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2日目 ブリクストンの銃

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「きみはあと一ヶ月で死ぬ」

天使、ドアは言う。あまりにも簡単に、あまりにも冷静に言う。
東向きの窓からは怖いくらいに明るい月が見えて、夜空を我が物顔に牛耳っていた。星は見えない。
部屋の輪郭がぐにゃりと曲がる。ハチの頬には、薄く汗が滲んでいた。

「ど、どういうことだ」
「死ぬ。きみは一ヵ月後に死ぬ」

ドアは耳に髪をかけて、ただ繰り返すだけ。その顔には感情がなくて、現実味の欠片も見えない。
どくん、どくんと。心臓が脈打つ。信じられない言葉なのに、どうしたって疑えないのだ。

「ちょっと待ってくれ……意味がわからん。なに言ってんだよお前」

けれど彼は、それでも聞き返すことしかできなかった。だって、自分が死ぬなんて。もっと先のことに決まっている。こんなに早く、突然に宣言されるなんてあり得ないじゃないか。

「天使の力は、人の心の扉を開く。ただし、力は鍵。きみの命が動力になる」

梅雨が明けて、日本は夏へ向かう。まっすぐと、わき目も振らずに向かう。
遠慮がちな風がカーテンをふわふわと舞わせて、二人だけを囲む。

「死ぬって、まさか、はは。嘘だろ?一ヶ月でなんて」
「きみは信じたのでしょう、その力。なら、死ぬことも信じられるはず」
「だって急すぎるじゃねえかっ。だいたいお前が勝手にキスして、勝手に力を寄こしたんだろ!」

ハチは少女の肩を乱暴に掴んで、体を揺さぶった。ドアは眉ひとつ動かさずに、彼の目をじっと見つめている。
それが苛立ちを加速させて、ハチの冷静さを奪った。ぐっと歯を噛み締めていなければ、彼女を殴ってしまいそうだ。
ドアは見下すようにハチに焦点を合わせ、やがて口を開く。

「不満を言っても変わらない。きみは人生に失格している。死ぬのは決定」

たったそれだけ。天使の言葉は彼の耳に突き刺すように、命の期限を言い渡したのだった。






2日目
「ブリクストンの銃」






重たい瞼を開けると、いつもの天井が見えた。
目を擦って、欠伸をひとつ零す。ぐっと両手を伸ばせば、関節が細く唸る。
昨日のことを思い出すと、自分でも笑っちゃうような場面ばかりが思い浮かんだ。
天使が現れて、キスをされて、不思議な力を手に入れて。それから、一ヶ月で死ぬと言われて。
馬鹿馬鹿しいにも程がある。全部が悪い夢だったんじゃないだろうかと、起き抜けの頭でハチは思う。
もしも今、天使が部屋にいなければ。それは本当に夢になるんだ。

「きみ、寝すぎ」

だが、そんな浅い希望は簡単に消えた。少女の声だけで、綺麗さっぱりなくなった。
まるで気の知れた友達のように、ドアはベッドの端っこに腰掛けている。

「黙れ」

まったく天気のいい朝だってのに。彼女がいるだけで部屋に影を落とすのだ。
ハチは髪の毛をかき上げてから、壁にかかった時計へと視線を向けた。短針は9と10の間に不甲斐なく挟まれている。ニートには少し早い時間。
スプリングを軋ませて、ベッドからのっそりと起き上がる。それからドアには目も向けずに、部屋の扉を開けた。
彼女はまだ縁に座ったまんま、彼を横目で追っている。

「どこへ行くの」
「飯食うんだよ」
「そう」

振り返ったらきっと、ドアは物欲しそうな顔をしているんだろう。そんなことが頭によぎって、なんとなく聞いてみる。

「……お前も食うか?」
「あるの?」
「あるか。嘘だよバカ」
「そう」

軽口を言ってみても、彼女の声色はまったく変わらない。とことん面白味のない天使だと、ハチはため息混じりに部屋を出た。







すでに並べられていた朝食をつついていると、母親がスーツに着替えてリビングに入ってきた。
テレビ画面ではワイドショーがやっていて、名物アナウンサーが昨今の不況を力強く訴えている。

「じゃあ、そろそろ行ってくるわね」

母親は鞄のなかの書類を確認してから、ホルダーを止めて言った。
気のない返事で答えて、ウィンナーを口に運ぶハチ。そんな彼を見て、母親は微笑む。

「ハチは今日もアルバイト?」
「あ、ああ」

できるだけ抑揚なく答えたつもりだったのだが、やっぱり不自然になってしまう。母親はそれを疑ったりはせず、そのまま全部、信じてくれた。

「帰りは何時ごろになるの?」
「あー……今日は遅くなるかもしれない」

考えたふりをして言った言葉は、ハチ自身を憂鬱な気持ちにさせる。
今日だって、特になんの予定もない。またパチンコ屋なんかで時間を潰して、日が暮れたころに帰ってくるだけ。
それでも、彼には力がある。天使の力っていう、とぼけたような名前の力。だけど威力は絶大で、ハチの世界を変える力。
お金に苦労していた昨日までとは違うのだ。時間を潰す方法だってたくさんある。
母親は笑顔を崩さずに、もう一度「行ってくるわね」と言い残して玄関へ向かった。
しばらくして、扉の閉まる音が響く。ハチは興味のないテレビを眺めながら、残りの朝食をつっついた。







時計は回る。世界も回る。
時間は巡って、命を減らす。生きる人の人生を削っていく。
部屋の中には二つの影。茶色い髪の少年と、真っ黒の髪の少女。人と天使がそれぞれいた。

「なにか、しないの?」
「なにをだよ」
「死ぬまでに、したいことはないの?」

ドアはベッドに浅く腰をかけて、少年の横顔を眺めている。向かいでハチは漫画を捲りながら、無愛想に答えた。

「あと一ヶ月で死ぬって言われて、ああそうかって納得できるわけないだろ」
「人はいつか死ぬ」
「こんなに早くは死なない!」

怒鳴り声が部屋を満たす。ハチの拳は震えていて、今にもドアに掴みかかりそうだった。
そんな彼とは対照的に、ドアの細い体の線は、静かにまっすぐ伸びている。

「そんなのわからない。知らないだけで」

耳に心地のいい声。天使の声。だけど今は、こんなにも感情を逆撫でする。
短く息を吐いてみても、ハチの気持ちは治まらなかった。
彼だってわかっているんだ。ドアになにかを言ってみても、どうせ変わりっこないんだって。わかっているんだ。
けれど、このまま顔を合わせていることはできなかった。

「……くそっ」

吐き捨てるように呟くと、ハチは部屋の扉を開けた。ドアはその背中を眺めるだけで、止めようとはしない。

「人って面倒」

力任せに閉められた扉は、ドアとハチを区切る。







目的もなく家を出たハチがやってきたのは、やっぱりと言うか。パチンコ屋さんだった。
てきとうに台を見繕って座ったのだが、二万円を入れても大当たりがこない。しばらくすると苛立ちが募ってきて、たちまちタバコがなくなってしまう。
彼の隣に座ったおじさんはすぐに当たりを引いて、今もじゃんじゃんと玉を箱へ流し込んでいる。ハチは横目でそれを眺めながら、心の中で強く願った。
席を立て、家に帰れ、俺と席を替われ。
そう思ってから数分。おじさんはしきりに時間を気にし始めた。これは兆しだと、ハチは知っている。もう少し。缶コーヒーを買うために席を立つ。
台に戻ってきた頃には、おじさんは店員を呼んで玉の清算を始めたところだった。台は確立変動中。みすみす止めるはずのないタイミングに、店員も周りの客も困惑気味に彼を見つめている。

「お兄ちゃん、ここ座っていいよ」

おじさんは椅子から立ち上がると、すぐにハチへ声をかけた。普通だったら驚くだろうが、昨日にもう経験してしまっている。軽く頭を下げるだけで、その席に腰を下ろす。
二人の様子を、周りの人たちが怪訝そうに見つめていた。







負けた分の二万円は簡単に取り返して、その上いくらかの利益も得た。
店を出たのは閉店間際で、もう夜空が広がっている。
このまままっすぐ家へ帰っても構わないのだけれど、そんな気持ちにもなれない。
ハチはふらふらと繁華街を歩き、更に時間を潰す場所を探す。どこでもいい、家に帰りたくない、あの少女と顔を合わせたくないだけなのだ。
そうして彼が見つけたのは、一軒の居酒屋さんだった。大学に行っていた頃は、友人たちとよく来たっけ。どうしてだろうか、憂鬱な気分が心を覆う。
財布を確認することもなく、ハチはすぐさま店へと入った。
暖簾を潜ると、一気に喧騒が耳をつく。けったいな笑い声も、意気のいい店員の声も。全部が全部、彼の体にかかる。
眉間に皺を寄せながら店内を見渡すと、前掛けをした男の店員が歩み寄ってきた。

「何名様ですか?」
「一人です」
「こちらへどうぞ」

マニュアルどおりのやり取りをして、店員が指し示した席に腰掛ける。メニューを開くと、すっとおしぼりが差し出された。

「お決まりになりましたらお呼びください」

女性の店員もいるってのに、なんだか損した気持ちになっちゃう。できるだけ無愛想に接してやろうと心に決めた彼は、すぐさま答えた。

「決まった。これとこれとこれ。あと生ビール」
「あ、えー、生ビールと、」
「これとこれとこれ」
「あ、はい、えー……かしこまりました」

メニューを指差して注文すると、店員は慌てたようにハンディを打ち込む。居酒屋に一人で来て、男の店員に接客された悲しみを思い知るがいいのさ。
おずおずと引き下がって行った店員を眺めてから、改めて店内を見渡してみる。ほらやっぱり可愛いバイトもいるじゃないか。ハチはまたまた損した気分になる。
しばらくするとお通しと生ビールが出された。一口流し込むと、喉が生き返るように潤っていくのがわかる。
お通しは玉ねぎのサラダみたいなやつ。なんだこれは、玉ねぎが苦手と知っての狼藉だろうか。バカにしてやがる。
それを食べようか食べまいか考えながら突いていると、後ろの席から大きな笑い声が飛んできた。できるだけ小さなモーションで振り返ると、五人の男女が楽しげに会話をしているのが見えた。

「……うっせえな、帰れよ」

なんとなく悪態をついてから、思った。今の彼には力があるのだ。だからこの想いは、現実になるはず。
そして、それは三杯目の生ビールが席に出されたころ、実現したのだ。

「そろそろ帰ろっか」
「えー、もう?」
「なんか飲みすぎたみたいだし」
「そうかな……そうだね、出よっか」

つくづく馬鹿でかい声で、後ろの連中はぞろぞろと席を立つ。それに続いて、他のテーブルの客も会計へ向かい始めた。
一気に静まり返った店内に、彼だけが残る。店員は何事かと目を丸めているが、それはハチも同じ。
帰らせたかったのは、後ろの席に座っていた五人だけ。それなのに、客がすべて店を出て行ったのだ。
彼にはまだ、天使の力の使い方がよくわかっていなかった。ドアの説明だって曖昧なものだったし、なにより経験値自体が乏しい。

「……まあ、静かだしいいか」

あれやこれやと考えてみても、どうせわかりやしない。こんなデタラメな力に、きちんとした法則なんてないのかもしれない。
早くもジョッキを空にしたハチの頭は、そんな結論に達した。







静かな店内。客は一人。
ハチの席に伏せられている伝票には、生ビールの欄に13と書かれている。机の上には焼き鳥が数本と、グラス半分のモスコミュール。酔うと甘いのが飲みたくなるよね。
灰皿は押しつぶされた煙草で溢れている。それだけで、もう何時間もいるのだろうと予想することができた。
今は何時だろうか、時計を持たない彼にはわからない。
ぐるぐると揺らぐ視界が気持ち悪くて、机に突っ伏してみる。まるで走馬灯のように、天使の言葉が頭を巡る。

一ヶ月で死ぬ。
それはつまり、自分の存在が消えてしまうこと。

死んだらどうなるのだろうか。幽霊になったりだとか、天国に行ったりだとか。明確なその後があるのだろうか。
そんなことを考えると、どうしてか幼いの頃を思い出した。
ラジオ体操のスタンプを押してもらっている場面や、シャープペンの芯を好きな子から借りようとしている場面。輝かしい今まで。なんでもない思い出ばかりが浮いて出てくる。
それから、フラッシュバックのようにイメージが弾けた。これは一番、嫌いな思い出。
父親の葬式の様子が、スライドショーみたいに流れてくるのだ。その中でハチは、一枚一枚の場面に言葉を添える。おかしな夢に続いていく。



母さんは泣かなかった。
見たこともないような、親戚の人だとか。父さんに世話になったって言う、会社の人だとか。
いろんな人たちが母さんの肩に手を乗せて、気をしっかりだの、頑張りなさいだのと言うなかで。
母さんは泣かなかったんだ。
そのくせ、俺には泣きなさいって。優しく笑いながら言ってた。
泣けるときに泣かないと、後から苦しくなるよって。笑って言ってた。
俺はあのとき、泣いたんだろうか。ちゃんと、満足に泣けたんだろうか。



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