出会いと接触はテロリズム
2 出会いと接触はテロリズム
「ごめんちょっといい?」
「え? 何。」
突然声を掛けてきたのはクラスメイトの女子だった。名前は確か木原菫で背は小さい。
「本当にわるいのだけど…、私今日掃除当番のゴミ捨て係なんだけど、明智さんにゴミ捨てたのんでいいかな」
「んー。別にいいけど、どうして今日駄目なの?」
「あの、その……私、部活に入ってて、今日早めに出なくちゃいけないの。だから」
木原菫は、その小さな体を大きく振り回して説明している。その行動が可愛くて思わず噴出してしまう。そこまでしなくても伝わってるのに。素直な子なんだななんて思う。
「いいよ。わかった、じゃあ今度お茶でもおごってね。マックの百円でもいいからさ」
「う、うん! 判ったよ、ありがとうね明智さん!」
そういって、走り出す菫ちゃん。
さて、今は放課後、ゴミ捨ては私が引き受けた。さっさとこの引き受けた仕事を終わらせてしまおう。
ゴミ箱をもって、人通りの多い教室前を通り過ぎる。
今日は榊原先輩とは出会わないようだ。よきかなよきかな。
先日は人と出会う機会が多かった。昼間には私のことを目をつけていたという先輩とであい、深夜には吐瀉物を残して消えた同じ学校の生徒と出会った。
まあ、悪くはないか。
校舎から出て、普段は誰も来ないゴミ捨て場に通りかかる。
というか、誰も居ない。なんでだろうと、ふと疑問に思う。この時間は誰か居るものなんだけどなあ。
と、ふと端を見やると、雑木林になっているところに人が男子が一人立っている。誰だろう、と、思うが声を掛ける必要がないのでそのままスルーしていこうとすると頭の端で記憶がかぶる。何だろう何か引っかかる。
確か、この位の背丈の男をどこかで見かけたような気がする。どこだろうどこだろう。
あ、なんだ。昨日の公園じゃないか。あの名前を告げなかった……いや、名乗っていた確か水澄景夜とか言う名前だ。
「水澄くん、だっけ。君もゴミ捨て?」
「………!」
水澄くんは、驚いた表情でこちらを見やる。そんなに驚かなくてもいいのに。
「ああ、昨日はごめんね。後々考えてみると私が悪かったわ。出会い頭にかかとおとしはないよね、あははははは。」
「……お前が呼んだのか?」
「え? 何、いや私はゴミ捨てを頼まれただけだよ。」
「今日はゴミ捨てはない。」
「あ、そうだ。そういえば」
今日は土曜日だ。土曜日にはゴミ捨てはない。多分木原菫が間違えたのだろう。まったくおっちょこちょいな子だななんて思う。
「……今日はお前がゴミ当番なのか」
「え? だから何のこと?」
「今日はお前が当番なのか?」
「……ちがうけど。」
昨日の夜はあんなに会話をしてくれなかったのに、今はすんなり会話をしている。不思議なヤツである。
しかし、この表情は何か怖いものを感じる。怒っている? いや、戸惑っているという感じだ。
「昨日のこと、怒ってる?」
「いや、それはどうでもいい。それよりも、今日はお前が当番じゃないのなら誰が当番なんだ。」
「同じクラスの女子だけど。」
「名前は?」
矢継ぎ早に質問攻めをしてくる水澄くん。何でそんなことに興味があるのだろう。私のへんなボルテージも上がってくる。
「なんでそんなこと聞くの、私がここにいるのが不思議なの?」
「名前は?」
「だから、理由をいいなさいよ。私の質問にも答えてよ。」
水澄くんは急に質問をやめて、後ろに下がる。ん? なにかあるのか、この雑木林に。
私は、そのまま、水澄くんの目の前にある、雑木林に顔をのぞかせる。
そこには、猫の○された動かなくて、冷たくて、臭くて、気持ち悪くて、動かなくて、虚ろで、悲しくて、晒されて、中途半端に凄惨な死体があった。
「――!!!! なにこれ!!」
その死体は、あまりにも説明するには簡単だった。腹が引き裂かれて、腸が首に巻きついている。内臓は真っ赤に染まっている。血は雑木林の地面に落ちている木の葉の色を変え、よくよく気づくと異臭を漂わさせていた。
二体目の、死体。
二体目の、猫の死体。
困惑して、後ろに後退すると、体を避けて水澄くんは声を出す。
「大声を出すな、誰かに気づかれる。」
その声は酷く無責任のようで、私の神経を逆なでさせた。
「アンタがやったの?」
「違う。」
「じゃあ、なんでこんなところに居るのよ!!! ゴミ捨てでもないのに!!」
「それはお前もだ、明智詩織。」
長い睫が、私をとがめる。こいつは、私のことを疑っているのか? このわからず屋め! だから、私はたのまれただけだっつってんだろ!
「お前がここに呼んだんだろう。なぜこんなことをする。昨日の夜もそうだ、人を足蹴にして。何か俺に恨みでもあるのか?」
「ないわよ、それならこっちが聞きたいわ。なんでこんなことするの。ミステリー研究部の部室にも同じことしたでしょ? アンタの家庭環境なんてしったことじゃないけどね。文句があるならこんな短絡的なことをしないで、立ち向かいなさいよ! 猫には罪はないでしょうが!」
そうだ、こいつの家庭環境だが、周囲の環境だかわからないが、不満があるから、こんな他人に不幸をぶつけるようなことをするのだ。家庭や周囲に問題があるから、家も夜遅くまで帰らない。猫も殺す。典型的なあまたれ坊主なのだ、こいつは!
私の中でどんどんと怒りが増幅する。
だが、私の怒りとは打って変わって。目の前の男は疑問の表情を浮かべている。
「ミステリー研究部? なんのことだ。」
「なんのことじゃないわよ! アンタ」
「しっ!」
野郎が私の手をつかみ、そのまま、猫の死体を避けて、雑木林の中に入りしゃがむ。
「なにすっ…! んんんんっ!」
叫ぼうとした私の口元は、悉く塞がれ、手を強く握られる。下に引っ張られているせいか、立つことも出来ない。
なにするんだこいつ!! と、叫ぼうとしたそのとき、先ほど私たちが居たところに一人の女子が走ってくる。木原菫だ。
『あれ……、いない。明智さん、もう戻っちゃったのかな…。』
「んんんんー! んんっ!」
「静かにしろって。」
なんで隠れる必要があるんだよ、この馬鹿男ーーー。
心から叫びたい私に、後ろの男は囁く。
「今、この現場を見つけられたら、俺もお前も疑われる。」
だから、私はこの木原菫に交代してって言われたんだっつーの! と、講義の視線を送ると、さらに言葉を続けた
「あの女が、俺たちをここに呼び出したのかもしれないだろう。」
まさか、そんなことはない。木原菫は、勘違いをしてそれを伝えにきたのだ。
水澄くんは、小声で心を呼んだかのように諭す。
「だからそうじゃなくて、あの女が、俺たちに濡れ衣を着せたいのだとしたら……どう思う。」
んん。っと私は黙ってしまう。
『やっぱり、明智さん来てないのかな。』
10メートル先には木原菫が佇んでいる。
彼女のことを考える。
もし、彼女が私にこの猫の死体を発見させるためだとしたら……。
でも、なぜこんな、少し見つかりにくいところに死体をおいたのだろう。それに、なぜ私なのだろうか。それが判らない。
『…………。』
木原菫はそのまま、あたりを見回して帰ってしまう。
ほっとして、立とうとするとまた、手を引っ張られる。いたいいたい。
なんなんだよ、もう! と、講義しようと、ついに口を開こうとすると、先ほど木原菫の居たところに別の人間が入ってくる。 その人物に、私は驚愕する。
『……いねえなあ。』
榊原先輩だ。え、なぜ?
私は驚きのあまり、さきほど叫ぼうと思っていた悪態を思わず引っ込ませてしまう。
「…知り合いか?」
「ん。」
うなずく。
ちなみに、水澄くんは、先輩とは知り合いなの?
その心の言葉は伝わらなかったらしく、彼は的外れに言葉を続ける。
「忙しい場所だな、ここは。」
そんな皮肉はいらないのだけど。
「あの男はなんなんだ? なぜこんなところに。」
私もそれは知りたいよ。てか、もう、拘束といてよ……。
でも、なんでこの男、こんな不安定に私の体を抑えているのだろう。肩とか掴めばいいのに。
『…誰も居ないみたいだな。』
そうこうしているうちに、榊原先輩はあたりを見渡しながら、あたりを探っている。
誰も居ないことを確認した後に、榊原先輩は携帯を取り出す。メールを打っているようだ、メールをしながら、彼はそのまま、その場所を後にした。いったい誰にメールを送っているのだろう。
先輩がその場に完全に居なくなったのを確認して、水澄くんは、私の拘束を解いた。
「ぷはっ! ああ、苦しかった!」
わざとらしく水澄くんに向かって声を出す。
そんな私の抗議とはよそに、水澄くんは下を向いていて何も答えない。
「ねえ、聞いてるの? 隠れるんならそういいなさいよ。もっと乱暴じゃないやり方もあったでしょう」
「………。」
水澄くんは、依然として、下を向いたままだ。
「ねえ!」
「ん、ああ。悪い。考え事をしていた。」
顔を上げる彼は、そのまま表情をみせず、私より先に茂みから出て行く。そして、大きく深呼吸をして振り返った。
「あの男とはどういう関係だ。」
「何よ、そんなの私のプライベートじゃない。聞かないでよ。」
「答えろ。」
「い・や・だ。それより私の質問に答えてくれたら、考えてあげるけど?」
むっとした顔をする、水澄くん。
いやだ、なんか可愛い。
そんな自分の妙なフェチシズムをぐっと抑えながら言葉を紡ぎ出す。
「貴方こそ何でこの場所に居るのよ。」
「さっき言ったとおりだ。呼び出されてここにきた。」
「それは判るけど、誰に?」
「お前にだ。明智詩織」
は? 何を言ってらしゃるのこの人は。
私がアンタなんか呼び出す必要なんて一つもないだろうに。
「んなわけないでしょ。呼び出した覚えなんてないわよ。」
「だろうな、それはお前の反応を見れば判る。」
ああそうですか。なら聞くな馬鹿。
って、聞いたの私か。
「質問には答えた、次は俺の質問だ。」
「なんだっけ。」
「あいつとはどういう関係だ。恋人か?」
「さあね。」
水澄くんは、またむっとした顔をする。うーん。この顔やっぱり可愛い。
けど、そんなにいじめてもしょうがないので、普通に答えるとする。
「嘘だよ、ちゃんと答えるよ。昨日知り合ったばかりの先輩。話しかけられただけ。」
「そんなに深い関係ではないのか。」
「何だと思ったの。」
「露出をさせようとした張本人。特殊性癖な彼氏。」
「なわけないでしょ!!」
まったく、人のことを何だと思っているのだろうか。
まあでも、あの後家に帰った後に買い物を行かせた張本人の姉に、遅いと罵られた挙句『関係ないが、お前の格好露出狂のようだな』なんていわれて、冷静に落ち込んだのだけど。確かに、この季節、あの格好だと、露出狂だと思われてもしょうがないのかもしれない。
「お前が呼び出したわけではない、という事だとすると。」
「誰が、水澄くんを呼び出したんだろうね。」
「………。」
水澄くんは、私の顔をじっと見つめている。
ん? 読み取りにくい顔をしているので、何を考えているのかわからない。
「何?」
「……水澄くん…、てのはやめてくれないか。」
「え? じゃあなんて呼べばいいの。」
「水澄」
「んー。でも呼びにくい。下の名前、景夜だっけ。」
「景夜くんとかはやめてくれよ。どちらにせよ、くんづけは嫌なんだ。」
「なら景夜くんね。」
「………。」
景夜くんは、後ろを向いてそれ以上食いかかってはこなかった。ん、さっきの感じだともっと絡んでくると思ったのだけど。意外とおとなしいのだな、なんて思う。
まあ、別に会話したいわけではないのだけど。……ホントだよ?
「それで、景夜くんは」
「そんなことより。」
景夜君は私の会話を止めて、そのまま首を横に振る。いや、右を見ろって事?
そこには、腸が首に巻かれている、猫の死骸があった。そうだ、この死体、どうしよう。
「あれ、どうする。」
「……ここで私たちが先生に言えば私たち犯人だと思われないよ。」
「言うんだな。」
「ん……。」
ちょっと悩む。
え?
悩む、ってどういうことだ。
なぜ、私は悩んでいるのだ、学校には言うべきだろう普通に考えて。
不安な顔をしていると思ったのだろう、景夜くんはしばらく何も言わなかった。確かに、こんな事件に巻き込まれて混乱しないほうが可笑しい。だけど、私はこの死体を直接見たのはまだ初めてだが、猫の残虐死体をみるのはこれで二回目なのだ。慣れては居ないが、混乱はしない。
しかし…。
まさか連続して、こんな猫の死骸が発見されるとは。これからもこんなことが起きるのだろうか。それを抑制するためにも、学校には行ったほうがいいのだけど。
本当に、私は何を迷っているのだろうか。
「騒ぎになるのは嫌か。」
「え?」
黙っていた景夜くんはついに口を開いた。その顔はどこか厳しい。いや、まあ、いつも小難しい顔はしているのだけども。
「猫……好きなのか」
「ん……。」
「好きなのか。」
嫌にまじめな顔で聞いてくる、景夜くん。
その顔が面白くて、私は下を向く。いけない、いけないいけない、笑っちゃ駄目。笑っちゃ駄目……! ああ、駄目だ。わらっちゃう。
「ぷっ、……くくっ」
「ん?」
「くくく…あはははは!」
ついに大声をだして笑ってしまう。緊張していたからかもしれない。とりあえず、自分の考えている恐ろしい『好奇心の答え』って奴から逃げ出したかったのかもしれない。
いや、そうじゃない。
「お前、この状況でよく笑えるな。」
景夜君は先ほどよりも、眉間のしわを寄せながら私に呆れた声を出す。んん、まずい、本当に怒ってるな。
「学校に言うのはやめようよ。」
「ん、なんでだ。」
「たぶん、だけど、劇場型の犯人なんじゃないかなって思うから。」
景夜くんは、いつも伏目がちの目を大きく見開いた。
おお、驚いてる驚いてる。
「……なんでそう思うんだ。」
「それは後でね。とりあえず……。」
私は茂みに置いてきてしまった、クラスのゴミ箱をとって、そのゴミを分別所に捨てる。そして、空になったゴミ箱に張ってあったゴミ袋を取り出す。
「とりあえず、埋葬しようか。」
このゴミ袋に包む、っていうのは、『生』物から『生』を取るのだな。なんて。
詩人な事を思わないと。励まされた気持ちがまた沈んでしまいそうだった。
猫の埋葬を終え、冗談を多少含んだ会話を続けながら、いままでの経緯などを話そうと思ったのだけど。やはり、埋葬ということもあってか、それから会話は全く一切なかった。まあ当然といえば当然だけど。
そもそも、この水澄景夜とは喧嘩にも近い状態だったのだ。それがあれよあれよと妙な事件に巻き込まれてしまったせいで、一時の休戦となっているだけなのだ。
とりあえず、いっておいたほうがいいのかな。
「あのさ。」
「………。」
景夜くんは、黙々と手を洗っている。やっぱり普通の会話をするつもりはないらしい。うーん、さっきまでは普通に会話していたような気がするのだけど。
「……あのー。」
「………。」
「おーい。」
「………。」
「……景夜きゅん。」
「…懐くな、露出狂。」
ビキッと頭の何かが音をたてているが、まあ、落ち着こう。冷静に、冷静に。
そうだ、露出狂といったからには理由がたぶんあるんだ。こいつ。たぶん、私と同じように、先ほどまでの会話の仕方をわすれてしまったのではないだろうか。
「ま、まああああ。そこはおいておこう。私からいい、提案があるのですよ明智君。」
「明智はお前だろう。まあ、脱ぐっていう部分なら確かに間違っては居ないが。」
遠いだろう、その例えは。イラつきはあがってこない。OKOK。このくらいの悪態は予想済みだ。
「話を聞け!」
「ぶっ!」
まあ、それでも殴る。
景夜くんは、こちらを向いて、そのまま固まる。うん、殴るつもりはなかったよ。殴らせた貴方が悪いのさ。ははは。
「あのさ、思ったんだけど。これからさ、色々と景夜くんに聞きたい事もあるし、私も言いたいことがあるのね。だけど、話しにくいじゃない。色々と。」
「……別に、話さなくてもいいけど。」
「殴るよ?」
「続けなよ。」
「だから、一時休戦にしたいのよ。このことを学校に漏らさない時点で、私たちが色々と問題をどうにかしようって決めたわけじゃない。」
景夜くんは答えない。ようやく、ちゃんと話を聞いてくれているわけだ。
「そのときに、色々争ったり、恨み言言い合ったりしている場合じゃないわけよ。」
「……そもそも、始めにいちゃもん付けて来たのは、お前のほうだろう。」
無視。
「どうなの、私の情報は欲しくないの? ミステリー研究部の情報。」
そして、こいつはまた黙る。
言いたいことがあるのならはっきりと言えばいいのに。
水道の水は、垂れ流される。水音が、二人の間を流れていてそのまま蛇口に吸い込まれていく。垂れ流された水は川を経て、海に帰っていくのだろう。とても、広く深い海に。
私の手はすでに泥が洗い流されている。水澄景夜の手はずっと冷たい水に浸かっている。
そうして、ただ、何も答えない時間が過ぎる。
いたたまれなくなってきたので、また殴ろうかと思ったときに、景夜くんの重い口は開かれた。
「お前の見返りはあるのか?」
「はい?」
「お前の見返りだよ。俺にその情報を教えてお前に何の得がある。」
「ああ………。」
あれ? そういえばそうだ。私はなんでこの情報を教える必要があるのだろうか。
私は私が本当にわからないときが多すぎるな。自分なのに。たとえば、何かに突き動かされているように、ただ単にやってみようの観念で色々とやってしまう私。
でも、ここでミステリー研究部のことを漏らしたって、別に何の損もしないのだけど。
「強いて言うなら、好奇心。」
「好奇心?」
「そう、好奇心。景夜くんに教えたら、何か起こるかもって。そんな予感がする。」
「ふうん。」
景夜くんは、また、少し黙る。
いい加減、時間の無駄のような気がする。
「それで、どうするの。」
「いいよ。」
「意外に素直ね。」
「……でも、俺は解決するために尽力したりしないぞ。」
めんどうだからな。なんて、そんなことを漏らす景夜くん。
いちいち可愛くない男だ。でもまあ、なんだかんだいって協力してくれそうな気がする。なんか憎みきれないんだよなあ。いやまあそりゃあむかついたら殴るけどさ。
「それで、休戦するからにはどういったことは禁止なんだ。」
「ん、とりあえず憎まれ口を叩くのは禁止。」
「なら殴るのも禁止だな。」
「それ、無理。」
「なら俺も無理だ。」
「………判った、じゃあ、なるべく殴らない。それでいい?」
「『善処します』か。政治家みたいだなお前。」
殴る。とりあえず、昨日蹴り落とした左肩甲骨のしたあたりを、脇を閉めて強打する。
景夜くんは苦しそうに、わき腹を押さえる。どうやら、昨日蹴ったところが痛むらしい。今度からそこを狙って殴るようにしよう。いちいち力を込めなくてもすむ。
「………あのさ。」
「何?」
「殴らないでくれ、ここだけは。本当に痛むんだよ。」
「判った。じゃあ、憎まれ口は叩かないね?」
「善処します。」
やっぱり、憎まれ口いうんじゃねえか。
この野郎、と、腕を後ろに振り上げる。と。
「仲いいなあ、君たち。付き合ってるの?」
なんて、どこかで聴いたことの有る声がしてびっくり。
後ろを振り向くと、ニヤニヤした、男が立っていた。しかも結構距離も近い。だれかはわかる。今一番会いたくない人物だ。
「付き合ってなんかないですよ。先輩。」
さきほどまで、この水洗い場から少し離れたゴミ捨て場で隠れつつ見た榊原先輩はここで私たちに嫌らしく声を掛けてきた。なぜこの場所に? という問いは私の中では生まれてこなかった。
先輩のことだから、私を探しているのだろうという考えがあったからだ。だから驚かない。
「それで、君はここで何をしてるのかな。明智くん」
「いえいえ、これから神の供物を食すために、聖水によって、手を清め、賛美の音色を歌い上げるだけですよ。」
「なかなか愉快だけど、適当なことを言うもんじゃないよ。」
「思いついただけです。先輩こそ、私に何か用ですか。」
「それはもう。君のためならどこまでも。」
「先輩も、適当です。」
笑いあう私たち、景夜くんを蚊帳の外に置いたって話を進めるが、さて、この先どうしようか。
彼は、もしかしたら自作自演によってこのいままでの事件を演出したのかもしれないのだ。このさきホイホイと彼についていくわけには行かない。でも、ワザと付いてくことによって情報を得られるかもしれない。
たとえば、彼が誰をあそこで待っていたのかとかだ。
人も足早に帰っていく放課後、人も寄り付かないあのゴミ捨て場に何の用があったというのか。
「それで、先輩は私になにか御用ですか?」
「ああ、実はね。君に聴きたいことがあるんだ。」
そういって、先輩はちらりと、まだ手を洗っている景夜君をみやる。OKOK、彼がいないところで話がしたいのね。
「研究部のことですか?」
「ああ、そうだよ。良かったら今から一緒にあの喫茶店に行かないか。お友達は……ちょっと悪いんだけど帰ってもらっていいかな。」
ずばりと言う先輩。少し戸惑う。別にそこまで邪険にしなくても、もうちょっとうまい方法があるんじゃないかと思う。振り返って景夜くんを見ると、その手にはこの間渡したハンカチが握られていた。というか使っていた。
ちょっとむかつく。
でも、まあ。
そのメッセージは受け取ったよ、景夜くん。なかなか判り難いと思うけどね。
「わかりました。あの喫茶店に行きましょう。」
「よかった。悪いな、水澄くん。」
その後、一度も先輩は景夜君に目線をあわすことはなかく、水洗い場を後にする。私もおとなしくその後ろに付いてく。後ろ手に人差し指と、親指のわっかを作って。
どうやら、今日も一日が長い日になりそうだ。
席について真っ先に話を始めたのはやはり、先輩だった。昨日の遊び心満載なトークとまでは行かず、何か急いている様な印象を受けた。
まあ、それは当然だろう。彼が聞きたいのは事件のことなんだろうから。
「それで、君たちは何をしてたんだ。泥なんかをぬぐって。」
「何をしていたんだと思います?」
「猫の死体を埋めてたんだろ。」
という具合に、小粋な冗談なんて挟まなかった。その通り死体を埋めていたのだけれど、何かつまらない。
「で、どんな死体だったんだ。」
「それよりも、先輩、私も聞きたいことがあります。」
「何?」
交渉術や会話術の本を思い出す。何一つとして頭の中に入ってなどいないのだけど。でも、とりあえず、演技力が必要なんだなっていうのは感じたはずである。人の感情を動かすのには自分の感情をあらわさなければならない。
どういった感情で話せばいいだろう。
そうだ、好きな先輩が、事件にかかわっているかもしれない、から悲しい。というのを前に打ち出そう。
「先輩は、昼何をしていましたか?」
「何だよ、その質問。」
「答えてください。先輩は昼何をしていましたか。」
先輩は私の手をじっと見詰めている。私の手に何かあるのだろうか。
そして、芝居がかった二つの大きな瞳は私に向く。
「昼間は、ミステリー研究部の部室にいたよ。部員ももう一人いた。そいつと、一緒に弁当を食べたよ。」
「そうですか。」
意外や意外。アリバイは用意されていた。さすがミステリー研究部。そういった小細工は得意らしい。
まあ、アリバイの中途半端さも妙にリアルな分、現実味を感じてしまうのだけど。
「単刀直入に聞きますけど。」
私は、なるべく怒号を抑えるような感じで言葉を肺から出す。
すこし声が震えている感じだ、OKOK。
「先輩が猫の死骸を作ってるんじゃないんですか」
「あ? 何だよ急に。」
「とぼけるのはやめてください。じゃあ、なんで放課後先輩はあのゴミ捨て場にいたんですか? 私見かけたんですよ。」
先輩は急に押し黙る。
そんなことあるわけはない。私の直感がそう告げる。
『先輩は猫の死骸を作っているわけではない。』
私の中ではそのことは動かない事実なのだ。私が聞きたいのは、私が揺さぶりたい言動はそれではない。
「たまたまだよ。たまたま、あそこに通りかかったんだ。」
「たまたまな訳はないでしょう。あんな、人通りの少ない場所に、都合もなく行く筈はないじゃないですか。」
「そんなことはないだろう、たまたまだって通るさ。」
譲らない先輩。私は侮蔑の瞳で彼を見やる。
「大体、そんなのどこからみてたんだよ。」
「猫の死体を解体するのは楽しかったですか?」
危ない質問は質問で返す。単純だが効率のいいはぐらかし方だ。案の定先輩は、話にならないという感じに目を逸らす。まあ、こんな会話、意図が外れてしまえば、ミスタービーン張りのお惚けさんになってしまうのだけど。
「へえ。そんなに、俺が猫を解体してるって決め付けたいのか。」
薄ら笑みを刻んで、先輩は逸らした視線のままでいう。そう、私はそう決め付けていますよ。
さあ、どうやって、そのことを切り抜ける?
なんていって、あの場にいたことを切り抜けるんだ。
「それじゃあ、猫の死体はあの場所にあったんだな。」
「はい。ありましたよ。先輩のいた、ゴミ捨て場の横にある茂みの中に。」
「じゃあ、何で俺は猫を解体したんだ。まず動機って奴を聞きたいな。」
微笑はそのままに、こちらを向く。その視線が、私を馬鹿にしているのか、それとも楽しんでいるのかはわからない。でも、話に乗っかってくれるのなら、こちらにしては儲けものだ。
さあ、私の好奇心。
思う存分、その心を満たせ。
「動機は簡単。先輩が前言ったとおりですよ。単に、事件がないなら自分から作る。という愉快犯ですよ。」
「じゃあ、なんで僕は自分の部室に死体を置いたんだい。」
「それは、怖かったからですよ。それは猫の死体からも伺えます。貴方は人間が、大人が怖いんだ。だから、猫で殺人事件を演出するし学校に漏れないように、部員を先導した。違いますか?」
「ふうん、悪くない。それじゃあ、なんで僕は君に教えたんだい。」
「噂になりたかったんじゃないですか? 女の子は口が堅くないっていう偏見からですよ。まあ、それだけじゃなく心理として男でも女でもだれか、親密でない人間に漏らせば、だれかがそれを言い回す。そしてそれは学校内に広がって、いつのまにか確証のない事件になる。だから貴方は私に漏らした。」
実際私は、水澄景夜にミステリー研究部の事件のことを伝えようと思っていたのだし。もし、万が一榊原先輩が犯人なら、その試みは成功したといえるだろう。噂になりたい。という欲求は昨今の無差別殺人事件を考察してもわかる。
「なるほど。そうか、なるほどなるほど。」
榊原先輩は、面白おかしいといったように、笑い出す。その笑いは、店内に響き渡るような笑い声で、何人か、店内に来ている人間が振り返ってこちらに向くのを感じた。
派手な人だと思う。だからこそ、この茶番の理由は信憑性があるのだけど。
「中々、面白いね。筋も有る程度通っている。これなら僕が犯人でも間違いはない。」
「でしょう?」
「でも違うな。僕は犯人じゃない。」
「証拠は?」
言葉に力が入る。
彼が、犯人でないとする証拠は限られている。死亡時刻も、方法も断定することの出来ない今。かれが犯人ではないかもしれない、という理由はその死体をおいた時間。つまり装飾した時間だけだ。昼休み、出歩いている人間が多い時間に流石に死体をおくことは難しい。それに宿直の先生が見回りをしている時間も考えると、時間は昼休みから私や景夜くんが向かう前までにしかないのだ。
その間を埋める何かをしていたという確証が欲しい。
なんでもいい。なんでもいいから、情報が欲しいのだ。
『水澄景夜』の情報を……!
「証拠は、ある。なぜなら、僕は犯人を知っているからだ。」
「え?」
思いがけない言葉に私自身、固まる。
なんだって、犯人を知っている? ということは、先輩も私と同じ、ある人間を疑っているということなのか。
「どういうことですか? 犯人を知っているのに私に秘密話を持ちかけたということですか。」
「いや、そういうことじゃない。僕が知ったのは昨日だ。見てしまったんだよ、この学校の生徒と思われる人物が猫を捕まえるのを。」
犯人を見た? ということは、それで確定じゃないか。
「それは誰なんです?」
「その前に。今度は僕の質問に、答えてもらっていいかな。」
まったく、この人は焦らすのが好きだな。
「なんですか。」
「君は付き合っている男の人はいないの?」
「は?」
「いや、だから、付き合ってる男の人はいないの?」
この人は何を聞いてるんだ。
今は、猫が誰に殺されて、この先だれが猫を殺すのかの話をしているのだろう。全く関係のない、彼氏がいるかだって? 何の関係があるのかさっぱりわからない。
まあ、でも、それに答えてこの人の意図がつかめるならそれでいいかな。
私は正直に答える。
「いませんよ。この16年間いたことないです。」
「ふうん。意外だな。」
「そうですか? まあ、性格がアレなんで、近づく人がいないんですよ。」
「告白とかされたことないの?」
本当にこの人何をきいてるんだろう。
「ないですね、一度も。まわりから、同じクラスの男子が私のこと噂していたということは耳にしたことありますけど。文化祭も卒業式もなんもなかったです。」
「じゃあさ。」
先輩は、いままで手のつけていなかった珈琲のカップに手を沿え、そのまま胸の所まで持ち上げる。
「ここで、俺が君に告白したら。君は俺が告白した男一号だよね。」
何を言ってる? 何を言ってるんだこの男。ちょっとまて、心臓が止まらない。いやいやいや、心臓は止まらないぞ。とまってもらっては困る。だけど、びくついた心臓は肋骨の内側を不規則に叩く。骨のきしむ音が聞こえる。高い音だ、キンキンとなる。その衝撃に私の目にはフィルターが掛かっていく。白い靄のようなフィルター。美しくもなんともない、人間としての機能が低下している。
「え、あ、まあ。はあ。」
なんて、とりあえずの返事をするものの、頭の中は予想外のことに完全にパニック状態に陥っていた。先ほどまで考えていた、いろいろな事件についてのことが音もなく瓦解していく。零れた断片を思い出す『水澄景夜』『なぜ、猫なのか』『誰が呼び出したのか』『なぜ、私なのか』
なぜ、私なのか。その答えは今、彼が示した通りなのだろうか。
榊原先輩は私のことを本当に、気にかけていた? 冗談だと思っていたことが急に信憑性を増す。まさか、本当にこの人は、この事件とは何の関係もないだけの。人物なのだろうか。
そうだよ、明智詩織。また、お前の悪い癖は出てしまったね。
どこか、見えない文字みたいな、声みたいなものが頭をよぎる。これは、めちゃくちゃな自分に対する慰めの言葉? 頭の声は自分を確認させるために静かにはっきりという。
それは誇大妄想だったんだよ、明智詩織。先輩は、たまたま、事件にあい。そして、入学当初から目をつけていた女の子に声を掛けた。恋愛の始まりは衝撃である方が燃えるだろう? 最近の若者は刺激を欲している。犯人もそうさ。猫を殺したのは誰か知らない奴さ。そいつは学校側がその事件を知らないことを良い事に、自分の中で勝手に無差別殺人を楽しんでいるだけの、精神的に甘い奴なんだよ。だから、ばれない様な場所に死体を設置する。だけど気づいて欲しい。その甘えが見て取れるだろう? それだけさ、設置場所や殺し方なんかに規則性はない。だけど、お前の妄想はそのことに共通項があると睨んだ。それが 悪い癖 だ、明智詩織。現実は現実なんだ、ドラマや小説なんかじゃない。お前の好奇心てやつは、妄想を誇大妄想に変えちまった。そしてそれを妄想着想してしまったんだ。駄目だな明智詩織。そんなだから。
お前は姉になれないんだ。
「――それで、答えはもらえるのかな。」
はっ、と気が付くと、もう既に先輩は告白を終えているようだった。
どうやら、私は告白に答えないといけないらしい。今までのことを思い出す。……思い出しても猫の死骸くらいしか思い出すことが出来ない。出会いは衝撃だったなあ。
でも、今、答えを出すことは出来ない。単純に頭がパニックなのだ。そんな状態でうかつなことはいえない。
「せ、先輩。質問は一つです。」
「だから?」
くそ、やっぱりこの先輩自分のこと、よくわかってやがる。
本当にまぶしい限りの笑顔で私のことを見つめる榊原先輩。そんな目で見られたら、そんな、目で見られたら顔が見れない。なぜ私が恥ずかしがる必要があるんだよ。馬鹿、こんなの卑怯だ。
ナンパなことは嫌いなんだけど。けど。
「質問は一つだから、……今度は先輩の番です。」
「いいよ。何でも答える。」
急に真剣な顔をする、榊原先輩。やめろって。そんな顔するの。そういう顔はさっきするべきじゃないか。
頭を切り替えるように勤める。どうやって、切り替えればいいのだっけ。そうだ、さっき拾った思考のかけらをもう一度拾って考察しよう。持ちいる時間は一秒。さあ、どうだ?
「先輩は、付き合ってる女の人とか…いるんですか。」
何を聞いてるのー!
いやいや、いるかもしれないじゃない。ほら、軽そうな人間だよ? こういうところをきっちりしない男って結構いるって誰かが言ってた、テレビで言ってた! 大変じゃない、実は彼女いてさ、その彼女が『私の雅人をー!』とかいって流血沙汰になったりするかもしれないじゃない。怨恨よ、怨恨。
あれ? 何か引っかかる。怨恨、という言葉が妙な輝きを放っている。
「いや、いないよ。」
榊原先輩は真剣な顔を緩ませて、いつもの笑顔で答える。
さきほどは輝いていた単語も、既に輝きを失い、べつの言葉で埋め尽くされる。付き合ったらどうするか、とか。学校での食事に気を使おうとか。料理に自身はあるとか。そんなことばかり。
ぜんぜん、そんな気なかったじゃないのよ、なんで付き合うことばっかり考えてるのさ。沸いてるの? この頭は今沸騰なさっているんですか?
「真剣なこと聞かれると思ったんだけどな。そんなことなかったね。」
ホントその通りでございます。私もまじめなこと聞きたかったんだけどなあ。
「まあ、まじめに答えると。俺はこの子って決めたらその子にしか興味がなくなるんだ。」
ふ、ふうん。なんて呟いて見るけど、顔は熱い。マグマの近くにいるみたいだ。
だめだ、もう一度おもいだせ、なぜ怨恨という文字に違和感を感じたのか。そうだ、もう一度考えるんだ、この事件のことを。この二日間のことを。たった二日間だが、色々と情報を得ることは出来たはずだ。
「それじゃあ、次、僕の質問ね。」
ああ、くそ。
駄目だ思いつかない。どうやってやり過ごしていいのかも判らない。
そして、やり過ごす必要もどこにあるのか、段々とわからなくなってきた。でも駄目なんだ、今ここで告白されて、はいそうですか、万歳となってはいけない気がする。
「君は、僕と付き合ってもらえますか?」
「……考えます。」
「今答えが欲しいって言ったら?」
「……考えます。」
「今、答えが欲しい。」
「………。」
榊原先輩は、真剣な顔つきになる。
私も真剣に考えなければならなくなる。今、この先輩と付き合うことを考えなければならなくなる。
『ずっと前から好きでした。見かけたときから、ずっと。』
聞こえなかったはずの先ほどの告白が、今、遅れて聞こえてくる。
『君を見かけたときに、柔らかそうな手をみて、惚れたんだ。……僕は手が好きだからさ、女の人の手って奴が。おかしだろ? そんなんで惚れたりあんまりないよな。でも、それでもはっきり、好きだって気持ちが始めて見た時から芽生えてたんだ。』
そんな理由かよ。………ホント、そんな理由なのか。
『変な事件に巻き込んで御免ね。でも、絶対興味を持ってくれると思ったんだよ。そしたら、ずっと二人でこの喫茶店に来ることが出来るだろう? 部室で恋愛なんかしたくない。君とこの喫茶店に来て、二人だけの会話が出来るのはこれくらいしか思いつくことができなかったんだ。』
夢に見たし、それに、公園で妙な人間とも出会うきっかけ。それが今回の事件だった。おかしな話だ、その事件とは全く関係のないところに私をこんなところに連れ出した榊原先輩の意図はあった。
私と、二人でお茶をしたかったから。
嘘でもなく、冗談でもなく。本当に、本当の本当にそんな理由。
殺された猫への追悼もなく、ただの好奇心として。私をこの場所へ連れ出した。
振り回されていた私の好奇心は、すべて、榊原先輩の意図によって絡めとられていた。
『付き合って欲しい。』
誰と? 何と? 何で?
たまらなくなる、心が苦しい。告白をされるのは初めてだ。こんなに混乱するものだったのか、恋愛というものは。恋愛小説もたまには読んでみよう。今の気持ちを薄めてくれる、共感してくれる小説はあるのだろうか。いやあるだろう。私にぴったりの恋愛模様を書いた小説がこの世の中のどこかに存在しているはずだ。聖書が大勢のベストセラーになったのは、魅力的なだけではない。その人個人に納まる、日常や、キーワードがどこかにぴったりと収まっていたからに違いない。
付き合って欲しい。
その一言を、言われた気持ち。
なんて、舞い上がるような気持ちにさせてくれる言葉なのだろうか。
私の気持ちは、……私の今の気持ちは…。
「ごめんなさい。私は、先輩と付き合うことが出来ません。」
思ったことを、そのままいう。
先輩は、どうとも付かない顔をしていた。ショックなのか、予想していたのか、わからない。顔もどこかはかなげに見えてしまって。自分が今言ったことの内容を後悔しそうになる。
「理由を聞いていいかな。」
先輩は、静かに言う。
「その……、先輩のことが好きか嫌いか、わからないんです。一方的に好き、といわれて付き合うのは…どうしても私、納得行かない気がするんです。だから…。先輩のことが嫌いだとか! ……思ってないんですけど、その、どうして…っ、も駄目なんです。」
なぜか、断っている私が、なきそうになる。気持ちとか、思いとかが嗚咽がのど元までせり上がってきてしまって。もう、恥ずかしくて。
こんな、なんでもないただの告白は、こんなにも、人の心を動かすものなのか。
誰かに好かれている感情というものは、こんなにも、私の心を揺るがすものなのか。
「もう、いいよ。わかった。」
先輩は厳かな笑みを作る。
「大丈夫、僕だって判ってる、答えを急ぎすぎたってことくらい。」
「………。」
「我慢できなかったんだ。君に昨日あって、それで、話せることについ嬉しくなちゃってね。……もし、友達になったらその関係を崩すのって怖いじゃないか。だから、そうなる前に。告白をしておきたかった。」
なんて、勝手な理由なんだろう。
皮肉を心で言うが。そんなのは、私の心にずっと残るような皮肉などではなかった。ただ、単なる照れ隠し。私は私を取り戻すために必死になって悪態をつく。
そんな心の動きに悲しくなって。
嗚咽はとまらなかった。涙を流さないように、必死に息を止める。
今、息を大きく吸ってしまったら、その空気は私の涙腺にたまっている涙をそのまま押し出してしまうだろう。
「でも友達には、なれるかな。これからも、いろいろなことを会って話したいんだ。」
「………。」
頷く。
…だめだ、ないてしまう。
この気持ちを、どうにかして丹田に落とさないと。
目の前にある、いまだ手をつけていないカプチーノに手を出して、そのままそれを飲む。
そんで、その珈琲が熱くて思わず咳き込んだ。
「ケフッゲッフ!」
おおよそ女の子とは思えない、堰をしながら。テーブルを避けて、前かがみに咳き込む。
「だ、大丈夫? これ、使いな。」
榊原先輩は私にハンカチを出す。そのハンカチを口元に当てて、そのままお手洗いを探す。
「トイレはこっちだよ、こっちの右側。」
「ん。」
何もいえないので、とりあえず会釈だけして、そのままトイレに駆け込む。
先輩は、そのまま柔らかい笑みを残して、手を振って席についていた。
私は、トイレに、とりあえずの化粧を直しに行く。そうして、二人は別れた。ここで、いまここで別れたのだ。確かに、この場所とあの場所は隔離されていた。
思うと、この時は何も考えられなかったに違いない。なぜ、私は彼を犯人だと思わなかったのか。
もし、それを、あの時考えていれば。これからのことは少しは変わっていたのかもしれない。
その動機、その残虐性、その劇場的な行為。
すべての意味をはっきりと、判るのは。今このとき、私だけだったのかもしれない。
後悔は、後々、悔やむもので。
今このとき、私に悔やむ権利も、何もはなかったのだから。