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第一章

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 第一章

 自宅から程近い、郊外にひっそりと佇む小さなコンビニのその一角、色とりどりに、あるいは雑多に並べられたデザート類を見るともなしに眺めながら、彼はそこに立っていた。
 既に時刻は日をまたいでおり、客は彼ただ一人。駐車場を挟んだ先の通りには店内の明かりは届かず、果たして人通りがあるのかすら怪しい。
 アルバイトと思しき茶髪にピアスの青年は、彼に注意を向けることもせずにカウンターに身をかがめ、明日――いや、既に今日発売の少年マンガ誌を読みふけっているようであった。
 ちら、とだけ見やったその視線を再びデザートの並ぶ棚へと戻し、眠気か、あるいは疲労によるものか。ぼぅ、と揺らぐ頭で彼は思考する。
 ――どうしてこんなところに入ったのか。
 じじ、と明滅を繰り返す、蛍光灯の音と光だけが、変化を伴って彼の視覚と聴覚に訴えかける。
 清潔感という言葉からはかけ離れた、薄暗いコンビニ。夜はおろか、昼間の通勤時にだってこんなところに立ち寄ったことは無かった。
 ――なぜ、今日に限って……。
「やれよ」
 俯き気味に傾けた首が反射的に上がる。
 低めの棚の上部から、一つ先の通路が見渡せた。
 誰もいない通路。
 さまよわせた視線はそのまま店外へ。ガラス越しの薄暗い駐車場に見える物はといえば、片隅にぽつりと置かれた「24」の文字が光る看板のみ。僅かな首の動きを伴ってバイト青年の姿を視界の端に捉えるも、変わらず彼はマンガに夢中なようであった。
 ――幻聴か。
 視界が縦方向に狭まる。大きく見開いていた瞳が通常の状態に戻ったよう。
 どうやら相当に疲れているらしいことを自覚すると同時に、ならば尚のこと、なぜこんなところに足を踏み入れたのかという疑問が再び沸き起こる。
 タイミングは、その自問が終わるのとほぼ同時だった。
「バレやしない」
 今度は左の耳元ではっきりと聞こえたその声に再び瞳を見開く。身を引いて振り向いたその先にほんの一瞬、何かが見えた。
 視界が揺らぎ、体の自由が途端に利かなくなる。
 一瞬、何かを掴み取った感覚が指先に感じられたのが最後。彼の意識はそこで、途切れた。
 1.

 夕暮れが、やけに目に染みる帰路だった。夕陽に向かって走る、なんて昔からのイワユル青春を絵に書いたような、そんなシチュエーション。
 別に意図したわけじゃない。たまたまこんな日に限って、夕陽があんまりにもキレイだったってだけのこと。
 ……いや、こんな日だからこそ、普段気にも留めないようなことが目に付いただけなのかも。
 有り余る体力に任せて動かしていた足を次第にスロウダウン。
「はっ……、はっ……、はっ……」
 呼吸音に合わせて立ち止まると、僕は一度だけ大きく息を吸い込んだ。数キロの距離を走ってきたにも関わらず、それ以上の息切れなんてない。
 当然だ。体調は万全。肩だって明日に備えて十分に作ってきた。
 誰にも文句を言わせない出来。
 ……にも関わらず、明日の先発投手は僕ではなく、二年の先輩で。
 視線を落とし、ゴツゴツに硬くなった掌――十年間の努力の結晶を眺める。
「くっそ」
 呟くのと同時に頬にわずかな風を感じ、その出所を見下ろす。そこは小、中と、リトルリーグの練習試合で頻繁に訪れた、草野球用のグラウンドだった。
 僕は自然と左肩にかけたエナメルバッグを落としていた。春先より幾分背の高くなった雑草たち。ぼす、と音が響いたのを確かめてから、いささか急な傾斜のついた土手に腰を下ろす。今日もどこかの野球少年たちに使用されていたらしいことが、真新しく均らされた様子から分かる。
 そうして眺めているうちに、視線はいつの間にかピッチャーマウンドへと向いていた。
 何度となく勝ち星をあげてきたこのグラウンド。目を閉じて、ガッツポーズを作る僕の姿を思い浮かべる。
 最後にここで試合をしたのは……、そうだ、九月。半年ほど前だった。
 寝転がると、首元にちく、と刺さる感触と同時に、懐かしい香りが鼻をついた。久々に嗅ぐ、草の匂いだ。僕は今度は鼻から大きく息を吸い込みながら、ゆっくりと両腕と両足を広げた。大の字というやつである。
 それにしても――ぱち、と目を開き、緩やかに流れる雲を眺める。――我ながら女々しいと思う。過去の栄光にすがり付くことほどみっともないことはないじゃないか。
 わかっちゃいる。だけど理屈と感情は別のものであって、そもそも考えて納得がいくようなら、最初からこんなところに来るわけが無いのだ。
 といったもろもろの思考を、わざわざこの場所で展開しないことには迸る熱いパトスを鎮められないあたり、まだまだガキなんだなと思う。
 とは言え、こんなことを自宅の勉強机で悶々と考え続けるなんてのは、とてもじゃないけど耐えられない。
「その辺り、読者諸氏の共感は頂けるものと思いますけどどうですか」

 …………………。

 そんな独り言への返答は、直上からの「カァ」の一声と――
 あれ、なんか降ってきた……。
 ……ああ……。
「…………っっぶねぇぇぇっっっっ!!」
 ――落とし主の体色とは正反対の、白い爆弾だった。
 咄嗟に体を転がして退避。立ち上がって着弾予想地点――ゼロコンマ何秒か前まで僕の頭があった場所だ――を見下ろすのとほとんど同時に、鮮やかな緑の上に白が飛散して、僕はさらに一歩、慌てて飛び退いた。
 知ってるか? 結構、すごい音するんだぜ。
 ……僕も今知ったんだけど。
 爆撃に蹂躙され汚された緑のじゅうたん。
 もう一度寝転がる気にはなれず、僕はエナメルのバッグから自前の硬球を取り出した。縫い目の感覚を確かめながら掌で転がす。最も力の入るポイントで一度強く握りしめ、もう一度ピッチャーマウンドに視線をやった、そのときだった。
「まちなさぁぁぁぁいっっっ!!」
 多分、誰でも振り返ると思う。人通りのほとんど無いこの場所には不似合いな大音量。けれど、本来であれば相反するはずの要素は失われておらず――すなわちその声は涼やかさを伴って僕の耳に飛び込んできた。
 簡単に言えば、
 ものすごいキレイな声だったってことだ。
 下ろうとしていた足の向きを変え、数歩分上って道に出る。立ち止まっていた老人と目が合うと、傍らに連れた全く吠えない雑種犬同様の穏やかな顔で、彼は首を傾げた。「なんだろうねぇ」とでも言いたげだったが、本当の所はよく分からないので僕は曖昧に笑い返す。
「まちなさいって言ってんでしょおがぁっっ!!」
 第二声。
 僕が走ってきた方向と反対側から、何か棒のようなものを振り上げた人影が近づいてくるのが見えた。腰から下にかけて広がったシルエット。まずは女性であるらしい。もっとも、あれがスカートをはいたスコットランド人男性である可能性も否定はできないが、そこそこに広い日本の中でも、こんな中途半端な街をわざわざ観光に選ぶか? 加えて先ほどの声が女性のそれであったことと、あまりにも日本語として聞き取りやすかったことからその可能性は棄却。
 呼称を変更。声の主を「日本人女性」とする。
 さてここで問題。
 見える人影は一つ。その人影――日本人女性こと彼女は言う。「待て」と。
 誰に?
 候補一、僕。
 候補二、老人。
 候補三、老犬。
 ぐるり、と周囲を見渡してみた結果、向かってくる方向、彼女の追跡の対象となり得そうなのはこの二人と一匹だった。もっとも、彼女がゴキブリでも追っているのだとしたらまた話は変わってくるのだけれど。
 ピッチャーから見た超後退守備時のセンターの位置程度にまで近づいたところで、ようやく彼女の身体的特徴を視認出来るようになる。薄い水色のブレザーと、胸元に揺れる赤はネクタイだろうか。この地区で最もブルジョワ層の集まる私立校、宗礼(しゅうれい)学園の女子生徒であることが分かった。
 顔は、まだよくは見えないけれど、それよりも彼女を特徴付ける物として、後ろに結んだ大きなポニーテールが左右に揺れていた。
 情報整理。宗礼学園の女子生徒に知り合いは、無し。
 顔を確認した意味は、……ああどうせないですよ。
 というわけで、彼女の追跡対象はこの老人か老犬のどちらかであるようだ。見下ろした老犬は先程の飼い主と同様、わずかに傾げた首を僕に向けてきた。だから分からんって。つぶらな瞳で問いかけるなよ。
 仮説をたてよう。
 その一。この老人は彼女の祖父である。痴呆の始まった老人が一人で出歩くのは危険であるから、彼女は老人を連れ戻しにやってきた。
 と、そこまで考えてから改めて老人を見る。しわになったトレーナーと、いかにもな安物のスラックス。およそ彼女の祖父であるとは思えない。同様の理由から「この犬が実は彼女の飼い犬である説」も却下。
 とするとやっぱり僕か。思えば泣かせた女は星の数ほど……、いるわけないけど。
 そんな高校男児的妄想が脳内に渦を巻いた辺りで、ようやく僕は彼女の接近に気が付いた。
 ついでに、彼女が追っていたモノ(・・・・・・・・・・)の接近にも。
 一〇メートル程の距離から見た彼女は、可愛らしいというよりは美人と呼ぶのがしっくりとくるような、整った顔立ちをしていた。両の目尻がつり上がった瞳がキツい印象を抱かせるものの、僕がこの一六年という短い人生の中で出会った女性のウチでは間違いなく、一・二を争うくらいの美人なんである。
 そこまでを一瞬でチェックし終え、次はボディに視線を落とす。
 と、そいつに気づいたのはまさにこのタイミングだった。
 胸元のネクタイに視線をやると、それはどこかぼんやり、と歪んで見えた。
 目を凝らす。
 そして、後悔した。
 凝視したと言うことは、「見えてるぜ」と言っているのと同義だから。
 そいつ(・・・)は、僕が見えていると分かるやいなや、一気にスピードを上げて彼女を突き放しにかかる。そのまま真っ直ぐに飛んでいってくれればいいのに、あろうことか僕の手前でスピードダウン。滑り込むようにして頭の後ろに隠れやがった。
「あ、コラ!」
「もらっっっ――」
「へ……?」
 直後に聞こえた叫び。僕は注意をそちらに戻す。
 左バッターの要領で棒状の何かを構える彼女。数十センチの距離で目線が交差。否、彼女は多分僕のことなんか見ていなかったんだと思う。見てたのは多分そう、僕を盾にして頭の後ろでぷかぷか浮いてるやつだ。
「――ったああっっ!!」
 キラッ☆
 もの凄い衝撃が額に叩きつけられる。ピッチャー返しが頭に直撃したときだって、これほどじゃない。同時に電気の走ったような、とにかくかつて味わったことのない衝撃、としか言いようがなかった。
 世界が回る。
 倒れ込むスピード、スローモーション。
 目を見開く彼女の顔。控えめなボディ。
 のぞき込むじーさんの表情、変わらず。
 犬、だからこっち見んな。
 どん、と背中が地面に叩きつけられる感覚。
 駆け寄る彼女。
 パンツ、白。
 右手に握ったボールがこぼれる落ちるのが分かった。さすがにこの状況じゃ力入らない。
「ちょっと!死んじゃダメよっ!!」
 誰のせいだ誰の。あー、揺らすなよ頭痛い。
 狭まる視界の中で最後に目にしたのは、彼女が手放したらしい例の鈍器。
 よく見ればそれは、お手軽凶器の見本的存在、全国の暴走族諸氏が愛してやまない、鉄パイプだった。
「そんなもん……、持ち歩くな……、よ」
 視界はなおも暗くなり、意識はフェードアウト。
 必死のつっこみは非常にまずかったらしい。
 ああ、刻が、見える……。
 ガクッ……。

   ※

 時折その辺に浮かんでいるあいつら(・・・・)を指差すと、誰もが首を捻りながら僕を見た。それもそのはず。僕が指差す先にいるのは、僕にしか見えないモノだったから。
 そのことに気が付いたのは、確か小学校二年生のときだ。
 おかしな子だと思われる。
 子供の防衛本能ってのはえらく優れたもんらしく、それ以降僕はあいつらに指を刺すのをやめた。
 いつもの帰り道、電柱の影で浮いているやつ。野球の練習をしに行く公園のブランコに乗っているやつ。
 そんな彼らがどういう存在であったのか、僕は子供ながらに気づいていた……のだと思う。
 突然関わるのを止めた僕のことを、彼らはどう思ったのだろうか。一週間、一ヶ月とそれを続けるうちに、彼らは僕に近づかなくなった。僕も友達と遊ぶことに、野球の練習をすることに精一杯で、次第に彼らの存在を意識しなくなっていった。
 そうして気がついたのはいつだったろう。
 毎日、毎日、同じ場所にいた彼らが、いなくなっていることに。

 まただ、またこの夢だ。
 あいつらに関わると決まって同じこの夢を見る。
 赤いイメージ。
 そう、一面の赤。
 何も無い、ただ赤いだけの世界に僕はいる。
 突然、ものすごい衝撃が体全体を駆け抜けて目を閉じる。気づけば僕は、僕の家の庭に立っているんだ。
「大丈夫か、どこも痛くないか?」
 ものすごく背の高い男の人が僕に声をかける。表情は逆光で見えない。これもいつものことだ。だけど、この人は悪い人じゃない。声で分かるんだ。
 あったかい声。
「うん」
 幼い声で、僕は言う。
「そうか、偉かったな」
 おじさんの大きな掌が、僕の頭を覆う。
「お、……だ、や………、す……な…か?」
 僕は笑う。
「じゃ…しょ………は、お…としょ……だな」
 僕は彼の言葉になんだかくすぐったくなって、わしゃわしゃと頭を撫でられる感覚に目を閉じる。
 そうして、視界が、暗くなる――

   ※

「あ、起きた」
 ぱちん、と目が覚めることがある。状況としては大体二種類。とにかく気持ちのいい目覚めと、そうでない目覚め。
 前者はいうなら試合で思いっきり疲れ果てて、八時に寝床について翌朝六時に起きるパターン。
 後者は、あれだ、崖から落ちる夢を見てトマトになる直前に目が覚めるときとか。
 あとはそうだな、すっごい美人に鉄パイプで殴られる直前に……、
 オレンジ色の空をバックに、その美人の顔が逆さに浮いていた。
 うん、さっきのは夢じゃないわ……。
 鈍痛の残る額に手をやる。でかいコブが出来ていた。
「良かった――」
「へ?」
 美人は言う。少しつり上がった両の瞳を潤ませながら、よかった、と。
 仰向けの僕と覗き込む彼女。
 なんだこのシチュエーション。
 一言感想をあげるとするなら、
 ――イイ。
 そうさイイさ、たまらなくイイ。
 彼女にだって悪気があった訳じゃないだろう。むしろこんなことがきっかけとはいえ、お近づきになれたのはラッキーと言える。
 周囲を確認すると、すでにじーさんと犬はおらず、すなわちここには僕と彼女の二人きりだった。
 それにしても、見上げた彼女は見れば見るほど美人である。
 今日だけで何回「美人」を使ったことか。なんという貧相なボキャブラリ。
 だけど僕は悟ったね。
 立てば芍薬座ればナントカ言うけれど、本当の美人にはどんな修飾語も無意味なんだって。
「ああ、その、なんだか心配かけたみたいで……」
 言い切るより先に、
「――このまま死なれたらどうやって隠滅しようかと思ってたのよ。アンタ頑丈でホントよかったわ」
 ……。
 潤んだ瞳は僕の見間違いだったらしい。顔の作りと同じようにツンとした態度で、けれど先ほどと同様の涼やかさを伴った声でそう言い放つと、彼女は僕の前方へと移動する。
「ちょっ……!」
 痛む頭を押さえながら上半身を起こすと、右の手を応援団のそれのように隙無く腰に当てた彼女が、左手に握った鉄パイプを僕に向けていた。
「さてと、思い残すことはないわね?」
「いやいや、まだまだ生きていたいですから……」
「は? 何言ってんの」
 濡れた雑巾でも眺めるような目つきで彼女は僕を見る。残念ながら、そう言う方面で喜ぶような趣味はない。
「アンタじゃないわよ。いいからちょっと黙っててくれる?」
 む……。
 僕じゃないなら誰がいるっていうんだ。見たところすでにさっきのじーさんもコッチミンナワンワンもいない。
「優しくしてあげるから。結構気持ちいいって評判なのよ?」
 ワケが分からん。
「だから、僕にソッチの趣味は――」
 言いかけた僕の視界を、何かが上から下へと通り抜けた。必然、ソイツは僕が放り投げた足の上に着地する。視線をわずかに下に向けると、膝の上に球体があった。
 球体、と言うと若干の語弊がある。正確には球体の一ヶ所からぴろん、と尾が飛び出したような形だ。
 とにかくそいつが、膝の上に乗ったまま僕を見上げていた。「球が、見上げる」ってのもおかしな話だけど、実際そうとしか言いようがないんだ。身体の前面を45度程上に向けて傾いている状態、って言えば何となく分かってもらえるだろうか。
「ああ、お前、いたんだったな……」
 今更見えないフリをしても仕方がない。白いそいつ越しに薄く透ける膝を眺めながら、僕は小さくため息をついた。
 こいつは、その、なんだ……。うまく説明するにはなんと言ったらいいだろう。
 そうだな、頭がおかしい奴と思われることを覚悟して、あえてありきたりな言葉を使うならば――
「……アンタ、もしかしてレーコン見えるの……?」
 一拍の間をおいて、僕はすい、と顔を持ち上げる。
 先ほどまで一分の隙無く構えていた鉄パイプを下ろし、彼女はくるり、と大きく丸めた瞳を今度こそ僕へと(・・・)向けていた。
 ――レーコン。
 そう、霊魂ね。断じてヤーコンの仲間じゃない。
 え、ヤーコンを知らない?アンデス山脈地方原産の、シャキシャキとした歯ごたえとまるで果物のような甘みを合わせ持つ根菜類ヤーコンを知らないって?
 それはもったいないから一度食べてみるといい。大きなスーパーの野菜コーナーなら大体ひっそりと置いてある。
 と、話が逸れた。彼女ほど露骨に表情に現れこそしないものの、僕だって驚いてるんだ。脳内で熱心に、誰に対してか分からないヤーコンについての講義を始めてしまう程度には動揺もしている。
 それはそうさ。こいつが見える人間に出会ったのは、これが初めてだったんだから。
 そうしてようやく、僕は彼女が膝の上のコイツを追いかけていたらしいことを思い出した。
「えっと、君、なんなんだ……?」
 僕の問いかけに彼女は丸めた瞳をすかさず細め、ムッ、とした表情を作り直す。
「先に質問してるのはあたし。アンタはまず須くあたしの問いに答えなさい。
 とりあえず見えるのは分かった、もういいわ。次、アンタはどこの家のもん?」
 そう言ってまくし立てる彼女は悪びれる風もなく、むしろさっきまで以上に背筋を伸ばして偉そうに僕を見下ろしていた。
 美人じゃなかったら張っ倒してるところだ。
「どこの家ってなんだよ」
 思いっきり殴られたあげくにこの態度はさすがに我慢ならず、僕も負けじと彼女を睨みつけた。
「あーはいはい、そういうのいいから。どういう理由で出張ってきたのか知らないけど、ここは、あたしで回してるの。
 アンタがトウマ(・・・)のもんかホンケ(・・・)のもんかなんて、そんなことは実はどーでもいいわ。ただ一つ言いたいのは、ここはあたしの担当なんだから、さっさとその子こっちによこしなさいってこと!」
 彼女は再び、僕の膝の上で震える(ように見える)霊魂に、握り直した鉄パイプをビシ、と向ける。
 僕は一度、大きく息を吐いた。
「トウマだのホンケだの、何のことか知らないし、こいつがどうなろうかってのも僕には関係無いことだけど――」
 そこまで口にして、膝の上の霊魂をむんず、と掴み取り、僕は彼女に背を向けて立ち上がった。
 じたばた、と暴れるそいつを握りしめ、全力で振りかぶる。
「ちょっと!何してんのよっ!!」
 彼女の制止など意に介さず、
「――とりあえず、お前に渡してやるのだけはゴメンだねっ!!」
 僕はそいつを、思いっきり放り投げてやった。
 放物線を描いた霊魂はあっと言う間に数十メートルも離れた住宅街の一角に姿を消す。
 ほらみろ。肩、絶好調じゃんか。
 時間一杯、気合い十分の力士さながらゆっくりと振り返ると、口を半開きにした彼女と目が合う。
「何考えてんの……?」
 さっきまでのまくし立てるような声音から一転、ぽつり、ともらした一言に、僕は不覚にも動揺してしまった。
 何だこの変わり身反則だろ。とは言え古今東西女性のこういう態度に僕達男性は勝てないもんなのだ。
「あ……、えっ、と……」
 何か声をかけないとマズイ。そう感じて一歩近づいた直後だった。
「完ッッッ全な侵害行為だわっ!!」
 そう叫んで、彼女は僕を振り仰ぐ。顔の距離、およそ二〇センチ。
「加えて、身勝手な、個人意思での、霊魂逃走幇助!」
 区切りをつけた言葉の度に前進してくる彼女の勢いに負けて一歩二歩と後退するうちに、僕らは道の上にまで戻っていた。
 平坦な地面の上で対峙した彼女は、一七五センチの僕から見てもわずかに見下ろす程度。女性にしてはかなりの長身と知れる。
「田中かなたの名において、この件はしっかりと報告させてもらうわ。名乗りなさい」
 何のことかさっぱりわからない。一瞬申し訳なさに傾いた心も頑固一徹パラメーターを振り切った。
と言うわけで、当然彼女の言葉どおりに名乗ってやるつもりなんてこれっぽっちもなかった。けれど。
「名乗りなさい」
 この一言に、僕のある部分(・・・・)が反応してしまったんだ。
 すう、と息を吸い込む。そうして僕は、叫んだ。
「麻蔵(あさくら)市立、麻蔵南(あさくらみなみ)高等学校一年。野球部エース、宇田川悠(うだがわはるか)だ!」
 だぁ! だぁ! だぁ! ……。
 恥ずかしいくらいにこだました僕の声。一瞬の高揚感が一気にかき消される。
 やってしまった、と思いながらも、ここで表情を崩したら負けな気がして、僕はそのまま平静を装って、田中かなたと名乗った彼女の次の台詞を待つ。
「宇田川……?」
 怪訝そうに首を傾げるかなた。僕を睨みつけてから、草の上に置かれたエナメルバッグに視線を向ける。
 彼女の視線を追うと、幅広の面にローマ字の筆記体で「Udagawa」の文字。どうやらそれを確かめていたらしい。すん、と鼻から空気の抜ける音がしたかと思うと、かなたは勢いよく首を回して再び僕を見た。
「手出して」
「は?」
「いいから出しなさい」
 そのまくし立てる強い口調に、僕は思わず反応する。ただし、とっさの警戒がはたらいたのか、差し出したのは左の手だった。
 右手で自然に髪の毛をかきあげる仕草をし、かなたは差し出した僕の左手に顔を近づけた。必然、うつむいた彼女を頭上から眺める格好になる。右側から垂れ下がったポニーテール。アップになった髪の毛のおかげで、首元から背中にかけて続く白い肌がよく見えた。
「なぁ、何……」
 してるんだよ。
 言い切る前に上がったかなたの頭に危うく顎を打たれそうになり、僕は大きく仰け反った。
 距離を離せなかったのは、かなたの右手が僕の左手首を強く握っていたからだ。
「な、何……?」
 いかな状況と言えど、女の子にこんなことをされて緊張しないわけがない。自慢じゃないけど、生まれてこの方一六年、女っ気なんて無いに等しい。
 加えてしつこいようだけど、彼女――田中かなたはものすごい美人なのだ。
 かなたは僕を見る視線だけは外さないまま、緊張で固まった手のひらに左手で何かを乗せてきた。
 その硬さを感じると同時に――電流が走った。
 ビビビっ、と来ました。とかそういう芸能界的比喩じゃない。それはもう、文字通りの。
「っ痛!!」
 手首の拘束を振り切って、かなたから半歩分の距離を取る。
「何すんだよ!」
 スタンガンでも押しつけられたのかと思いきや、彼女が左手に握っていたのは、例の鉄パイプだった。
 なんだ、どうなってる……?
「なんだよ、それ?」
「ねぇ、どうしてあの子にさわれるの?」
 …………相変わらず質問に答えないヤツだ。
「知らないよ。昔から見えるし触れる」
 だから僕も極力つっけんどんに返してやる。
 秘密を共有、なんて甘い関係には、どうやらなれそうにもないからね。
 そんな僕の様子など意にも介さない相変わらずのマイペースで、彼女は一歩僕に近づいた。
「じゃああんたの両親、どっちか旧姓は?」
「……母親が武本だけど」
 かなたは再び少し考えて、
「じゃあその上」
「……母さん方のばあちゃんが確か、湯川……、かな。親父のほうは知らない」
「コウテン、か……。なるほどね……」
 うつむいた彼女が何やらぶつぶつ、と呟きだす。その中の一言の意味が一瞬理解できず、僕もうつむいて思考を巡らせた。
 コウテン?
 好転?
 後転?
 ……ああ、後天か。
 ってことは、だ。生まれながらに例のああいうのが見える奴もいるってことなんだろうか? それがつまり……。
「なぁ、君はさ、昔からその、見えるのか?」
 僕のその質問に、彼女は顔を上げる。今度こそ答えてくれるのかと思いきや、やっぱりそんなことは無く――
「明日、朝八時に麻蔵駅前に来ること」
 ――あろうことかコレである。
「は?」
「ちゃんと来なさいよ。そしたら考えとく」
 そう言って振り返る直前、彼女の表情は初めて幾分か和らいだ様に見えた。
 鉄パイプを肩に掛け、来た道を戻っていく彼女の背中。陽も傾いて幾分冷たく、強くなった風が彼女のスカートと髪をなびかせる。
 悔しいことに、後ろ姿も絵になるヤツだ。
 明日……。
「明日、か……」
 その言葉に反応したわけではないだろうが、すでに二〇メートルも離れていた彼女が振り返る。
 やっぱりさっき見えた表情は、気のせいだったかも知れない。
「言い忘れてた」
「なんだよ」
 やや大きな声で問い返す。
「それ!」
 ビシ、と空いた右手で僕を指さす。
「宗礼学園高等部二年(・・)、田中かなた。先輩には敬語を使いなさい」
 むっつり、とした表情で、わざわざそれを言うためだけにアイツは振り返ったのだ。あのまま別れていればいくらか気分も良かったかもしれないと言うのに。
 僕はかなたに聞こえないように、小さく息を吐き出した。
「また明日。その服で来るんじゃないわよ」
 まるでこのポイントまで来たらそうすると決めていたかのように、彼女は振り向くなり軽快に駆け出していった。
 彼女の姿が二センチくらいになるまで見送って、僕も振り返る。
 制服で? 行くわけ無いだろ。
 結局僕はその言葉の本当の意味に、家に帰るまで気がつかなかった。
 周囲がもう少し明るかったなら、僕がちょうど背中を押しつけて仰向けになっていたあたりに、何かに押し広げられたような白い汚れが残っていたことに気づいただろうに……。
2, 1

  

 2.

 日曜日である。
 春先の陽気が暖かい、世のお父さん方はさぞ家族サービスに忙しかろう日曜日だった。
 さて、僕はと言うと、本当なら今日は六時に起きて一度学校に向かっているはずだった。けれど今、自転車を走らせているのはその学校とは真逆の方向である。
 昨夜僕は、鳥の糞にまみれた(それからなぜか首元に、細かい穴がいくつか開いていた)上着を洗いながら、彼女――田中かなたのことを考えていた。
 変なヤツである。少なくとも身近にはいないタイプの人間だった。
 あんなのがたくさんいたらそれは困ると思うけれど。
 つまり、僕が今向かっているところはというと、昨日かなたに一方的に提示された集合場所、すなわちこの小さな町の中心とも言える、麻蔵駅前だった。
 なぜバカ正直にこんなところまで来ようと思ったのか。ふけたってよかったのだ。
 そうしなかったのは、少なからず彼女に会いたいという気持ちがあったからなんだろう。
 ……。
 違うぞ。断じてそうじゃないMじゃない。
 そう、彼女に会って、確かめたかったんだ。
「ちゃんと来なさいよ。そしたら考えとく」
 この言葉と、一瞬垣間見えた気がした、彼女の柔らかな表情。
 その表情がまた悔しいことに、たまらなく可愛いかったんだ。
 最後のカーブを曲がり、数多ある無断駐輪の自転車の隙間に愛車を滑り込ませる。ポケットからケータイを取り出そうとして、今日は持ってこなかったことを思い出した。
 今頃着信履歴がすごいことになってるんだろう。
 知ったことか。
 駅前のコンビニを覗き込むと、壁にかかった時計は七時五〇分を指していた。左腕の時計に狂いが無いことを確かめる。時間にはまだ余裕があった。
 それなりに大きな駅ならば、大抵は「~~前」なんて呼ばれる集合スポットがあるもんである。麻蔵駅もご多分に漏れず、ロータリーの中央に建てられた巨大な銅像が待ち合わせスポットとして市民に愛されていた。
 この小さな町から世界に羽ばたいた男、三六歳にして未だ衰えを知らないメジャーリーガー、ヒデローの予告ホームランポーズを模した像である。
 細かい場所の指定は無かったものの、駅での待ち合わせと言えばヒデロー前と相場は決まっている。僕は数人の人影の中にかなたの姿が無いのを確認して、ヒデローに近づいた。
 巨大な台座の上に立つこの町のヒーローを仰ぎ、その先で輝く太陽に目を細めたときだった。
「それじゃ、行きましょうか」
 危うく「げっ……」なんて漏らしそうになるのをこらえて声のした方を向くと、台座の影で大きなポニーテールが揺れていた。
「……来てたのかよ」
「来ていたんですか」
 律儀に訂正をしてくれながら、ヒデローの影から姿を現したかなたは、相変わらずの仏頂面で僕を睨んでいた。
 キャスケットに薄手のパーカー。ジーンズ地のホットパンツにニーハイソと、昨日とは大きく印象の異なるボーイッシュな格好。
 その中で浮いているものといえば、陽の光をうけて鈍く輝く、左肩にかけた鉄パイプ……。必然というか当たり前と言うか、ああ、意味は同じか……。とにかく、周囲の目は彼女及び彼女の持つ凶器に釘付けである。
 とりあえず目立つ。ひたすらに目立つ。
「なんでこんなとこに集合なん……、ですか」
 小声で問いかける僕に、彼女はさも当然と言わんばかりにふん、と鼻を鳴らすと、大して無い胸を張ってこう言うのだ。
「アンタがすぐに場所が分かるようにってここを選んであげたんじゃないの。感謝なさい」
 やっぱりとは思ったけれど、こいつは僕のような一市民と同様の感覚なんてついぞ持ち合わせていないらしい。
「まぁいいわ」
 何の負い目もないというように(事実「堂々と鉄パイプを持っている」というただそれだけではあるけれど)辺りをぐるり、と見回してから、戻した視線で僕に言う。
「さっさと行くわよ、ハル」
「ハ、……」
 その一言を反芻する間に、かなたは僕の隣を通り抜け、周囲の視線を大名か女王かのごとく堂々と引き連れたまま、駅前通りを直進していった。
 悪いけど先に行ってくれ……。
「なにやってんのよ」
 心でも読めるんだろうかこいつは。不機嫌そうに振り向いたかなたに聞こえないように小さくため息をついてから、僕はゆっくりと彼女の背中に向かって走り出した。
 あわよくば今の「なにやってんのよ」は彼女の独り言で、僕が走り出したのは彼女とは全く無関係に見えてくれないものだろうか。
 ……ああ、無理だ。だって、背中がなんだかちくちくするもの……。

   ※

 日曜の新興住宅街。
 駅前から程近いこの閑静な住宅街を、僕とかなたは肩を並べて歩いていた。
 字面はなんとなく甘ったるいが、実際には全くそんなことない。
 左隣に視線を流すと、何がそんなに得意なのか、相変わらず見えない糸で吊られているんじゃないかってくらいに背筋をぴん、と伸ばして正面を見据えるかなた。その左肩には、一メートル程の金属の凶器。
 想像してみよう。
 初デート、憧れのあの子は鉄パイプを肩に掛けて現れた。てとてと、と僕の前で立ち止まり、彼女はにこっ、と笑ってこう言うんだ。
「悠(はるか)くん、どこ行こっか」
 映画館、プラス、鉄パイプ。
 遊園地、プラス、鉄パイプ。
 水族館、プラス、鉄パイプ。
 ほらダメだ。どれ一つとして甘くなり得る要素がないじゃないか。
 むしろB級スプラッターの香りしかしない。
 血まみれの映画館。
 血まみれのディ○ニーラ○ド。
 魚だらけの水族館。
 ドキッ!水着だらけの大運動会~ポロリもあるよ~
 ……、いかんいかん、話が逸れた。
 行き先も告げられないまま鉄パイプを抱えた女にくっついて歩くっていう僕のこの状況は、全く甘いなんてもんじゃない、っていうただそれだけのことが言いたかったんだ。
「どこまで行くんだ……、ですか?」
 初対面がアレすぎて、まだ彼女に対して使うのがためらわれる敬語を必死で捻り出しながら、僕はいい加減一五分も無言で歩き続けるかなたに声を掛けてみた。
 ああ分かってるよ、どうせ返事なんて返って――
「もうすぐそこよ」
 ――きたよ……。
「すぐって……」
 すぐと言ったら本当にすぐ。彼女の言葉に偽りは無かった。奇跡の返答からわずかに三歩で足を止めた彼女は、勢い余って追い抜いてしまった僕のことなど気に留める風もなく、くる、と左を向いていた。
 後退し、彼女の背中からその視線の先を追う。
 そこはちょうど、隣接する家と家とのわずかな隙間。一〇センチもあろうかというそんな暗がりを前にして仁王立ちをするかなた。その肩がわずかに上がったかと思うと、
「さぁ出てきなさい!」
 閑静な住宅街に突如響くこの大声。
「なにやってん……、っすか!」
 僕は反射的にかなたの細い肩に手をかけた。昨今はこんなことでも警察を呼ばれかねないんだぞ知ってるかオイ!! 
「さっさと出てきた方が身のためよ~!」
 うおーい! 頼むからやめてくれ!!
 ほら見ろ! そこらじゅうの家のカーテンが揺れてるじゃないか! なんだってこいつはこうも不名誉な方向で周囲の視線を集めるのが好きなんだ?
「しょうがないわねぇ……。ほらハル、アンタの出番よ。仕事しなさい」
「は? 仕事…?」
 そう言って振り返ったかなたに背中を押され、僕は一瞬のうちに彼女と位置を入れ替えられていた。
「元はといえばアンタのせいなんだからね。さっさと手ぇ突っ込む!」
「はぁ、手?」
「大丈夫、すぐそこに居る(・・・・・・・)から。ほら、早くしないと人来るわよぅ?」
 にやり、とかなたは笑った。
 コイツ、分かっててわざとやってやがる……!
 ネコかネズミか。とにかくこの場を離れたい一心で僕は腰を落とすと、噛まれるのもやむなしとばかりに暗がりに左手を突っ込んだ。腕一本伸ばすのがやっとの隙間。むにゅ、と思いのほかすぐに掌に伝わる感触があって、僕は拳大のそれを軽く握り締める。
 この小ささは、やっぱりネズミか? けれどそこに毛の手触りはなく、ゆっくりと手を引きながら、どこか覚えのあるその感触に僕は思いを馳せた。
 二秒後。
「……ああ」
 思い出した。これはアレだ。
 おっぱいだ。
 ………………。
 ……うん、訂正しよう。
 あれは中学二年のとき、クラスメイトの早川くんがどこかへ旅行に行ってきたことがあった。お土産と称した箱詰めのお菓子を机に乗せ、みんながそこに群がっている間に、彼は小さく手招きをして僕を教室の後ろへと呼び出したんだ。
「これ、宇田川くんに」
 そう言ってにっこり笑うと、早川くんはすばやく僕の手に何かを握らせた。瞬間伝わるむにゅ、という感触。
 驚いて視線を落とすと、早川くんが離した僕の手の中には、生々しいピンク色の突起がついた肌色の球体が置かれていた。
「……でしか買えないんだぜこれ。すごいだろ、……の技術はやっぱり世界一だよ」
 僕はとにかくそれを上着のポケットに隠すことに必死で、早川くんの言葉の中に登場する怪しげな店名やらメーカー名やらを聞き取る余裕が全くといっていいほど無かった。「中二がそんな店入れるのかよ!」なんて突っ込みすらも咄嗟に入れられなかったほどだから相当慌てていたんだと思う。
 そもそもなんで早川くんがこんなものを買ってきたのかといえば、それはある場所での出会いがきっかけだったのだ。
 家から自転車を三〇分こいだところにある、隣町の古本屋。奥まった一角にかけられたカーテンをくぐると、そこはいかがわしい空間だ。
 その日が三回目。すでに僕に怖いものは無かった。わずかなスペースに配されたエロ本を視線の動きだけで把握する。ポイントは、迷わないことだ。
 ぴん、ときた一冊を必要最低限の動きで掴み取り、奥のカウンターへ。互いに顔が見えない作りになっているそこに今日のターゲットを滑り込ませ、「四〇〇」の表示が出ると同時に、予め用意していた一〇〇円玉を四枚、ジーパンの左のポケットから抜き出してプラスチックの皿に乗せる。
 数秒後、茶色の紙袋に包まれて出てきたブツを掴むと、僕は躊躇うことなくその場を後にする。一連の流れはわずかに二五秒。再びカーテンをくぐれば、このミッションは無事完了する、はずだった。
 ここから先は、ご想像にお任せしたい。
 もったいぶるって? なに、大したことじゃない。それまでさほど仲の良いわけじゃなかった早川くんが、翌日以降やけに含みのある視線で僕に話しかけてくるようになったくらいさ……。
 え、早川くんからのお土産はどうしたかって?
 あ、あんな危ないもんその辺においておけるわけ無いだろ。
 だから?
 そりゃ、だから……、
 ……あの後ソッコーで机の奥に隠しましたが何か問題でも!!

 ピーポーピーポー!
「うぁ!」
 突如辺りに響いたサイレンの音に、僕はしゃがんだ体勢のまま、間抜けな声と一緒に一度びくり、と肩を震わせた。
「ほら、誰かケーサツ呼んだみたいよ」
 頭上から降ってきた楽しそうな声に、「誰のせいだ!」と一言返して、突っ込んだ左腕を慌てて抜き取る。
「ほらほら、ダッシュダッシュ♪」
 何が握られているかなんて確認もしないままに、僕は事の元凶を作り出したかなたの後を追った。それはもう、背中にまとわりつくイヤな汗を吹き飛ばすくらいのスピードで。
 よくよく考えれば、あれは救急車のサイレンじゃないか……。
 肩で息をつきながら、僕は隣でうまそうにペットボトルのコーラを一気飲みするかなたを睨みつけた。
「やんないわよ?」
 ボトルをくわえたまま、視線だけを僕に向けて言う。
「この状態で……、二酸化炭素を……、欲してるように……、見えます、か……?」
 酸素が欲しい。背もたれに体重を預け、木々の間から所々覗く陽光を眺めながら、僕は思いっきり息を吸い込んだ。
 空気、うめぇ。
 住宅街からさらに外れた場所にある森林公園。だだっ広い敷地のその一角、木陰の下の小さなベンチに僕らはいた。
「なっさけないわねぇ。アンタほんとに野球部?」
 ペットボトルをべこん、と握りつぶして放り投げる。僕の頭上を通過してきれいな弧を描いたそれは、自動販売機の側面にバウンドして、見事にゴミ箱に吸い込まれていった。
「ナイシュッ!」
 小さくガッツポーズを作る彼女に、胸中で「そういうお前は何者なのか」と問いかける。
 数キロの全力ダッシュはさすがにきついだろ……。
 対してかなたはというと、ほんのわずかに呼吸を整えただけで、見ての通りぴんぴんしているのだった。
 美人、変人、鉄人と、僕の中で彼女が三冠に輝いた瞬間だった。
「ほら、いつまでもへばってないで、さっさとソイツよこしなさい」
 かなたがあごで指し示すのは、僕の左手――の中の、おっぱいもとい霊魂である。
 左手の力を弱めると、きぃ、ともぴぃ、とも聞こえる声で、ソイツは鳴いた。
 こいつらは言葉を喋らない。――正確には、僕たちに分かる言葉を、だ。ぴいとかきゅうとか、そんな動物みたいな鳴き方をする程度。
 この世のものならざらるもの。
 何かに思いを馳せるあまり、この世にしがみついたまま離れられなくなってしまった存在。その代償が言葉の喪失なのだとしたら、なんとも皮肉な話だ。
 とはいえ彼らが何を言わんとしているのか、なんとなくなら分かる。そう、ボディランゲージというやつだ。
 ちなみに今僕の手の中にいるこいつはというと。
 うん、完全に怖がってるなぁ……。
 僕じゃなくても見えるヤツがいたら分かるだろう。何せ震えっぷりがハンパじゃない。
 もっとも、鉄パイプを握りしめたヤツが目の前で笑ってたら誰だって怖いと思うけど。
 そうそう、勢いとは言え昨日の全力投球もすまなかった。君に恨みはない。その償いというわけじゃ無いけれど、僕は立ち上がったかなたにこう切り出した。
「なんでこいつを追っかけてるのかは知らない……ですけど、見逃してやってもらうわけにはいかないですか?」
「見逃す?」
 すぅ、と細められた視線から、次の言葉が予想できた。
 正解は――「何言ってんの?」――だ。
「まぁ、アンタに話してもしょうがないか。なんも知らないみたいだし?」
 端で聞く分には全くと言っていいくらい穏やかで涼やかな声なのだが、向けられた侮蔑の視線が加わることで、その手の趣味を持つ人間にはたまらない一言に変わるのだ。ああ、僕もMなら良かった。
「とりあえずその子ここに置いてよ。直接話すから」
 とんとん、とたった今まで自身が腰掛けていた位置を指し示す。
「話すって?」
「そのままの意味」
 僕は首を傾げながら、手のひらに乗せた球体を眺める。ものすごい勢いで首を――というか体全体を左右交互に振り続ける霊魂がいた。
 そりゃあそうだ。一度でも鉄パイプ抱えて追いかけられたことのある相手にニコニコしながら接することの出来るヤツがいるとするなら、ソイツは真正の変態である。
 もういっそ、この手を開いて逃がしてやろうか。
 かなたが何をしたいのか僕には分からないけれど、何かに思いを残したまま逝ったコイツを、放っておいてやって欲しいというのが正直な気持ちだった。
 きっとひどい暴言を吐かれるのだろうけど、それでもいいさ。僕が今日呼ばれたのは、どうやらコイツを探す間の暇つぶしであったようだし、明日からは二度と会うこともないだろう。
 左手の力を微かに緩めた、そのときだった。
「よっぽど嫌がるってことは、随分強い心残りがあるのよね。今日はちゃんと聞いてあげるから」
 その声は、いったいどこから降ってきたのか、僕は一瞬、本当に理解が追いつかなかった。
 もちろん声の主はかなたなのだけど、強烈な出会いからわずかの付き合いしかない彼女が発した言葉の中で、今の一言は最も慈愛に満ち溢れた一言だったのだ。
 ぽかん、と口を開けたまま見上げた彼女の表情の優しいこと。僕は思った。
 普段からそれでいた方がいいと思うぞ。
 もちろんそんなことは口にしなかったけれど。
 そしてこの一言に何かしらを感じ取ったのは、どうやら僕だけでは無いようだった。
 先ほどまでの手の中の震えは消えている。ゆっくり左手を大きく広げると、霊魂は僕に向けていた体を一八〇度回転させ、かなたを見上げていた。そうして僕の手のひらからぽん、と飛び降りると、かなたが示したちょうどその場所に、寸分違わず着地した。
 かなたもその場にしゃがみ込む。きれいに閉じた足の上に鉄パイプを乗せると、ベンチの上の霊魂に顔の高さを合わせた。
 さて僕はというと、隣の霊魂と斜め前にしゃがみ込むかなたに視線を交互させることになった。
 そうして向かい合った二人を見つめること数秒、かなたの口元が動いた。
「言いにくい事だけれど、あなたはもう、この世界に生きていないの。分かる?」
 口の動きに注意していなければ、周囲に満ちる風と木のこすれる音で聞き逃していたかもしれない。それくらい、驚くくらいに小さな声だった。
 初めに感じたのは疑問。
 コイツは何を言っているんだ。
 言葉が通じる相手ではないのだ。悲しいことに。
 そうして再び隣に存在する儚げな存在に目をやった、それとほとんど同時。
 きゅう、と声ともわからないような音が一つなって、僕は目を疑った。
 その仕草が、丸い身体を傾けたその姿が、まるで今のかなたの言葉を聞いて、首を俯けて落ち込んでいるかのように見えたからだ。
 そうだ、僕は何を言ってるんだ。さっきだって、かなたの声に反応して、こいつはおとなしくなったんじゃないか……。
「そうね。それは分かっているのよね」
 まただ。かなたの優しい声に応じるように、霊魂はきゅう、と声を鳴らす。その意味は僕には分からない。けれど、かなたのこの様子はまるで――
「分かった。じゃあ探してあげるわ。そうしたら、ね。約束してくれる?」
 顔、もとい丸い身体全体を持ち上げて、さっきまでよりもワントーン高い声で霊魂はぴい! と鳴いた。
「そういうことになったから」
「へ?」
 突然差した影に気が付いて見上げると、かなたは先ほどまでと同様、――すなわち通常時の声と態度で僕を見下ろしていた。
「この子の友達が見つかるまで、探してあげるの」
 ものスゴク端的な一言であったけれど、先ほどの会話の内容はこれで何となくは理解できた。
 推測するに、この霊魂は友人との間に何かしらの想いを残したまま亡くなった人物であり、その目的を代わりに果たしてやろう、ということらしい。
 ……たぶん。
「……まぁ、頑張って下さい」
 細くなった目を見ないようにしながらそう返す。なんとなくイヤな予感がしていたからに他ならない。
「何言ってんの?」
 ほらみろ。
「アンタも探すのよ」
 放出系能力者の如く遠慮オーラを体中からにじみ出させる僕の様子になど気が付かないといった風に、かなたはさらり、と言ってのけた。
「ねぇ、あなた名前は? ……そう、あたしと似てる。よろしくね、カナ」
かなたがただの頭のおかしい女なら、この一言も「何を言ってるんだ」と流してやることが出来ただろう。いや、頭がおかしいというところは積極的に否定はしないけれど、この霊魂がさもご機嫌であるというように飛び跳ねているところを見ると、どうやらコイツの名前は「カナ」で間違い無いらしい。
「じゃ、任せたわよハル」
「……何がです?」
 頼むから僕のこの表情を見てくれ。鏡なんて見なくても分かる。今の僕をモデルに絵を描いたなら、「ハルカの嘆き」っていうタイトルの作品が出来あがること請け合いだ。
「面倒見て。ウチ連れて帰れないから」
 コイツは他人の気持ちを表情から推測する能力に欠けているらしい。
 とりあえず主語を入れてくれ。
 いや、入れてもらわなくても分かるさ。なんて素晴らしい言語だよ日本語ってヤツは……。
 ぽん、と肩に微かな感触があって、そちらに首を傾ける。霊魂――カナがそこにいて、言葉なんて無くても分かるくらいうれしそうに飛び跳ねていた。
 君はつい昨日、鉄パイプ抱えたその女にさんざ追いかけまわされたことを覚えているのかい……?
4, 3

  

 3.

「とりあえず、今日のところはこの辺りから探してみるわよ」
 左肩に鉄パイプ、右手は腰に当てそう叫んだかなたに、三〇分もホイホイついて歩いているのはどうしてなんだろう。
 いつまで経ったって肝心なことは話してくれないのだ。
 近所のホームセンターで買った二九八〇円のスポーツウォッチ――堂々と「G-SHAKE」と印が彫られているヤツだ――に目をやると、時刻はすでに一〇時半を回っている。
 二回か、早ければ三回ってところか……。
 ええい、考えるのをやめろ。
 僕は小さく頭を振って大股になると、三歩ほど先を進んでいたかなたの隣に追いついた。
 さらに五歩ほど前、ふわふわ浮かぶ半透明の白い球体――霊魂のカナはというと、時折後ろを確認しながらご機嫌で先を行く。
 さし当たっての目的はコイツを見つけ出すことであったらしく、横目に見下ろしたかなたの表情はにこやかである。それはもう、町ですれ違おうものなら誰もが振り返って見るだろう魅力的な笑顔。
 ……まぁ、帰っても取り立ててやることがあるわけじゃないし、もう少しくらい付き合ってやってもいいかと思う。
 数分に一度、「この辺には来たことあるの?」「ぴぃ!」なんてやりとりがある以外に、僕たちの間に会話は無い。
 駅からもずいぶん離れ、このあたりは歩いたことの無い道だ。とうに高級住宅街を離れ、何十年も前からそこにあるらしい古い家がまばらに立ち並ぶ、昔ながらの町並みを僕は眺める。
 大体どのあたりなんだろう。そんなことを考えたときだった。
「ハル」
 その声は後ろから。カナと僕が同時に振り返ると、ほんのわずか目を離した隙に立ち止まっていたらしいかなたが、せっかく柔らかくなった表情をまた硬くして、微かに俯いていた。
「どうしたん――」
「ちょっと静かに」
 声を掛けられたから問い返したのに、それは無いんじゃないだろうか。
 自分の顔がむっ、となるのを認識しながら、僕は彼女に近づいた。
 その直後。
「こっち!」
 一八〇度方向を変えて、つまり今歩いてきた方向に向かってかなたが走り出す。
 僕は一度カナに視線を送ってから、かなたの後ろ姿を追いかける。
 程なくして右方向に九〇度、信じられないスピードのまま曲がるかなた。僕もそれに続く。車が通るのを意識して作られた、片道一車線の広い道。
 とはいえ何も無い道である。目につくものと言えば精々、かなたの向かう先数百メートルに遠くからでもよく見える青い看板。全国チェーンのコンビニくらいのもの。
 そこで僕は思い出した。
 ここか……。
 後方に首を向けるとやはり、ナイター用の巨大な照明機器が立っているのが見えた。
 小さく舌打ちをした僕の隣をひゅん、と何かがすり抜ける。カナだ。僕の先一〇メートルを行くかなたも追い越して、カナが先頭に立つ。
「カナも感じた?」
 かなたの声が前方から、風に乗って微かに耳に届いた。
 かなたといいカナといい、なんだってんだ一体。
 僅かに開いた距離を縮める意味と、後ろに見えるあの場所から少しでも距離を離したい意味と、二つの理由からスピードを上げたそのときだった。
「あーーーっ!!」
 聞き覚えのある声が耳に刺さる。声のした方向を見ると、道を挟んで対面にやはり見知った顔があって、僕は思わず呟いた。
「げっ……」
「宇田川くん、何してるんですかっ!!」
 両手に前方のコンビニで購入したものと思われるビニール袋をぶら下げているのは、クラスメイト兼、野球部マネージャーの久慈美陽(くじみはる)である。
 メガネに赤いジャージと、まるで一昔前に流行った某ドラマの主人公を彷彿とさせる出で立ち。
 そのため学友たちは、彼女のことを一様にこう呼ぶのだ。
 ――ヤンクジ、と。
 学級委員長を務める美陽は非常に風紀にうるさい。やれ「マンガはもってきちゃいけません」だの「ゲームはもってきちゃいけません」だの「え、エッチな本はもってきちゃゴニョゴニョ……」だの。

 やんなっちゃうよな久慈……。
 やんなっちゃうよなくじ……。
 ヤンナッチャウヨナクジ……。
 ヤンクジ……。
 というわけである。

 そんなわけで、先程の僕の反応も納得してもらえるだろうか。厳格な彼女が部活を、それも大切な練習試合をサボってこんなところに居る部員を簡単に見逃してくれるワケがないのだ。
「どういうことですか! 大事な試合をサボって!」
「悪い久慈! ちょっと急ぐから!」
 怒鳴る美陽に後ろ向きに足踏みをしながら早口でそう言うと、僕は右手を敬礼の位置に持っていく。今日はこれでさようならという意味を存分に込めたつもりだったのだけれど、やっぱり美陽は見逃してくれそうもなかった。
「何言ってるんですか! 早く来てくださいよっ!」
 そう言って二リットルのペットボトルが二本ずつ入っているらしいビニール袋を両手に抱えながら、彼女はよたよたと道路を横断し始めた。
 こんなときに限って、車通りが無いのをいいことに、ものすごいスピードで飛ばすスポーツカーが近づいてくるのを僕は視界に捉えてしまった。
「久慈! 止まれっ!」
 気づく様子、無し。なんでだよ!
 推定八キロの荷物を抱えてはぁはぁ言いながら僕に近づいてくる美陽と、重低音を響かせて直進するスポーツカー。見えてんだろ、スピード落とせ!
「ああクソっ!」
 僕は僅かな逡巡を強引にねじ伏せて道路に飛び出した。
 右方向からは時速一〇〇キロにもなろうかというスピードで鋼鉄の弾丸が迫る。
 加減なんてする余裕はない。骨が軋むんじゃないかってくらいの力で地面を蹴り、美陽の姿だけを捉える。次第に視界が周囲から暗くなっていく様は、投げ込む場所に集中しているときの感覚に似ていた。
「間にあえっ!」
 驚いたように目を丸くする美陽の顔が視界一杯に広がって、続いて身体全体にどん、と強烈な衝撃が走る。「きゃっ」と小さな声が耳元でしたのを確認し、僕はがむしゃらに身体を回転させた。背中が硬い地面に勢いよく叩きつけられ、呼吸が一瞬停止する。頭だけは打ち付けないようにと、思い切り首を突き出すと、眼前を巨大な弾丸が走り抜けていった。
「バカヤロォ! 死にてーのか!!」
 爆音に混じった罵声に「バカはどっちだ!」と返してやりたかったものの、声を捻り出すにはまだ酸素が足りないようだった。ひゅう、と喉が一度鳴って、直後にこれでもかというくらいの空気が肺に飛び込んでくる。
「げほっ!」
 咳き込んだ勢いで身体を起こし、ついでに抱きかかえた格好の美陽も起こしてやる。
「大丈夫か?」
「……」
「おーい、久慈」
「……」
 視線の定まらない美陽の前で掌をひらひらさせながら顔を近づける。
「……おい」
「あたっ!」
 キリがないので軽く頭にチョップを入れてやる。
「ちゃんと左右を見て渡れ。危ないだろ」
 無言が二秒。続いて、
「わっ!」
 ようやく視線が定まったかと思うと、美陽はどん、と僕の胸元を押して立ち上がった。
「何すんだよ」
「え、あ、その、ごめんなせ! 近がったから……」
 律儀にビニール袋を拾いなおし、さらにずれたメガネも位置を直してから俯く。
「じゃねくて……、そうじゃねくて……。えと、わだし、死んじゃってだかもしれねくて……。その、ありがとう……」
 小さな小さな声でそう言う美陽。僕は立ち上がると、彼女の手首を掴んだ。
「えっ……!」
 ぴくん、と肩を震わせた彼女を引っ張って、歩道へと移動する。
「礼はいいから、もっと周りに気をつけてくれよ」
 頭一つ僕よりも小さな彼女を見下ろして言う。
「う、うん……。ごめんなせ」
「謝るのもいいって」
 俯いたままの彼女の手を離す。
「だげんとっ――」
 急に顔を上げた美陽が次に言うことが分かって、僕は方向を変えて走り出した。
「ハルっっ!!」
 一〇〇メートル程先で立ち止まり叫ぶ、かなたの姿。
「――助けでもらったこどと、試合のこだべづだがんねっ!」
「悪い久慈っ! また明日っ!!」
 走りながら振り返り、追いかけてこようとする美陽に告げる。
「宇田川……、きゃっ!」
 どさっ、とビニール袋の中身が地面に叩きつけられる音。僕を追いかけようとして、足を絡ませて転倒したらしい。こういうところは例のドラマの人物とは似つかない。
「怪我すんなよー!」
「宇田川くんの、あほー!」
 あほー。
 ああ、なんて耳に残る響きだろう。
 ごめん美陽。
 半分以上、なに言ってるか分かんなかったよ。
  ※

 ようやく止まったよ。それもものすごいブレーキングで。地面から煙出てないかアレ?
 もちろんかなたのことである。
 停止場所は例のコンビニの真ん前。睨みつけるようにして仁王立ちするかなたにようやく追いついて、僕は背中から声をかけた。
「なんなんですか一体?」
「いるわね」
「ぴぃ!」
 やっぱり僕の問いに対しての答えは無く、二人だけで何かしらを理解しあうかなたとカナ。そろそろ泣いていい?
 仕方が無いのでかなたの視線の先を追う。当然そこには、コンビニ。
 道路に合わせて拡張されたらしい駐車場はまだ真新しいものの、建物そのものはずいぶん年季が入っている。言ってしまえば、汚い。本来であれば白いはずの壁がところどころ黒ずみ、窓ガラスにも雨の跡がくっきりと残されている。手入れが行き届いていないのは明白だった。
 せっかくの晴天の中、この建物だけが暗く沈みこんでいるように見える。
 店内に視線を移すと客が三人。
 雑誌のコーナーに男性が二人。マンガの雑誌を立ち読みする茶髪と、その彼をちらちら見ながら同じく何かの雑誌を手に取る中年の男性。
 もう一人、後ろの棚の間に黒い頭が見えた。背丈からしてあれも男性だろうか。
「ハル、カナ、行くわよ」
「は?」
 僕がちょうど店内を観察し終わるのと同時にそう言うと、相変わらず返事も待たずにかなたは歩きだした。
「ちょっと、それ持って入る気ですか!」
 いくらなんでも鉄パイプ握ったままコンビニに入るのはマズイだろ! ほら、フルフェイスヘルメットですらご遠慮くださいって書いてあるんだ!
「それもそうね。じゃあアンタ持ってて」
 珍しく反応を示したかなたが背中ごしに鉄パイプを伸ばしてよこす。
「え、あ、はい……」
 思わず手を伸ばして受け取ってしまった。
「って無理だコレ! いてぇ!!」
 びりっ、と両手に走った電気に僕は鉄パイプを取り落とす。からん! と甲高い音が無人の駐車場に響いた。
「ちょっと、大事に扱ってよね」
 ホントに大事ならもう少しそれらしい態度があるだろうに、背中でそれだけを言うと、かなたは開く自動ドアに身をくぐらせた。カナも後ろからそれに続く。
 僕は鉄パイプを恐る恐るつま先で転がすと、車用の停め石に密着させる。機械音声が「イラッシャイマセ」を言い終わるのと同時に、僕も店内へ滑り込んだ。
 右から視線。立ち読みをしていた茶髪だ。目を合わせないようにしながら彼の姿を見ると、このコンビニのユニフォーム。
 あんた店員かよ……。終わってるなぁ。
「ついてきて。カナはどこか隠れて」
 小声で呟いたかなたに、言われた通りくっついて歩く。カナは言われた通り、体全体で一度頷くと、僕のポロシャツの胸ポケットに強引に入り込んだ。
 すでに雑誌に視線を戻した店員と、もう一人の立ち読み客の後ろを通り過ぎる。店舗後方のドリンクコーナーにたどりつくと、かなたはおもむろに冷蔵庫の扉を開いてコーラのボトルを取り出した。
「ハルは、どれにする?」
「え、おごってくれるんですか?」
「……適当に選ぶフリしなさい」
 目を細めて小声でそう言うかなたに、同じく小声で「ですよね……」と返す。スポーツドリンクを一本掴んで、扉を閉めようとした瞬間だった。
「……っ!!」
 突如、撫でるようにして背中を這い上がってきた悪寒に身体全体がびくり、と反応する。冷房が急に強くなったとか、そんなことじゃない。胸ポケットのカナが小刻みに震え出したのを見ればそれは確かだった。
「入った(・・・)。あいつね」
 ぴり、と声に緊張感を滲ませたかなたが注意を向けているらしいのは、どうやら後方。惣菜パンとデザートの並ぶ棚の間に立つもう一人の客。
 僕は悪寒が通り抜けたのを確認すると、その人物を流し見る。
 男性。歳は二〇代半ばだろうか。丁寧に整えられた髪、メタルフレームのメガネ、全体に切れ長の顔立ちと、「出来る男」をイメージさせる風貌だった。
「今日はもうゆっくり出来ると思ったのにさ。ったく、さっさと終わらせて帰るわよ、ハル」
 そう言って右手を差し出したかなたに、僕は小さく首を傾げる。
「……早く」
「……ああ!」
 スポーツドリンクのボトルを渡してやろうとすると、かなたは「ふざけてんの?」と言って僕を睨む。
「パイプよパイプ、早く!」
 口早にまくしたてる彼女に、僕は左手で探し物の在りかを指してやった。
「無いじゃないの」
 そうりゃそうだ。僕が指しているのはそこで立ち読みをしてる中年のおっさんのさらに向こう、窓ガラスも突き抜けた先の駐車場なんだから。
 ようやくそれに気がついたらしいかなたが目を丸くする。
「アンタ、何考えて――」
 言い終わるより先に、空気が、動いた。
 第六感的な、つまり霊的なものではない。言葉通り体感として、空気が動いたのが分かったのだ。
 かなたもそれを感じたらしい。
 僕たちはほとんど同時に、その発生源――であるらしい、背後の男に振り返った。
 にや、と口元を歪ませた男と目が合ったかと思うと、彼は身を翻し、店外へと飛び出していった。
「パイプどこ!」
「その石のところ!」
 閉じかけた自動ドアの隙間をぎりぎりで通り抜け、一切スピードを落とさずにかなたは鉄パイプを拾い上げる。視線は前方、格好が明らかになったベージュのジャケットの男。
 それにしても、今日は走ってばっかりだ。
 駐車場を飛び出して左に曲がる男、それに続くかなた。僕も曲がろうとした直前、背後から「ドロボーっ!!」って叫び声。
「あ……」
 右手に握ったままだったペットボトルをその場に置いて角を曲がる。と、前方からものすごい勢いで転がってくる空のペットボトル(・・・・・・・・)が見えた。飛び跳ねてかわす。ラベルは赤。
 待てよ……。
 おかしいな。本当なら今のヤツ、黒っぽい液体で満たされてないといけないんじゃないのか……。
 もう一度振り返って見ると、ボトル内に銀色の硬貨が二枚見えた。一枚は中央に穴のあいたもの。
 いや、それはアリなのか……?
「げっふ」
 風に乗って小さくそんな声が聞こえてきた。
 うん、聞かなかったことにしよう。いろんな意味で。
 前を行くかなたと男の距離が詰まる。
 二メートル。
 一メートル。
 ゼロ。
 なおもかなたはスピードを緩めない。男の左側を並走し、追い抜きをかけようとしているようだ。
「ちいっ……!」
 そんな声が前方から。男のものだろうか。そうして男がスピードを緩めるのを、待っていたと言わんばかりにかなたは身体を反転させ、左足でブレーキをかけた。こちらを向いたときにはすでに両手でしっかりと握られている鉄パイプ。その格好はさながら軸足を踏ん張る左バッター。
 いや、ちょっとまて……。
「何やってんの!?」
 万引きの上に暴行までする気かお前は!
 頼むから避けてくれーーっ!
 伸ばした右手は虚しく空を切る。そりゃそうだ。二〇メートルも離れた相手をどうこうできる力なんて僕には無い。
 あとはただ彼の無事を、祈るばか……り?
 上体を思いっきり捻った格好のかなたと、その隣に僕から見て後ろ向きに立つ男。とっくに鈍い音が耳に届いて、彼は倒れ込んでいてもおかしくないはずだった。
「なんだ……?」
 足を止めて、僕は思わず呟いていた。
 彼の立ち位置は間違いなくかなたのスイングの軌道上。
 これは、まさか……、キングクリムゾン……! 時を、ブッ飛ばしやがった……!!
 ってそんなはずは無く。スイングを終えたのだろうかなたの両手に、例の鉄パイプは握られていない。すっぽ抜けたのだとしたらそろそろ落下してきてもおかしくないだろうけれど、そうでないことは彼女の表情が語っていた。僕と同様、「なに……?」って言いたそうな顔。
 その視線を追う。男の右手に、鉄パイプがあった。
「「見えたかい?」」
 僕は男の発したらしいその声に気を取られた。
 なぜかって?
 二人分の声が重なっているように聞こえたからだ。
 とん、と地面を打つ音が、僕の直前にかなたが着地したことによるものだということに気付くまでわずかのラグ。ふわっ、と彼女の長いポニーテールが鼻先を掠めて落ちる。
「「ほらね、俺たちのチカラは最高さ」」
 まただ。
 それぞれに別の声が二つ、重なって僕の耳に届く。
 右手にかなたの鉄パイプを握ったまま、男が振り返る。左手をジャケットの胸元に突っ込むと、パック式の栄養補給ゼリーを取り出し、キャップを口で捻り取る。CMの謳い文句通りに一〇秒でそれを飲み干すと、彼は平たくなったパックを背後に投げ捨てて、さっき店内で見せたのと同じように、にやり、と笑った。
「チャチなチカラ」
「「よくそんなことが言えたもんだね?」」
 かなたの冷やかな呟きに、男は右手に握った鉄パイプを突き出して見せる。と、そこで僕は目を疑った。
 たった今までパイプを握っていたはずの右手にはすでに何も無い(・・・・)。代わりに、だらり、と下げた左手に握られているアレは……、どういうことだ……?
「「見えたのかい(・・・・・・)?」」
 声と同時に起こる空気の流動。明らかに自然に起きたものとは異なる風の流れ。
 左手に、鈍く輝く鉄パイプ。
「どうなってんだよ……」
 呟いた僕に、なおも冷やかな、かなたの一言。
「言ったでしょ。チャチな能力(チカラ)よ」
「「チャチねぇ……。それなら、俺たちのことなんて放っておいてくれてもいいんじゃないのかい? タイマシさん」」
「そうはいかないわ。あたしの目の届くところでウロチョロされるのはうっとおしいのよ。それがいくら、アンタみたいな小物(・・)でもね」
 「小物」の部分に思いっきりアクセントをつけて発音したかなたに、男はいささか気分を害したようだった。先ほどまでの丁寧な口調はなりを潜める。
「「ったく、ようやく安住できるところが見つかったと思えば、これだ。命からがらトウマのところから逃げて来たってのによ」」
「命からがら? アンタとっくに死んでるじゃない」
 死んでる?
「ちょっと待てどういうこと、ですか? あの人は死んでるって――」
「ハル、ちょっとうるさい」
「はい……」
「それにいいこと聞いたわ。トウマんとこが逃がしたやつをあたしが仕留めれば、ホンケに貸しも作れるってもんだし」
「「いいことを聞いたのはこっちも同じだね。てことはお前、はぐれだろ?」」
「それが?」
「「仲間はいない。肝心のポコンポコーは俺の手の中。この状況でどうするんだ? え、はぐれタイマシさんよ」」
 ここでひとまず、二人の会話が途切れた。さてこの短いやり取りの中でよく分からない単語がいくつ出てきた? 
 トウマとホンケってのは、昨日もかなたが言ってたな。話の流れから察するに、ホンケは本家、だろうか。トウマってのは苗字なんだろう、多分。
 えー、次、タイマシ。大麻死? 分からんパス。
 ポンポコポー? ポコンポコー? ……パスだ。
 結論。
 頼むから説明をしてくれ……。
「あのね……」かなたははぁ、と大きく息を吐く。「アンタみたいな小物にごちゃごちゃ言われる筋合いは無いって。いいから黙ってあの世で説教される心配でもしてなさい」
 ドMさんなら泣いて喜びそうな、冷笑の混じった侮蔑の言葉。けれど、残念ながら彼にもそっちの趣味はなかったようだ。
「「……言ってろよ」」
 一言、低い声で吐き捨てて振り返ると、男は走りだした。
「追うわよ」
 そう言って駆け出すかなたに僕も続く。
「ちょっと、あいつなんなんですか?」
「ただの万引き好きよ」
「は? 万引き好き?」
「そう、ほら」
「へ? うぁっとぉ!」
 案外とあっさり返ってきたかなたの返事に気を取られている間に、前方を行く男から何かが飛んできた。身体を捻ってなんとか避けると、背後にぱん、と音がして僕は首だけをそちらに向ける。
 パンだった。
 さっきのコンビニの商品である。
「どういうことですか?」
 どこに隠してたんだと突っ込みたくなるくらい次々に飛んでくるパンやプリンやパンやゼリーやパンやプリン・ア・ラ・モードをかわしながら僕は再びかなたに問いかける。
「誰にも気づかれないくらいのスピードでスリ取る(・・・・)能力(チカラ)」
「……誰にも、気づかれないって……?」
「覚えてるでしょ?」僕が言い終わるよりも早くかなたは言う。「風が起こるくらいの速さ」
「……ああっ……!」
 不自然に変わった空気の流れ。
「じゃあ、さっきのも……?」
 右手から左手へ、一瞬にして移動した鉄パイプ。
「左手で右手のパイプをスリ取った。それだけ」
「なんだ、大したこと――」
 ――あるだろっ!
 超スピードはチャチなもんじゃあ断じてねぇーぞポルナレフっ!!
「とは言え、まずはパイプを奪い返さないことにはアイツの言う通りなんにも出来ないのよねー。そこんとこは任せたわよハル」
 そう言ってにやりと笑うかなた。
「待った待った! 僕あれ触れないんだって。なんでかなた……、さんもあの人も平気で触れるわけ?」
 前方から飛んでくる諸々をかわしながら、かなたはめんどくさいって顔で僕を見る。
「めんどくさいわねぇ……」
 口に出さなくてもそう思ってる事は分かってたよチクショウ!
「あたしとアイツは普通の人間で、アンタはイレギュラーだから。以上」
 お前は普通じゃないだろ、と突っ込みたかったけどそこはいい。
「質問その二」
「めんどくさ――」
「さっきあの人に向かって死んでるって言いましたよね、でも今は普通の人間って」
「……外身がね」遮られたのがさも不機嫌と言いたそうに、かなたは答える。「っていうかアンタ、何も知らないでどうしてついてきてたの?」
 お前が聞いても説明しようとしないんだろうが!
「外身?」
「あーもう、見てれば分かるから。とにかくパイプ、なんとかしてよっ!」
 窃盗物の雨を掻い潜り、かなたが男に向かって距離を詰める。
 なんとかしてよと言われてもなぁ。僕は直接触れないわけだし、かなたが奪い取るのが早いんじゃ――
 待てよ。
 その思考の最中、すでにかなたは男に手の届く位置まで接近していた。
 逆を言えば、それは男からもかなたに手が届く位置。
 左手に握られた鉄パイプを注視する。
 あのスピードで、目にも見えない速さであれを振られたらどうなる……。
 最悪の光景が脳裏をよぎる。
「くっそ……」
 走るスピードを上げようとするが、いくつ隠し持っているのか、やまないコンビニ食品に行く手を阻まれる。
 フリスビーのように飛んでくる焼きそばUFO、夜店の焼そば、大盛りいか焼きそば、ぺヤングソース焼きそば、俺の塩。
 どんだけ焼きそば好(ず)きだ!
 そのとき、二人よりもさらに前方に人影が見えた。その足元には動物らしき影。
「あれだっ……!」
 昨日のじーさんと、その飼い犬。用があるのは犬の方だ。口元に咥えたあの球体は、野球のボール!
 飼い主と飼い犬は双方ぽけーっ、とした顔で道の脇に立ち、かなたと男の通過を見送る。
「そのボール貸してく――」
 僕は言葉を失った。貧相な裸体を晒して顔を赤らめるじーさんと目があったからだ。
「ばふっ!」
 そちらに気を取られた一瞬の隙に、何かが顔に覆いかぶさる。
 臭い、なんか臭いぞっ!
 走りながら引き剥がすと、それは若草色のトレーナー。
 加齢臭だコレ……。
 ブルーな気分をなんとか振り払いながらトレーナーをじーさんに投げ返す。代わりにボール貸してよねワンちゃ――
「ないっ!?」
 口から奪い取ろ――もといお借りしようと低くした体勢を元に戻し、じーさんたちの脇を走り抜ける。と、再び前方から飛来する物体があった。
 このときの僕は相当にいい笑顔をうかべていたと思う。
 僕の顔面に向かってゆっくりと飛んでくる野球ボールをキャッチする。ぱし! といい音を立てて、それは僕の右手に収まった。
 硬球か。好都合!
 手の中で転がしベストポジションを探す。その間に、とうとう投げるモノがなくなった男は、後方わずかのところに迫ったかなたに向かって鉄パイプを振り上げていた。
 走りながらの投球なんてしたことはない。だけど、ここで外したら――
「かなたっ!!」
 一点。振り上げられたパイプの先端だけを見据える。
 視界が周りから暗くなっていくのを確かめるよりも早く、僕は勢いのままにストレートを放った。
 間にあえっっっ……!
 左足だけでは勢いを殺しきれず、身体を一回転。狭まった視界が一気に広くなり、全景を捉えた。
 がん、と鈍い音が鳴って、男の手から鉄パイプが弾かれる。やや斜め上に向かって跳ねたそれを追って、かなたが跳ぶ。
 硬直。
 鉄パイプを弾かれたことで男の視線は上方へ。動きは一瞬、完全に停止していた。
 一瞬は言葉通り、一秒にも満たない時間。けれどそのゼロコンマ数秒の間に、かなたは男の前方へ回り込み、ベストなポジションで鉄パイプを振りかぶっていた。
「「しまっ――」」
 どふっ! と鈍い音がして男がくずおれる。と同時に、彼の身体から何か黒い塊が飛び出して、すごいスピードで僕に向かってきた。
「捕って!」
 言われなくても、身体が勝手に動いてしまった。散々練習を重ねたピッチャー返し、ライナー性の当たり。
 どうしてかは分からない。けれど、これをこぼしたら試合に負けるかの如き焦燥に駆られ、僕はレフト寄りに抜けようとするその球に向かって右手を伸ばす。掌の中央にむにゅ、という感覚があって、それを逃がすまいと思いっきり握りしめた。
「離せっ!」
 その声は右の掌から。見れば、そこには黒い球体が収まって、ときおりもぞもぞ、と身を捩っていた。
「うわっ! 気持ち悪っ!」
 むにゅむにゅした感触はカナ及び例のアダルトグッズを握りしめたときのそれと似ているものの、けれどこの黒さのせいで、今僕の手の中にあるこいつには何か得体のしれない気味悪さがあった。握りつぶしたら毒でも出てきそうな外見なのだ。
「こ……っの!」
 どうやら声を発しているのはこいつで間違いないらしい。その声に聞き覚えがあった。
 そうだ。
 かなたの足元で倒れた男。二重に重なった声のうちの一方。
 だんだん、僕にも理解が出来てきた。
 喋る、黒い霊魂。
 なぜ喋るのかはこの際置いておこう。あとでいくらでも聞けばいい。今は、こいつをどうするか。その答えは早々にかなたが提示してくれた。
「ハルっ! 投げてっ!! そいつが逃げられないくらい思いっっっきりっ!!」
 思いっきりだって?
 鉄パイプをバットに見立て、構えるかなた。そのかなたはただ投げろとしか言わない。だけど、自信たっぷりに言うからには、何かあるんだろう。こいつを投げることに、何か意味が。
 僕はもう一度掌で暴れるそいつを見下ろすと、一気に頭上へと振りかぶった。
 バッターボックスのかなたに視線を送り、続いて倒れたままの男をホームべースに見立てる。目算で一七メートル。キャッチャーミットを想定し、ストライクゾーンを設定。ド真ん中に狙いを定め、僕は奥歯を噛みしめる。
「お前も、タイマシか!」
 頭上からの声に答えを返す。
「知らない――」
 大きく上げた左足を地面に突き立てる。踏み込んだ足を伝ったエネルギーは全身を通り抜け、右腕、先端へ。
「――よっ!!」
 ただ思いっきり、投げた。
 最高の球。ストレートの握りから放たれた霊魂は、一四〇キロになろうかというスピードで直進し、ストライクゾーンに突き刺さる――はずだった。
「はんせぇっ、しろぉっっっ!!」
 かなたが、叫んだ。
 ――ほとんど反射的に、僕は真っ青な空を仰ぐ。その中に一点、長大なアーチを描く黒い染み。
 完全に外野席に飛び込む長打コースに乗った霊魂を、僕は目で追った。上昇から下降に運動が移行したところで、黒い染みは光になって消える。
 ゆっくりと振り返り、僕の渾身の一球を特大のホームランにした彼女に視線を向ける。
 そのアッパースイングに、気だるげにバット――鉄パイプを垂らしてホームランボールを見据えるその姿に見覚えがあって、僕はしばらくの間、彼女から目をそらすことが出来なかった。
6, 5

  

 4.

 倒れこんだままの男性をここ――通りの木陰まで運んでくれたのは、例の老犬である。
 ジャケットの首元をくわえたかと思うと、信じられない力で後退し、ずりずりと音を立てながら数十メートルをものともせずに運んできたのだ。
 ん、ちょっと待て。ってことはやっぱり僕の上着の首元に残ってた穴って……。
 あいつかワザワザ鳥のフンの上に僕を運んだのっ!!
 思いついたのは、去っていく彼の後ろ姿が、隣の老人共々豆粒程度に小さくなった頃だったけれど。
 まぁ、いいさ……。
 仰向けにノビたままの男性の上をカナが飛び回る。その様子を、かなたは腰に手を当てて満足そうに見下ろしていた。
「カナを探しに来て思わぬ拾い物しちゃった」
 右足を軸にくるり、と回転し、僕に向き直った彼女はとびきりの笑顔を浮かべていた。
「お手柄よハル。今日は様子見のつもりだったけど気が変わったわ。アンタを正式に、あたしの助手に認定してあげる」
 慣性に従って揺れるポニーテールを目で追いながら、僕は「はぁ」と気のない返事を返す。
 それはそうもなるだろう。何をニコニコ笑っているのか知らないけれど、冷静になってみればあの人相当重傷だぞ? 救急車は? こんなとこで談笑してる場合じゃ、少なくともないと思うんだけど。
 一瞬、「何よその返事は」とでも言いたげに目を細めたかなただったが、背後で聞こえた小さな呻き声に気を取られたようで、反射的にそちらを振り向いた。
「うぅ……」
 上半身を起こした男性に一歩近づくかなた。僕もその後ろから彼の様子を眺める。
「具合はいかが?」
 男性は少し考えた様子で、
「……少し、背中が痛いかな」
「アバラとかは!?」
 思わず突っ込んだ。そうだろう? 相当な力で鉄パイプを胸部に叩きつけられていたはずなんだ。
「いや、特には……」
 腹部をひと撫でして、彼は首を傾げる。
 なんだ、どうなってる?
 そんな僕の疑問は相変わらず差し置いて会話は続けられる。
「覚えてる? 自分のしてたこと(・・・・・・・・)」
「…………正直、曖昧だ」
 そう言って男は俯いた。
「普段は寄りもしないはずのコンビニに入って、気付けばウチにいる。買った覚えのないものが服やカバンや、とにかくいろんな所から出てくるんだ。想像は付くよ。だけど、怖くて誰にも話せなかった。
 ……俺は、やってない…………。」
「そうね。アンタは(・・・・)やってない。だけど、それはやっぱりアンタが心のどこかで望んでたことなのよ」
「そんなことは……!」
「無いって、言い切れる?」
 ぴしゃり、とそう遮ったかなたの一言に、彼は起こしかけた上半身を力無く道の端に横たえた。
 全員が言葉を止める。先ほどまで忙しく飛び回っていたはずのカナまでも、気付けば僕の隣で静かに浮かんでいた。
「覚えてるんでしょ、自分のものじゃない声」
 力無くうなだれていた男性が、ゆっくりと顔を上げた。
「君は、警察じゃないのか……?」
 彼の一言に、かなたは不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「どこにこんなかわいい警官がいるのよ」
 いや、それは全国の婦人警官の方々に失礼だろう。っていうか自分で言うな。
「そう、か」
 どうやら相当に緊張していたらしい。男は大きく息を吐き出した。かなたが警官でないと分かったからだろう。
「……アレ(・・)は、アンタが招いたものよ」
 かなたの言う「アレ」
 男の体から飛び出した、喋る、黒い霊魂。
「アンタに何があったのかなんて知らないし、それを聞いてあげるつもりもないわ。
 あたしが言いたいのは、アンタが心のどこかで迷ったから、心が弱かったから、アイツに狙われたんだっていうこと」
 相手が年上だとか、そんなことはこいつにとって関係の無いことらしい。容赦なく叩きつけられるかなた節。
 僕には敬語強要するくせにな!
 だけどその言葉の内容とは裏腹に、かなたの声音は先ほどの公園でカナに語りかけていた時のそれのように、僕には聞こえていた。
「人はね、何かイヤなことがあったって、その捌け口を他人にメーワクのかかることに見つけちゃいけないのよ」
 だから彼に向けた言葉は、かなたなりの優しさだったのだと思う。
「反省しなさい」
   ※

「あの人、大丈夫なんですか?」
「何が?」
「だから、骨とか」
「大丈夫だったじゃない」
「いや、でも後から痛みがくるとかあるじゃないですか……?」
「あたし上手いもの」
「…………」
 鉄パイプでの殴り方に上手いも下手もあるだろうか。というか上手いと逆に危ないんじゃないのか。
「そういえばさ、ハル」
「はい?」
「アンタさっき、あたしのこと呼び捨てにしたでしょ」
 珍しくかなたの方から話しかけてきたかと思えば今更。それもあの状況で、よくぞ覚えていたもんだと思う。
 ついでに、自分のことは思いっきり棚に上げてるしな。
「……それはほら、かなたさんが危なかったから、思わず?」
「テキトーなこと言ってんじゃないわよっ!」
 一瞬で背後に回ったかなたの細い右腕が、僕の首に巻き付いた。若干の身長差があるせいで、僕の身体は後ろに反らされる格好になる。
「うえ、ギブ、ギブ!!」
 とんとん、と指先でかなたの細い腕を叩く。側面の髪が跳ねて、僕の頬をくすぐった。
 気の向くまま? に歩き(飛び)回るカナについて回ること一時間。間もなく時刻は正午だった。
 町並みは次第に見慣れた景色に。麻蔵駅に近づいてきた証拠である。
「危なく、死んでたかもしれないんですよ?」
 柔らかい腕と何となく甘い匂いに僕は気恥ずかしくなって、なんとかかなたをふりほどく。距離をとると、そのまま後ろ向きになって歩いた。
「あたしが? ヘーキだってあんな奴。言ったでしょ、大したこと――」
「あるでしょう」
 反射的に返した語調がやけに強くなったのを感じて、僕は所在なく視線を逸らした。
「あんなのに殴られたら、死んじゃいますよ」
 なんだよ、なんで僕はこんなことでムキになってるんだ。
「ふーん」やけに声が近いなと思って見ると、体勢を低くしたかなたがにやにや笑いながら、下から僕を覗き込んでいた。「心配してたんだ?」
「別に……」
 あまりの近さに、僕はまたあさっての方向に視線を逸らす。
「助手としてはまぁまぁの心がけね」
 だからその助手っていうのはなんなんだ。問い返そうと思ったところで、
「けど甘ぁぁぁぁいっ!!」
 腹部に衝撃が来た。
「ぼふぅっっ!?」
 かのコンボイ総司令がいい考えを思いついたときみたいに、抜き取った右手の人差し指をぴん、と立てると、腹を押さえて前かがみになった僕の隣でかなたは言った。
「いいハル? あたしたちの仕事はチームワークが大事なのよ。どちらかの判断ミスがすなわちもう一方の危険につながるわけ。
 あの場合は結果オーライだったけど、本当ならあたしが引きつけてる間に後ろから奪い取るのがセオリーでしょうが」
「いや、だから僕、それ触れないんですって……」
 かなたは左肩に掲げた鉄パイプをきっかり二秒注視してから、もう一度僕を見た。
「まぁ、それはともかく」
 うわ、流したよこいつ。
 さっきも言っただろ。どれだけ忘れっぽいんだ一体。
「ともかくでもなんでもいいですけど、あんなスピードでそれ振り回されたら危なかったでしょってことが言いたいんですよ僕は」
 僕は身体を起こして、かなたのパイプを指さした。
「…………」
 何で無言だよ。
 ぽん。
 指先に触れる鉄パイプ。
「痛えっ!」
「なるほど」
「なるほどじゃないでしょ! なんで試したんですか今!!」
「そっかそっか。なんでそんなにムキになるのかと思ったら」はい話を聞かない。「あの手とおんなじスピードで(・・・・・・・・・)、パイプ振り回せると思ったんだ、アイツが」
 そう言って振り返ると、
「無理よ。だってアイツの能力(チカラ)はスリ取ることに特化してるから」
「…………は?」
 ぽかん、と口を開けたままの僕を置いて、かなたは歩きだした。
「それってどういう――」
「ハルさ、何ヶ月か前にコンビニから逃げようとした万引き犯が車にひかれて亡くなった事件覚えてる?」
 また話が飛んだ。
 僕はかなたを追いながら記憶を掘り返す。
「さぁ……」
 残念ながら出ては来なかったけれど。
「テレビじゃ大して取り上げられてなかったから無理もないけど。
 その犯人の家、調べたら大量の盗品が出てきたんだって」
「盗品?」
「そ。それもパンとかお菓子とかカップ麺とか、そんなのばっかり、全部同じコンビニのシールが貼られた袋。一件のコンビニで延々盗みをはたらいてたわけよそいつは。
 その期間推定一ヶ月。被害総額、いくらだと思う?」
 コンビニで、お菓子とかパンとか? どこかで聞いたことあるような。
「六万円くらいですか?」
「二〇万だって」
「にじゅ……!?」
 僕は本気で驚いていた。
 二十万なんて大したことは無いと思うかもしれない、が。
 考えてみよう。一日二千円の概算だって三〇日続ければ六万円になる。二〇万円はその三倍以上。コンビニで一日に七千円の買い物なんてしたことあるか? それも食品限定で。
それはともかく、コンビニで一ヶ月二〇万の被害は正直死活問題だと思う。うん。
「それを一ヶ月も続けてたと……?」
 品物自体の量だってただ事じゃない。
「今となってはどうして一ヶ月もバレなかったのか分からないけどね。とにかく、決定的な瞬間は防犯カメラにすら一回も写ってなかったらしいわ。
 見つかったのは死ぬ直前。店に警官が三人詰めてたときだけ」
「……今日のことと関係あるわけですね?」
 かなたは立ち止まらずに続ける。
「犯人にとっては趣味みたいなものだったのね。実際手もつけられないで部屋の隅で腐ってたのもあるって話だし。単なる趣味だっただけに、死んでしまった犯人には相当な心残りがあった」
「……それが、あの黒い霊魂」
「確証はないけど、十中八九そうでしょうね。あの動きはそんじょそこらのヤツに出来るもんじゃないわ。
 だけど、アイツがあの動きを発揮できるのは、ことスリ取ることに関してだけ。それがアイツの能力(チカラ)ってわけ」
「そんな都合いいことって――」
「あるの。だから言ったでしょ、小物だって。本当にやっかいなのはあんな限定的な能力(チカラ)じゃなくて、もっと汎用性の高い能力(チカラ)を持ったヤツ」
 僕は背中が寒くなるのを感じた。
 霊魂が人に取り憑いて事件を起こす。マンガの世界の出来事みたいなことが、現実に起きている。
 今日のやつはともかく、それよりももっと危険なやつが、どこかに潜んでいるかもしれないのだ。
「そんな危ないやつが、この町にいるってことですか……?」
 僕の不安を払拭してくれようとしたのか、あるいはただの気分でそうしたのか、彼女は僕の言葉を笑い飛ばす。
「いないいない。大体そう言う危ないやつは、上が処理しちゃうから」
「トウマとか、本家が?」
 何度か出てきた言葉を使って問いかける。
 かなたは少しだけ顔を不機嫌に歪ませてから、答えた。
「そういうこと。だからあたしたちはあたしたちに出来ることをするの。まずは、カナの心残りを遂げさせてあげないとね」
 かなたの言葉に反応してか、先頭を飛んでいたカナがひと際高く「ぴぃ!」と鳴いた。
 幾分愛着も沸いてきた。そうしてやることはもちろんやぶさかではないのだけれど、せめてかなたのように、カナの言っていることが分かってやれればと思う。
「どうしてかなたさんは、カナの言葉が分かるんですか?」
 一瞬の間をおいてから振り返ったかなたは、「え……今さら?」と言いたげな顔をしていた。先ほどの僕のように後ろ向きに歩きながら、
「まぁ、センス?」
 そんなありがたく無根拠無責任なお言葉を頂戴する。
「じゃあ、さっきの黒いやつは?」
「知らないわよ。悪い奴ってのは大体エゴ強いから。あんたにも聞こえるような大声で喋ってるんじゃないの?」
 なんてアバウトな。エゴ強いってなんだよ。
「やっぱりただ歩きまわってるだけじゃ見つからないわねぇ。もうちょっと情報はないの? 何歳くらい、とか」
「ぴぴぃ」
「じゃあ、あたしたちと同じくらいね。ハル」
「……なんて言ってるんです」
「高校生だって」
 ホントか。ホントにそう言ったのかカナ? かなた、お前ホントにカナの声がきこえているのか?
「そういうわけだから、明日からは学校に連れて行ってみるわよ。まずはアンタのほうからね」
 本日のスタート地点であり、ゴール地点。
 かなたはヒデロー像の前で振り返った。
「今日はなかなか有意義だったわ。また明日」
 たった一言そう言って、かなたは僕の家路とは反対の方向に歩いていく。
 けれど僕にはまだ、聞いておきたい、いや、聞かなければならないことがあった。
 僕の全力のストレートを特大のホームランボールに変えたのは偶然であったのか、あるいはそうなって然るべき理由があったのか。
 あえて聞く必要はなかったのかもしれない。なぜなら僕の中で、それはほとんど確信となっていたからだ。
「かなたさん」
 ゆっくりと、かなたが振り返る。
「ヒデローとは、どういう関係ですか」
 これまでに僕が見た彼女の表情の中でも、柔らかい方。けれど僕は見逃さなかった。その口元だけは唯一ぎゅっ、と真一文字に結ばれていることを。
「なに言ってんの?」
「……聞き方を変えます――」
 やめた方がいい。かなたの態度を見て、止めようとする自分がいる。けれど、好奇心とそれから自尊心が、抑えを振り切って先に立った。
「――田中秀朗(ひでろう)選手とは、どういう関係ですか」
 目に見えて分かるくらいに、かなたの表情が不機嫌に歪む。
「どうしてそんなこと聞くわけ?」
 初めてだったから。
「初めて、ホームランを打たれました」
「……だから?」
「あなたがヒデローの血を継いでいるんだとしたら、それは納得出来る」
 雑踏の音がかき消えた。
 実際にはほんのわずかの時間だったのだと思う。けれど、体感としてはたっぷり数十秒。それだけの間があって、かなたからの答えが返ってきた。
「あたしはあたし――」
 とても静かな、それでいてよく耳に残る一言だった。
「――親父は関係ないでしょ」
8, 7

  

 わお。五つもコメもらったのでお返事します。
 ちなみにみんなぶっちゃけて私の文章力ってどう? ちょっとこなれてきてしまっている感じが自分でもある。
 そこんとこも辛めにコメントいただけたら幸いです。

>>[5] 打っちまったか!! <'2010 04/12 07:55> 2Z/VxJM0P
 フルスイングですから。

>>[4] ↓何その面白そうな小説w <'2010 04/12 01:01> ZIXUy/E0P
 君書いてくれよ。読みたい(笑)

>>[3] タイトルかたなフルスイングに見えた <'2010 04/12 00:40> MGxKqWF.P
 ただのチャンバラ小説になるだろっ!! ……なにそれ面白そう。

>>[2] 期待です <'2010 04/10 17:13> pUTiC5X1P
 ここまではいかが?

>>[1] 野球モノ待ってました!続きに期待 <'2010 04/10 13:39> zYS.Hus0P
 あざーす。全然野球やってないけどいい?
9

ローソン先生 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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