第三話
――あれは夢だったのかな。覚めたらまたあのつまらない世界にもどるのか――
――夢でもあり、夢でもない。そんな世界。普通の中に混じる普通じゃないもの――
「「世界は一つじゃないとぼくは知っている」」
「異世界って一つなの?」
「一つでもあり、無数でもある。それは見方の問題だよ。キミが普通じゃない。でもほかとは違う普通じゃないものだと思えばそれは二つの世界。そうやって世界は増えていく。でも忘れないで。キミの世界はあくまで一つ」
昨日は珍しくお客さんがいた。その子は自分を、世界をつまらないものだと思っている。でもそうじゃない。知らないだけ。自分はもう普通じゃない。世界は元から普通だけじゃない。それを知るべきかどうかはわからない。でももうキミは知ってしまった。後は自分で気がつくだけ。それに気がついたとき、彼はどんな顔をするだろう。
今日もいじめは続いている。誰も僕を見ない。誰も僕にしゃべりかけない。誰も僕の相手をしない。そして机の上には花瓶。
なんてつまらない空間だ。こんなに人がいるのに、一人の空間。自分じゃないものだらけで、押しつぶされそうだ。
今日も彼はいるかな。あそこに行けば彼と話せるかな。
僕はまた屋上まで駆けるように登っていった。そして鍵の壊れたドアを押し開けるようにして外に出る。
あたりを見回して金網のむこうに彼の影を探す。
しかし彼の姿はなかった。
「また一緒にこようっていったのに。というかやっぱりあれは夢だったのかな」
落ち込みながら地べたに座って金網のむこうを見ていると、頭上から声がした。
「やあ。また会ったね」
彼は屋上の出入り口の屋根に腰をかけていた。
「やっぱり夢じゃなかったんだ!」
「今日はまだ早いから、たそがれ時まで待つことにしよう。それまで僕とおしゃべりでもしようじゃないか。僕はキミに興味がわいてね、君の事を教えてくれよ」
そうして僕はいろいろなことを喋った。家族のこと、学校のいじめのこと、好きなテレビ、暇な時に何をするかとか。
彼は聴き上手で、絶妙なタイミングで相槌(あいづち)と質問を織り交ぜてくる。
自分のことをしゃべるのは少しくすぐったかったが、不思議としゃべることができた。
気がつくとどんどん喋ってしまい、いつの間にかあたりは、昨日と同じ黄金色とオレンジ色を混ぜたような世界になっていた。
「さて、いい時間になってきたし、そろそろ場所を変えよう。安心してくれ、今日は飛び降りたりしないから」
界人は笑いながら言った。
「今日は別々に行こう。旧校舎の理科室へおいで。そして掃除用具入れをあけて九つ数えてから出てごらん」
それだけ言うと、彼は先に行ってしまった。
この学校には旧校舎がある。『旧』とつくだけあって、今は教室としてつかわれていない。
今時珍しい木造作りのため老朽化が進んでおり、現在は立ち入り禁止だ。
といっても、よく肝試しの場所として使われているため、夏場は人の出入りがよくあるらしく、その際に幽霊が出たなどの話は聞かない。
そんなことを考えながら、旧校舎の前にたどり着く。
理科室は旧校舎の二階の角にある。
僕も一年生の時に一度肝試しで入ったことがあるので、場所は知っていた。
旧校舎に入ると、ほこりとカビの臭いが鼻の奥を刺激する。旧校舎は、現在使われている校舎の影のなるところに建っているため、いっそう暗い。非常灯も点いていない廊下と階段は薄い闇が静かに外の光を飲み込んでいる。
無音の中、ギシギシと軋む床と階段の音だけを聞きながら理科室へと足を進める。
やがて理科室に着き、スライド式のドアを開けて中に入ると。すぐに掃除用具のロッカーがあった。
掃除用具のロッカーは、ちょうど人一人が入れる大きさだ。ロッカーを開けると、さらにほこりが舞い、少しむせた。ボロボロのほうきと一緒にロッカーの中へ体を入れる。
目をつむり、九つ心の中で数える。
コンコン
数え終わるころに、ロッカーのドアを外からノックする音がする。
「やあ、無事に来れたようだね。もう出てきていいよ」
界人のやわらかい声を聞いて、内心怖くなってどきどきしていた鼓動が収まる。
「実を言うと途中で怖くなって引き返そうとしたんだ」
ロッカーを開けて、界人の手を借りてロッカーの外に出る。さっきまで暗かったロッカーの外が明るくなっていて、目がくらんだ。
「そうか。でもよく来たね。今日は昨日とまた違ったところへ案内するよ」
真っ白になった視界がだんだんとさだまってきた。唖然とした。
緑が一面に広がる草原にいた。
さっきまでほこり臭かった鼻は、今では朝露を含んだ緑の香りであふれており、全身に触れる風はシルクのようにやわらかく、日差しはまるで春の陽気だ。草と草が風で揺れて奏でる静かな波音。遠くで聞こえる小鳥の鳴き声。そして大きくて立派な木が一本。
「これって・・・いったい・・・」
「ここはそういうところなのさ。それだけで十分じゃないか」
界人は僕の大きな木の根元に腰をかけ、どこから出したのか、文庫本読み始めた。
ここは時間の流れがゆっくりだ。すべてが穏やかで、優しくて暖かい。僕は界人の隣までゆき、寝っころがった。
まるで母親の胎内にいる赤ちゃんのような気分だ。何もかも包み込んでくれるような。
目が覚めると、隣に界人はいなかった。代わりに界人がいた場所に読んでいた文庫本がおいてあった。なにげなしにその本を手に取り、ページを開く。
「何も書いてない・・・」
その本は真っ白だった。何ページめくっても真っ白。ただ、最後のページにこう書いてあった。
“木の裏に穴があるからそこからお帰り”
本に書いてあるとおり根のところに人がギリギリ通れるくらいの穴があった。
そこを抜けると、僕はまた屋上にいた。もうすっかりあたりは暗かった。