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3日目 生きるということを

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閉店時間だと、追い出されるように店を出たのが30分ほど前。ようやく酔いが醒めてきて、足取りも確かなものになった。
自販機で缶コーヒーを買って、ひねもすのたり街をぶらつく。空にはいっぱいに雲が広がっていて、ハチの心をどんより曇らす。
目的もなくふらふらと、足はひとりでに進んだ。どこへ連れて行く気なのかはわからないけれど、ここよりもいい場所に違いないと。そう思うことしか今はできない。
いつのまにか、彼は公園の前にいた。取ってつけたようなジャングルジムと、枯葉や枝木が掛かっている砂場。こんな小さな公園に、ハチはいた。
繁華街を抜けて、線路沿いの県道を二本下ったところまでは記憶があるのだけれど。それからここまで、どうやって来たのか覚えがない。
周りを見渡してみれば、家からそう遠くないのがわかった。そして、どうしてか安心してしまう自分に腹が立った。



彼はいったい、なんのために生まれたのだろうか。なにをするために生きているのだろうか。
夢があって、それを実現できなくて、けれど生きるだけの条件はあって。
そうして今まで、何もかもに目を瞑って生きてきた。生きているだけで、死ななかった。
それがどうだ。あと一ヶ月で死ぬのだと宣言されてしまったのだ。それだけで、彼はこんなにも脆く崩れる。
どうして生まれて、なんのために生きて、なにを成し遂げて死んでいくのか。
それもわからないうちに、死だけがあまりにも突然に降りかかる。



缶コーヒーを飲み干すとやがて、ぽつぽつと。懐かしい友達が肩を叩くように、雨がハチを呼んだ。
地面は次第に黒く濡れていき、雨音だけが世界を色づけた。悲しい気持ちも、寂しい気持ちも。ぜんぶを流してくれれば良いのに、雨は彼だけを打つ。
ハチの顔は笑えるくらい泣きそうで、公園を一人ぼっちにする。彼は膝に肘を下ろして、頭を垂れた。
生きることも、死ぬことも。もっと余裕があるものだと思っていた。まだ21歳だ。彼の憧れる人たちだって、もう少し長生きしていた。これじゃあまるでカートコバーンと同じ。その代わり、ハチはなにも成し遂げていない。
雨に頬を打たれて、涙も鼻水も流されていく。泣いたのなんて久しぶりすぎて、うまく声を出せない。
空は真っ黒。街灯の光を斜めに区切る雨粒。ハチの頭も、気持ちさえも。ぜんぶが滲んでいく。
ぐっと鼻をすすったちょうど同じ時、不意に雨が止んだ。見上げてみると、無愛想で無表情な少女が傘を差し出してくれていた。

「風邪を引く」

黒一色のワンピースを着て、腰まで伸びたポニーテールを濡らしている彼女。ドアは半分だけしか開いていない瞳で、ハチを見下ろしている。
なんだか嬉しかった。助けてくれる人が現れたと思った。けれど素直になれない彼は、再び俯いて悪態をつく。

「どうせ一ヶ月で死ぬんだろ」
「それでも、風邪を引く。引くと辛い」

地面を打つ雨の音。もう砂場は池みたいになっているし、遊具にだって錆を加速させる。苦しい気持ちがやるかたなく積もる。

「本当に死ぬのか、俺は」
「ええ。死ぬ」
「……そうか」

否定してもらえるとは思っていなかった。しかしドアは、あまりにも無慈悲に言うのだ。死を当然に受け入れられるほど、ハチは達観していないし、大人じゃない。
そんな彼の気持ちを悟ったのか、ドアは抑揚のない声で言った。

「考えればいい、やりたいこと」

口を挟めば簡単に途切れてしまいそうな、線の細い声。
手を伸ばせば崩れてしまいそうな、華奢な肩。
改めて見て、初めてわかった。彼女はまだ幼い。それなのに、ハチとはまるで違うのだ。

「探せばいい、残したいもの」

言葉はまるでナイフのように、少年の心に深く食い込んでいく。
21年間、それだけ生きてもわからなかったこと。彼女ならば。ドアとならば、見つけられるかもしれない。そんな風に、今は思える。
そうして静かに。まっすぐに。確かに、天使は続ける。

「生きるということ、確かめればいい」

雨が降っている。









3日目
「生きるということを」









髪も服もびしょ濡れで、歩くたびに靴が鳴る。それが気持ち悪くて、家路を進む足が速くなった。
隣を歩く少女は、やはりいつもと変わらない眠たそうな顔つきのまんま。可愛げなんて欠片もないのだ。

「あら、あらあらあら」

家につき、玄関を開けると、母親が朝刊を取りに来たところにちょうど出くわした。彼女は目を丸くして、ハチとドアを交互に見つめる。

「こいつは……そのー、バイトの後輩」

なんとなくバツが悪い。それに、素直に天使だなんて言えるわけもないし。ハチは取り繕うように、でまかせを口走ってしまう。
それでも母親は疑うことなく、「あらそうなの?」と微笑んだ。

「可愛い子ねえ」
「やめろよ、そういうんじゃねえんだから」

どうしてか照れくさいハチは、目を伏せて口早に答える。
ドアはまるで無関心で、母親をすっと見つめていた。

「ごめんね、お母さん勘違いしちゃって。ゆっくりしていってね。ハチの部屋汚いけど」
「知ってる」

こくりと頷いて言ったドアの声に、靴を脱いでいたハチは転びそうになる。
変なことを喋りださないうちに、慌てて彼女の口を塞いだ。

「余計なこと言うんじゃねえ。母さんも変な勘ぐりすんなよ」
「はいはいごめんなさい」

そう言って母親は新聞を片手に廊下を去っていった。その顔は久しぶりに見たような、吹き抜けの笑顔。ハチもなぜか、心が暖かくなるのを感じた。
彼の隣では、息ができずに苦しそうなドアの顔が、いつにも増して青白くなっているのだった。







母親が部屋に運んできた二人分の朝食。それを食べながら、ハチとドアは向かい合って座っていた。
窓を打つ雨の音は次第に強くなっていて、この様子じゃあ今日明日は止みそうにない。

「天使の力は、人の心の扉を開く」

目玉焼きを頬張りながら尋ねた、ハチの「天使の力の説明をくわしく」という言葉。それに対してドアは、ベーコンをはむはむと齧りながら答えた。
しかし、それだけではわからない。だいたい、人の心の扉とはなんなのだ。もっと砕けて言えないのかと、ハチは彼女に視線を送る。

「俺がこうなれって想ったことが現実になるんだよな?」
「少し違う。あくまでも、心の扉を開くだけ。その奥になにもなければ実現はしない」
「どういうことだ?」

床に落ちたトーストの食べ零しを払ってから、ドアを見上げる。彼女は器用にパンの耳だけを残して、トーストを食べているところだった。

「きみの想い通りにいかないこともあるということ」

喋るたびに、手に持ったトーストからパン生地が落ちていく。「ああもう」と呟きながら、ハチは彼女の足元を手のひらで払った。ドアはそんな彼を興味なさそうに見つめて続ける。

「きみの願いが叶うためには、その願いを果たすものが、扉の奥になければいけない」

食べ残したパンの耳をハチに手渡して、彼女はそう言った。難解な言葉だけれど、今のハチにはわかる気がする。なんでだろう、わからないけれど。

「じゃあたとえばさ、金が欲しいって願ったらどうやって叶うんだ?」
「きみにお金をあげたい、あげても構わないという人が、その願いを叶えてくれる」
「そんなやつがいなかったら?」
「願いは叶わない」

ますます難しくなった。パンの耳を齧って、ハチは眉間に皺を寄せる。

「実際に使ってみるといい。そのうちわかる」

長いポニーテールを揺らして、ドアが立ち上がった。
ワンピースの裾はふんわりと揺らめき、彼女の女性らしい香りが鼻をついた。ハチは目を伏せて、食べ零しを払うふりをする。
頭に降りかかる、彼女の声。ずっと聞いていたいような、透き通る声。

「生きるということを、きみは知らないみたい」

どんな顔をして言っているものかと、ハチは頭をあげた。すると彼女の顔はすぐ目の前にあって、思わず身を引いてしまう。
それを気づかれないために、必死に言葉を探すけれど、どうにも出てこない。
その間にも、ドアの言葉は降りかかる。雨粒みたいに、隅々にまで。

「必ず死ぬのだから、必死になって生きるといい」
「簡単に言うんだな」
「簡単なことだもの」

いつもと変わらない半月の瞳で、彼女は言った。
思わず苦笑を零したハチを見て、ドアは首を傾げたのだった。




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