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05.至高の馬鹿

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 深夜を過ぎた頃、初めて卓が割れた。彼女連れのよしくんや茶髪の芳野は早々に仮眠室へと消えており、残ったのは烈香好みの麻雀狂いだけとなった。
 デスマーチという名目なので、最低でも常に一卓は立てるという決めになっていた。が、その設定は不要であるらしい。
 烈香、白垣、天馬、三村、いずれも溌剌としたままだ。ほかに残った面子を紹介すれば、丸刈りチビ、外ウマでひどい目に遭った進藤、卒業後は親父の雀荘を継ぐ予定の三年生マッキーという顔ぶれ。いずれも徹夜など屁の河童で、うまく気を抜いていけば三日間くらいは余裕で完走できる猛者たちだ。
 いの一番に音を上げたのは天馬だった。
「オレは抜けるぜ。この面子じゃ歯が立ちそうもない」
 烈香が鋭い視線を投げかけてくる。
「逃げるって思ってくれていいよ。負ける勝負にゃ手は出さないんでね」
 弱いところから潰していく方針を採っている天馬からすれば、この深夜メンバーに混じって打つのは作戦に反するのである。面白い麻雀は打てるだろうが、勝てるかどうかは五分以下。ちょうど下位ランクの薄笑いを数人ほど沈めて叩き出したばかりで、運の貯蔵も尽きている。
「白垣、仮眠室はどこだ」
「勝手に使ってくれよ。空いてる部屋なんかいくらでもある。鍵もかかるから安心してくれ」
「おまえよく平気な顔でよしくんに部屋貸したなァ……」
 それじゃさいなら、と天馬は襖を後ろ手に閉めた。廊下にまで冷房が行き届いている。
 階段に足を乗せたところで、ふと天馬はある方策を思いついた。ちょうど、麻雀卓の外で行える攻撃方法について考えていたところだ。
 ずっと麻雀を打ち続けるのも闘いではあるが、それでは先に運が尽きた方が負けるだけだ。そしてあの深夜メンバーの中で、一番あっさり敗退しうるのは自分であろう。
 では、麻雀以外の勝負をしかけよう。まともにやり合っては分が悪い進藤に外ウマをけしかけたのも、そういった事情があったためだ。
 顎に手をやりしばし考え、天馬は和室の隣の部屋へ入った。やや手狭な客間となっている。幸いなことに誰も使用していなかった。
 窓に手のひらをくっつける。外にはベランダが長く続いていた。その向こうは天馬たちの住む町が一望できる。白垣邸は高台にあるのだ。
 夜景を眺めて天馬はいやらしい笑みを浮かべた。
(悪いな、白垣。ま、日頃の行いってやつよ)
 からり、とガラスの引き戸を開け、天馬は外に出、襲ってきた湿った空気に顔をしかめた。


 三時頃だったろうか。白垣が頻繁に目をこすり、眼鏡を拭いていた。卓には烈香、進藤、マッキー、三村の四人が座っている。三村が舌打ちしてエアコンを見上げた。
「なァ、さっきから暑いんだけど。会長、温度下げてくれよ」
「もうマックスにしたよ」白垣はうつらうつらと帆を漕いでいる。「後はもう冷や汗でもかいてくれ」
「なんだそりゃあ」
「でも本当に暑いな」と進藤。シャツの喉元に手をやって新鮮な空気を入れているが効果はないらしい。眉間に深いしわを刻んでいる。
「苛々して打牌を違えてしまいそうだ」
 不平不満をたれる男たちを尻目に、烈香だけが黙々と打ち続けている。しかしよく見れば、前髪の隙間から覗く額にうっすらと玉の汗を浮かべていた。きちんと制服を着込んでいるため、おそらく一番被害を受けているのは彼女であろう。
 七月末の夜である。とうとう三村が席を立ち、エアコンの口に手をかざした。
「なんだこりゃ! 暖房になってるぞ!」
「うるさいなァ」と白垣が大きなモーションでリモコンを投げた。
「ちゃんと見てくれよ。冷房になってるだろ」
「でも風がぬるいんだ。壊れてるんじゃないか」
「僕はもう知らない。勝手にしてくれ」その言葉を最後に白垣はひっくり返って大いびきをあげ始めた。実に幸せそうな顔である。
「チェッ、俺も馬場みてえに抜ければよかったかな」と年長のマッキーまで零し始めた。
 結局、三村がエアコンを止めてしまったが、その壁の裏側にある室外機を天馬が蹴り壊していたことが発覚するのは勝負が終わってからだいぶ後になってのことであった。白垣邸の優秀な防音設備がこんなところで裏目に出るとは、住人たちは想像だにしなかったであろう。
 翌朝、冷房の効いた仮眠室でぐっすり眠った天馬は、グロッキーになりつつある五人を見て破顔一笑しこういった。
「なんだここ、すげぇ暑いな。みんなでプールにでも遊びにいった方が楽しいんじゃねえか?」
 答えるものは誰もいなかったが、一勝したことに変わりはない。これもまた勝負なのである。
 日が高くなるにつれて上がっていく気温の地獄に自分も耐えねばならなくなったが、そんなことは先刻承知の天馬である。
 自爆するつもりなどさらさらない。猛暑の中で冷静な打牌を続ける自信があり、生き残っている連中の大半はそのレベルに達していないと判断したからこその冷房破壊なのである。


 天馬に遅れてやってきたよしくんたちが部屋を変えることを申し出たが、白垣が卓を動かすのが面倒だの適した和室がほかにないだのと取り合わなかった。おそらく白垣もまたこの冷房故障で何人かが致命的にペースを崩すだろうという見込みを立てていたのであろう。ことによると天馬の仕業ということも見抜いていたのかもしれない。彼は彼で飄々としながらも恐ろしい男なのである。
 遊び気分で打っていた連中の何人かは顔を青ざめさせて帰っていったが、彼女連れのよしくんはいまだにご機嫌らしかった。ツキが太いのであろう、どんなに振り込んでも親番を迎えれば待ってましたといわんばかりにガンガンアガりまくる。ラス親で千点から連荘を繰り返し、トップを取ったときは三方からため息と札束が飛んできた。彼は実に嬉しそうな顔をしてそれをかき集め、まるごと彼女にプレゼントしてしまうのである。彼女の方も麻雀は打てるらしかったが、昨夜一荘だけ打ってラスを食ってさっさとやめてしまった。取り替えそうとしないところが実に賢く、天馬は苦々しい思いを抱いていた。
 ところがその彼女が愚図り始めた。暑いから帰ろうというのである。
「まァ待てよ。いま勝ってるからさ。もう少し勝ったらどこか旅行いこうぜ。もち泊まりで」

 天馬がそのセリフにうんざりし顔を背けると、抜け番で膝を抱えていた烈香と視線が合った。彼女はよしくんを顎で示した。どうにかしろということであろう。
(わかってるってんだ。だが、やつは負けないよ十六夜。運が尽きないんだから仕方ねえな。麻雀はリーチをかけてツモってドラが二丁以上あれば、負けやしない。振り込まず、吸い上げる。バカでもできる。そして運ってやつは、そのバカをあっさり作っちまいやがるんだ)
 バカヅキの者を倒すためには、まず転ばせなければならない。そこを畳み掛けるのである。こちらから技をかけたところでひょいとかわされてしまうだけなので、自爆してもらうのがもっともよい。
 天馬はじっとよしくんではなく、彼の首に手を絡めている彼女を睨んでいた。
 ある局面で、珍しくよしくんは先制リーチを上家に食らった。チェッと舌打ちしながらツモる。あっさりとテンパイした。
20, 19

  

 タンヤオピンフ、ドラ四丁。こんな手がツイていると苦もなくできてしまうのである。エイッ、と浮いた八索を捨てた。通った。ふうっと息をつく。
 待ちの二五索はリーチ者の安全牌。よしくんのつぶらな瞳が、いたずらっぽく下家の白垣を見た。
 そこでよしくんの愛すべき彼女が、致命的なことをいってしまった。
「ねえ、なんでリーチかけないの、いつもみたいに」
 よしくんの顔が凍った。
 後ろから見ている天馬は笑いをこらえるので必死である。なぜって、その一言で五索を面子中抜きで捨てようとしていた白垣が、通っていない雀頭を下ろし始めたからである。
 リーチ者の安全牌が通らないと判明した以上、安全牌は今よしくんが振った八索以外にない。天馬は白垣に拍手してやりたい気分だった。
「…………」
 よしくんは頭上から降り注ぐ彼女の言葉のすべてを無視し、次順ツモ切りリーチをかけた。
 それがリーチに当たり、彼の耳が恋慕以外の激情でカッと赤く染まった。
 その半荘、よしくんは三位に終わった。今までの浮きからすればその沈みは微々たるものである。
 意固地になって席を立とうとしないよしくんの対面に、天馬がドサッと腰を下ろした。
「お手柔らかにな、よしくん」
 よしくんは昨夜、一度も沈まなかった。だから三位とはいえ、負けて金が出て行ったという事実が胸に重くのしかかっている。
 博打で金を失う、ということは彼のように荷物をたくさん背負っているものには耐え切れないのだ。
 博打に入れ込むのは、天馬にしろ、烈香にしろ、どこか満たされぬものを抱えた人間である。
 よしくんは圧倒的なリードを得ていながら、日が高く昇る頃にはそのすべてを吐き出し、とうとうこう言い出した。
「カナちゃん、昨日渡した俺の勝ち金、返してくれないかな」
 カナちゃんはびっくりしたように自分の鞄を抱きしめた。
「やだよ、一回くれたお金じゃん。もうカナのだよ」
「そういう問題じゃないんだ――」よしくんの顔にも、お馴染みの薄ら笑いが浮かんでいた。
「払いが足りないんだ。このままじゃ追い出されちゃうよ。それでもいいの。俺の格好悪いところ見たくないだろ」
「もう十分格好悪いよ。最初だけツイてただけとか、なにそれ。詐欺じゃん」
「――――」よしくんの顎が噛み締められ、細かく震え始めた。
「いいから返すんだ。怒るよ、俺」
「は、勝手に怒れば? 意味わかんない。ギャンブルで熱くなるとかマジダサ――」
 カナちゃんは最後までセリフをいわせてもらえなかった。よしくんが座布団から飛び上がるようにして立ち上がり、彼女の頬を張った。
「カナちゃんが悪いんだよ。いや、麻雀が悪いんだ。俺を負かせたりするからね。そう、麻雀が悪いんだよ――」
 すすり泣く女の財布から渡した金以上の札を抜き取ったよしくんは目を血走らせて卓に戻ってきた。
「あの金は、俺が糞面白くもないバイトをしてやっと貯めた金なんだ。こんな遊びで使っていい金じゃないんだ。この夏だっていろいろ買いたいものがあるし、いきたいところだってある。女はその気になれば代わりがいるけど、金は無くしたらそれまでだ――」
「その通りさ、いいこと言うじゃないか、よしくん。がんばって取り返せよ」
「そうとも。偉いぜ、君は本物のばくち打ちさ。僕が保証しよう」
 あまりに二人がにこやかなものだから、よしくんも釣られて笑った。もう背後にカナちゃんの姿はなかった。
 この麻雀バトルロワイアルでもっとも一同が盛り上がりを見せたのは、まだ人数が多く残っており、彼女を捨ててまで打ち続けたよしくんがいたこの時間帯であったろう。
 天馬と白垣のコンビは、驚くべきことに、よしくんが完全にハコテンにされ数人がかりで叩き出されるまで、ただの一敗もすることもなくワンツーフィニッシュを決め続けたのだ。
 大はしゃぎする二人に烈香は侮蔑の視線を冷たく当てた。
「バッカみたい」
 バカでも勝てるのが麻雀のよいところであり、悪いところでもある。
 もし最初にラスを食っていたら、よしくんとカナちゃんは昨夜のうちに仲良く肩を寄せ合って帰っていたことだろう。
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