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疑心と不安のカウンセリング

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2 疑心と不安のカウンセリング 




 僕の彼女の名前は庵という。
 明智庵。明智竜とちょっと似ているがだいぶ違う。
 愛しい、愛しい僕の彼女。
愛して病まない僕の彼女。
 僕の名前は綾川数久という。
 高校では生徒会長なんてのをやっている唯の高校生だ。
 そんな高校生が、もう大学院に入ろうかと言う女性と付き合っている。周りからしてみればちょっとしたミステリーだろう。でも、現実にはミステリーなんていうのは存在しない。知らないからこそ不思議なのであり、知ってしまえば自明のことなのである。
 そんな僕と彼女の出会いは、二年前のことだった。僕が高校一年生のときに彼女は大学生二年で、季節は夏に差し掛かる前の梅雨の時期、そういえば今と同じくらいの頃合だ。
 高校一年生だった僕は、少し学校にも慣れてきたのか新しいことを始めてみたかった。もちろん、部活はやっていた。
ウチの学校は必ず部活に入らなければならなかったから、適当に入った部活ではあるのだが、それでも一応にやる気を出して頑張っていたといっていい。ちなみに、文芸部で彼女も元々文芸部だったそうだ、運命感じちゃうよねこういうのは。
 まあ、部活の事は彼女にとって関係のある話ではない。
 ともかく僕は部活とは違う新しいことを始めてみたかったのだ。しかし、新しいことを始めるにしたって、何か活発的なことはしたいわけではなかった。
 どちらかというと習慣を身に着けたかった、朝は必ずベーコンエッグ。というような感じに。
 なんだか今考えると酷く滑稽な事だ。
『うら若き思考は、時に常人の理解に及ばない行動を起こすことがある』
鍵括弧で括って見るとまるで偉い人が言った言葉のように思えるが今のは自分で創作した言葉だ。
……まあ、ともかく自分でさえも理解に及ばない思考は一つの病理であるといっても過言ではない。いわゆる、高二病というやつだ。
 高校生活というものから一つはなれて、自分自身を浮き立たせたかった僕は、学校で授業を受けている合間に習慣の事を考える。色々な案が頭をめぐった。たとえば日記をつけること。例えば、ランニングをすること。例えば、煙草に走ること。などだ。
 一つ目の日記に関しては、地味だと言うことですぐに却下になった。二つ目のランニングは意外に優秀な案ではあったのだが、500メートルをゆっくりとも走れない自分の体力のなさを思い出し断念。三つ目は言語道断。そんなことをしていたら、昔はともかくとして、今生徒会長なんて勤めてはいない。
 不真面目ではあるが真面目に考えた結果白羽の矢が立ったのは、ハードボイルドなイメージを持つ『珈琲』そして『読書』だった。
珈琲や読書と言うのはインドアの憧れと言っても過言ではない。まあ、そこに煙草が含まれたりしたら何もいうことなく、私立探偵のイメージが強いのだけれど。それでも、江戸川乱歩や坂口安吾などのミステリー小説家が(まあ、屈折しているチョイスではあるが)好きだった僕は探偵役というもの憧れていたのだ。
知的なイメージ、沸いてくる、沸いている思考。ロールプレイングに陶酔するマニアならまだしも、外堀を埋めるのみで中身も知識も伴わない行動は痛々しいくて目も当てられない。
 さて、そんな痛々しい僕はそれでも持ち前の行動力と若さを目いっぱいに振りまき何も考えず『読書』『珈琲』のコンボを実践した。
しかし、やって見るとわかるが此れが意外と難しい。
 まずはロケーション、陰湿すぎず、オープン過ぎない店内が理想。コーヒーカップや店員の上品さ、静けさ、品のいい音楽。どの点も妥協はできない、何故意固地であるかといえば、今の僕はこう答える。若さは意固地であるからだ。と。
 意固地であるから、難航するかに思われた店の選択は意外にもすんなりと決まった。
というかぶっちゃけ、この習慣を思いついたのは道すがらにその店があったから、なのだからすんなり決まって当然だ。そして難しいといった問題はそこではない。
 何が難しいって、金銭面のことである。
 月の小遣いが五千円と決まっていた僕は、とりあえず、週一の喫茶店通いを始めようと躍起になっており、勢いに任せて第一週目の習慣を始める。カラリと気持ちのいい鈴をならす店内、挽かれたコーヒーの甘い香り、何もかもが理想の一致を見せている。優越感に浸りながら本を読みふけるためのコーヒーを選ぶためにメニューを見る。
そして噴き出す。
 コーヒーが、高い。
 何が高いって、一番安い値段でさえ550円という値段である。
あれ、スターバックスって高い店じゃなかったんだ、なんて僕は高校一年生になって始めて知る。冷や汗を流し、財布の中を眺める僕は、ウェイトレスさんを呼びつけて550円のコーヒーを一つ持ってくるように頼む。若干噛んだのは覚えている。
 背の高い、長い髪をしたウェイトレスは、凛とした面持ちで僕のオーダーを聞いてくれた。うん、初体験は今でも忘れられない事である。
 しかし、今となってはいい思い出だが、その当時の僕はあまりの衝撃に本なんて流し読みもいいところで、ましてや上品に挽かれた香ばしい珈琲の味なんて味わう余裕もなかった。
当然流し読みだから、本の内容なんて頭に入ってこない。
代わりに頭の中で巡っていたのは週一で掛かる550円の重圧の事。
更に言えば、古本という概念さえも知らなかった僕は、喫茶店に持ってくる真新しい本のことも金銭に考えなければならなかった。本が安くても500円以上つまり、週一で掛かる1050円余りのことである。
 読んでもいない本のページを、嫌に早々と捲りながら本を二週に分けて読むという妥協案を思いつき、晴れやかな気分に身を任せて僕はその場を後にする。
今考えると、習慣初日にやったことと言えば金勘定のみだ、目的を失っている事に気が付いていない。
この日は晴れやかな気分で帰っていった僕だが、日常に戻ってみるとまた更にお金の重圧が圧し掛かってくる。
それは高校生活の友達づきあいのことだ。
 高校生ともなると友達を作るためにある程度の散財をしなければ、普通の人間として取り扱ってはくれない。例えば普段の洋服、アクセサリー、携帯の機種。などである。付き合うグループによってはそこから音楽、パソコン周辺機器、ゲームソフトと幅も聞かせなければならない。となると、月五千円では、どうにもならないのだ。どこにも週一のコーヒー代550円を払う余裕が出てこない。
 しかしまあ、そんなことも僕はどうにか妥協案をひねり出して二週目をクリアし、半ば満身創痍の三週目を迎えたあたりでついに一つのミスを犯してしまう。
 財布の中に入っていた金額が、550円に届かなかったのだ。
 三週目に此処に来られたという達成感からか、会計に憮然と立っていた僕だったのだが。その事実を認識した瞬間に肩を狭めて小さくなり、小刻みに震えながら無表情のウェイトレスに謝る。目の前のウェイトレスの表情は見えない、それよりも僕の頭の中ではまるでリングエンドの鐘がなるみたいに、甲高い音が鳴り響いていた。
世界の終わりを感じた瞬間である。今思い出しても、恥ずかしくて堪らない。
何故、自分はこんな事に意固地になっていたのだろうと、当然ながら反省をした。恥ずかしすぎて、僕はその場で泣き始めていた。恥ずかしいから泣きたくないのに、なんだか子供だと思った。とことんまで自分は子供なのだと認識せざるを得なかった。
 終末思想が脳内で革命を起こしている最中、人のいない店内に笑い声が上がる。
「あのさあ、キミ高校生だよね?」
 笑っていたのは目の前のウェイトレス。無表情だったあの顔が今はない、凛とした雰囲気さえ払拭して、彼女は僕を大笑いし僕に話しかける。
「なんっていうか、あは、馬鹿っていうか、可愛いって言うか。悲惨だねえ、キミもさ」
「すいません」
 馬鹿にされていると、思った僕は更に顔を赤らめて頭を下げる。
 頭の上から、くぐもった声が聞こえる。どうやら、笑うのは失礼だと思ったらしい。
「ていうか、アレだね高校生になって格好付けたくてこんな所きたんでしょう? 気持ちはわかるけどさ、もうちょっと頭と観察力をつけようよ」
 そういう彼女の姿を見ると、ある一点に指が指されていた。
 それは、ガラス窓に貼り付けてある『アルバイト募集』の文字。
 あ、と声を上げると彼女は僕に笑いかける。
「私はキミみたいな子、好きだな。男手足りないし一緒に働きたいと思うんだけれど、どうかな?」
 で、まあ、僕は恋に落ちるわけです。
 今考えるとつり橋効果のような出会いであることは確かで、というかどちらかというと精神病患者が心療内科の先生を神様女神様のように思ってしまうのと同じ感じに僕は彼女の事を奉ってしまうのだけれど。
 そんで、判ると思うけれどこのときのウェイトレスってのが当時アルバイトをしていた明智庵、つまり僕の彼女なのである。
 僕の可愛い彼女、明智庵は表情を崩しにくい。初めて会ったときから変わらず、彼女は僕以外の人間にあまり感情を詳らかにはしない。
 もちろん、例外は存在する。それは彼女の妹の事に関してだ。
 さて、自己紹介なんていうのはこのくらいでいいだろう。
 とりあえず、判って欲しいのは僕が彼女の事を本当に好きだということと、彼女が妹と僕以外の事に関しては興味を示さないという事だ。よほどの事がない限り。
「わかるかなあ、水澄景夜くん」
「さあ?」
 彼は、780円のコーヒーを片手に僕の質問を受け流す。
「なんで、高校生って珈琲を飲みたがるんだろうかって感じの話でしたっけ」
「まあ、そうとも取っていいけれど僕が判って欲しいのはそこじゃないね」
「生徒会長の彼女のことですか?」
「そうだよ、そのことだ」
「それなら、もうお話したでしょう」
 ブルーマウンテンの香ばしい香りを漂わせ、景夜くんは僕を睨む。睨まれた僕は肩を竦めたくなる、うん。お調子者なキャラじゃないからやめておくけれど。
「ああ、聞いたね。詩織ちゃんは別にいなくなったわけじゃない、ただ連絡もせず遊びにいっただけだっていう事をね」
「ええ、だから心配しすぎだと、貴方の彼女に伝えた事です」
 しかし、嘘でも笑顔を見せてくれない子だな。
「そのことを僕が信じると思うかい」
「そんなことを言われても、僕は本当のことを言っているまでですから、それに……」
 彼女の妹が二日前から姿を見せていない。彼女の妹の名前は明智詩織。目の前にいる水澄景夜くんはその詩織ちゃんの友達と言うことになっている。僕の彼女は妹がいなくなってすぐに彼に連絡を取った。どうしてかというと、最近つるんで行動することが多くなった彼に連絡を取れば、妹がいなくなった理由がわかると思ったからだ。もちろん、当初はそこまで心配なわけではなかった彼女だが、あることがきっかけで、僕が彼と面会することになった。
「……それに、たとえ、姉が家を尋ねたのだとしてもその事と、関係はないでしょう?」
 あること、というのが、彼女が唯一不得意とする人間、明智庵が忌避している人間。水澄カナメが家に訪ねてきたことがあると言うだけのことである。
 もちろん、それだけならば何も疑う余地はない。たとえば、彼の姉、水澄カナメが明智詩織を誘拐するなんていう話には繋がらないのだ。
 だけれど、
「確かに、関係はないね。だけれども、どうなんだろうね。君のお姉さんはあまり人と関らないようにする事で有名だそうじゃないか。そんな彼女が一度でも明智家に訪ねるなんて珍しいことだとは思わないかな」
「それはそうだと思いますね、不思議な話ですねまったく」
 処世術だとしても、すっと何のことなく同意した彼の反応に僕はすこし空恐ろしくなる。十六歳の男の子がこんなに自然に相手に合わせるなんて、あまりに正しくない成長だ。とても不愉快な気分になる。
 どうして、この男の子のことを彼女は気に入っているのだろうか?
 男の僕からしたら、というか彼氏の僕からしたら不思議でしょうがない。
 というか、多分人を怒らせようとしているその小賢しさが気に食わない。賢くてさ。
「だろう? それにね、どうやら一回じゃないみたいなんだよ」
「そうなんですか?」
 素直な切り返しに、これは本当に知らなかったのかと思う。
「一回目はね、もう一ヶ月も前のことだそうだよ。丁度、あの猫の事件の子。なまえをなんていったけな、」
「木原菫、ですか」
「そうそう、木原菫ちゃんと遊んでいたときに来たらしいんだよ。でもね、その時はただの菓子折りを持ってくるのみで、何もなかったみたいだよ」
 へえ、と景夜くんは視線をそらす。
 移した瞳の先には多分、思考があるのだろう。
 そして、多分彼の思考は今、彼の姉のことをで埋め尽くされているだろう。なぜならば、本来彼は僕たちの味方ではないにせよ、敵ではないからだ。この場合の敵と言うのは水澄カナメの事をいう。つまり、僕たちの妹、明智詩織を攫った人間のことである。すでに、わかっている通り、僕は彼の姉が妹を攫ったと十中八九決め付けている。もちろん、こんな決め付けは、妄想にも似たこじ付けにしか過ぎない。何より、確証はないのだ。

状況証拠や動機ならすでに判っているのだが。
 
「木原さんのときは大変だったみたいだね。いやはや、シリアルキラーの模倣なんて彼女も凄い事をするよ。確かに、芸術も何もかも、模倣から全ては始まるからね。感受性ってやつは、どの分野にせよ天才から学んだほうが手っ取り早い」
「シリアルキラーが天才、ですか」
「快楽殺人者なんて、人を殺す天才だよ。いやいや、何も中二病なことを言いたい訳じゃないよ? まあ、すでに僕たちの世界は基本的に中二病に犯されているっぽいんだけれど」
 作者は、まったりとした日常とか描きたいらしいんだけれどね。書けないんだって。なんて、僕は良く判らない事を彼に言った、聞いている彼の表情も苦虫をつぶすような顔をしていて、まるで僕は一人世界を超越しているような気分になっていた。
「でもさ、快楽殺人者ってのは芸術の分野として殺人を行っている訳じゃないんだ。それだけでも、天才の類だとは思わないかい? だれからも強制されているわけじゃない。無差別殺人なんてのは、本人の欲求如何にしか動機はないのだから」
「音楽を芸術だと思っている人間に天才はいないと言うことですか」
「そうじゃないよ、でも似たことかもしれない。好きだから、何かをするっていう動機は純粋に才能なんだって事だよ。そしてそれを継続できる。そのことがすでに才能で、とてもすばらしいことだとは思わない?」
「殺人、暴行、道徳観念からは外れていますけれど」
「なんだ、そんなことは君が一番気にしないだろう事じゃない」
「ひどいなあ」
「本当のことじゃないか。ああ、そうだ、話が逸れたついでに聞きたいことがあったのだけれど、君はどうしてあの猫の事件のことが判ったんだい?」
 前々から不思議に思っていたことだ、ついでだから聞いてしまおう。
 そう思って、彼に尋ねると彼は何ももったいぶる様子を見せることはなく、簡単に告げた。
「簡単な話ですよ、考えていたことがたまたま当たっていただけの話ですから」
「どういう、意味かな」
「そのままですよ、僕は暇な妄想癖者でして。たまたま、自分が犯されたとしたら、どうやって人を殺さずに人を殺した気分に浸れるかを考えていたわけです。そして、それが合致した」
「そんな話、信じられないなあ」
 僕が笑いながらそう、返すと彼はつまらなさそうに、
「でも、そうだったのだから仕方ありません」
 本当につまらなさそうに、そう言った。
 まるで、当たっていたという事実が、つまらないみたいに。
 嫌悪するように。
 そう言った。
「なんだか、君が犯罪者のように思えるね」
「だとしたら、こんな簡単な話はないですよ。僕みたいな犯罪者が居たとしたらなんて」
「君は、木原さんのことが嫌いなのかい?」
「嫌いじゃあないですけれど、気に食いません」
「へえ、どうして」
「妄想で考えることが実際にあるなんて、そんなつまらない話はないんですよ。起こらないからこそ、妄想ってのは楽しいんです。文章で書き表すみたいに、漫画で示し合わせるみたいに、奇怪なことが起こるなんてそんなのはありえちゃいけないし、あったとしても関っちゃいけない。それこそ、中二病でしょう? まるで、中二病の二次創作に付き合っている気分になるのは、嫌なんです」
 途端、饒舌になる彼は、久しぶりに口を開いたからだろうか。その乾いた口内を潤すために、珈琲を口に含む。習って僕も、珈琲を飲んだ。
「君はさ、多分何もできないだけなんじゃないかな」
 そして、僕は彼を挑発する。
 彼の指は、1センチ位だけ。そんな些細な反応をして、止まる。
「木原さんがやった事が褒められるなんて思っていないよ。だけれどさ、そうやって、まるで人間の考えていることが自分の範疇しかないみたいな態度、僕は気に食わないな」
「別にあなたに好かれたいわけじゃないですから」
「そうだね、そうやって嫌われたいのかもね。君の、姉さんからも」
 水澄景夜くんは言葉を発さない。無表情に心を隠しているつもりになっている。だけれど、僕は彼の頬に走る細かな痙攣を見過ごさない。僕は彼のストレスを見逃さない。
「君は、何故行動しないんだろうね。妄想するって言うことはさ、抑圧されているって事でもあると思うんだよね。何かにうまくいかない、何かを上手にできない。だから、理想が鰻上りになるみたいに、現状が下降線を直走るみたいに。君は考えるんだろうよ。どうやって現状から逃げ出すかを」
「つまり、何が言いたいんですか」
 彼の無表情は未だ、崩されていない。
 だから、僕は言ってやる。
「君はお姉さんが怖いのかな?」




 ①




「君はお姉さんが怖いのかな?」
 目の前の男はそう、僕に問いかけた。
 そんなこと、先ほどから聞かれていることと同じだ。答えなんかない。だから、そんな質問をされたところで僕の答えなんて決まっている。
「わかりません」
 僕の妄想。
 妄想癖が始まった理由、そして伴って現れた女性に触れないという後遺症。考えたくもない、嫌な思い出。まるで、目の前の男は僕の過去を知っているかのように、だからこそ糾弾するように、じっと瞳の芯を崩さない。
 姉さんに遠く及ばないが、それでも先が見えない瞳の奥。
「そんなこと、わかりません」
 僕は、無表情を崩さない。膝に置いた手が、その指が、服越しに太ももの皮膚を抉っても僕は表情を崩さない。
「じゃあ、好きなの? 愛しているのかな、お姉さんを」
 ぎちり、と太ももの肉は抉れていく。ぷつり、血が出た音がする。指から伝わって、そんな音が聞こえた気がした。
 すきかなんて、わかるわけがない。
 嫌いよりも、さきに。
 好きかなんて、わかるはずがない。
 僕の目の前の映像は、今目の前に座っている男の姿を映していない。
 それは、あの部屋のことだ。
 コンクリートで囲まれた部屋のことが浮かんでいた。そして、懐かしい光景を、いつも週末に姉と一緒に見ている映像の一部始終を思い出す。
 体感した、あの時間のことを思い出す。
 皮膚に、感覚に、触れてないこそすれ嗚咽が混じるような現実感が、僕の脳を刺激する。そして、涙を流して心が凍る。どんどんと、奥に。隅に追いやるように感情を削る。
 そうしないと、耐えられない。
 姉の求めるものに答えられない。
 姉に犯されることに、耐えられない。
 フラッシュバックだ、と気が付いたのは、僕の無表情が壊れたのと同じタイミングだった。
「大丈夫かい、すごい顔をしていたけれど」
「ええ、大丈夫です」
 取り直す、心の形を取り戻す。
 だめだ、考えすぎてはだめだ。恐怖してはだめだ。
 今回こそは、どうにかしないと。
 明智詩織だけは、どうにか回避させないといけない。
「それで、そんなことを聞くために、わざわざ僕を呼び出したんですか」
「そんなわけはないだろう? お茶をするためだよ」
 何が、お茶をするためだ。
 冗談にしたって、笑えない。
「僕も忙しいんですよ、ほら、再来週から試験が始まりますし」
「君なら、大丈夫じゃないの? 頭よさそうだし」
「そう、言われがちですけれどね。頭はからっきし悪いんですよ」
「お姉さんとは違うんだね」
 得意げに、ナイフをチラつかせるみたいに、人の心をちくちくと刺す言葉。姉のほうもそうだが、この人も好きになれそうにない。
 でも、
 僕に、好きな人なんてのは存在するのだろうか。
「ええ、違います。姉とは、作りが違いますから」
「え、異母姉弟なの?」
「違いますけれど、でも似たようなものですよ。姉はそれこそ天才ですから」
「天才ねえ。天才、天才。天才って良く聞くけれどさ、実はそこまで僕天才を信じては居ないんだよね、てか何かの動植物っぽくないかい」
 目の前の男は、やわらかい表情をして、息を落ち着けるような言葉を言った。僕の反応が過敏なのに気を使っているのだろう。まるで、事情聴取のような嫌らしさだ。受けたことはないけれど。
「天才ってさ、恋愛するのかな。それも不思議だよね。例えば、岡本太郎でもいいや、彼って結婚とかしたのかな」
「さあ、貴方が知らないのなら僕も知らないです」
「でも、まあ恋愛に偏食そうだよね。やたらフェミニストだったり、好色家だったり、ホモだったりするんだろうね。そういうのが天才なのだとしたら、僕は遠慮したいな。天災にはなりたくない。もう、そうなると好きとかいう恋愛感情で自分の行動を見ていないんだと思うよ。ひとつの浮気でもあるからね」
「浮気も恋愛の一つでしょう、それに芸術家だから恋愛にダラシがないというわけではないと思いますけど」
 姉のことを聞かれたくなかったので、適当に話を合わせる。でも、この程度の合わせ方だったらどちらにせよ姉のことは聞かれるだろう。
「確かにその通りだね、芸術家ってのに失礼だ」
「貴方の物言いが失礼なだけだと思いますけれど」
「酷いこというなあ」
 この男、何が言いたいんだ。
 先ほどから、人をおちょくるように外堀から小石を当ててくるような喋り方をする。明智詩織から聞いた、榊原のような話し方だ。まあ彼は今、公園で苛め抜かれた浮浪者のような喋り方になっているので確認の仕様はない。だがまあ、人から嫌われることがあっても好かれない喋り方と言うのはこういう喋り方のことを言うのだろう。遠回りで要領を得ず、それで居て人を見下しているような喋り方。
 反面教師にするほど、僕は人との会話に気を使うほうではないが。
 それでも、こうはなりたくない。
「綾川さんでしたっけ」
「うん? なに」
「あなたも大概、遠回りな説明が大好きなんですね。A型でしょう」
「んー。まあ、よく言われるけれど、残念僕はB型だね。そういう君はO型っぽいよ」
 言い当てられても驚きもしない。
 というか、どうでもいいことだ。
「まあ、そうだね。そろそろ本題に入ろう」
 ようやく、といった所だった。
 彼が何を言い出すか、僕にはわかっているつもりだった。多分、明智詩織を助け出したいから協力してくれと頼むのだと思っていた。
 でも。
 それでも、違っていた。
 僕は、言われて眼を見開く。
 初めて、表情がなんのことなく崩れた瞬間だった。

「君は何もせずに、このままお姉さんの好きにさせてくれないかな。詩織ちゃんを、君のお姉さんの毒牙に当ててほしいんだ。今日はそれを頼みに来たんだよ」

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