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『彼の路』

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 家の前、電話で呼んでいたタクシーが止まった。自動で開かれた扉に向かって、美緒さんと二人、じーちゃんを支えるようにして歩いた。
「……むっ……くぉっ……!」
「おい、大丈夫かよ」
「……バカタレが、誰のせいだと思っとる……」
「ごめん」
 素直に謝ることが出来たのは、いつもの威勢の良さがなかったからだ。むしろ悪態を返してくれたことに、ほっとした。
「では、先に病院まで送っていきますね」
「お願いします。チャリですぐ追いかけますんで」
「はい。翔也さんは横になっていてください。私は助手席に座りますから」
「スマンの……」
 扉が閉まる。美緒さんがこちらを見て、窓越しに軽く会釈した時だった。

 ――おいていかないで。

 声を聞いたような気がした。十年前の自分によく似た感じの、けれど自分のものではない声。心臓を掴まれるような気持ち。
(……進まなきゃ、いけねーんだよ)
 声を振り払う。身体が動いていた。窓ガラスをノックするように軽く叩くと、内側からの操作で窓が下がっていく。
「信也さん? どうかされましたか?」
「……あの……」
 変わるんだ。そのために今、一歩踏み出さなければいけない。
 十年の間、変わったつもりで逃げていた。克服したつもりになって避け続けていた。
「俺も乗ります。うしろ、開けてください」
 言葉にした瞬間、自動車と呼ばれる塊が、とんでもなく恐ろしい物になったように感じた。ありふれた代物、日常で目にすることが当然と化した存在。

『それは、容易く人を殺すことができる。
 それは、安易に絶望を運んでくる。
 それは、俺の両親を奪っていった。
 それは、この世界にあっていいものなのか?』

 額の上、冷たい汗が流れ落ちていく。近寄りたくない。それでもこの場に一人残されて、孤独を味わうよりはずっとマシだと思えた。
「……あの、でも、信也さんは……」
「大丈夫です、たぶん。本当に無理だったら降りますから」
 日常で、当たり前すぎるほど見慣れた物。後ろの席へ、乗り込んだ。
「……信也?」
 座席で横になったじーちゃんが、目を見開いている。普段は浮かべない、心底驚いた表情だった。
「なんだよ。鬼の目にもなんとかって顔してんじゃねーよ。ほら、少し避けろ。座れないだろ」
「……」
 黙っているじーちゃんの足を押し退けて、強引に座席の隅に座り込んだ。両肩が上下するぐらいに、息を大きく吸って吐きこぼす。覚悟を決めた。いざ座って、じっと前を見ていると、思った以上に平気だった。早速トラウマが起きてきて、気分が悪くなるとか思っていたのに。
「お客さん、駅前の病院で宜しかったですね?」
「はい、お願いします」
 運転席に座ったおっちゃんにも、平然とそう言えた。
「……信也さん……大丈夫ですか?」
「すいません、なんか、大丈夫みたいです」
 正直なところ、若干拍子抜けした気分だった。
 なんだ、本当に平気じゃねぇか。
「出発しますよ」
 ガチャリと扉がロックする音。サイドブレーキが下ろされる。低い駆動音がして、身体が後方へ動いた。時だった。

 ――――どくん。

 シートに背中を預けたのと同時、心臓が飛び跳ねた。

 どくん、どくん、どくんっ!

 はやくなる。どんどん、どんどん、はやくなる。
 反射的に口元を押し留める。前屈みになる。
 さぁ―――っと、全身の血の気がひいていく。気持ちが悪い。
 喉元を急激にせり上がってくる胃液。
「………………ぁ………………」
 ウソだろ、なんでだ。
 身体が震える。ひどく寒かった。鳥肌が総毛立つ。頭が痛い。
 耳元で、キンキン甲高い音。揺れる視界。
 点滅する。光景が無茶苦茶に入れ変わる。現在と過去。
 現在、過去、現在、過去、過去、過去、過去。
 十年前十年前十年前。
「―――もう、十年経つんだなぁ」
 幻覚。幻聴。父さん、母さん。
 何度も夢で見た。現実で再現したのは初めてだった。
 優しい二人の声。もうこの世界にはいない。二人の面影を見た。
「じゃあな、信也」
「元気でね」

 キュルルルルルッッッッ!!!

(……なんで……!)
 もう、大丈夫だと思ったのに。
 怖い。嫌だ。殺される。助けて!
 当たり前のように、簡単に人を殺せる箱。蔓延っている。
 その箱の中に閉じ込められている自分。逃げ場がない。どこにもない。
 歯の根元が震える。がたがた、がたがた、震える。
 夕暮れから移り変わった夜の空。良く晴れていた。月が見えていた。
 
 今も。

「…………ッ!」 
 嗚咽がこぼれる。歯を噛みしめて耐える。手の甲に爪を立てて突き刺した。
(もう、後戻りなんて、したくないのに……ッ!)
 まっすぐ、まっすぐ、前に進みたいだけなのに。どうして、どうして、上手くいかないんだ。畜生、畜生、畜生がぁ……ッ!
「―――お客さん?」
「信也さん、顔色が……」
「……平気です。大丈夫。だから……進んで……頼む、から……」
 虚勢を張った声。あんまりだった。情けねぇ。くやしい。なんで俺は、こんなにも弱いんだろう。
 今すぐこの場から逃げ出してしまいたかった。自分の部屋の中へ閉じこもってしまいたかった。そして、延々と、黒電話を、ぐるぐる、回して……

「信也」

 ぼすんっ。大きな手が背中に落ちてくる。加減をしていたつもりなんだろうが、勢いよく押された形になって、思いっきり噎せた。けれどその後に、ゆっくり上下にさすられる。優しさに縋るようにして、そっちを向いた。
「じーちゃん……」
「無理すんな。泣きたいときゃ泣け。逃げたい時は逃げろ。だが安心せい。ワシはなにがあっても、百二十までは死なんし、お前もいつまでも落ちこんどるタマじゃねぇ。まだまだ甘っちょろいところはあるが、それでもお前は、立派なワシの孫であると同時に、一人前の男だろうが」
「……んだよ、それ」
 極道顔のジジィが言うと、妙に似合うクサい台詞。感動するどころか、思わず噴きだしてしまった。
「失礼な奴め」
 途端に渋くなるじーちゃんの顔を見て、ますます笑えてくる。胸の中の重たい物が、消えていく。
「今の遺言だよな?」
「やかましいわ、クソガキが」
 慣れたやりとり。それがゆっくりと、いつもの調子を取り戻してくれる。
「んだよ、ストレート一発で伸びやがったくせによ」
「バカ言え。わざと食らってやったのがわからんか」
「嘘つけ。めっちゃ本気で殴りに来てただろーが」
「ハッ! ケツの小せぇ青二才に本気で殴りかかるわけなかろうが! ありゃワシの半分程度の力じゃ!」
「あー、そうかよ、なら次は本気でくればいいだろ。また殴りかえしてやるから、いつでもかかってきやがれ」
「ガキが! 小さい癖に口だけは達者に回りおるなぁっ!」
「子供扱いすんじゃねぇっつってんだろっ!」
 一触即発。
 いっそもう、本気で顔面にブチかましてやろうかと思ったぐらいだ。タクシーは気がつけば止まっていて、運転手は、どうしたもんか困ったようにこっちを見ている。それから、
「仲、よろしいんですね」
 美緒さんが堪えられないといった様子で、笑っていた。
 口元に手を添えて、目元には涙を浮かべて、笑っていたんだ。
 俺達を見て、嬉しそうに。
「……ぅ」
 込み上げてくる想い。それはある意味、物理的にも。
「信也さんっ! これっ!」
 慌てて差しだされた紙袋。
 礼を言う暇もなく、口を突っ込んで、吐きこぼした。


 *

 病院についた後は、俺も内科の方で診療を受けていた。トラウマだけでなく、朝から体調が悪かったせいもあってか、タクシーを降りた時には、また足元がふらついていた。
『――大事には至りませんが、様子を見るために、一日入院しておくのを勧めます』
 体温をはかったところ、熱は三十九度を超えていた。一度熱があるのだと自覚すれば、すぐに身体が重くなってきた。倒れるように病院のベッドで横になったあとは、点滴に繋がれて、入院患者用の二人部屋に通された。隣のベッドは空いていた。
「まったく、軟弱者が」
「……うるせーよ」
 口元を緩めてニヤリと笑う極道顔。美緒さんは平然としてたが、側にいた看護婦さんが「はうっ!」と短い悲鳴を呑み込んだのを聞く。それにしてもこのジジィ、回復が早過ぎんだろ。なんでもう、平然と自分の両足で立ってやがるんだ。
「バカ孫が、面倒ばかりかけさせおって」
「……わりぃ」
「構わん。子供はそれぐらいが丁度えぇ」
「……子供扱いすんじゃねぇ」
 ジジィがククッと笑いを押し殺す。ごつごつした掌が、頭をゆっくり撫でていく。その傍らで優しく微笑をする美緒さん。途端に恥ずかしくなって、熱が上がるのを感じた。
「……もう、大丈夫みたいですね。私はそろそろ失礼致します。主人が待っていますので」
「うむ、達者でな」
「……はい、ありがとう、ございます……」
 深々と頭を下げる女性。俺と同じ、十年の時を費やしてきたヒト。
 反射的に口を開いていた。
「…………美緒、さん。いま、しあわせ、ですか……?」
 熱で朦朧とする意識。ぼんやりと霞ががった頭。
 涙でいっぱいになる目を見た。見つけたよ、そう告げていた。
「はい」
 笑う。それを見て思った。深い理由なんてない。直感だった。
 よかった。貴女が、生きてくれていて。
「……また会えますか?」
「いつでも、喜んで」
 望めばまた会える。いつかきっと、会いにいこうと誓う。
 美緒さんと、美緒さんの子供に。小さな幸せを精一杯、祝福するために、いつかもう一度会いに行こう。
 遠ざかる人の背を見送った。看護婦さんも部屋を後にして、部屋にはじーちゃんと俺だけが残された。
「信也。いつのまにやら、大きくなりやがったな」
「……だろ?」
 照れくさくて、そんな風にしか言えなかった。当たり前に見透かされていて、ニヤリと笑われる。そしてもう一度、ゆっくり頭を撫でられた。軽く咳払い。じーちゃんの癖だった。
「少し、昔話でもするか」
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