ニチジョウ ノ イチニチ
昼休み、いつもの如く四人で席を囲んだ。隣に竜二、向かいに村田と法隆寺という、半ば指定席となった組み合わせだ。
「信也。竜二から聞いたで。やっとくっついたんやってなぁ」
開口一番、村田がそう言った。こっちを見上げてニヤニヤしながら、器用に弁当の袋を広げていく。
「おめでとうございます、信也殿。いや、めでたいですな」
「本日はお日柄もよく、ってね」
「……こういう時って、お前らが奢る立場なんじゃねーの?」
「幸せ満喫しとる野郎に、追い打ちなんぞかけてやるわけないやん。ほれ、その手に持ったのとっととよこし」
「わかってるよ」
買ったばかりの菓子パンを机の上に置く。三方向から素早く手が伸びてきて、あっという間に抱え込まれた。
「おおきにー。今日は勝負せんでえぇなぁ。チョココロネ頂きやー」
「では、私もメロンパンたんを遠慮なく」
「クリーム頂くね」
「……またジャムパンか」
ぽつんと残った最後の一つを救出し、俺も弁当の蓋を開けた。
「で、で、信也。結局お前、どんな風に告白されたんや」
「いきなり付き合えって言われた」
言った途端だった。三方向から、「おー」と歓声があがる。
「ド直球やなぁ」
「穴吹さんらしい告白だよねぇ」
「ツンデレは日本の華でありますな。いい、実によろしい」
勝手に盛り上がっているが、まさか同時に首を絞められていた、なんてことは思いもしないだろう。
「でもさ、信也、今日も穴吹さんに睨まれてたよね?」
「せやせや。むしろ殺気が増しとったで」
「ツンデレツンツンツン。といった感じでありましたな」
「別に……前からあんな感じだったろ、穴吹は」
とは言え、仮にも付き合う関係になったのだから、今朝はもう少し柔らかい態度になると思っていた。しかし相変わらずだった。
「おはよう」と挨拶をすれば、どうにか「バカ」と返事が戻ってくる程度だ。無視されるよりは幾分マシなのか、判断に悩む。
「そもそもあいつって、男嫌いなんじゃなかったか」
「その噂ってあれやろ。隣のクラスの顔だけイケメン野郎が、穴吹に告って、こっぴどくフラれたっつー。聞いた話やけど、断られた時に、実は女が好きなんやろ、とかなんとか言ったらしいで」
「うわ、最悪だね」
「断られた本人が腹いせに、というか認めたくない故に、自分に都合のいい事を吹聴しているだけなのでしょう」
「なるほどな」
確かにそれなら、ふざけるなと言いたくなる気持ちも分かる。
「それにしても、お前ら詳しいんだな」
「……信也、お前なぁ……」
「うん?」
「仮にも彼女のこと、自分だけ知らへんのは、ちょーっとマズいんちゃうの」
「信也って、変なところで危機感ないからねぇ」
「信也殿、まさか二股かけているのではないでしょうな……?」
「んぐっ」
何気ないその一声で、漬物が変なところに入った。軽く噎せかけて、茶で勢いよく流し込む。バカ言え、と言いかけた時だった。
「ありえる、それはありえるでぇ! 告白された翌日やっつーのに、こんな風にのんびり飯食っとるド天然男や! 知らんうちに他所に女の一人や二人、できとってもおかしゅーないっ!」
「人聞きの悪い事言ってんじゃねぇよ」
「まぁまぁ、二人とも」
黙々と箸を動かしていた竜二が、静かな口調で割って入る。
「浮気はともかく、信也からきちんと、穴吹さんに聞いてみるべきだよ」
「俺から聞いていいのか」
「放っておいても長引くだけだしね。経験上、尾が引かない内にバッサリ斬った方がいいよ。付き合い始めてすぐ、というか二日目なんだし」
「わかった」
頷くと同時に、村田も腕を組んで、うんうん唸っている。
「やっぱ彼女持ちは言うことが違うわ。なぁ?」
「同感ですな。私も選択肢さえ見えていれば、好感度の上がる的確なアドバイスが出来るのですが」
「……それもどうかと思うよ」
「あーもう、オタクは黙っとりー! ええ加減、お前はお前で、許嫁一本に絞れや」
聞きなれない単語に、弁当を食う手が止まる。
「……許嫁?」
「なにそれ、初耳なんだけど」
「あれ、知らんかったっけ?」
俺と竜二が揃って頷いた。三人の視線が法隆寺の元に集まると、注目された男も、また頷いた。
「確かに、私には親同士が決めた、許嫁の彼女がいます。お互いのことを幼少の頃から今まで、好ましく思っていますよ」
「それこそ漫画みたいな話だねぇ」
「もう結婚相手が見つかってるわけか」
「そう思うやろー……?」
何故か村田の方が、呆れたように溜息をこぼした。反して法隆寺の方は、変わらず平然としている。
「そういう気持ちは、昔から微塵もありません。付き合うのも、あくまで友人止まりの関係ですし」
「でも仲はいいんでしょ?」
「ええんやけどなぁ……まぁ、なんていうんやろ、こいつとその彼女は、一言でいえば……」
「理解ある同志、というわけです」
「……あぁ、そういうことなんだね」
「納得だな」
僅か一言で、これ以上ないほどに納得した。
「つーか、信也」
「なんだよ」
「人の事とやかく言うとるけど、」
「お前が言うか」
「やかまし。そもそも信也こそなぁ、穴吹のことどない思って――」
村田が中途半端に口を開けたまま、黙って後ろを指差した。
なんとなく気配を察して振り返ると、
「猪口、ちょっといい?」
やはり穴吹がいた。
昼休み残り十分。わざわざ校舎から離れた体育館まで来て、弁当を食べようと考える奴はいないらしい。周辺には人気がなく、目の前には両腕を組んで睨みつけてくる、鋭い眼差しだけがある。
「そういえば、聞いてなかったと思って……」
穴吹の顔がほのかに赤くなって、剣呑な表情はますます鋭くなった。
「わ、わたしのこと……っ」
「好きか嫌いか、って?」
「そう! き、きのうは、私だけ、言っただけで! ……その、よく考えたら、返事聞いてないし。本当は嫌われてるのに、あんなこと言ったりしたら、迷惑かな、とか……」
「嫌いな奴とアドレス交換なんてしねーよ」
「じゃ、じゃあ、もし他の女の子が、交換してって言ったら……」
「しない」
「即答!?」
「あぁ。俺が好きなの、お前だけだし」
本心だった。一瞬、時間が止まったかと思えるぐらい、露骨に穴吹の動きが固まった。口元だけが、冷たい酸素を求めるように動いて、言葉にならない言葉を呟く。
「あ、あの……その……」
「だから迷惑とか言うな。嬉しかったんだから」
顔が少し熱い。
そして恐らく、その体温以上に、穴吹の顔は真っ赤に染まっている。
「ど、ど、ど、ど、どこっ!」
「うん?」
「私の事っ! どこが好きだって言うのっっ!」
顔を真っ赤にして、勢いよく前に乗りだしてきて、食ってかかってくる。予想通り、首元へと伸びてきたんだろう両腕を捕まえて、引き寄せる。
「あ、あ、あっ……!」
「お前って、自分の弱いところっていうか、弱ってる自分を周囲の奴に指摘されるの、大っ嫌いだろ?」
「!!」
たぶん、自覚があるだろうから、あえて言ってみた。驚いたように目を見開いた表情が可愛い。心の奥底が疼いて、からかってみたくなる。
「そういうとこが、好きだな」
「えっ!」
「……剣道やってて、全国にも出場してるから、お前のこと深く考えずに"強い"って印象持ってる奴、クラスにも結構いると思う。だけど俺から見たら、お前ってすげー脆い奴にしか見えねぇんだよな」
「……ち、ちがっ……!」
「正直、同じクラスになった時から、目が離せかったな。美人だってのもあったけど」
「う、うるさいっ! バカ! ほら! はやく! うで、うでっ! はなしてよっ!」
「俺のこと嫌い?」
「そんなわけないでしょっっ!! い、猪口がそういう風にっ! 得意げに語ってるのが、腹立つだけなんだからっっ!!」
「悪い。なんか穴吹って、俺と似てるって勝手に思って」
「似てる?」
「俺の場合は、少し、違うんだけどな、」
思わず、口から零れそうになった。
自分の最も弱いところ。
人からすれば、忌み嫌われるだろう、薄汚れた感情。
十年前、自分を誤魔化すために作り上げた、心の在り方。
「……俺、は、」
きぃん、こぉん、かぁん、こぉん。
空気を読んだのかそうでないのか、どちらにしても、予鈴のチャイムに救われた。
「……ごめん、なんでもない」
「そ、そこまで言われたら気になるでしょっ!」
「悪かった。それより戻らないと」
「言えないの」
気まずくなって、今度はこっちが視線を逸らす。ぺた、ぺた、と両掌が添えられて、
「こっち向きなさい」
「いてぇ」
ぐいっと正面を向かされた。再び真っ赤に染まった顔が、目の前に現れる。
「きちんと言って。言えることだけで、いいから」
穴吹の熱が掌に伝わってきて、心地良かった。
不思議と心臓が落ち着いていて、暖かい。
自然と顔に笑みが浮かんだのを知る。
頷いた。
「きちんと言っとく。俺は、君のことが好きです。穴吹優花さん。俺の彼女になってくれませんか」
「…………」
少しの間があって。
こくん、と一度頷いた。「はい」と小さな返事を耳にして、いいな、こういうの、ぼんやり思った。
腕時計を見ると、五時ちょうど。夕日が沈んでしまう前に正門を抜けて、穴吹と二人で映画館のある場所へ向かっていた。
「三十分からだっけ。間に合いそうだな」
「そ、そうだねっ!」
声が少し上擦っていて、緊張しているのが分かった。動きも固く、それを眺めているのも面白い。
「穴吹は、家こっち?」
「う、うん。ドリームプラザから、歩いて十分かからないぐらいっ」
「そっか。映画最後まで見終わったら、家に着くの八時超えると思うんだけど、そっちの方は大丈夫か?」
「八時超えると少し微妙だけど、で、でもねっ、前もって連絡してるから大丈夫! い、猪口は?」
「バイトある日は大抵八時過ぎるしな。全然問題ないよ」
「そ、そうなんだね。バイト、週にどれぐらいやってるの?」
「平日に大体三日。あと日曜固定」
「えっ、結構しんどいんじゃないの、それ」
「意外となんとかなるぜ。二年になって成績に影響でそうなら、また考えるけど」
「すごい、ちゃんと考えてるんだね」
そんなことない、と言おうとして言葉が止まる。笑いかけてくれるその顔を見て「ありがとう」と返した。
「平日は穴吹も部活だろ。ウチの体育会系はキツいって聞くし、そっちこそ大変なんじゃねぇの」
「……す、すきだから。剣道」
緊張しながらも、はにかむように笑ってくれる。なにより、珍しく会話のやりとりが出来ていることに、内心感動する。
「穴吹って、家が道場だったりするの?」
「ち、違うよ。お父さんは普通のサラリーマン」
「そうなんだ。じゃあやっぱ、剣道始めたきっかけとかってある?」
「え、えっとね……」
口ごもる。そして今度はいつもの穴吹らしい表情で、睨むように言ってきた。
「わ、笑わないって、約束!」
「聞いてみないと分かんねーよ」
「む……」
口元が引き締まる。眉を寄せて少し考えた後に、「笑ったら怒るよ」と念を押して、ぽつりと呟いた。
「……リボンの騎士、知ってる?」
「あー、確か、ブラックジャックとか書いてる人の漫画だっけ?」
「うん。小学生の時ね、学校の図書室にあったの読んで、ハマったの。サ、サファイア王女がねっ! すごく、すっごく格好いいのっ!」
両手を握りしめ、穴吹さん、力説。
目が少女漫画のように、輝いていらっしゃる。
「い、猪口っ!」
「ごめん、無理だわ」
「こら! 笑うなぁっ!」
背中をバシバシ叩いてくる。一切容赦なし。
「い、猪口こそっ、なにかないのっ!?」
「なにかって?」
「その、子供の頃の夢とか、憧れとか。ほら、なりたかったもの」
俺がなりたかったもの。記憶を辿ればすぐに浮かびあがるのは、
「正義のヒーロー」
「わっ、ちょっと意外」
「ガキだったから」
そう、何も知らないガキだった。無条件に親から好かれていいのだと信じていた。悪いことさえしなければ、悪いことなど起きないのだと信じていた。
「実際は、そんな単純じゃなくて、いや、むしろ単純過ぎて……」
「えっ?」
根っからの悪人なんて奴はいなかった。それなら、俺自身がそうだったら良かったのに。気に食わない事があれば、すべて暴力で解決できるような、そんな力が欲しかった。
鋭いナイフの切っ先が触れた気分。ずるずると、心臓を覆っていた瘡蓋が剥がれ落ちていく。煙で燻されたように咳き込んだ。どうにか乗り越えたと思っていた事が、何気ない形で顔を覗かせる。
「だ、だいじょうぶ?」
「……変な事言ったな。忘れて」
表面だけ上手に取り繕った苦笑を向ける。引かれたよな、と思って後悔する。
「えいっ」
不意打ちに、とんっ、と指が添えられる。まっすぐな人差し指が、制服の上、瘡蓋を貼り直している最中の心臓に乗る。
「穴吹?」
「私も、言ってなかったよね。猪口のこと、好きになった理由」
指と同じように、彼女らしい、まっすぐな眼差しが飛び込んでくる。その中に、無表情の自分が映っていた。
「猪口って、隙、多すぎるんだもん」
「……隙?」
「うん。結構しっかりしてるように見えてね。誰よりも簡単に、一本取れちゃいそう」
「俺って、そんな弱く見えるんだ」
「うん」
笑顔で言われてしまう。そして、真面目に言葉を続ける。
「私は、強がってる人って好きじゃないの。強いことを賢しげに語る人も、弱いところを自慢げに話す人も嫌い。でも、猪口はそうじゃない」
確信を込めた目で、まっすぐに。
「いつも見てたよ。一生懸命な、猪口のこと―――だ、だからねっ! えっと、ほらっ! 早く行かなきゃ、映画遅れちゃうよっ!」
「あ……」
顔を赤くして、早足で歩いていく。言葉を返す余裕もなく、黙ってその後ろ姿を追いかける。また、瘡蓋の一部が剥がれ落ちたのに、血は一滴も流れなかった。
ドリームプラザに着いた時、映画の開演時間十分前だった。
「じゃあ、チャリ置いてくるから、先行ってて」
「うん」
一度穴吹と離れて、駐輪スペースの方へと向かう。休日は常に満員御礼な場所だが、金曜日の夕方も大差がないらしい。結局、他の自転車を動かすことを繰り返し、僅かな隙間を作って押し込んだ。
腕時計で時間を確かめながら、急いで映画館のある会館へ向かった。
「いた。穴吹」
「……ぁ」
声をかけた時、穴吹はピンクの携帯を手に持って、その画面をじっと眺めていた。目が合うと、慌てたように携帯を鞄に突っ込んだ。
「どした、メールでも来てた?」
「そ、そんなことないっ!」
「そっか。じゃあ入るか。あぁ、携帯の電源切っとかなきゃいけないんだったか」
「う、うん……」
もう一度ピンクの携帯を取りだして、画面を開く。同時に微かな着信の音が響いた。
「メール?」
「……」
気のせいか、穴吹の表情が固い。いつものような厳しい様子ではなく、突かれたら脆く崩れてしまいそうな表情。
「おい、大丈夫か」
「……なんか、変なメールが、来てるみたい……」
「知らない奴?」
「たぶん……。メールアドレスも、なんか、変に文字化けしてるし」
「見せてもらっていい?」
「えっ!? えっと、その……」
尋ねてから、無神経だったかと後悔した。しかし気になるので、怒るだろうなと思いつつ、聞いてみた。
「変な感じのサイトとか、利用してないか?」
「どんなの?」
「アダルト系とか、そういう感じの」
「ないっ! 怒るよっ!」
「ごめん。ただ、思い当たる節があるなら、無視してたらマズイかなって思って。でもそうじゃないなら、適当に無視してりゃ来なくなるとは思うけどな」
「う、うん……」
「迷惑メールが続くようなら考えようぜ。最悪、携帯のアドレス変えるって手もあるし」
「そ、そうだよね。うん、ごめんね。ありがとう」
「気にすんな。じゃあ電源切って中入るか。急がないと始まるぜ」
「うん!」
メールの内容が気になったが、実際、穴吹に心当たりがないなら、単なるダイレクトメールに過ぎないだろう。そこまで気にする事もないだろうと思い、映画館の中に入った。
自販機で券を購入して、スクリーンのある巨大な部屋の中に入った。平日ということもあって、上映五分前でも、それなりに空席が目立っているようだった。
「好きなとこ行けそうだな。真ん中辺りにしとく?」
「そうだね」
部屋の中央付近に向かう。空いている適当な椅子を倒して、並んで席に着いたと同時に、館内放送の「映画を見る時は携帯電話の電源を……」と、お決まりらしいアナウンスが流れた。
「ねぇ、猪口」
「うん?」
心なしか小声で、囁くように穴吹が話かけてくる。映画のパンフレットが僅かな音を立てて、手元に広げられた。
「猪口はこの映画、原作読んだことないって言ってたよね」
「ないな。今更だけど、読んでからの方が良かったりする?」
「大丈夫だと思う。映画、原作に忠実に作ってるって聞いたから」
「そっか」
改めて、手元のパンフレットを見た。「異世界からの手紙」というタイトルの映画は、昨日ネットで調べた通り、アニメ作品らしい。
パンフレット上には、一面に青空と、緑の丘陵らしき光景が広がっている。その丘陵の頂上に、ぽつんと、小さく、後ろ背中を向けた人物が立っていた。たぶん、男だろう。なんとなく、俺達と近い年齢なのだと感じた。
黒髪が風に微かにたなびいている。異世界、というタイトル通り、男はゲームのファンタジーにでもありそうな、白い「ローブ」を着ていた。そして風に流されるようにして、紙きれみたいな物が、青空を飛んでいた。
「これが手紙?」
「きっとね」
手紙の舞い飛ぶ先。映画のキャッチコピーだろう、黒のフォントで記されていた。
『世界を隔て、遠い世界にいる、家族へ』
胸が軋んだ。遠い世界にいる、家族。
(こんなことぐらいで動揺すんな、落ち着け)
内心自分に言い聞かせて、とにかく映画の話題になりそうなことを口にする。
「ここに小さく映ってるのが主人公?」
「主人公というか……うーん、とね」
穴吹が何かを言うよりもはやく、天井から唸るような電子音が響いていた。
『―――上映時刻となりましたので、これより―――』
「あっ、始まっちゃうね」
パンフレットを折りたたみ、口を閉ざす。互いに自分の席に座り、巨大なスクリーンの方へと向き合った。必要のない照明が消されて部屋の中が薄暗くなる。最後にもう一度、注意事項についてのアナウンスが流れた後に、まずは他の映画のダイジェストが流された。
(……う)
思わず眉をしかめたハリウッドの新作には、派手なアクション物が含まれていた。主人公の男が、港の倉庫らしき場所でマシンガンを乱射しまくって疾走していた。紅蓮の炎が飛び交う中、その様子を悠々と見下ろしていた傷痕のある男。ニヤリと笑い、部下に短く指示をだす。
「やれ」
爆音。バリケードになっていた自家用車数台が吹き飛んで、主人公に襲いかかる。主人公の口から絶叫が迸る。
(……ッ!)
心臓がざくざく削りとられる想いだった。さすがに平然と見ることが出来ず、目を強く閉じた。本当は耳も覆いたかったが、隣に穴吹がいるのに、気づかれたら格好悪いんじゃねぇのとか、安っぽいプライドが邪魔をした。そのせいで、激しいブレーキ音と共に、どがん! と何かが衝突する音を聞いてしまった。
(!!!!)
手に汗が滲む。心臓の上に直接ナイフが突き刺さる。
どく、どく、どく、血が溢れだす。
高笑いする悪役の男らしき声。膝を屈する主人公を見下ろし、滑稽なぐらい甲高い声で「ハーハハハハハッ!」笑い続ける。そのことが逆に、気分を落ち着かせてくれた。
そうだ。お前が俺の両親を殺していればよかったんだよ。
お前みたいな、分かりやすい男なら。
誰にでも分かる理想的な悪役だったらよかったのに。
一滴の涙すら流さず、そうやって、嘲ってくれよ。
じーちゃんに殴られた時は、素直に殴り返せ。
娘が抱きついてきたら、それに甘えろ。弱い男なら最高だ。
罪なんて改めなくていい。自分よがりの遺書を残して早く死ね。
そうすれば、俺は、テメェを怨むことで生きていけるんだ。
『彼は日頃から、不眠不休で運送業を営んでいて―――――』
『彼は病気がちで入院している妻のために懸命に――――』
『彼の勤め先もまた、不況の煽りを受けた瀬戸際で―――』
『彼は今も罪を悔いています。娘の結婚式にも顔を出していません』
『―――あなた、少しスピード出し過ぎじゃないかしら」
『―――大丈夫だ、これぐらいなら』
『―――おとーさん、もしもし、もしもーし』
『こら、しんクン。ダメでしょ。パパ運転中なんだから』
一番の悪者はいなかった。それに近いものがあっても、結局のところ、いろんな要因が混ざりあって、突き詰めれば―――運が悪かった。
運が悪かっただけで、ヒトは死ぬ。予想の範疇であったのか、そうでなかったのか。それだけの負荷がかかる程度で、二度と大切な人達に会えなくなる。
『世界を隔て、遠いところにいる、家族へ』
パンフレットの言葉が頭に浮かぶ。いつのまにかダイジェストは終わり、静寂が訪れていた。脱力して肩の力が抜けた時、
『――――♪』
不意に、優しいピアノの音色が響いた。場合によっては眠ってしまいそうな優しさで、ゆっくりと、穏やかに、平穏な曲が流れていく。
両耳を澄ませて聞いた。目を開けてスクリーンの方を見ると、黒一色の画像の中に、一切れの紙片が浮かび上がっていた。
『父さん、母さん、妹へ』
声のナレーション。静かで、落ち着いた男の声だった。
微かな音と共に、画面がゆっくりと明るくなっていく。
「……」
ぱちん。制服を着た女子が、部屋の蛍光灯に繋がっていたらしいスイッチから手を放す。無言でカーテンを引くと、外の世界は今の時間帯と同じ、夕暮れ時の世界が広がっていた。
「……」
勉強机とベッド程度が置かれた簡素な部屋だ。女子は外の光景を無言で眺めた後に、机の方へと歩み寄る。そして、
「……?」
僅かに首を傾げてみせた。整頓の行きとどいた机の上に、綺麗に折り畳まれた紙きれが一枚。
「なんだろう」
広げる。くしゃ、と小さな音が折り重なった。よくある大学ノートの切れ端らしいその一枚。横線のラインが三十行ほど引かれた一ページに、几帳面な文字が、びっしり記されていた。
『今日、夢をみました。朝起きて、家を出て、学校に向かう夢です。
教室に入って席につき、友人と挨拶を交えている時に、目が覚めました。見慣れてしまった窓の外を見て、しばらくは何が現実だったのか、考えてしまった程です。
この世界へ来た時、十六歳になったばかりでした。高校に入学してまだ日が浅く、クラスでもお互いの様子を探るように、交流を深めていたはずです。そうして、息の合う学友たちを探し出して、そろそろ慌ただしい日常を繰り返すのだろうと、信じていました。
帰る方向が同じで、共に帰路についていた友人は、その日、確かに僕に向かって言いました。「また、明日な」と。
その言葉に、特に深い感慨を受けることなく、返事をしました。再び訪れる明日のことを、何も疑いはしていませんでしたから。しかしその日を境に、僕は日本という国、いえ、地球という星の上に立つことすら、叶っていません。
この世界は、紛れも無く『異世界』なのだと認識するまで、それなりの時間がかかりました。しかし一度認めたからには、逃げるわけにも行きません。この世界が、今の僕の現実です。
そういう心構えで、今はなんとか前向きにやっています。
自分が原因であるのに、こんなことを言えるのか分かりませんが、どうかお元気でいてください。また、手紙を書いて送ります』
ある日、なんの前触れもなく、突然、一家の長男が失踪した。遺された家族に宛てて、毎日二通、長男から手紙が届けられた。ただし手紙は郵便受けに入っていることはなく、誰かが手に持ってくるわけでもない。
失踪した兄の机の上。手紙は空間を超えてきたかのように、微かな音と共に「落ちて」くる。
見知った世界地図とはまったく頃なる世界。成績優秀で、趣味で天体観測を行っていた「兄」は、ここが自分の知る世界とは、まったく異なる世界だと知る。「兄」がその世界に「落ちた」のは、今の俺と同じ十六歳だった。
なんの前触れもなく、遠いところへ行ってしまった家族と、残された家族の物語だった。
気がつけば、自分と重ねるようにして映画に見入っていた。手紙の内容には、胸が躍るような冒険譚など一つもなく、ひたすらに、淡々と、言葉、文明、文化、常識、すべてが異なるその土地で、日常を生き抜こうとする様だけが描かれていた。
(……すげぇな)
まっすぐに「兄」は生きていく。時には自分自身、気が狂ったのではないかと不安を記しているにも関わらず、その世界で生き抜こうと努力した。
(……俺は)
逃げだした。十年前、両親のいなくなったこの世界を、日常を、平穏をすべて否定して閉じこもった。生きることを諦めた。
誰かを怒ることも、怨むことも、蔑むことも諦めた。じーちゃんですら、当時の俺は認めることはしなかった。諦めることで楽になろうとしていた。この世界にある「理不尽」に屈して、立ち向かうことも逃げることも諦めたんだ。
そして、幸せだったころを懐かしむ気持ちだけで、黒電話を回し続けた。思い起こせば、今でも頭に響き続けるダイヤルの音。
カララ……キュルルルルル。
この世界は、理不尽に、誰一人として望まなかった未来が、容易に起こり得る。でもだからこそ、
『……貴方の願いを、聞き届けに、参りました……』
望めば、理解の叶わない奇跡も起きる。努力をすれば常に近づくことが出来るし、幸せな事だって降ってくる。「望まぬ理不尽なこと」を否定していたからこそ、その逆の存在であるクロを好ましく思った。
俺は彼女にべったり依存していたが、同時にクロを介して、もう一度この世界と向き合えた。少しずつ変わることも出来た。
(……だから、これからも)
変われる。常に理不尽なことが影を潜めていて、その姿に心細くなることもある。それでも、前に進んでいける。変わりたいと望む自分がある限り。
上映時間の二時間が過ぎ、スタッフロールが流れ始めた。館内に照明が戻り、席を立つ音が周りから聞こえ始めた時だった。
「どうだった?」
「……ん」
隣に座っていた穴吹が、指で軽く肩を突いてきた。少し潤んだ眼差しを浮かべているなと思った時だった。
「あれ、猪口泣いてる」
「えっ」
穴吹の目が僅かに見開かれていた。条件反射のように片手が伸びてきて、言葉を挟む余地なく捕まった。頬の上を撫でられた。
「俺、泣いてる?」
「うん。結構涙もろいんだね」
「いや……」
思い出せなかった。十年前ならともかく、最近泣いた記憶なんてない。
「気がついてないだけでしょ」
心の内側を読みとったかのように言われてしまう。
「……そうだといいな」
「うん、きっとそうだよ」
優しげな、落ち着いた声でそう言って。もう片方の手が、淡い色のハンカチを取りだして、それもまた目元に触れた。多分、今だけは、俺の方が赤い顔をしているに違いなかった。
「ふんふんふ~ん♪」
映画館をでてからずっと、穴吹の機嫌がいい。逆にこっちは泣いていたらしい痕を見られてしまって、むず痒い思いだった。
「ねぇ、猪口、どこで泣いたの?」
「覚えてない」
「あ、照れてる?」
「そんなことない」
「ふふ。やったね。猪口の弱いとこ、一つ見つけた」
「誰にも言うなよ」
「言いたくない」
大通りから路地に入り、穴吹の家がある住宅街に着くまでの間、小さな針先で、ずっと軽く突かれている気分だ。確かに映画の後半は見入っていた自覚があったが、まさか、自分が泣いているとは思ってもみなかった。
「いいお話だったよね。ハッピーエンドとは言えないかもしれないけど」
「そうだな。綺麗な話だったな」
「どこが綺麗だと思った? きっとそこで泣いたんだね」
「ノーコメント。そろそろ勘弁してくれ」
「仕方がないなぁ」
隣でくすくす笑われる。胸がずっとチクチクして、早くこの場を離れたいような、離れたくないような。初めて見たかもしれない彼女の笑顔を、こんな気分で見ることになるとは想像すらつかなかったわけで。
「……相変わらず穴吹は、予想の斜め上をいくよなぁ」
「なによそれ、悪い?」
「いや、いい意味で」
彼女の表情に笑みが広がる。つ、と指が制服の裾を引っ張り、続けて目の前を指差す。
「送ってくれてありがとう。そこ、私の家だから」
「あそこか」
「よかったら晩御飯食べてく?」
「惜しいけど、遠慮しとく。ウチもじーちゃんが待ってるだろうし」
「残念」
柔らかく笑って、俺もきっと苦笑した。
本気で言ってるわけじゃない。分かっていても、焦ったし、内心本当に残念だと思っている自分がいたりする。
「今日は遠慮しとくけど、また、機会があったら呼んで」
「明日の土曜日は空いてる?」
「早速?」
「そうじゃなくって、その、晩御飯じゃなくって……」
「また、どっか遊びに行く?」
「行きたい!」
「じゃあ、家に帰って落ち着いてから電話してもいいか? 一時間後ぐらいになると思うけど」
「全然大丈夫っ。あっ、携帯の電源」
「あぁ、切ったままだったな」
二人、制服のポケットから携帯を取りだし、電源を入れなおす。見慣れた待ち受け画面が表示される。特に着信なし。思った時、すぐ側から短い着信音が響いた。
「―――――」
「穴吹?」
ついさっきまで、柔らかく笑っていた彼女の顔が、青ざめていた。
「…………ぁ」
「おい、どうした」
「……メー、ル……」
「メール? 映画見る前に言ってた、迷惑メールか?」
震えていた。
不安で塗り固めたような瞳が潤んでいる。怖々と、俺の方を見た。
その姿を見て、忘れていた夜風の冷たさを思い出した。
背筋に寒気が奔る。妙な胸騒ぎがする。
「見せて、穴吹」
「……ぁ、ぅ……」
「大丈夫だから。余計なとこは見ないから」
手を出す。穴吹が迷った素振りを見せつつも、ピンク色の携帯を手に乗せてきた。