3.「犠牲は」
「歩けるか?」
「大丈夫」
医者は、体を触ることはおろか、診る素振りさえ見せなかった。逆に、頭に変な機械をはめら
れて脳波を測定だの、筆記試験と称して記号問題を解かされたりだの、いわゆる心理的な何かを
探られたのだろう。
しかしなぜ、即日退院なんだろうか? リハビリはしなくていいのだろうか? 医者が言うに
は、寛解かどうかを診るために、病院に足を運ぶだけでいいらしいとのことだった。そこでもまた、
エセ科学的なことをやらされるんだとか。
即日退院となった割に、弱っているはずだと思っていた足が、腕が使い物になった。なんで
だろう、そう考えている暇は無いのだが、不思議だった。
「あっ」
病室を出てすぐのところで、見たことのある容姿の男が、今まさに僕の目の前を歩いていた。
そう、僕が『黄泉』で見たのと、同じ顔をした男だ。
「あ、あの!」
僕が息を切らせ、彼の元へ向かっていったのは言うまでも無い。
「この前、お会いしましたよね?…」
「はて…?」
首をかしげて、僕の顔をまじまじと見る。
「ほら、あの飛行場みたいな場所ですよ」
「…ああ、あのときの…ずいぶんと変わりましたね」
その言葉の意味がなかなか解せなかったため、きょとんとした顔で、彼の目をまじまじと見
続けてしまった。どうしたのかといった表情で、男の方もきょとんとした顔を見せ、今度は対
照的に、何かに気づいたような顔へ移り変わっていく。その様が、哀悲に満ちた目をしていて、
悪心がした。
「お気づきでないようですが、あなたは人間ですよ」
はい? と聞き返そうとしたが、頭につけた小洒落た帽子を手に持って翻し、足早に僕の前を
過ぎ去っていった。
「また、どこかで。新しい人生をがんばりましょう」
光に包まれ、白く神々しくなった、通路の出口へ歩いていく若紳士。さしずめ、天国に行こう
としているシーンにも見えたが、ただただ光の中へ消えていくのを見続けているだけだった。
「さっ、いくぞ」
そういえば名前を聞き忘れたな、ということを気づいたときには、もう遅かった。兄貴が僕の
片手に手をかける。少し、湿っていた。
外に出ると、むわっとした熱気と独特のにおいが、アスファルトから溢れ出してきた。そして、
なぜか、とても懐かしく感じるにおいが、・あ・た・りからしてくる。
「ほら、ぼさっとしてないで行くぞ。家には、母ちゃんが待ってるぞ。ほら」
兄貴は車を買っていた。僕が自殺する直前までは、まだ新卒の会社員だったはずなのに、もう
そこまで時間がたったのかと、改めて時間の経過を感じる……。
そういえば。
そういえば、僕は今、どんな顔をしているのだろうか? 5年も経っているのなら、ひげは半端
ではなく、頬はこけているんだろうな、多分髪はボサボサだ…。
車のフロントガラスに自分を写してみた。
あれ、僕がいない?
鏡に写っていたのは、ナスビ面をした、知らない男だった。
「ちょっと、え…?」
夏の暑さにやられたかと思えば、そうじゃない。手をかざせば、その姿は自分と同じ行動をやって
のけてしまう…。
「あっ、あああああっ…」
喉の奥でわがままに鳴る、声にならない吃音が、自分の意を意とせず咽び出てしまった。かけよる、
兄貴。
わななく、ただわななく。
ああ、そういうことだったのか、だけでは済まされない何かに、気づかされてしまった。たぶん、
そうだろう。
これはきっと、だ。誰かの命を犠牲にして成り立っているんではないか、ということを。