりを落とした。そして鞄の中から布を取り出して、刃をきゅっきゅっと拭きだした。
「……ソレ、おまえは故郷を離れた事を悔いていたな。オークに殺された母親の敵討ちの機会を失ってしまった、父親の期待を裏切ってしまい、会わせる顔がない、と」
「……それは今でも思ってるよ。キョウには、『軍人が嫌で逃げ出した玉無し野郎』だとか言われるしな。散々だよ」
「……他人がおまえの事をどう思っているかなど、どうでもいい事だ。後悔の無い生き方などない。その時は正しいと思って決断したはずだ。……そして、これだけは言える。ソレ、おまえは全てを捨てたわけでも、失ったわけでもない。おまえの傍らにはいつもアイがいる。だから、絶対にアイだけは守り抜け。二度と大事なものを失わないためにな」
ジェイは言い終えると同時に、磨き上げたなまくらを空へと掲げた。生憎の天気に、剣に当たった光が鈍くぼやっと浮いた。
「ああ、そうだな……。俺はまだ失っちゃいないよな」
いつだったかジェイは言っていた。『失ったものを取り戻すのはとても困難だ』と。それはきっとジェイの故郷である、今はオークに奪われたラヴォール村を想っての事だったんだろう。ジェイは、自身が絵画や彫刻の骨董品を収集するのも、心に隙間を感じるせいだ、と言っていた。――いつか、失ったものを取り戻せたらいいな。ジェイ、その時は一緒に……。
ふとアイを見ると、顔を赤くして、ぽーっと中空を見つめていた。……どこにトリップしてるんだこいつは。
ささやかな食事の後、俺達はジェイの立てた予定通りの訓練に励んだ。『魔力との親和性が低いエルヴァーンは、武術で他を圧倒するしかない』、全くジェイの言う通りだ。……最悪の事態は起こりえるかもしれない。もしパンナが暴走を続けるなら、俺のやれる限り止めなきゃいけないんだ。パンナの旧友であるキョウ、ましてや幼馴染であるパーパには荷が重い。
それに、……パンナは強い。正面切って剣を交えてたんじゃ、十中八九勝てない。けど、付け焼刃でもクロスボウの扱いを習得すればなんとかなるかもしれない。片手剣以外の武器を扱えるという選択肢、これだけの事が生死を分ける時が来るのかもな。
ジェイが、矢の射られた的を確認する。
「……上出来だ、ソレ。おまえはやれば出来るんだ。これからも訓練を怠るな。……おまえの弱点は射撃そのものより、矢の装填速度だ。精進しろ」
「いや……、これ……これは、かなり……きついな」上出来だ、を訓練終了の合図と捉え、尻餅をついて地面へとへたりこんだ。
クロスボウの『つる』を引く作業は、ひどく腕の力を使う。射撃の腕は自分でも驚く程めきめき上達したが、矢の装填速度だけはどうにもならない。……というか、ジェイが人間離れしてるだけだろ、これは。
「……帰ろう」ジェイはくるりと背を向けると、ジュノへ向かって歩き出した。
まだ四時を回った頃だろうが、既に日は落ち始めていた。ジェイの足元からは大きな影が伸びていた。
――パーパの言っていた事を信じるなら、あんたも新型麻薬に特別な関わりがあるのか? 何も話してはくれないけど、俺はあんたが裏切るような事をしているなんて思ってない。……信じるからな。裏付けなんて一切必要じゃない、今まで通りジェイを信じてるからな。
「どうしたのソレ? ぼーっとしちゃってぇ。疲れた?」アイが横から顔を覗き込んできた。
いや別に、と少し顔を背ける。もしかしたら、自分が想像してないような表情をしてるかもしれない、そう思ったら恥ずかしかった。
「大丈夫。もう歩けるから」
よっ、と言って立ち上がると、急にガタがきたみたいに体が重かった。
帰り支度をするために、荷物を置いた石の腰掛け辺りを見ると、無骨な作りのなまくらが二本とも忘れられたままになっていた。
ジェイのヤツ、持ってきた訓練用の剣を忘れてるじゃねぇか。こっちはもう腕の力が限界だっていうのに、……ったく。
「アイ、一本持てるか?」
「うんっ! 大丈夫だよっ!」
ずしりと重いなまくらを持つ――っと! 予想以上に力が入らず手から滑り落ちていった。――スコッ。……スコッ? 親指にひんやりとした硬い物が触れる。足元を見ると、なまくらのはずだった剣がブーツのつま先に垂直に突き刺さっていた。
……ジェイ、研ぎ過ぎだ。
ジュノ上層に着いても、先に帰ったジェイの姿はどこにも見当たらなかった。門で待っていてくれると思っていたけど、きっともう自室に戻って収集品をしげしげと眺めて愛でているに違いない。
帰り道の間、ずっとお腹が痛かった。寒さにやられて体調でも崩したかと思ったけど、あれだけやったんだ、お腹も空くよな。
「アイ、詰め所に戻った後、どこかで飯でも食べないか? 希望があれば聞くぞ」
「そうだねぇ……」アイは、上目遣いで少し考えて、「どうせパスタが食べたいんでしょっ?」と、にやりと顔を歪ませた。
「ま、まぁ、俺の希望はそうだな。でも、今日は希望を聞くぞ? 言ってみろよ」
「ソレが好きなものでいいよ! わたしもパスタ大好きだしっ」
「そうか。じゃあ、いつものハチミツ酒亭でいいか」
「うん! ――あっ、待ってて! 今日は家で食べる予定だったから、ミクさんに言って夕飯断ってくるね!」
ほら、と手を差し出して、預けていた訓練用の剣を受け取った。
ミクロロもジュノへ来てもう五年だ。あの頃はミクロロ自身、サンドリアを離れる事になるなんて思ってもなかったろうな。侯爵家に代々住み込みで仕えるタルタルの使用人一家の娘が、わがままなお嬢様に付き合わされてジュノへ。運命の奔流に流された娘の物語。だが、この物語は後日語る事とするか、……なんてな。
今日の休みが終われば、明日からまた捜査が始まる。だから、今日いっぱいは羽を伸ばしてやろう。打ち上げの日の埋め合わせだ、アイ、付き合ってもらうからな。
そんな事を考えながらセイント詰め所の扉を開けると、どこからか戻ってきたティルとキョウが話していた。
入ってきた俺に気付くと、ティルが鋭く視線を向けてきた。そして再びキョウに視線を戻した。俺はティルの視線に釘付けされて玄関に立ちつくしていた。
「でも……」
「うろたえるんじゃないよ! あたしははなっからぶれちゃいないよ。いいからあんたは指示通りに動きな。分かったね?」
「……分かッた」
二人の会話はキョウが無理矢理納得させられた形で終わり、キョウが玄関扉へ向かってきた。
「ソレ……、あの件は忘れてくれ」
キョウは俺に目も合わせず言って出て行った。
帽子掛けにマフラーを掛けて、なんとなくティルの方を見ないように奥の物置部屋に行こうと足を向けた。
ちょいとお待ち、と呼び止められる。その声に思わず目をぎゅっと瞑った。
「こっちへきな」
無言で団長の机の前に行くと、椅子に座ったティルが俺をじっと見つめてきた。
「あんた、あたしに言うべき事があるんじゃないかい?」
「あ、ああ、おかえり。本当、団長ってのは忙しいもんだな」
依然、ティルは黙ったままだ。その言外にたまらず言葉を継いだ。
「いや……、今日は休みらしくて。だから、ほら」と、訓練用の剣を見せた。「ジェイと訓練を……」
ティルは、はぁ、とため息を漏らすと腕を組んだ。
「キョウシロウから聞いたよ。あんた今、パンナに探りを入れてるらしいじゃないか?」
「そ、それは……、あいつがあまりにも変人だから、逆に『俺はこんなにもまともなんだっ!』って思える材料を探してるだけだよ」
「無駄だからやめておきな」
ティルの射るような視線に耐え切れず目を逸らした。
「……時間のある時にやるだけだ。それは俺の自由だろ?」
「呆れたねぇ。あたしの前で、あんたの旧友の身辺を洗います、なんて宣言をするとはね」
ティルはゆっくり立ち上がると、玄関へ歩いていった。
「ティルはどこに行ってたんだ?」ティルの背中を追って言った。
「バストゥークへ、ね」
ティルは立ち止まって、振り返らずに言った。
「バストゥーク……、ゾッド達が今そっちで仕事してるんだよな?」
「そう。まかせた仕事の中間報告を受け取りにね」
「どうしてわざわざティルが? ……そんなに急ぎの仕事なのか? 合同捜査なんて大きな依頼をほっぽりだしてまでやるほどの?」
「まあね」ティルが短く答えた。
「依頼主は?」
「まぁたあんたは賄賂だなんだって――」
「はぐらかさないで答えてくれよ!」
つい大きな声を出して問い詰めた後、ティルは振り返り、首を少し傾けて顔に笑顔を映していた。そして、ゆっくりと腕を組んだ。……本気で怒ってる時の態度だ。
「あんた何様のつもりなんだい、えっ? あたしがあんたにそれを報告する義務があると思ってるのかい?」
じっくりと、部下に分別を分からせようとする時の口ぶりだ。
「ないよ。……なら、俺が個人的な理由でパンナを調べるのも自由だよな?」
ティルは頭を抱え、はぁ、とため息を漏らした。そして、人差し指を立てて口を開いた。
「あんたに一つ忠告しておくよ。……この合同捜査は、新型麻薬が看過出来ない事態を引き起こしているから始まったんだ。あの薬、ネオモスタミンは麻薬取締局で培われた技術で造られているんだ。どういう意味だか分かるかい?」言い終えると再び腕を組んだ。
「えっ?」
「呆けた顔をしてるんじゃないよ。……麻薬取締局の内部には間者なんて小物じゃなく、青い歯車の首謀者が潜んでいるかもね。……とにかく、あんたにパンナは止められないよ」
「それってどういう――」
「あたしは今から行かなきゃいけないところがあるんだ。……この件はあんたに任せてあるんだから、しっかりやんな」
ティルはくるりと向きを変えて、背中ごしに手をひらひらして詰め所を出て行った。びゅう、と強い風が吹いて扉が大きな音を立てて閉まった。
――俺は、ティルがこの合同捜査から完全に外れているものだと思っていたけど、……そうじゃない。ティルがあれだけの大胆な推測を立てているんだ。何か情報を掴んでいるはずだ。……でも、ティルはその情報をどこで? 仮にゾッド達から情報を得ていたとしても、ゾッド達をバストゥークに派遣したのは十一月二十一日、俺のチームがゴブリン盗賊団を退治した日だ。となると、合同捜査の開始前から青い歯車の情報を知っていたみたいじゃないか。
まさか、セイントは青い歯車の企みに力を貸しているのか? セイントが青い歯車のスパイそのもの。いや、そんなまさか。
悔しいけど、パーパの言っていた事はやはり間違いじゃなかった。パーパは『セイントの方たちは異質』、と言っていた。そして傭兵として以上に関わりがある事も否定しなかった。セイントは麻薬取締局との合同捜査ではなく、別の切り口から捜査をしているのか……、なぜ? いや、パンナの過去を知っているからこそティル達もパンナを止めようと?
――だめだ! 情報が不足したまま考えていても疑心暗鬼になるだけだ。パーパの言うとおり、俺は先入観を捨てて挑まなければならない。――でも、俺にできるだろうか。
ランプの薄明かりが、アイの横顔を優しく照らしている。アイはいつも以上に落ち着きが無くそわそわと店内を見回していた。俺達が座ったのは、ハチミツ酒亭でも三つしかない窓際の二人掛けのテーブルだ。窓から見える通りは普段はジュノで一番賑わっているというのに、季節のせいで今は人もまばらに歩いていた。空からは雲に隠れた小さな月が、柔らかな影を通りに落としていた。
「ね、ねぇソレ。どうしてこの席なの?」
「どうしてって……、一人で飲む時は店の奥だけど、せっかくおまえと来てるんだ。たまには、な」
「そ、そぉなんだ」
「なんだよ? 二人で飯を食べる事なんて、そう珍しいことじゃないだろ」
「う、うん。……でも、なんだか今日のソレは顔が怖いよ」
そうだろうな。誰に頼る事も出来ない現状じゃ、正直先が思いやられる。
ウェイトレスがテーブルに注文を聞きに来た。
「これとこれを頼む」
「はい、かしこまりました。それとお客様、このテーブルではお花のサービスも提供しておりますが、いかがされますか?」
そう言われても花なんてなぁ。こいつなら植物に詳しいはずだ、と、アイに目配せをして助け舟を出したが、きょろきょろと店内を見回してばかりでこちらに気付きもしない。……まるで、御上りさんみたいじゃないか。
「じゃあ、カーネーションをもらえるか?」
「かしこまりました」ウェイトレスが、にこりと笑顔を見せて注文を届けに行った。
「カーネーション……」アイがぼそりと呟いた。
それくらいしかわからねぇよ。親父がいつも、これをお墓に手向けてこい、って渡してくれたのが白いカーネーションだったんだ。……もう、五年もお袋に挨拶してないんだな。
「なぁ、アイ。……今、俺が何を考えているか分かるか?」
「……えっ? えっ! えぇ?」
「いや、分かるわけないよな。すまん」
「だ、だってぇ……、そんな急に……」と、顔を真っ赤にしたアイは、ぶつぶつと何か言いながら俯いた。
そうだ。分かるわけない。人の気持ちや考えてる事が分かったら何も苦労する事なんてないんだ。それでも、俺は知りたい。ジュノに来て五年、退屈に感じていた人生に今だかつて無い事態。これが、ティルからの挑戦なら受けて立ってやる。それぞれの胸に抱えた秘密のカードを、俺が『おもて』にしてやる!
食事を終えて外に出ると、店の窓の向こうには恋人同士と思われる男女が席についていた。俺達が座っていたテーブルだ。他の二つのテーブルにも男女が座っている。こうやって外から見てみるといい雰囲気が漂っているな。まるで絵の中に描かれた、愛し合う二人だ。
「ねぇソレ……、あのテーブルはその……」
「ああ、ピンクのカーネーション、きれいだったな。……って、寒いな。早く帰ろうか」
顔を上気させて、寒さに震えるアイを見て歩き出した。
「ソレ、ピンクのカーネーションの花言葉を知ってるの?」
「いや、知らない。そういうのはアイの専門だろ? それで、花言葉は?」
アイは少し足早に俺の前を歩くと、あのね、と呟いた。
「『あなたを熱愛しています』、だよ!」と、大きな声で言い残して走っていった。
あなたを熱愛……、えっ?
「えっ? ええぇー!」
俺は立ち会った。恋人達のためのテーブル、怖い表情と謎の問いかけ、カーネーション、全く意図の違う一つ一つの事柄が、間違った線で結ばれた瞬間に。
明けて十一月二十五日。まだ日が天に昇り切らない頃、俺は上層区から工房橋を渡って、『バタリア丘陵』に来ていた。この季節らしく、空には大きな灰色の雲が重なっていた。辺りには、古戦場らしく今でも土塁跡がいくつも残っている。十数年前は、ここでアルタナ連合軍と獣人連合軍の会戦、『ジュノ攻防戦』が繰り広げられた。朽ちた砦、崩れた防壁、流れた血を吸って、よく肥えた土壌。激戦の爪あとをいくつも残すこの地だが、今となっては誰も剣を交えることはない、……そのはずだった。
なのに、どうしてこんな事になってしまったんだろう。――俺達は、寒風吹きすさぶ中で互いの剣を交えていた。
「……ソレ、そんなものか」
ジェイの振り下ろした剣を、寸でのところで防ぐ。剣と剣がぶつかり、金属音と共に激しく火花が散る。
これで何度目の打ちあいになる? ジェイの剣術はすさまじく、一切の無駄なく打ち込んでくる。俺の打つ手など、それら全てを必死で受け止める事だけだ。
「もうやめてぇ!」アイの叫び声が聞こえる。
「ジェイっ! どうしてこんな事を!」
問いかけに答える事なくジェイは打ちこんでくる。昨日パーパと別れてからやはり身が持たず、部屋に戻ってゆっくり過ごしたが、疲れが完全に癒えたとは言えない。このままじゃ負けは必至。しかし、いくら調子が悪いからと言っても、俺は片手剣一本でやってきたんだ。ジェイの剣に負ければ立つ瀬がない。
でも、……腕に力が入らない。息も絶え絶えで、こんなものを振り回してるどころじゃない。ふんっふんっと、ジェイの呼吸がやたら大きく聞こえる。俺の聴覚がこれでもかと働いているようだ。きっと、ろくに息も出来ないせいで視覚が頼りにならないからだろう。ここは一度距離を取って仕切り直しだ。
すうっ、と思い切り息を吸うが、空気が重量を持ったみたいにうまく入ってこない。肺に何かが引っかかってるような感覚も覚える。
俺は剣を前に構えたまま、筋肉の極度な緊張で震える足をなんとか制御し、ジェイを見据えつつ素早く後退した。そして、ジェイの動きを牽制するために胸の投げナイフに手をやった。
――うまくいくはずがなかったんだ。ジェイがそのわずかな隙でさえ逃すはずがなかった。ジェイは背中に背負ったクロスボウを即座に構え、俺の頭に狙いを定めた。
「……ソレ、終わりだ――」
ジェイが言い終わるか終わらないかの内に矢が放たれた。その矢を額に受けた俺は、ゆっくりと後ろに倒れこんだ。
「ソレぇっ!」アイが駆け寄ってくる。
「ジェイっ! どういう事なの? ソレは大怪我を負って、一昨日まで入院してたんだよっ!」なんでこんな事を……、と呟きながらアイが俺に覆いかぶさる。
息が……、できない。もう何も見えない。真っ暗な世界だ。……でも温かい――。
「――おもい」
「えっ?」
「……重いんだよっ! アイ、早くどけ!」
力を振り絞ってアイを払いのけた。アイが、きゃっ、と言って飛びのく。
はぁはぁと全身で息をしても呼吸が間に合わない。アイのせいであやうく窒息死するところだった。
俺は半身を起こしてジェイを見た。「なぁ……、何も……今訓練なんて……しなくてもいい……だろっ」息を切らしながら、額にぴったりと張り付く吸盤付きの矢を引き剥がして言った。
「そうだよっ! それに今日はすっごく寒いんだから、もう帰ろうよぉ」アイが、立てひざをついて言った。自分の体を抱えて縮こまり、ぶるぶると震えている。
「……だめだ。おまえは勝手に病院を抜け出していただろう。それ程の元気があるなら、この程度の訓練など問題ない」ジェイは表情は真剣そのものだ。
「ちょっ……、ちょっと待て! この程度っ……」息苦しさで言葉に詰まり、ごくっ、と生唾を飲む。「この程度っていうけどな! 俺とジェイじゃ力量差があり過ぎるだろっ! 勝手に病院を抜け出した事は謝る! せめて、休憩を……、休憩をさせてくれーっ!」
俺は病み上がりにだだ広い丘陵で、懇願と謝罪の意を込めて叫んだ。遠くまで響き渡る明瞭な叫び声だった。
料理の苦手なアイでも手軽に作れるおいしい食べ物がある。クァールという長い髭を持つ、巨大な猫のような魔物の肉をソテーしたものと、ミスラントマト、ラテーヌキャベツに、ゴブリン族伝統の涙が出るほど辛いマスタード。これらをサンドリア小麦粉を練って作る白パンに挟めば、はい、出来上がり。アイと外出する時の定番携帯食、『クァールサンド』だ。
毎度飽きもせずに作ってくるので、『そんなに好きなら』と、俺もセイントのみんなも何も言えないでいる。厳密に言えば、新しい料理に挑戦させた事はあるけど、今でもクァールサンドを作ってくるのがその結果を示している。
野外訓練場で、アイと一緒にあつらえ向きの石の腰掛けに座って談笑を楽しむ。ふんわりと柔らかな白パンとトマトの爽やかな酸味が、体に活力をみなぎらせていく。クァールの肉の濃厚な旨みがマスタードと絡みあって、獣特有の臭味を抑えつつ口の中にしゃりしゃりと広がる。――しゃりしゃり?
背後からしゃりしゃりと訓練用の剣を研ぐ音が聞こえてくる。……現実逃避には無理があった。東のシュ・メーヨ海から吹きつける冷たい風の中で、やはり冷たいクァールサンドを震えながら食べる。そんな姿を見せつけても、やる気になっているジェイは止められなかった。
俺はジェイの方へ振り向いて、手に持ったクァールサンドを差し出した。
「な、なぁジェイ。せめて食事中は……、一緒に食べないか? ほら、ジェイがそうやってると、こう……、食事を楽しめないというか、ますます背中がうすら寒いというか。なぁ、アイ?」
「う、うん。それに、今日はすごく冷えるし、もう帰った方がいいとおもうなぁ」アイがちらちらとジェイに視線を送る。
「……ふむ」
ジェイは、一理あるな、といった面持ちで鞄を開き、中からアイの顔ほどもある大きさの干し肉を取り出し、むしゃむしゃと食べ始めた。そして、一分も経たない内に平らげてしまった。
「……早く食べて、早く訓練を終わらせる」そう言ってしゃりしゃりと、また剣を研ぎ始めた。
なぁなぁジェイよ。なぁ、「というか……」
「……ん?」
ジェイが手を休めてこちらを見る。
「訓練用のなまくらをいくら研いでも意味ないだろ」
「……気分だ。問題ない」
いやいや、『刀は武士の魂だ。魂は常に磨くもの』ってハゲが言ってたけど、これはなんか違うだろ。
「……もう、投げナイフはやめろ。スコルニクスを追った時にもよく分かったはずだ。そんなものは子供のおもちゃだ。……役に立たん」
「えっ。いや、だって携帯性も抜群だし、距離が開きすぎるとどうにもならないけど、牽制くらいにはなるぞ」
正直、図星を突かれた。なんとなく自分でも分かってたんだよなぁ。……恰好をつけるためだけに投げナイフを使ってたなんて、恥ずかしくて今更言えない。
「……午後からは射撃訓練だ。今のうちにクロスボウを扱えるようになっておけ」
ジェイは言った事を絶対に曲げない。言ってる事は間違ってないし、この人の判断はいつも正しい。
「はぁ……、分かった分かった」俺はジェイの強硬な態度に早々お手上げをして、「でも、なんだってこんな急に? 合同捜査が一段落してからでもよくないか?」と、最後のクァールサンドを飲み込んで尋ねた。
横でアイが、うんうん、と頷いている。こいつは寒いから早く帰りたいだけだな。
ジェイは剣をひっくり返し、『かえり』を落としてから刃の反対側を研ぎ始め、
「……死んでもらっては困る」と、悲しむんだか迷惑になるからなのか分からない、相変わらず感情がこもらない声で答えた。
「ああぁ。……あの時は、運が悪かったんだ。なんせ、連射可能な新型の銃だぞ? こっちは見たことも聞いたこともないっていうのに。それにスコルニクスってヤツは、昔武器商をやってたとかでかなり特殊な例だと思うぞ」
「……運や特殊な例とやらで落とせるほど、おまえの命は安くないだろう」
「いや、まぁそうだけど……」
「……ソレ、おまえだけじゃない。そんな事でアイを守れるのか?」
アイが素早く俺に視線をやる。……なんだその目は。そんなに俺の実力が疑わしいか。
「……おまえがセイントに入って一年も経たない頃、おまえはスランプで仕事がうまくいかず、酒に酔って暴れた事があったな。覚えているか?」
「や、やめてくれよ。もう昔の話だろ? 時効だ! 時効!」
「あー! そんな事もあったねぇ!」アイが嬉しそうな顔をして話に入ってきた。
「おまえまで……」
「ふふんっ! あの時はわたしが介抱してあげたんだよっ!」と、立ち上がって腰に手をやったが、すぐに身震いをしてまた座り込んだ。
こいつは自分の専門分野の話になると、本当に得意げになるな。
「……俺は今でもあの時ソレが言った事を覚えている」ジェイが、刃先の研ぎ具合を確認しながら言った。
「俺、なんか言ってたか?」
うーんとね、と、指を組みながらアイが目を輝かせた。「『アイっ! 俺が立派になったら結婚してくれっ!』って言ってた気がするっ!」
「それは絶対に無い」
「絶対ってなに! 絶対ってぇ! もう、知らない! ふんっ!」
アイは俺の一言がよほど気に入らなかったのか、口を尖らせ、頬を膨らませて怒りだした。
「……アイ、今のはソレなりの照れ隠しだ。この前の打ち上げだって、アイと――」
「わー! ちょっ、ちょっと待て! そ、それより俺が酔った時に言った事ってなんだよ?」
アイはきょとんとした表情で、俺とジェイを交互に見て首を傾げている。危うく俺の考えが明るみになるところだったぞ、ジェイのヤツめ。
ジェイは両の刃を研ぎ終えて、柄を地面の石に、とんとん、と軽く叩いてかえりを落とした。そして鞄の中から布を取り出して、刃をきゅっきゅっと拭きだした。
「……ソレ、おまえは故郷を離れた事を悔いていたな。オークに殺された母親の敵討ちの機会を失ってしまった、父親の期待を裏切ってしまい、会わせる顔がない、と」
「……それは今でも思ってるよ。キョウには、『軍人が嫌で逃げ出した玉無し野郎』だとか言われるしな。散々だよ」
「……他人がおまえの事をどう思っているかなど、どうでもいい事だ。後悔の無い生き方などない。その時は正しいと思って決断したはずだ。……そして、これだけは言える。ソレ、おまえは全てを捨てたわけでも、失ったわけでもない。おまえの傍らにはいつもアイがいる。だから、絶対にアイだけは守り抜け。二度と大事なものを失わないためにな」
ジェイは言い終えると同時に、磨き上げたなまくらを空へと掲げた。生憎の天気に、剣に当たった光が鈍くぼやっと浮いた。
「ああ、そうだな……。俺はまだ失っちゃいないよな」
いつだったかジェイは言っていた。『失ったものを取り戻すのはとても困難だ』と。それはきっとジェイの故郷である、今はオークに奪われたラヴォール村を想っての事だったんだろう。ジェイは、自身が絵画や彫刻の骨董品を収集するのも、心に隙間を感じるせいだ、と言っていた。――いつか、失ったものを取り戻せたらいいな。ジェイ、その時は一緒に……。
ふとアイを見ると、顔を赤くして、ぽーっと中空を見つめていた。……どこにトリップしてるんだこいつは。
ささやかな食事の後、俺達はジェイの立てた予定通りの訓練に励んだ。『魔力との親和性が低いエルヴァーンは、武術で他を圧倒するしかない』、全くジェイの言う通りだ。……最悪の事態は起こりえるかもしれない。もしパンナが暴走を続けるなら、俺のやれる限り止めなきゃいけないんだ。パンナの旧友であるキョウ、ましてや幼馴染であるパーパには荷が重い。
それに、……パンナは強い。正面切って剣を交えてたんじゃ、十中八九勝てない。けど、付け焼刃でもクロスボウの扱いを習得すればなんとかなるかもしれない。片手剣以外の武器を扱えるという選択肢、これだけの事が生死を分ける時が来るのかもな。
ジェイが、矢の射られた的を確認する。
「……上出来だ、ソレ。おまえはやれば出来るんだ。これからも訓練を怠るな。……おまえの弱点は射撃そのものより、矢の装填速度だ。精進しろ」
「いや……、これ……これは、かなり……きついな」上出来だ、を訓練終了の合図と捉え、尻餅をついて地面へとへたりこんだ。
クロスボウの『つる』を引く作業は、ひどく腕の力を使う。射撃の腕は自分でも驚く程めきめき上達したが、矢の装填速度だけはどうにもならない。……というか、ジェイが人間離れしてるだけだろ、これは。
「……帰ろう」ジェイはくるりと背を向けると、ジュノへ向かって歩き出した。
まだ四時を回った頃だろうが、既に日は落ち始めていた。ジェイの足元からは大きな影が伸びていた。
――パーパの言っていた事を信じるなら、あんたも新型麻薬に特別な関わりがあるのか? 何も話してはくれないけど、俺はあんたが裏切るような事をしているなんて思ってない。……信じるからな。裏付けなんて一切必要じゃない、今まで通りジェイを信じてるからな。
「どうしたのソレ? ぼーっとしちゃってぇ。疲れた?」アイが横から顔を覗き込んできた。
いや別に、と少し顔を背ける。もしかしたら、自分が想像してないような表情をしてるかもしれない、そう思ったら恥ずかしかった。
「大丈夫。もう歩けるから」
よっ、と言って立ち上がると、急にガタがきたみたいに体が重かった。
帰り支度をするために、荷物を置いた石の腰掛け辺りを見ると、無骨な作りのなまくらが二本とも忘れられたままになっていた。
ジェイのヤツ、持ってきた訓練用の剣を忘れてるじゃねぇか。こっちはもう腕の力が限界だっていうのに、……ったく。
「アイ、一本持てるか?」
「うんっ! 大丈夫だよっ!」
ずしりと重いなまくらを持つ――っと! 予想以上に力が入らず手から滑り落ちていった。――スコッ。……スコッ? 親指にひんやりとした硬い物が触れる。足元を見ると、なまくらのはずだった剣がブーツのつま先に垂直に突き刺さっていた。
……ジェイ、研ぎ過ぎだ。
ジュノ上層に着いても、先に帰ったジェイの姿はどこにも見当たらなかった。門で待っていてくれると思っていたけど、きっともう自室に戻って収集品をしげしげと眺めて愛でているに違いない。
帰り道の間、ずっとお腹が痛かった。寒さにやられて体調でも崩したかと思ったけど、あれだけやったんだ、お腹も空くよな。
「アイ、詰め所に戻った後、どこかで飯でも食べないか? 希望があれば聞くぞ」
「そうだねぇ……」アイは、上目遣いで少し考えて、「どうせパスタが食べたいんでしょっ?」と、にやりと顔を歪ませた。
「ま、まぁ、俺の希望はそうだな。でも、今日は希望を聞くぞ? 言ってみろよ」
「ソレが好きなものでいいよ! わたしもパスタ大好きだしっ」
「そうか。じゃあ、いつものハチミツ酒亭でいいか」
「うん! ――あっ、待ってて! 今日は家で食べる予定だったから、ミクさんに言って夕飯断ってくるね!」
ほら、と手を差し出して、預けていた訓練用の剣を受け取った。
ミクロロもジュノへ来てもう五年だ。あの頃はミクロロ自身、サンドリアを離れる事になるなんて思ってもなかったろうな。侯爵家に代々住み込みで仕えるタルタルの使用人一家の娘が、わがままなお嬢様に付き合わされてジュノへ。運命の奔流に流された娘の物語。だが、この物語は後日語る事とするか、……なんてな。
今日の休みが終われば、明日からまた捜査が始まる。だから、今日いっぱいは羽を伸ばしてやろう。打ち上げの日の埋め合わせだ、アイ、付き合ってもらうからな。
そんな事を考えながらセイント詰め所の扉を開けると、どこからか戻ってきたティルとキョウが話していた。
入ってきた俺に気付くと、ティルが鋭く視線を向けてきた。そして再びキョウに視線を戻した。俺はティルの視線に釘付けされて玄関に立ちつくしていた。
「でも……」
「うろたえるんじゃないよ! あたしははなっからぶれちゃいないよ。いいからあんたは指示通りに動きな。分かったね?」
「……分かッた」
二人の会話はキョウが無理矢理納得させられた形で終わり、キョウが玄関扉へ向かってきた。
「ソレ……、あの件は忘れてくれ」
キョウは俺に目も合わせず言って出て行った。
帽子掛けにマフラーを掛けて、なんとなくティルの方を見ないように奥の物置部屋に行こうと足を向けた。
ちょいとお待ち、と呼び止められる。その声に思わず目をぎゅっと瞑った。
「こっちへきな」
無言で団長の机の前に行くと、椅子に座ったティルが俺をじっと見つめてきた。
「あんた、あたしに言うべき事があるんじゃないかい?」
「あ、ああ、おかえり。本当、団長ってのは忙しいもんだな」
依然、ティルは黙ったままだ。その言外にたまらず言葉を継いだ。
「いや……、今日は休みらしくて。だから、ほら」と、訓練用の剣を見せた。「ジェイと訓練を……」
ティルは、はぁ、とため息を漏らすと腕を組んだ。
「キョウシロウから聞いたよ。あんた今、パンナに探りを入れてるらしいじゃないか?」
「そ、それは……、あいつがあまりにも変人だから、逆に『俺はこんなにもまともなんだっ!』って思える材料を探してるだけだよ」
「無駄だからやめておきな」
ティルの射るような視線に耐え切れず目を逸らした。
「……時間のある時にやるだけだ。それは俺の自由だろ?」
「呆れたねぇ。あたしの前で、あんたの旧友の身辺を洗います、なんて宣言をするとはね」
ティルはゆっくり立ち上がると、玄関へ歩いていった。
「ティルはどこに行ってたんだ?」ティルの背中を追って言った。
「バストゥークへ、ね」
ティルは立ち止まって、振り返らずに言った。
「バストゥーク……、ゾッド達が今そっちで仕事してるんだよな?」
「そう。まかせた仕事の中間報告を受け取りにね」
「どうしてわざわざティルが? ……そんなに急ぎの仕事なのか? 合同捜査なんて大きな依頼をほっぽりだしてまでやるほどの?」
「まあね」ティルが短く答えた。
「依頼主は?」
「まぁたあんたは賄賂だなんだって――」
「はぐらかさないで答えてくれよ!」
つい大きな声を出して問い詰めた後、ティルは振り返り、首を少し傾けて顔に笑顔を映していた。そして、ゆっくりと腕を組んだ。……本気で怒ってる時の態度だ。
「あんた何様のつもりなんだい、えっ? あたしがあんたにそれを報告する義務があると思ってるのかい?」
じっくりと、部下に分別を分からせようとする時の口ぶりだ。
「ないよ。……なら、俺が個人的な理由でパンナを調べるのも自由だよな?」
ティルは頭を抱え、はぁ、とため息を漏らした。そして、人差し指を立てて口を開いた。
「あんたに一つ忠告しておくよ。……この合同捜査は、新型麻薬が看過出来ない事態を引き起こしているから始まったんだ。あの薬、ネオモスタミンは麻薬取締局で培われた技術で造られているんだ。どういう意味だか分かるかい?」言い終えると再び腕を組んだ。
「えっ?」
「呆けた顔をしてるんじゃないよ。……麻薬取締局の内部には間者なんて小物じゃなく、青い歯車の首謀者が潜んでいるかもね。……とにかく、あんたにパンナは止められないよ」
「それってどういう――」
「あたしは今から行かなきゃいけないところがあるんだ。……この件はあんたに任せてあるんだから、しっかりやんな」
ティルはくるりと向きを変えて、背中ごしに手をひらひらして詰め所を出て行った。びゅう、と強い風が吹いて扉が大きな音を立てて閉まった。
――俺は、ティルがこの合同捜査から完全に外れているものだと思っていたけど、……そうじゃない。ティルがあれだけの大胆な推測を立てているんだ。何か情報を掴んでいるはずだ。……でも、ティルはその情報をどこで? 仮にゾッド達から情報を得ていたとしても、ゾッド達をバストゥークに派遣したのは十一月二十一日、俺のチームがゴブリン盗賊団を退治した日だ。となると、合同捜査の開始前から青い歯車の情報を知っていたみたいじゃないか。
まさか、セイントは青い歯車の企みに力を貸しているのか? セイントが青い歯車のスパイそのもの。いや、そんなまさか。
悔しいけど、パーパの言っていた事はやはり間違いじゃなかった。パーパは『セイントの方たちは異質』、と言っていた。そして傭兵として以上に関わりがある事も否定しなかった。セイントは麻薬取締局との合同捜査ではなく、別の切り口から捜査をしているのか……、なぜ? いや、パンナの過去を知っているからこそティル達もパンナを止めようと?
――だめだ! 情報が不足したまま考えていても疑心暗鬼になるだけだ。パーパの言うとおり、俺は先入観を捨てて挑まなければならない。――でも、俺にできるだろうか。
ランプの薄明かりが、アイの横顔を優しく照らしている。アイはいつも以上に落ち着きが無くそわそわと店内を見回していた。俺達が座ったのは、ハチミツ酒亭でも三つしかない窓際の二人掛けのテーブルだ。窓から見える通りは普段はジュノで一番賑わっているというのに、季節のせいで今は人もまばらに歩いていた。空からは雲に隠れた小さな月が、柔らかな影を通りに落としていた。
「ね、ねぇソレ。どうしてこの席なの?」
「どうしてって……、一人で飲む時は店の奥だけど、せっかくおまえと来てるんだ。たまには、な」
「そ、そぉなんだ」
「なんだよ? 二人で飯を食べる事なんて、そう珍しいことじゃないだろ」
「う、うん。……でも、なんだか今日のソレは顔が怖いよ」
そうだろうな。誰に頼る事も出来ない現状じゃ、正直先が思いやられる。
ウェイトレスがテーブルに注文を聞きに来た。
「これとこれを頼む」
「はい、かしこまりました。それとお客様、このテーブルではお花のサービスも提供しておりますが、いかがされますか?」
そう言われても花なんてなぁ。こいつなら植物に詳しいはずだ、と、アイに目配せをして助け舟を出したが、きょろきょろと店内を見回してばかりでこちらに気付きもしない。……まるで、御上りさんみたいじゃないか。
「じゃあ、カーネーションをもらえるか?」
「かしこまりました」ウェイトレスが、にこりと笑顔を見せて注文を届けに行った。
「カーネーション……」アイがぼそりと呟いた。
それくらいしかわからねぇよ。親父がいつも、これをお墓に手向けてこい、って渡してくれたのが白いカーネーションだったんだ。……もう、五年もお袋に挨拶してないんだな。
「なぁ、アイ。……今、俺が何を考えているか分かるか?」
「……えっ? えっ! えぇ?」
「いや、分かるわけないよな。すまん」
「だ、だってぇ……、そんな急に……」と、顔を真っ赤にしたアイは、ぶつぶつと何か言いながら俯いた。
そうだ。分かるわけない。人の気持ちや考えてる事が分かったら何も苦労する事なんてないんだ。それでも、俺は知りたい。ジュノに来て五年、退屈に感じていた人生に今だかつて無い事態。これが、ティルからの挑戦なら受けて立ってやる。それぞれの胸に抱えた秘密のカードを、俺が『おもて』にしてやる!
食事を終えて外に出ると、店の窓の向こうには恋人同士と思われる男女が席についていた。俺達が座っていたテーブルだ。他の二つのテーブルにも男女が座っている。こうやって外から見てみるといい雰囲気が漂っているな。まるで絵の中に描かれた、愛し合う二人だ。
「ねぇソレ……、あのテーブルはその……」
「ああ、ピンクのカーネーション、きれいだったな。……って、寒いな。早く帰ろうか」
顔を上気させて、寒さに震えるアイを見て歩き出した。
「ソレ、ピンクのカーネーションの花言葉を知ってるの?」
「いや、知らない。そういうのはアイの専門だろ? それで、花言葉は?」
アイは少し足早に俺の前を歩くと、あのね、と呟いた。
「『あなたを熱愛しています』、だよ!」と、大きな声で言い残して走っていった。
あなたを熱愛……、えっ?
「えっ? ええぇー!」
俺は立ち会った。恋人達のためのテーブル、怖い表情と謎の問いかけ、カーネーション、全く意図の違う一つ一つの事柄が、間違った線で結ばれた瞬間に。