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第二章

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 第二章

 ――もうやだ。
 ――もうやだよ……。
 少女は疲れていた。
 バスを降り、誰ひとり知る人のない町を歩く。
 雑踏に押しつぶされそうになりながらも進むその先は、彼女にとって救いとなる場所ではなく。
 一五分も歩いてようやく立ち止まると、少女は可愛らしいピンク色の腕時計を眺めた。けれど、そのもの自体は決して彼女にとって愛着のあるものではない。むしろ、彼女を縛り付けておくために定期的に与えられる、鎖である。
 もちろん、与える当人たちにそんな意識は全くないのだろうけれど。
 いっそ、捨ててしまおうかと少女は思った。
 だけどそんなことをすれば、何を言われるか分かったものではない。
「無くした? 嘘でしょう、誰かに取られたのね?」
 ――誰も欲しくなんてないよ、こんなだっさいの……。
 嫌いな時計は、まだ一〇分程の余裕があることを示していた。
 ぎりぎりまでここにいたい。道を挟んで対面に立つ、三階建てのビルを眺めながら、少女は背後の壁に背中を預けた。
 雑多に人が入り乱れる。ここなら、せんせいたちに見つかることもない。
 ――どうしたら、帰れるかな。
 具合が悪いなんて言ったところで、病院に連れて行かれてすぐに仮病だってことが分かる……。
 ――そっか……。
 わたしに原因があっちゃいけないんだ。
 だったら。
 窓に明かりの灯る三階建てのビル。
 ――……これが、なくなっちゃえばいいんだ。
 無理だよ!!
 ぶるぶる、と少女は首を振った。
 ほんの一瞬、脳裏をよぎった恐ろしい考えに、である。
 結局のところ、自分に選択肢はないのだ。これから一時間たっぷりと拘束されて、へとへとになって家に帰る。
 明日も、明後日もその繰り返し。
 七分が過ぎた。
 少女は寄りかかった壁から背中を起こす。
「帰りたいな……」
 誰の耳にも届くことは無く、ただかき消えるはずの言葉。
「なら、やっちまえばいいよ」
 だから彼女はこの声に驚いた。返答があったことのみならず、周囲には、立ち止まり彼女に言葉をかけたと思しき人物が見当たらなかったからだ。
 少女は首を傾げた。
「さっき君が考えたこと、俺なら叶えてやれるよ」
 びくり、と、今度は先ほど以上に鮮明に聞こえたその声の方向を、彼女は仰いだ。
 黒い、塊だった。
 周囲を行く大人たちの頭の位置くらいの高さにそれは浮かんでいて、少女を見下ろしていた。辺りを行く人は誰もそれに注目する様子が無い。自分にだけ見えているらしいと、彼女は悟った。
 その外見はどこかおどろおどろしいはずなのに、不思議と少女に恐怖は無く、自然、彼女は問い返す。
「さっき……?」
 一瞬、浮かんだ考え。
「ダメだよ……」
 力無くそう呟く。
「君だけじゃない、みんな思っていることさ」
 優しく、降ってきたその声に、少女は目を見開いた。
「みんな?」
「そうだよ。君なら、みんなを助けてあげることが出来るんだ」
「どうやっ、て……?」
 次第に揺らぐ頭に広がる、赤い、赤いイメージ。
「俺が力を貸してあげる」
「力?」
 そう、一緒にみんなを、助けてあげよう。
 返事をしたのか、しなかったのか、もう彼女には分からない。ただ赤いイメージが広がりきったところで、彼女自身の意識(・・・・・・・)は完全に、かき消えた。
 1.

 目覚めは最悪だった。
 いろいろなことが頭を巡り、ごちゃごちゃと考えているうちに日をまたぐ。結局整理もつかないままに、眠りについたのはいつだったのか。このダルさから判断するに、三時間と眠っていないだろう。
 いつもの時間にセットされた目覚まし時計に叩き起こされ、カナと一緒に跳び起きる。
 なんとか匂いのとれたらしい上着に袖を通し、リビングから聞こえてくる朝のニュースを流し聞きしながら顔を洗って歯を磨く。
 速報のようなものは特に無く、昨日隣町で発生した学習塾の不可解な火災の原因についてを、アナウンサーが専門家を交えて延々と語っているだけだった。
「行ってきます!」
 テーブルに置かれた弁当箱と、無造作に皿に乗せられていたトーストを引っ掴み、僕は返事を待たずに家を飛び出した。
 全力で自転車をこぎ出してすぐに、僕は思いだした。
 今日、朝練ないじゃん……。
 こぐスピードを次第に緩めて、僕は自転車から降りた。片手でハンドルを押さえながら、もう一方の手で咥えていたトーストを引きちぎる。
 仮にあったところで、参加するつもりだったのだろうか。それも昨日の今日で。
「寝よう……」
 静かな教室ってのも、たまにはいいんじゃないだろうか。
 左肩にかけたエナメルバッグが、今朝はやけに重たかった。
 時刻はまだ、六時五〇分。隣に並ぶカナに眠そうな視線を向けると、彼女(でいいんだよな)は身体全体を傾けて、「ぴう?」と鳴いた。

   ※

 学校特有のざわめきに、意識が覚醒する。
「……がわくん」
 その中に聞き覚えのある声がやけにはっきりと混じって、僕は起き上がりたくないなと思った。
「宇田川くん」
 ほらな。
 どうせ会うことは分かっていたけど、もう少し心の準備をさせてくれてもいいんじゃないだろうか。
「宇田川くん!」
「頼むからもうちょっと寝させてくれよ」
 さも眠たそうに、僕は顔を上げた。本当のところはもうすっかり目が覚めてしまっていたけれど。
「昨日、試合勝ちました」
 何の感慨もなく、美陽はただそう言った。
「……知ってるよ」
 自分で送ったメールだろ。
「どうして来てくれなかったんですか」
 静かに、けれど普段の彼女らしからぬ凛とした声で、美陽は言う。
「僕がいなくても勝ったんだろ。なら必要無かったじゃないか」
「八対七、辛勝です。吉崎先輩、へとへとになって最後まで投げたんですよ」
「最後まで投げられて良かったじゃない――」
「宇田川が来るまで、絶対繋ぐからって、宇田川なら抑えてくれるからって、そう言ってずっと投げ続けたんですよ吉崎先輩! なのに宇田川くん、いつまで待っても来ないし……!」
 次第にヒートアップする声に、周囲からの視線が気になり始める。そして、この一言がとどめになった。
「よりによって試合の日に、デ……、デートの予定入れることないじゃないですか!!」
「ちょ……!」
「デート!?」
「宇田川が!?」
「あ、わたし見たよ駅前で。やっぱりあれ宇田川だったんだ……」
「それでそれで、相手は?」
「違う、違うちがーうっ!!」
 断じて違う。デートなんてそんな甘い言葉が似合うもんじゃない。
 けれど、ヒートアップしたこの場においては、僕の否定はかえってみんなの興味を煽ることにしかならなかった。

   ※

 休み時間、教室から出るたびに僕は至るところから視線を感じた。理由はもちろん、僕が練習試合サボってデートしてたらしいという噂が一気に学年中に広まったせいだ。
 おかげで今日は一日、おちおちトイレにも行ってられなかった。危うく膀胱炎になるところだったよ。
 っていうかみんな他人の恋愛に対して感度高すぎるだろ。放っておいてくれよ。
 ……いや、実際のところ全然恋愛じゃないんだけどさ。
 結局、僕は一日のほとんどを寝て過ごした。
 時々起きて、かなたのことを考えた。
「親父は関係ないでしょ」
 そう言って足早に去って行く、かなたの後姿が何度もフラッシュバックする。
「くそっ……」
 そうして一日は、驚くほどのスピードで過ぎていく。
 帰りのホームルームが終わり、意味ありげな視線を向けながら去っていくクラスメイトたちに聞こえないよう、僕は呟いた。
「カナ」
 反応は無し。
 朝、教室で眠りにつく前に、適当に学校の中を探してみてくれと伝えて以降、一度も姿を見ていない。
 外に出たんだろうか。
 ウチの場所は知ってるわけだし、いなくなることはないだろう。
 帰ろう。
 立ち上がったタイミングだった。
「宇田川くん……」
 少し離れたところで、スクールバッグを握りしめた美陽が俯いていた。
「えと、その、ごめんなさい……。わたしのせいで、今日はなんだか、大変でしたよね……」
「いいよ、別に」
 少し、つっけんどんだったかもしれない。
 僕が教室を出ると、美陽も後ろから、少しの距離を置いてついてきた。
 玄関を出て、校庭を横断する。今日は練習が無いせいで、野球部のグラウンドがやけに静かだ。
 立ち止まって眺めた。たった一日足を踏み入れなかっただけで、この懐かしさはなんなのだろう。
「宇田川くん、野球、やめないですよね……?」
 数歩離れて立つ美陽の、やけに寂しそうな顔を見て、僕は自分でもどうしてか分からないけれど、笑っていた。
「やめないよ」
「本当に?」
 小さく、頷いた。
 夢があるから。
 僕はもう一度、グラウンドを眺める。微かに盛り上がったピッチャーマウンドに、目を細めた。

   ※

 美陽はこの春、高校進学と同時に地方からこの町に越してきた。自宅はどうやら僕たちが昨日歩いた新興住宅地にあるらしく、友人とはほとんど帰り道が一緒になることはないらしい。
 そんな話をしながら、僕たちは自転車をこいだ。
「野球、好きなんです。昔から」
「どうして?」
「お父さんの影響、かなぁ。あと、えっとその……、小学生のとき、好きだった子が野球始めたの、応援にいったりしてたし……」
 こういうとき、どういう顔をすればいいのか分からない。
 笑えばいいと思うよ、とかそういうベタなネタはいいんだよ。
 だってさぁ、そこで頬を赤らめられてもなぁ。なんか声かけづらいじゃないか。
 かと言って無言になるのもなんだか辛い。何かうまい相槌はないかと考えに考えて、思いついたのがこれ。
「じゃあ、今も野球部に好きなやつ、いたりするの?」
 隣を走る美陽に至極自然に問いかける。いい質問だと、自分でも思った。
「……ふぇ?」
 並走しながら僕たちは見つめ合った。
 風に流れる黒髪と、
 次第に赤みを増していく、美陽の頬。
「……な」
「な?」
「なーに言ってるだか宇田川くんそんなべづにそんな理由でわだしマネージャーやってるわげじゃねくてだってほらマネージャーったらやっぱ野球部には必要な存在だど思うし誰もやらねんだばやっぱし誰かがやるしかねくてそれならわだしルールもわがるしやってもいいかなってそれだげほんとにそれだげ!」
「……うん」
 テンパるとこいつは地方の言葉が出るのだ。
 何と言うか、分かりやすいヤツ。
「久慈、とりあえず前見て走ろう」
「はうっ!」
 今日のトリビアの種。
 電柱が目の前に迫っていたとき、ぎりぎりでブレーキをかけた場合に人が発する声は、「はうっ!」
11, 10

  

   ※

「明日、ちゃんと来て下さいよ」
 僕が頷くのを確認して、満足そうな顔で去っていく美陽の背中を見送り、自転車をこぎ出そうとしたときだった。
「宇田川、悠くん」
 背後からの声に、僕は振り返った。
 小さな児童公園の柵に腰を下ろしているのは、やはりその声同様、見覚えのない人物だった。
 ワインレッドのラフなシャツに黒のジーンズと、どこにでもいそうなにいちゃんかと思いきや、ストレートにした髪は銀色である。両手にはめた指なしグローブも、何やら金属製の装飾が見え隠れしている。高校生、ではなさそうだ。あまりお近づきになりたくない類の外見をしていると言えた。
 とは言え無視して去るのもなんとなく怖い。仕方がないのでいつでも全力でこぎ出せるように、スタンドは外したまま返答をした。
「どちらさまで?」
 僕の声に反応して顔を上げた彼の表情から受ける印象は、その派手な外見とは裏腹に、優しそう、であった。特に目なんて開いてるのか分からないくらいの糸目。それが微かにハの字になっているもんだから余計である。
「初めに名乗るべきだったね。失礼、僕は冬真(とうま)シンというものです」
 そう言って冬真氏はゆったりとした動作で立ち上がると、自転車を間に挟んで握手を求めてきた。
「はぁ……」
 なぜ握手なのかと思いはしたものの、とはいえ特に断る理由もない。差し出されたグローブ越しの右手に、僕もハンドルから離した右手を重ねた、直後。
「っ……!!」
 ばり、と掌に衝撃が走って、瞬間的に僕は彼――冬真シンから距離を取った。手を離した拍子に自転車が倒れ、周囲に大きな音が響く。
 つい最近もこんなことあったぞ……。いや、考えるまでもない。かなたの鉄パイプ、あれに触れたときと、全く同じ感覚だった。
 警戒の視線を向ける僕に、冬真シンは両手を広げると、「すまなかった。驚かせるつもりはなかったんだ」と言って笑って見せた。
「確かめたかったのでね。君がなぜ、田中の娘と一緒にいるのか」
 田中の娘……。かなたのことか。
 これで思い出した。トウマ――冬真シン。
 昨日かなたや、あの黒い霊魂が言っていたのは、彼のことであるらしい。
「だが、いまので納得がいったよ。それからお礼をしなければいけないね。我々が逃がしたコクリョウを祓うのに協力してくれたようだし」
 そう言って僕の自転車を起こそうとするシンに、問いかける。
「コクリョウ?」
「負の感情、負の力を強く包含する霊。昨日君が見た、黒い霊魂のことを我々タイマシは黒霊(こくりょう)と、そう呼んでいる」
 予め準備していたセリフであるかのように、彼はすらすら、とそう言い終える。
「その、タイマシ、ってのはなんなんです……?」
 起こした自転車のスタンドを立て、道の端に固定すると、シンは笑みを浮かべながら僕を見た。
「少し、そこで話そうか」
 親指は児童公園のベンチを指している。返答を待たないまま歩きだしたシンの後ろに、僕は続いた。
 数人の子供が駆けまわる公園の片隅、三人掛け程度の大きさのベンチに、僕たちは腰を下ろす。
「先ほどはすまなかった、そんなに警戒しないでくれないか」
 薄く笑みながらそう言うのは、僕が彼との間に大きく間を開けて座ったからだろう。少しだけ、腰を浮かせて僕はシンに近づいた。
「タイマシについて、だね」
 転がっていた手頃な石を手に取って、彼は土の地面に「退魔師」と文字を書いた。
「そのままの意味だ。魔を退ける師(もの)」
「冬真……さんや、かなたがその、退魔師なんですか?」
「シンでいいよ」彼は笑う。「正確には、そういう素質のある家系のことをひと括りにしてそう呼んでいる。一つは冬真と、それからもう一つ大きな家系があるが、その話は今はいいだろう」
 それが、恐らくかなたの言っていた本家のことか。
「田中の家は、元々鍛冶師の家系だった。僕らの扱うポコンポコーを精錬していたのが、彼女の遠い祖先にあたる」
 しゃべりながらも、シンは「退魔師」と書いたその隣に、さらに大きく文字を書いた。「放魂包鉱」と。
「何代か前――僕の御祖父さんの御祖父さん辺りの代なのかな、田中家に嫁いで行った人がいるらしくてね。そこから田中家にも退魔の力が伝わったらしい。
 もっともそれは田中の家系だけじゃない、日本中を探せばさらに点々としているだろうとは思うけどね。ただ、どれだけの家系が未だにその力を残しているかと言われればそれは疑問だ。だから、そうだね。田中の家系は非常に優秀だと言える」
 そこまで話し終えて、シンは細めた目で僕を見た。「ここまでで質問は?」と言っているらしかった。
 僕はおそらくそう読むのであろう、シンの書いた二つ目の文字を発音する。
「放魂包鉱(ぽこんぽこう)、っていうのは?」
「この辺り一帯は昔から霊脈でね。その影響か、不思議な力を纏った鉱石が大量にとれたんだそうだ。ご先祖様たちはその力を借りて、黒霊を退治していたんだよ。
 これは、僕らの家に受け継がれた彼らの形見ってわけだ」
 シンが広げた右手には、グローブの掌の部分に歪に伸ばされた鉄の板のようなものが張りつけられていた。
「放魂包鉱、ですか?」
 ふふ、と彼は鼻から息をもらす。
「なかなか、ユニークだろう?」
「はぁ」
 正直、なんとも返答に困る。
「さて、田中の話に戻ろう。厳密には、彼女は――彼女の家系は退魔師ではない」
「というと?」
「僕たちがそう定義するための力の、一部しか持ち合わせていないからだ」
 シンは再度、僕に向かって右手を差し出した。
「……なんです?」
「今度は大丈夫だから」
 恐る恐る、僕は彼の右手を握りしめる。
 電気は、走らなかった。
「どうして君にこういった性質が備わったのかは分からない」
「は?」
 右手を離し、シンは再び地面に、今度は図のようなものを描き始めた。
「厳密な定義のない話だが」
 人間の形を二つ。その下に、一方には「+」の記号を、もう一方には「-」の記号。
「このプラスを書いた方が一般の人だとすると――」
 マイナスを書いた側の頭の上に、「ハルカ」と書き足した。
「――こちらは、君だ。そして」棒状の図を書き加え、「放魂包鉱」の文字と「+」の記号を書き入れる。「放魂包鉱にはプラスの側の性質がある。だから君は通常、放魂包鉱には触れない。拒絶を起こすわけだ」
「待って下さい、そうすると――」
「疑問が二つ、だろう?」
 頷いた。
「まず、君以外の人間に君が触れることのできる理由、またその逆。これは単純だ。互いの発する力がそれほど強くないというだけのこと。
 放魂包鉱が発するプラスの性質は、通常人体が発しているそれの数十倍あるからね。君が触れば当然拒絶を引き起こすというわけだ」
「もう一つは?」
「二回目、僕と握手をしたときに君がこいつに触れることが出来た理由は、僕がここに流れるプラスの性質を、マイナスに変えたから」
 シンはもう一度僕に掌を向けてから、新しい人型を一つ、地面に描く。
「僕たち退魔師は、身体に流れる性質をプラスからマイナスへと変えることが出来る。放魂包鉱に流れる性質も、同時にね」
 「+~-」の記号。
「かなたが退魔師足り得ない理由はここだ。彼女にはこのコントロールを行う力が無い」
「……だから」
 昨日の、数回に及ぶ電気ショックを思い出す。
「心当たりがあるようだね」
「はい……」
 だから僕はかなたの鉄――もとい放魂包鉱パイプに触れることが出来なかったわけだ。
「話を戻そう」シンはわずかに目を見開いた。「なぜ僕たちに性質をコントロールする力があるか、分かるかい?」
 僕は少し考えて、首を横に振った。
 小学生になぞなぞを出す教師のような顔でシンはもう一度問いかける。
「霊魂はマイナスの性質を帯びた存在である、と言えば分かるかな」
「霊魂は、マイナス……?」
「そうだ。だから君は」
「……! 霊魂に触ることが出来る?」
「その通り。そしてかなたにはその力がない。……長くなったね、結論に移ろう」シンは前屈みになった身体を起こして、言った。「だから彼女は、君の力を欲した。利用しようとしたんだ」
「利用……?」
「そう、本来であれば黒霊退治は僕らの仕事だ。けれど彼女はやけに僕らのことを毛嫌いしていてね」
 確かに、昨日のかなたの様子を見るに、冬真の名を出すときは決まって不機嫌そうにしていた。
「自分で何でもやりたがるわけだが、彼女は自らの手で霊魂を捕え、昇天させてやることが出来ない――」
 気づけば、シンの左手には白い霊魂がちょこん、と乗っていた。カナではない、別の霊魂だった。その程度は気配で分かる。
「――こういう風に、ね」
「なっ……!」
 右掌を叩きつける。
 ぽん、と気の抜けたような音が一度なって、再び開いたそこに、先ほどの霊魂の姿は無かった。
「冥福を……」
 そう呟いて、シンは空を仰いだ。
「……今のやつは――」
「ん?」
 僕は立ち上がり、シンを見下ろす。
「――何か心残りがあってここに居た(・・・・・)んじゃないんですか?」
「その心残りを消してあげるのが、僕たちの仕事だ」
 そう言ってシンは、もともと細い目をさらに細めた。
「かなたは、そういう風にはしませんでしたよ」
「ぴぃっ!」
 頭上から高い声が聞こえ、僕はそちらを振り向いた。
「カナっ」
 カナは一直線に、僕が広げた両掌に飛び込んでくる。相変わらず気持ちいいなお前。
「なるほどね……」呟いて、シンが立ち上がる。「道理で、霊脈の太さに対してやけに白霊(はくりょう)が多いわけだ」
 そう言ってカナを見据える目に、僕は一瞬背筋が寒くなるのを感じ、シンとの距離をわずかに離す。
「ああ、その霊魂をどうこうしようというつもりはないよ。ただね、悠くん、出来れば君には、かなたと会うのをやめてもらいたい」
「……どうしてです?」
「本来霊魂というものは、死後須らく天に召されなければならない存在だ。それがこうしていつまでも我々と共にあるのは、不自然なことなんだよ。それを、田中の娘は分かっていない。
 どうも彼女はこの町を自分の城か何かだと思っているらしい。
 ……近いうちに、この町に残る白霊をすべて、或るべき場所に還そう。そのとき、彼女と一悶着あるだろうことは想像に難くない。君にも迷惑がかかることになる。
 それに、滅多にないことだとは思うが、昨日のような黒霊にまたいつ遭遇するか分からない。そうなったときに彼女の傍にいれば君も危険だ。知っての通り、かなたはいささか無鉄砲だからね」
「昨日は何とかなりましたよ」
 僕はぶっきらぼうにそう返した。
「聞いているだろう。君が昨日対峙したのは、黒霊の中でも低級に位置するものだ」
 何をムキになっているのか、自分でも分からない。
 かなたに利用されているって? 利用ってなんだよ。
 すでに、僕はシンを横目に歩きだしていた。
「それに、……こう言ってはなんだが君はすでにかなたに毒されかけている。事情も詳しく知らないままに首を突っ込むべきことではないと、僕は思うよ」
 荷台に乗せていたエナメルのバッグを肩に掛け、自転車に跨る。カナを頭に乗せてやると、僕はシンに向かって言った。
「色々と教えていただき、ありがとうございました」
 シンの返事は待たず、カナが「ぴぃぴぃ」と鳴く方向に向かって、僕は自転車を走らせた。
 2.

 辿り着いてみれば(途中からどこへ行くのか気付いてはいたけれど)、そこは麻蔵駅改札前。改札から出てくる人の列を二分するちょうど中央、冷やかな視線を浴びながら仁王立ちしているのは、誰あろう田中かなたであった。
「遅い!」
「はぁ……」
「学校が終わったらすぐ来なさいって言ってたでしょ」
 言ってたか……? ……いや言ってないだろ!
 とはもちろん口には出さずに、僕は「すいません」と小さく頭を下げた。
「ったく、さっぱり来ないからカナに探しに行ってもらったんじゃないの。あとでケータイ教えときなさいよ」そう言って、かなたは自動改札をくぐって行く。「何やってんの? 行くわよ」
「どこに?」
 やっぱり、肝心なことは言わないのだ。
「来れば分かるわ」

   ※

 そりゃそうだ。降りた駅が目的地に決まってるんだからさ。
 麻蔵駅から二駅先、幾分規模の大きな商店街を有する隣町で、かなたは電車を降りた。家路につこうとする人の流れに逆らいながら昨日のようにただ無言で歩いていく彼女を、僕は重いエナメルバックをかけて追いかける。
 それにしても……。
「何だってんだ……」
 ここに来るまでに考えていたセリフが全部飛んでしまった。
 言いたかったこともあったし、聞きたかったこともあった。
 だけどアイツは、昨日のことなんてもうすっかり忘れちゃってるみたいじゃないか。
 一日中悩んでいたことが馬鹿らしくなって鼻から息を吐き出すと、僕は足早にかなたの隣に並んだ。
「アンタ、今日寝てばっかりで全然カナの相手してあげなかったんでしょ」
 左肩に乗せたパイプ越しに、かなたは僕を睨む。
「ええ、まぁ……」
 おかげで随分元気になりました。
「ったく、まぁでも良かったわよね。カナの友達見つかって」
「ぴぃ!」
 ……待て、なんかあっさり言ったけどビッグニュースじゃないのかそれ?
「見つかったって!?」
「声がでかい」
「痛ぇ!」右手に走る衝撃。「……それ、罰ゲームみたいに使うの止めてもらえます?」
「カナ、明日ちゃんと友達に説明してあげるからね」
「ぴぴう!」
 聞けよ。……って、
「明日?」
「そうよ」
「カナの友達のところに向かってるんじゃ……」
「残念ながら。今日は他にちょっと確かめないといけないことがあるから、と、もうすぐそこね」
 角を曲がると、途端に先ほどまでの通りとは雰囲気が一変した。人の集まりが奏でる、独特の喧騒。
 ただ自然に流れる人の波は無くなり、ある一点を中心にして、小さな人垣が形成されていた。
「ニュース、見てるでしょ?」
「なんの?」
「火事」
 次第に密度の高くなっていく人の群れの中にずんずん、と踏み行っていくかなた。バッグを背中にまわして、彼女が作った道を行くのはさながらモーセにでもなったような気分だったけど、次から次へと溢れる人で、海はあっさりと閉じてしまう。モーセ溺死。
 目的地の周囲三メートルほどに張り巡らされたバリケード。五時半。薄闇が差し始め、巻かれた赤い照明がよく目立つ。
 警察官が疲れた声で「立ち止まらないでー、危険ですから立ち止まらないでー!」と叫びながら、光る棒を振っていた。が、その誘導に従うものはほとんどいない。
 ビルは三階建ての学習塾だった。
 隣接する建物に距離があるのが幸いしてか、被害はどうやらこのビルだけのようである。
 一階は無残にも黒く焼け、ガラスはすべて割れ落ちていた。割れた窓から、長靴を履いた消防団員と思しき人物が二名、何やら作業をしているのが見えた。
 外壁の焦げ具合から、二階にも火の手が上がったのだろう。やはりガラスが全て割れている。三階は、外から見る分には別段影響はないように見えるものの、この状態ではさすがに営業を続けることは出来ないだろう。
 初めて目の当たりにする火災の現場。未だ熱量さえ感じさせるその様は、凄惨という言葉を思い起こさせた。
「これは、ニュースで見るのとは違いますね……」
 そう言って僕が見下ろすのと、何やら重い調子で「やっぱり」と呟いたかなたが動き出したのはほとんど同時だった。
 人垣を分けて右に抜ける。僕もそれに続いた。
 気のせいだったろうか、一瞬見えたかなたの横顔が、普段のそれよりもさらに難しい表情をしているように見えたのは。
 ようやく抜け出して、立ち止まったかなたの隣に並ぼうとした、そのとき。
 けたたましいサイレンの音が耳を打つ。
 すぐ近くに止まっていた消防車が走りだした。脇を通り抜けるタイミングで、雑音の混じった無線から「お前らが一番近いんだ! 急げよ!!」と怒鳴る声が漏れ聞こえる。
「あそこ!」
 誰かが叫んだ方向に、辺りの視線が集中する。薄紫に色づいた空を、そこだけオレンジ色が染めていた。
 人の波はさらに増えていた。広い歩道を埋め尽くすほどの量。
 流れをさらにかき分けて走り出したかなたを見失わないように、僕も何とか後を追う。
「……っ!!」
 なんだ……?
 突然視界が、……いや、頭の中が強烈な赤で満たされて、僕は足を止めた。
 どくん、と強烈な鼓動が一度、胸を打つ。
 右。
 対面の歩道に視線を向ける。
 少女だった。
 小学校四、五年といったところだろうか。
 大量の人の波に逆らって歩く、少女がいた。
 黄色のパーカーに細見のジーンズ。決して目立つ格好なわけじゃない。
 だから、なぜ彼女が目についたのか分からない。けれど、そんな理由を考えるよりも早く、僕は胸を打つ鼓動に誘われるように、流れに逆らって歩き出していた。
13, 12

  

  ※

 街中がサイレンの音に包まれる。ここまでに三台ほどの消防車とすれ違っていた。
 少女は一度として立ち止まることなく歩みを続けている。駅を過ぎ、人通りが途端に少なくなったところで、僕はかなたに声を掛けていなかったことにようやく気がついた。
「カナ」
「ぴう」
 後ろを付いて来てくれていたらしいカナに、かなたを連れて来て欲しいというと、彼女は強く頷いて、赤く染まる空へと飛んで行った。
 ちゃんと言葉、通じてるんだよな……?
 そこはカナの力強い頷きを信じるとしよう。
 数十メートルの距離を置いて尾行を続けていた少女が角を曲がる。けれどそこは曲がり角ではないようだった。小走りに近づくと、それはこの辺りでは比較的大きな五階建てのビル。彼女が曲がったのは、このビルの側面に続く路地だった。
 覗きこもうとして、頭上からかんかん、と高い金属音が響く。据え付けられた非常階段を上っているらしい。足音が途切れたところで僕も素早く路地に入り込むと、辺りに人がいないことを確認して音を立てないように階段を上った。
「なんだこれ……」
 屋上に続く部分には鉄柵が設けられていた。けれど、それはすでに屋上への立ち入りを防ぐという用を成していない。
 ぽっかりと、人が一人通れるくらいの穴が開いているからだ。
 不自然に途切れた柵の切れ目。白い煙が噴き出すそこは、一本一本が高温で焼き切られたように歪に波打っていた。
 むせるような、金属の焼ける匂い。僕は触れないように慎重に穴をくぐり抜け、屋上へと出た。
 ゆっくりと、屋上の地面に対して顔を出す。小さな後姿がそこにあって、二つに結んだ髪が風で静かに揺れていた。
 彼女の見据える先は、辺りが暗くなるにつれて明るさを増す一帯。
「「ほーら、綺麗だろう」」
 誰かに語りかけるようにしながら、彼女はまるで舞台に立つ女優のように、大きく両手を広げる。
「「みーんな喜んでるよ。もう塾に行かなくていいんだって」」
 近づいて気付いた違和感は、声だった。少女特有の未発達な高い声に、男性の低い声が入り混じる。
 もっと、近くに。僕は彼女にそっと近づいた。
「「だけどね、僕らの邪魔をしようとする悪い奴がいるんだ――」」
「……っ!」
 突然振り向いた彼女に驚いて、一瞬、動きが硬直した。
「「――そうだろう? 退魔師さん」」
 にやり、と少女の可憐な顔が歪む。自身の意志では決して造ることのないであろう、邪悪と呼んでもいい笑みだった。
 彼女の突き出した右の掌にオレンジ色の光が輝いた。小さな光は次第に集束し、拳大の球体へと姿を変える。そして、それは彼女の掌(て)を離れ、僕を目がけて真っ直ぐに飛んできた。
「うあっ!!」
 固まった身体をなんとか動かして横っ跳びにかわす。幸い、屋上は小さな体育館くらいの広さがあった。
 どじゅう、と背後に音がして、金属の焼ける匂いが鼻を撫でる。そちらには視線を向けずに、しゃがんだ体勢のままで僕に向き直る少女を見据えた。
「「そっちの番だよ。どうぞ?」」
 首を傾けて笑う、少女の顔をした何か(・・)。
 黒霊が取り憑いていることは明らかだった。
「何が滅多に無いことだよ」シンの言葉を思い出す。「二日連続だぞ……!」
 それも、炎を操る黒霊。昨日の万引き犯がいかに大したことのない相手であったのかがよく分かる。
 炎。
「つっ……!」
 赤のイメージがフラッシュバック。それも先ほどよりも強く。
 振り払おうと目を閉じた、その一瞬の間だった。
「「来ないの?」」
 赤い光が近づいた。咄嗟に僕は傍らのエナメルバッグを突き出して転がる。化学繊維の溶ける強烈に不快な臭いが鼻をつく。
 なんとか立ち上がって距離を取る。今度は目を離さない。
「「なんか、違うな……」」
 口調はほとんど男のものになっていた。値踏みするような表情で僕を眺める。
「「退魔師の感覚じゃない。……お前、どうやって俺を見つけた?」」
「なんとなくだよ」
「「なんとなく?」」
 少女が一歩距離を詰める。じり、と僕も足を下げた。
「「……まぁいいか。武器もお持ちでないようだしな」」
 振り上げた右掌に集まる炎。
 どっちに避ける……? 左はあと一回分しかスペースが無い、右だ。
 瞳の動きで確認、炎が弾ける――直前。
 どぐっ! と鈍い音がなって、少女が横向きのまま浮き上がり大きく吹き飛んだ。張り巡らされた金網にぶつかり、がしゃん、と大きな音が続いて響く。倒れ込むことはせずに、少女は立ち上がって自らを吹き飛ばした相手を見た。
 人影。
「かなたっ!」
 ――ではなかった。叫んで向けた視線の先にあったのは、力強く両足を開き、両掌を左右に突き出したシルエット。
「「太極拳……、冬真のだな?」」
 立ち上がった少女は、咄嗟にさっきの一撃をガードしたらしい左腕の辺りを、右手で押さえつけていた。
「君は少々、危機感というものが欠けているね、自分一人でどうするつもりだったんだい?」
 そう言って人影――冬真シンは、基本の姿勢に立ち戻る。視線は僕の方に向いておらず、ぴったりと少女を捉えているようだった。
「「こいつに(・・・・)遠慮なしとは、さすがに甘くない」」
「甘い相手と戦ったことでも?」
「「むかーし……、なっ!」」
 二発、三発と続けざまに放たれる熱球を、シンは滑るような動作でかわし、接近する。
「せいっ!!」
 突き出されたシンの両手。その上を少女の細い身体が舞い踊る。とん、と軽い音を立てて、少女はシンの背後に着地した。
「器用な」
 両手からの炎を推進力にしての、大ジャンプ。二人の距離が再び開く。
「「もう少し、放っておいてくれても良かったんじゃないのかい」」
 飄々とそう言う少女に対し、シンの様子は先ほど会ったときとは一変していた。
「気配が駄々漏れなんだよ」
 大きく見開かれた目。輝く瞳は獰猛なネコを思い起こさせる。
「「遊び過ぎたかなぁ」」
 見た目に全くそぐわない動作で、少女は頭を掻いた。
「「ここは、逃げるよ」」
 振り返り、走りだす少女。
「逃がさないよ」
 それを追うシン。
 身体的優位はシンが圧倒的、長い足であっという間に少女に追いつく。左手を振りかぶったときだった。
 かんかんかん! と断続的に金属音が響く。頭を低くして、ぶん、と音を立てるシンの一撃をかわす少女。その背後に、彼女の姿が見えた。
「ハルっ! アンタ一人でなにやってんのあぶないでしょーがっ!!」
 だったらもっと早く来てくれよ……。
「すいません!」
 とりあえずこう言っとく。
「久しぶりだね、かなた」
「アンタ……、冬真シン」
 少女を挟んで立つ二人。一方はどこか余裕といった雰囲気で、もう一方は明らかに相手を敵視しているようだった。
 その隙に、少女は二人から距離を取る。
「「退魔師二人か、さすがに分が悪いな」」
 言葉の内容とは裏腹に、その口調は軽い。
 三人がちょうど正三角形を形成する形になったところで、再び少女の掌が輝いた。
「ここはあたしの担当でしょうが。アンタはさっさとウチに帰りなさい」
「そうはいかない。偶発的にでも――黒霊を見つけた場合、それを意図的に見逃せば責任問題になる」
「だからあたしが――何とかするって言ってんでしょうがっ! それにこいつはあたしの獲物っ!」
「残念ながら、君では少々――ほっ! 荷が勝ち過ぎるように思うね」
「言ってなさい――よっと!」
 次々に放たれる光球を口喧嘩しながらもかわし、距離を詰める二人。
「「そっちはそっちで楽しくやってるみたいだから、俺はこの辺りで退散してもいいかね?」」
「「いいわけ――」」
 二人が同時に、さらに深く距離を詰める。
「ないでしょっ!」「ないだろうっ!」
 鉄パイプと掌底を宙を舞ってかわし、少女が僕に背を向ける。
 僕にも、何か出来ること……。
 距離は一二メートルほど。僕はどろどろになったエナメルバッグから転がり落ちた硬球を握りしめて、少女の背中に狙いをつけた――
「ハルっ! ダメっ!!」
「……っ!?」
 かなたの叫びに投球フォームが崩れる。強引に動きを押さえつけられた腕から、緩いカーブを描いてボールがこぼれおちた。
 かなたも、少女すらもそれに一瞬気を取られている最中、たった一人だけ――シンだけが動き出していた。
 ずん、という衝撃がここまで届いたかのように錯覚するほどの掌底が、少女の胸に深く突き刺さる。一拍の間をおいてその身体が浮き上がるのと同時に、強烈なスピードで黒い塊が彼女の背中から飛び出してきた。
 直線。黒霊は僕が胸の前に突き出した両手の中に、すっぽり収まった。
 瞬間。
 赤。
 赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤。
 圧倒的な赤が脳内を埋め尽くして、気づけば僕はその場に膝をついていた。
「――ルっ!」
「はっ! はぁっ!!」
 多量の息が絞り出され、同時に同じだけの酸素が一気に肺に補給される。
「ハルっ! 投げなさいっ!」
 顔を上げれば、仰向けに倒れた少女と、その先に立つシン。そして、パイプを構えるかなた。
「ああ」声は、僕の手の中から。「思い出したそういうことか」
 そう言って黒霊はくつくつ、と笑う。
「悠くん、君がしようとしていることは賢明じゃない。言っただろう、君はかなたに――」
「ハルっ! 投げなさい。そいつはあたしが仕留めるのっ!」
 言われなくても、投げてやるさ。
 立ち上がり、ストレートの握りを確かめる。
「渡すんだ。投げれば、君はこれからも危険に身を置く破目になる」
 流れるように投球フォームを構築。
 いいのか。
 また打たれるぞ。
「危険は臨むところだよなぁ坊や。ヒーローだもんなぁ?」
 頭上からの声。黒霊の声だった。
「ファイアーレッドは、今でも好きかい?」
 ぱちん、と頭の中で何かが弾けた。
 薄暗く靄のかかった映像が割れ、鮮明な光景が蘇る。
 そうだ。僕はこいつを――
 知ってる。
「あああぁあああああぁぁぁぁっっっ!!」
 右手を振り下ろす。
 放たれた速球は間違いなく、一三五キロオーバー。
 けれど、そこには迷いがあった。
 ストレートは上に向かって縦回転する変化球。簡単に言えば、回転をうまくかけるほど伸びる球だ。
 逆にその回転が上手くかからなければ、それだけ早く減速をする。そしてこの場合、致命的なのはボール自身に回転に逆らう意思があったということ(・・・・・・・・・・・)。
 かなたの手前一メートルで、回転が止まる。無回転状態になったボール――黒霊の軌道は僕から見て左斜め下、つまりカーブの軌道を描いてかなたの元に飛び込んだ。
 ぶぉん! と、大きく空を切る音。
 ――かなたのフルスイングが、黒霊を捉え損ねた音だった。
 目を見開き、直上を仰ぐかなた。
「助かったぜ、坊や」
 ストレートの拘束から抜け出した黒霊が、一〇メートル程の高さに浮かんでいた。
「羽中田(はなだ)っ!!」
 放魂包鉱のパイプを突き出し、かなたが黒霊に向かって叫んだ。
「はぁ、やっぱりな。そのパイプ、お前さんあの時の退魔師の娘か」
 あの時の退魔師。
 それが誰のことであるのか、今でははっきりと分かる。
「降りて来なさいっ!」
「嫌だね。――今は」
 さらに高く、羽中田と呼ばれた黒霊は飛び上ると、
「あの時の坊やと、あの時の退魔師の娘か。つくづく縁があるねぇ。また新しい身体を見つけたら、遊んでやるよ」
 そう言い残し、次第に暗くなる東の空へと姿を消した。
   ※

 羽中田(はなだ)保泉(ほづみ)。
 一夜にして数百軒の家屋を焼失。死者二七名、重軽傷者一五三名を出す、国内史上最大の火災犯罪者。そこに組織的な思惑などは何一つなく、ただ彼の趣味嗜好のままに行われたこの犯罪は、事件から二〇年以上が経った今でもテレビで取り上げられることがあるほどである。
 当然、僕はこの事件のことをテレビの中だけでしか知らない。
 かなたも、もちろん同様だろう。
 けれど僕には――僕たちには、彼との間に、浅からぬ因縁があった。

   ※

 戦隊ヒーローに憧れていた。
 五歳の頃の話だ。
 「魔術戦隊エレメンジャー」のリーダー、炎を操るファイアーレッド。
 エレメンジャーごっこをするときには、僕はいつでもファイアーレッドだった。
 けれど、小学校に進学する時期が近付くにつれ、次第に周囲はエレメンジャーに興味を無くしていった。
 気づいていた。
 エレメンジャーはいないんだってことくらい。
 だけど心のどこかで同じくらい、僕でもファイアーレッドになれるんじゃないかって、そう思う部分も残っていたんだ。
「なれるさ」
 ある日突然聞こえた声に、僕は身を委ねた。
 赤いイメージが脳全体を支配する。
 次に意識が戻ったときには、ウチが少し焦げていて、僕の目の前には消火器と何か長い棒を持った、やけに大きな男の人が立っていた。
「大丈夫か、どこも痛くないか?」
「うん」
「そうか、偉かったな」
 大きな掌が、僕の頭を覆う。
 同時に、庭の石壁にまばらに付いた黒く丸い跡を見て、おじさんは言う。
「お、なんだ、野球、好きなのか?」
 本当は父親とキャッチボールをしたことくらいしかなかったけれど、僕は笑った。
「じゃあ将来は、俺と勝負だな」
 わしゃわしゃと頭を撫でられて、僕は目を閉じる。
 気づけばおじさんは、いなくなっていた。
 それから僕は、野球に明け暮れるようになった。
 プロ野球の試合も、テレビにかぶりつくようにして眺めた。
 ダントツの人気を誇るホームランバッター、ヒデロー。
 彼のようになりたい、ではなく、彼に向かってボールを投げたいと思うようになった。
 あの時の言葉を、どこかでしっかりと覚えていたに違いない。
 現実のヒーローになりたくて、ヒデローと戦いたくて、僕はピッチャーを目指した。
 夢に見た光景はおぼろげな記憶。
 靄が晴れた今なら分かる。
 僕はあの日、ヒデローに助けられたんだ。
 ――そしてその日から、僕には霊魂が見えるようになっていた。

   ※

「シン、アンタどういうつもりよ」
 倒れた少女を介抱しながら、かなたはシンを睨みつけた。
「どういうつもり、とは?」
「ふざけないで。背骨が折れててもおかしくなかったのよ」
「被害を食い止めるには、手段は選んでいられないだろう」
 細めた目で飄々と言うシンに、僕は異常なまでのムカつきを覚えていた。こいつは分かっていたのだ。放魂包鉱から以外の衝撃は、すべて憑かれた身体に直接通ることを。
 僕も、気づくべきだった。
 ――何か出来ることが無いか。
 そんな焦りが、あのときボールを投げさせようとした。あれがもしも彼女に直撃していたら……。
 そしてあの制止が無ければ、あるいは最後のシンの一撃は防げたのかもしれない。かなたがなんとかしてくれていたかもしれない。
「……本気で言ってるの?」
「それが、僕たち冬真の人間のスタンスだ」
 ふん、とかなたは鼻を鳴らした。
「そうだったわねこの分からず屋。悪いけど、これ以上手出さないでもらえる」
「なぜ」
「言ったでしょ。羽中田保泉はあたしの獲物だって」
「君こそ分からず屋だ。あれだけの強力な黒霊を、みすみす見逃せるわけが――」
「あたしがやるって言ってんのよっ!!」
 鋭い叫びだった。ぴり、と身体に衝撃が走る。
「……君が気にすることじゃないだろう。アレを逃がしたのは君のお父さんであって君じゃない」
「……うるさい」
「そんな殊勝なタイプだったかな? 君は」
「うるさいっ!」
 シンは小さく息を吐くと、両手を広げて左右に首を振った。その様がとてもわざとらしく、僕には見えた。
「とにかく、僕は僕でやらせてもらうよ。一〇年もどこに隠れていたのか知らないけど、これ以上逃げ回られるのは本意ではないからね。生身で(・・・)いてくれるウチに見つけ出さないと、また後手に回ることになる」
 ぽん、とかなたの肩に手を乗せて、シンは非常階段へと向かっていく。
「ああそうそう、悠くん」
「……なんです」
「君はあの時、羽中田を僕に渡しておくべきだった。そうすれば今頃は、全て終わっていたはずなんだからね」冷たい、響きだった。「言っておく。僕は彼を捕えるためなら、手段は選ばないよ」
 そう言って、シンは一度も僕の方に向き直ることなく、屋上を後にした。
 かなたと少女を見下ろす、僕とカナ。
「……アンタ、あの時迷ったでしょ」
 苦悶の表情を浮かべたままの少女を静かに地面に下ろすと、かなたは立ち上がった。
「……」
 答えられなかった。かなたの言うとおりだったから。
 僕は迷った。
 かなたに、打たれたくないと思ったんだ。
 ヒデローの娘だとか、そんな言葉じゃ納得出来るはずがなかった。
 かなたの言う通りだ。
 かなたはかなたであってヒデローじゃない。
 手を抜いた。打たれてもいい言い訳を作ろうとしたんだ。
 僕のマックス、一四一キロ。それが出てさえいれば。
 ――出てさえいれば? 打たれなかった?
 そうじゃない。打たれなきゃ(・・・・・・)意味が無い。
 なら僕は、打たせるために投げるのか。
「どうして?」
「どうして、って……」
 煮え切らない返答にか、かなたの感情が爆発した。
「アンタが手ぇ抜かなかったら一発で決まってたのよ!」
 がむしゃらな叫び。
「ぴぅ、ぴぅ……」
 なんだよ。
 なんなんだよ、さっきから一人でムキになって。
 渦巻く感情を押し留めることが出来ない。腹の底から上って来た激情に任せて、気づけば僕も負けじと、叫び返していた。
「あんたこそ……、あのくらいの変化球がなんだよ! 打てんだろっ!」
 止まらない。
「……直球なら、どんな球だって打ってやるわよ」
 なんだって?
「直球なら……?」
 やめろ。
「あんた、それでもヒデローの娘かよっ!」
 荒い息。
 顔を上げたかなたの、大きく見開かれた目。
 それがすぐに細められたかと思うと――
 ……ああ、言っちまった。
 馬鹿か僕は。たった今、かなたはかなただって……。
 分かりきってたことじゃないか、この後の彼女の反応。
 ――かなたはすぅ、と息を吸い込み、一言、強い口調で予想通りの言葉を口にした。
「親父は、関係ないでしょ」
15, 14

  


 3.

 仰いだ空は青かった。
 このあたりのどこかに凶悪な犯罪者が潜んでいるなんて、そんなこと微塵も感じさせないくらいに青い空。
 カラになった弁当箱を傍らに、僕は屋上に寝転がっていた。
 昨日、僕は結局あのままかなたのところを去った。
 そしてやっぱり未だに、整理がつかないでいる。
 ったく僕は何なんだいったい。
「ぴぴぴぴぅぴぅ!」
 突如、傍にいたカナが騒ぎ出す。身体を起こしてカナの示す方を見ると、久慈美陽がこちらに向かって近づいてきていた。
 カナの探し人ってのは、どうやら美陽のことだったらしい。今朝も美陽を見るなり盛大に騒いでたもんな。なんという偶然。
 けど悪い、僕じゃカナの声を届けてやることが出来ない。
 あいつなら……。
 一瞬、かなたの顔が浮かんで、僕は小さく首を振った。
「宇田川くん、ここ、いいですか?」
「どうぞ」
 丁寧にスカートを畳みながら、美陽は少し距離を置いて、僕の隣に正座をする。
「今朝、朝練来てくれませんでしたね」
「ちょっと、考えたいことがあってさ」
「考えたいこと、ですか」
「うん」
 僕は寝転がったまま、見下ろす美陽と視線を合わせずに言った。
「それは、えと、その、……誰かに相談したり、出来ないことですか」
 相談、出来そうにないよなぁ。
「野球のこと、ですか?」
 それもある。だけどこれは全面的に自分の問題であって、誰かに相談してどうにかなりそうなことじゃない。
「や、野球部のことだったらわだし、ま、マネージャーだし、……ですし。聞いてあげること出来るかも、なんて」
「悪い、ちょっと簡単な問題じゃないかも」
 一拍置いて、美陽が言った。
「じゃあ、やっぱりその、……彼女さんの、ことですかっ!」
 はぁ?
 っていうかなんでそこで声大きくなる。
「彼女?」
「はいその、わたし昨日見だの…、見ちゃったんです。駅前に買い物に行ったとき、その、宇田川くんと、この間の彼女さんが、楽しそうにお話してるところ」
 楽しそうに……?
 昨日の駅前での会話を思い出す。
 うん、楽しそうな要素皆無だね。
「か、勘違いしないで下さいね! べ、別に、恋愛は自由だもの、そうそれは宇田川くんの、自由です」
 だから違うんだって。あいつとはそんなんじゃ……。
 というか美陽は何が言いたいんだ一体。
「ででもね、野球、そう野球。ピッチャー! やめて欲しくないんです。宇田川くんが投げてるところ、その、か……」
 か?
「……かっけから」
 小声でそう言って、美陽はなぜか俯いた。
 午後の授業の、予鈴がなる。
 周囲にいた連中も三々五々屋上を後にしていく。美陽もゆっくりと立ち上がった。
「放課後の練習は、来て下さいね……」
 そう言って去っていく美陽に、僕は小声で「もうちょっと考えさせてくれ」と返した。
 委員長気質というかなんというか。おせっかいなヤツ。
 とはいえ気にかけてくれるヤツがいるってのは、ありがたいことなんだよな、多分。
「なぁカナ」
「ぴう」
 僕も立ち上がって、ちょうど顔の高さに浮かんでいたカナに問いかけた。
「脚気(かっけ)から、なんなんだろうな?」
「……ぴぃ」
 ……なんか、馬鹿にされた気がした。

   ※

 美陽につかまる前に、僕は学校を飛び出した。
 走るってのはいい。いろんなこと考えなくて済むから。
 そう、この前の土曜日みたいに、僕はただただ走っていた。そうして気づけばやっぱり足はここに向かう。
 草野球のグラウンド。今日はどうやら近所の中学生が練習でもしているらしい。「行けー」だの「やれー」といった元気な声がよく聞こえてきた。
 全景が見える場所にまで移動すると、なにやら通常の練習ではないらしいことに気がつく。ピッチャーマウンドに立つ少年二人が、代わる代わるボールを投げる。が、一向にバッターから快音は聞こえてこない。走り抜けながら横目にバッターボックスを見ると、そこには――
「何やってんだアイツは……」
 ――水色のブレザーに赤いネクタイ。バットではなく鉄パイプを握りしめた女が、空振りの山を築いていた。
「次、カーブ!」
「お姉さんもうやめようよー……」
「何言ってんのよさっさと投げるっ!」
 渋々と言った様子でボールを放る。
 空振り。
 何やってんだあんなヘボカーブ。
「次、フォーク!」
 投手交代。もう一人のピッチャーが放ったフォークを……、
 空振り。
「……何してんだか」
「カーブっ!」
 何度となく空を切る音を聞きながら、僕はそこを通り過ぎる。中学生の声もようやく聞こえなくなったところで、僕はとうとう足を止めた。
「何やってんだ、僕は!」
 叫んだ。
 一応、周りに人がいないことを確かめてから。
 スクールバッグを傍らに落とし、僕は入念にストレッチをして肩をほぐす。
 悩まないやつなんていない。
 そうさ、何かに打ち込む中で、ある日突然不安を覚えるなんてのは当たり前のことだ。
 普段あんなに自分勝手なやつだって、裏で努力してるんじゃないか。
 あいつにだってあいつなりの悩みがあるんだ。
 そりゃあそうさ。関係ないっていいながらも、ヒデローの娘だってことを意識してないはずがない。
 それから多分、父親としての田中秀朗に任された、この町を守るっていう責任もあって。
 だけど、あくまでも自分を自分として認めてもらいたいから、あいつは言うんじゃないか。「親父は関係ないでしょ」って
 なら僕だって、僕に出来ることをしてやるよ。
 ストレッチを繰り返す僕の前を、例のじーさんと老犬が通り過ぎた。
 少し行って二人は立ち止まる。僕の方を振り返り、じーさんは笑いながら親指を、老犬は舌を出しながら前足を立てて見せた。
 僕も笑いながらサムズアップ。
 二人を見送って、僕は元来た方向に向かって走り出した。
 活気のある声が近づいてくる。
 バッターボックス後方には大量の空振り球。
「カーブカーブカーブぅ!」
「もう何十球目だよぉ……」
「甘ったれない! 打てるまでやんのよっ!」
 永久に終わらないだろ。
 僕は草の斜面を勢いよく駆け下りて、一直線にピッチャーマウンドを目指す。
 ぶぉん! と強烈に風を切る音がして、何十球目か分からない空振りを喫したかなた。彼女の見開かれた目と視線が交差した。
「……何しに来たのよ」
 一八・四四メートルの距離を挟んで受ける、睨む視線。笑いながら僕は言う。
「可愛いとこあるじゃないですか」
「バカじゃないの? 今日だけじゃないんだから。週一でそいつらつかまえて変化球打つ練習してんだからねっ! アンタが今日たまたま通りかかっただけっ!!」
「ホントか?」
 視線はかなたに向けたまま、小声でピッチャー少年に問いかける。
「初めてです」
 僕はかなたに聞こえないように笑った。
「もっと引きつけて打つんですよ」
「分かってるのよそんなのは! 理屈じゃなんとでも言えるわ。アンタが変化球投げられないのと一緒でしょ」
 うぐ、気づいてやがった。……まぁいいさ。
 面白いじゃないか。
「言ったでしょ――」
 直球しか投げられない僕と、
「直球ならどんな球でも打ってやる――ですよね?」
 直球しか打てないかなた。
 それは、言葉通りの直球勝負だ。
 ふん、とかなたは鼻から息を吐いて笑った。
 パイプを構えてバッターボックスに立つ。
「さぁ、守備練習もしてみるか。――思いっっっきり下がってた方がいいぞー!」
 僕は外野で退屈そうにしていた中学生たちに喝を入れる。途端に彼らは走りだした。
 かなたに向き直り、スクールバッグから硬球を取り出す。
 自惚れてんじゃない。
 打たれるのは僕に力が無い、ただそれだけのこと。
 先発を外されたのだってそうだ。変化球がないからじゃない。僕じゃ力不足だから。ただそれだけの、当たり前のこと。
 そうさ。今の僕じゃヒデローと戦うことなんて出来やしない。仮にそんな機会があったとしたって、初球をホームランにされておしまいだ。
 そうだよ。僕は未だに夢見てる。いつかヒデローと同じ舞台に立ちたいって。記憶が鮮明になった今、よりはっきりとそう思う。
 ヒデローが引退するまでに、彼と同じ舞台に立つ。ならこんなところで、止まってられない。
 ボールを握りしめ、ワインドアップ。
 もっと、もっと早い球。
 まずはかなたを打ちとれるだけの、ストレートっ!!

   ※

「……容赦ないなぁ」
「ったり前でしょ」
 三八球目もそれまでの三七球がそうであったように、僕の後方へ向かって一〇〇メートルも吹っ飛んだ。
「ダッシュ、だーっしゅ!」
「ぴっぴ、ぴ~う!」
 三〇球辺りで中学生たちは全員いなくなっており、それ以降は僕が球拾いをしていた。結構つらいぞこれは。
 手前に転がっていた何球かをスクールバッグに詰めながら、ようやく三八球目が転がった辺りに辿り着く。豆みたいな大きさになったかなたが両手を振り上げて「さっさともどりなさーい」と言っているのを聞こえないふりをして、僕はその場に座り込んだ。
 見上げる空は朱に染まる。
 額に溜まった汗を左腕で拭った、その時。
 背後から長い影が差して、振り返るとそこには、見知った顔が立っていた。
「久慈……?」
 俯けた顔。前髪に隠されて表情はよく見えない。
「「今日も練習、来てくれなかったね」」
 風にかき消されるほど小さな声。
 僕は立ち上がって、美陽に向き合った。
「悪い、なんかまだ、もやもやしてたから」
 草を踏みしめる、さく、という音。ゆっくりと美陽が近づいてきた。
「部活、終わったのか?」
 小さく左右に首を振る。
「「探しに来たの」」
「……わざわざ、悪かったな。明日からちゃんと出るよ。なんとなくだけど、すっきりしたし。監督にも、吉崎さんにも謝んないとさ」
「「やっぱり」」
「ん……?」
「「わたしよりもあの女の方がいいんだね――」」
「は?」
 赤のイメージ。
 気づかなかった。気づくのが遅かった。
 美陽は普段、敬語で話す。
「「――この色男ぉっ!」」
 右手から放たれた火球を身を捩ってかわす。強烈な熱が前方を掠め、視界をオレンジが染めた。
「羽中田(はなだ)っ!」
「「遊びに来たぜ、ヒーロー少年」」
「かなたぁっっ!」
 一瞬で後方を確認する。すでにかなたは走りだしていた。
 続けざまの二発をかわしながら、後ろ向きにかなたとの距離を詰める。
 そのとき、美陽の身体の後ろに躍った黒い影。
「野郎っ!」
 ブレーキング。即座にダッシュ。
 振り返った美陽の背後には、今まさに掌底を打ちこまんと両目を見開くシンの姿。
 僕は拾い上げていた硬球を勢いをつけたまま投げつけた。コースはちょうど、シンの頭からボール一つ隣。
 もともと当てるつもりなんてなかったけれど、それでもやはり驚いたらしい。シンは大きな動きでボールをかわし、美陽――羽中田から距離を取った。
「どういうつもりかな?」
「それはこっちのセリフだ」
「「助かったよ、ヒーローくん」」
 それぞれが思い思いに言葉を放つ。僕たちはちょうど三角形に向かい合った。
 シンのやつ、完全に背中を抉るつもりでいやがった。吹き飛ぶ先は土の地面。
「全く、上手いこと邪魔されるもんだな。もう少し別の方法を考えるべきだったよ」
「「ははぁ、ハメやがったな? 冬真の」」
 どこか面白そうに、羽中田は言う。それに答えるようにして、シンは笑った。
「嫉妬の炎が羽中田を誘うってのは、なかなか詩的だと思わないか、悠くん」
「何だって?」
「「つまり俺は、まんまと誘われたってわけだ。この娘のところに」」
 待て待て、何言ってる? 嫉妬の炎に、誘われる?
 ……そうか。
「……そういうことか」
 知らず、僕は声を上げていた。
「気付いたようだね」
 一昨日の万引き犯、あいつは取り憑かれた男の心の弱い部分につけこんで、彼の身体を乗っ取った。
 昨日の女の子はどうだ。一件目の被害は学習塾のビル。昨日の二件目も今朝のニュースで見る限り学習塾だと言っていた。それからあのときの、屋上での羽中田のセリフから考えれば、彼女が身体を奪われた理由も推察できる。
 そして何より僕だ。
 ファイアーレッドになりたかった僕。
 黒霊の能力(チカラ)に呼応した想い。
 それが、黒霊を呼び寄せるんだ。
 ならさっき、シンは何と言った。
 嫉妬の、炎。
 誰が、誰に?
 ……Shit!! 分かっちまったよ……。
「あんたが久慈を連れてきたのか?」
「言っただろう、手段は選ばないって。捕えるには、一度誰かに入ってもらわないと都合が悪いのでね」
「……この野郎っ!」
 僕はシンに向かって駆け出していた。ただ拳を打ちつけてやりたい、その一心で。
「ハルっ! 危ないっ!!」
 かなたの声が聞こえなかったら、僕は正直どうなっていたか分からない。スピードを落とした僕の眼前を熱風を伴って火球が通り抜ける。
「「仲間割れしてる場合かい?」」
「仲間じゃないっ!」
 あわや尻餅をつくくらいに身体をよろめかせながら、僕は意地でもとそれだけ叫んだ。
「ぴぴぃっ!」
 かなたとカナが追い付いて、僕の隣に並んだ。
 カナは怒ってる。そりゃそうだ。友達を、羽中田を呼び出すためのエサに利用されたんだから。
「絶対にアイツ追いだして、ちゃんとあの子とお別れさせてあげるからねカナ。ちょっとだけ、あぶないから隠れてて」
 かなたはそう言って首元のリボンをする、とほどく。風に乗って流れたリボンがちょうど僕たちの中心に落ちたところで、全員が一斉に動き出した。
 羽中田はかなたへ、かなたは羽中田へ。カナは僕の胸ポケットへ。
 そして、シンも羽中田へ。
 僕は――
「あんたはお呼びじゃないってよ!」
 ――二人の間に割り入ろうとするシンに向かって飛びかかった。
 右の拳はシンの右腕によってあっさりといなされる。体を回転させる勢いで突き出された左の掌底。腹部に、強烈に突き刺さったそれは、七三キロの僕の身体をいとも容易く吹き飛ばした。
「げ……、ほっ!」
 ふわり、と宙を舞う身体。
 倒れることはなんとかせずに、足のブレーキで体勢を整える。
 単純な破壊力による痛みと、放魂包鉱による痺れ。強烈だった。
「さすが、鍛えているね」
「どーも」
 口内に上って来た胃液をべっ、と吐き捨てて僕はシンを睨む。
 背後では、かなたと羽中田が戦いを始めていた。
「また昨日と同じことを繰り返すつもりかい?」
「昨日と同じにはならない」
「どうしてそう言いきれる?」
 なんでこんなことを口にしたのか分からない。ああこっ恥ずかしい。
「僕が、かなたのことを信じてるから」
 シンは目を見開いたまま、低い声で告げた。
「どうあっても邪魔をするつもりなわけだ」
「邪魔なのはあんただよ。さっさと帰れ」
「……少し、眠っていてもらおうか」
 シンが微かに腰を落とした、直後。
 消え――
 すん、と目の前に突如現れたシン。
 違う、消えたんじゃない。
 変化球と同じ、急激な落下で視界から姿を消したんだ。
 突き出される掌。だけど、僕だってただ突っ立ってるわけじゃない。
 それはデッドボールを避けるときの感覚に似ていた。つまり、反応できないスピードじゃなかったってことだ。
 みっともないくらい大きな動きで後ろに倒れ込む。起きあがる前に攻撃してこなかったのは、今の一撃で決まると思っていたからか。
 シンは振り返って僕を見る。
「いい反応だ。それだけ動けるというのは、さすが日々の鍛錬の賜物だね」
「……」
「せっかくそこまで作り上げた身体を、こんなことで壊すのはもったいないんじゃないのかな?」
 なんとか隙を見せないように立ち上がると、僕は再びシンと対峙する。
「……自分の身体はもちろん大事だよ。痛いのはイヤだし、出来ることならケガなんてしたくない。だけど、あんたを放っておいたらクラスメイトがケガするかもしれないっていうなら、僕が代わりにちょっとくらいケガしてやろうってそれだけのこと」
「ちょっとで済むかな?」
「手加減、してくれるんでしょ?」
 シンが目を見開いた。
 来る。
 姿が消える。
 視線を下へ。
 低い体勢から滑るように迫るシンの姿。
 さっきのはどうやら手を抜いていたらしい、数段早い。目で追うよりも早く――
「あ……、っ!」
 ――腹部に衝撃。イメージされる感覚はあれだ。ベジータが数段格上の相手とやり合うときに、背中が飛び出すくらいに殴られたときの、あの感じ。
 僕は悟ったね。あんな状況で「ふぁっ!!」とは叫べないんだってことを。堀川りょうも一回体験してみるといいよ。
 さらに、嘘だろ二発目が来た。
「ごっ……、ほ!!」
 痛みで浮遊感さえよく分からない。気がついたら僕は仰向けに倒れていて、シンとは五メートルくらい距離が開いていた。
 背中も痛い。
「まだ起きるか」
 ああ起きるよ。
 誰かさんに思いっきり頭ぶん殴られたことに比べたら大したことない。
 シンの背後、その誰かさんはまだ羽中田を捉え損ねていた。炎を推進力にしたアクロバティックな動きに翻弄されて、パイプは幾度となく空を切る。
 一方かなたの方は、服装のいたるところが炎に掠められて黒く焦げ落ちている。長引けば不利なのはかなたの方だ。
「まだ来るなら望み通り相手をしてあげよう。そこでそのまま寝ているなら、これ以上君には危害を加えない」
 僕はゆらり、と立ち上がってシンを睨む。
 ふと、ある考えがよぎった。
 あるじゃないか、ここからでもかなたをサポートできる絶好の方法が。
「シンさん、一つ聞きたいんだけど」
「……なんだい?」
「白霊(はくりょう)も、人に取り憑くことがあるのかな?」
「……」
 無言の後、一瞬ぴく、と動いた眉を、僕は肯定と受け取った。
「カナっ!」
「ぴぃっ!」
 胸から飛び出したカナを右手で握りしめる。ランナーが出ているときのように、僕はセットポジションからカナを投げつける。
 目標は――美陽の身体。
 狙い通り、シンもカナを追って走る。だけど遅い。数歩進んだ頃には既に、カナの全身は美陽の身体に背中から突き刺さっていた。
 彼女の身体の中で何が起きているのか、僕には分からない。ひとつ確かなことは、カナが体内に入ったことによって、一瞬、羽中田の動きが止まったということ。
 シンを追って、僕も走り出す。
「「ああああぁぁぁぁっっっっ」」
 羽中田と美陽の声が重なって、苦痛に呻く。美陽の身体が前屈みになったその直後、カナがぽん、と飛びだした。
「ナイスよカナっ!」
「ぴぅぅぅぅ……」
 投げたの僕だから。
 構えるかなた。
 直後、強烈なスイング。
 けれど、体勢を立て直しわずかの差で跳び上がった羽中田に、パイプは虚しく空を切る。かなたは完全に頭上を取られる格好になった。
 僕はスピードを緩めない。途中でシンを追うことは止め、かなたたちの側面に回り込む。目標は、僕のバッグ。大きく口の開いたままのバッグから、飲みかけのペットボトルを掴み取って、僕はそれをかなたと羽中田を結ぶ直線の中央を狙って投げつけた。
「「俺の勝ちだな、退魔師」」
 僕からは見えなかったけれど、その表情は多分、勝利を確信しての笑み。だけど、その直前がよくなかった。
 そのセリフ、死亡フラグだぜ。
 羽中田の撃ち出した火球がかなたに届こうかという直前、投げつけたボトルが脇から割り入って火球に接触した。
 一瞬にして蒸発する外装。けれどその内容物は空中で飛び散り、火球を包みこんだ。
 燃焼が阻害され、急速に冷やされた炎が空中で霧散する。
 かなたが、跳んだ。
 羽中田には恐らくこういう風に見えただろう。
 ――広がった水蒸気によって塞がれた視界から、突如かなたが現れたように。
「「なにぃっ!」」
 大きく、かなたがパイプを振り上げる。そう、それでいい。
 遅れて跳び上がったシンも背後から羽中田に迫る。けれど、その掌が触れるより――
「でやあぁぁぁっ!!」
 ――かなたの振り下ろしたパイプが美陽の身体の中心を叩く方が先だった。
 強烈な一撃に、黒霊――羽中田保泉は僕から見て左方向へと勢いよく飛び出す。
 反射的に駆け出した。
 間に合うかっ……!
 思いっきり地面を蹴り、飛び込む。
 が、届かない。
 ダメだ。あと一歩足りないっ……。
「ぴううううっっ!!」
 迫る白。
 カナだ。
 勢いを込めた体当たりは、羽中田の軌道をわずかに変える。
「二度までもかぁっっ!」
 忌々しげに、羽中田が叫ぶ。
「ナイスだカナっ!」
 思い切り伸ばした左手が、羽中田を掴んだ。
 地面に叩きつけられる衝撃を利用して、僕は身体を回転させる。
 美陽は! どうなった?
 斜め下方向に叩きつけられた美陽の身体は、まさにシンが跳び上がった方向へ。空中での制動は無理。ならばシンは、美陽の身体を受け止めるしかない。
 狙い通り、勢いのついた美陽の身体を抱えたところで、シンはわずかに体勢を崩し、仰向けの格好で地面に落下した。
 ありがとう、クッションさん。
 僕は立ち上がり、羽中田を強く握りしめる。
 すでにかなたは、放魂包鉱のパイプを構え終わっていた。
「にいちゃんなら安心だ。また逃がしてもらえる」
 羽中田が笑う。
「それはない」
 もう、迷ってないから。
「なに?」
「あんたには感謝してるよ。あんたが昔僕に取り憑いてくれたおかげで、僕には霊魂が見えるようになったんだろうから」
 面倒くさいこともあるけど、これはこれで貴重なことではあるしな。
 カナとも会えたし、それに、なんだ、かなたと会えたのだって、まぁそのおかげだ。 
「でも、それ以上に赦せないことがある」
 あの女の子と、燃やされたビルと、焦がされた僕ん家と、それから美陽――
「ふぅん、ヒーロー気取りかい」
 僕は大きく足を振り上げた。
「そんなんじゃない」
 ヒーローなんかじゃない。
 現実の世界にエレメンジャーはいないんだから。
 その代わり、僕にはピッチャーとしての力がある。
 一八メートルの距離を挟んで、かなたと視線が交差する。
 僕は僕の、かなたはかなたの、それぞれの因縁に、ケリをつける。
 そのためには、中途半端な球じゃダメだ。羽中田の挙動を完全に抑えつけるような剛速球。
 僕は今の僕が投げられる、最高の球をかなたに投げ込んでやる。
 だからかなた。
「打ってみろっ!!」
 振り下ろした足が地面を蹴る。
 汲み取ったエネルギーを下半身のスピンでさらに増幅。
 上半身に伝わったエネルギーは右腕を駆け抜け先端へ。
 ギリギリまで留めた力を、……まだだ。
 こらえる……、こらえて……、
 ――振り……、下ろすっっ!!
 砲弾の如く弾き出された黒霊の、その挙動を問答無用に封じ込める、強烈な上向きの縦回転。
「いいなぁ坊や、だがっ!」
 抵抗を試みる羽中田。けれどその回転は緩まらない。
 間違いなく僕のマックス、一四一キロを維持したまま、ストライクゾーンへと直進する。
「ぐうううううううおおぉぉぉぉぉっっっ!」
 そしてもう遅い。
「あの世ではんせえっっっ……――」
 かなたの声が、響いたから。
「――しろぉぉぉぉおおおっっっ!!」
 かきーん! でも、すぱーん! でもなく、かなたのパイプは、ぽこーん! と少しばかり大きな、けれどやっぱりどう聞いても間の抜けた音を放った。
 仰いだオレンジの空を走る黒い染み一つ。やがてそれは、空に溶けるようにして消えていった。
17, 16

  

 4.

「完全な失態だな」
 シンは右手で髪の毛をかき上げながら言った。
「安心しなさい。本家にはわたしから報告しといてあげるから。いろいろとね」
 悪い笑いしてんなーこいつ。
 ふん、と息を吐いてシンは歩きだした。
「またいずれ、改めて会いにくるよ」
 後姿に向かって、かなたは「来なくていいわよ」と吐き捨てる。
「ああそうだ悠くん」
 またかよ。言うこと全部言ってから帰ってくれ。
「今回のことで、冬真は君を完全にマークするよ。次からこう上手く立ち回れるとは思わない方がいい」
「ご自由に」
 それで本当に最後。シンはポケットに手を突っこんだまま、草の斜面を上がって――あ、今ちょっと滑ったあいつ。――上がって行った。
 それにしても……。
 振り返るとそこには、いたる所が黒く焼け焦げた、元、草むらが広がっている。
「もうちょっとやりようは無かったんですかこれ」
「しょうがないじゃない。あたしのせいじゃないわよ。大体悪いのは親父ね。もともと親父が羽中田を逃がしたせいで、その尻拭いをあたしがする羽目になったわけだし。
 あ、そうだ、せっかくだからこのグラウンドももっと立派なのにしましょうよ。寄付させるわ寄付」
 いや、草野球グラウンドがそんなに立派である必要もないと思うけど……。
「ふふっ……、はははっ!!」
 急に、かなたは腹を抱えて笑いだす。なぜか指差される僕。なんだよ?
「ハルあんた、ぼろぼろ!」
「え……」
 確かに、自分の格好を見回してみれば、ひどい汚れようだった。それはそうだ、あんなに転がったりしたわけだし。
「それなら、かなたさんだって」
 至る所が破け、穴があき、僕のこの格好をぼろぼろというのなら、かなたの格好はぶぉろぶぉろ! と呼んだ方がいいくらいに、それはもうぼろぼろだった。
「ホントよね。ったく、ウチの制服高いのに」
 お互いにぼろぼろだった。
 だけど、僕たちは勝った。
 目が合う。そしてどちらからともなく、僕たちは右手を打ちつけあった。
「んぅ……」
 ぱぁん! という音に反応してか、背後でそんな声。振り返れば、草の上に寝かされていた美陽が意識を取り戻したようであった。
 カナが「ぴう!」と叫んで駆け寄る(飛び寄る?)。
 僕は、どうにも傍に近寄れずに、彼女が起き上がるのを見ていた。
 だってそうだろ。さっきシンと羽中田が言っていた通りだとすると、美陽は僕のこと、その、あれなわけで……。
「気がついた?」
 身体を起こした美陽に、かなたが声を掛ける。
「え、ここ……?」
 美陽は左右を見回した。
「草野球のグラウンド。覚えてる?」
「グラウンド……。あっ、宇田川くんの、その、彼女さん……?」
「何アンタ、誰が彼女だって?」
 目を細めてかなたが振り返る。
「言ってない一言も言ってません」
 なぜそれはそれでさらに目を細めるんだ……。
「……そうだ、わたし宇田川くんがここにいるからって、銀髪の男の人に言われて、来てみたら、宇田川くんと、えぇと――」
「かなた。田中かなた」
「かなた、さんがいて、それから、……そう! 誰かの声がしたと思ったら、急に意識が遠くなって……、それから! それから……、あとはよく、覚えてないんです」
 そう言って肩を落とした美陽に、かなたは言った。
「大丈夫よ、そいつはもういなくなったから」
「そう、なんですね。……あ、そうだ、カナ、カナが来てくれたんです。ちょっとだけだったけど、カナがわたしに会いに来てくれて。あ、カナっていうのは――」
「知ってる。あなたのお友達でしょ」
「え……、どうして?」
「だって、あたしたちもカナとは友達だもの。それに、カナはまだいるわ。ここに」
 そう言って、かなたは美陽の肩を指差す。そこには確かにカナがちょこん、と乗っていて、美陽に身体を寄せていた。
「見えて、ないのか……」
 美陽にはカナの姿が見えていないらしかった。僕のように、羽中田に憑かれたことによって霊魂を見る力は、美陽には備わらなかったらしい。
「ここに……?」
 かなたは頷く。
「それじゃあ、もしかしてカナは……」
 「ぴうぴう」と、カナは断続的に鳴いた。
「聞いて。――美陽ちゃん、僕は美陽ちゃんの家を飛び出してすぐに、お腹が空いて死んでしまいました。当然です、僕は美陽ちゃんに与えられたご飯で生きることしか知らなかったんですから」
 かなたがカナの言葉を伝えているらしかった。
 ……でも待て、なんかおかしくないか。
「やっぱり……。どこかで、幸せに暮らしててくれたらいいなって、そう思ってましたけど……。
 ごめんね、カナがいなくなったのは、わたしが受験やお引っ越しで忙しくて、構ってあげられなかったからだよね……」
 美陽は口に手を当てて涙ぐんだ。
「悪いのは僕です。外の世界を少しでも知ってみたいと思った。あんなに、温かい場所があったのに」
 おいおいおい、これってまさか……。
「だけど、いいんです。こうして最後にちゃんとお別れも言えましたし。かなたさんや……、かなたさんのおかげで」
「そこは僕の名前だったんですよね!?」
「カナ……」
 そっと、美陽が差し出した両掌に、カナは乗った。
「ここに、いるの?」
「ぴう」
「いますよ」
 その掌を、美陽は愛おしげに顔に近づける。それからしばらくの間、彼女は声を上げて泣いた。

   ※

「ごめんなさい。もう、大丈夫です……」
「カナも、もう平気?」
「ぴぴぃ」
 美陽はゆっくりと立ち上がった。
 かなたもそれに続いて立ち上がる。左手には、放魂包鉱のパイプ。
「ハル、あんたもこっち来なさいよ。お別れなんだから」
「あ、はい……」
 美陽の顔をなんとなく見ないようにしながら、僕は三人に近づいた。
「短い間だったけど楽しかったわ。いろいろ助けてもらったしね」
「ぴぴぴぃ」
「あんたは? なんか言っとくことないの?」
「ええと……」
 美陽の掌に乗ったカナを見下ろす。
「カナ、お前、カナリヤだったんだな」
「ぴぴ?」
「はぁ?」
「……えっと」
 何、この空気。
「ぴぴっぴーぴ」「ハムスターよ」「ハムスターです」
「じゃあなんで『カナ』!?」
「そんなのは飼い主の勝手じゃない。別にミケって犬がいたっていいでしょ?」
 それはそうだけど……。
「ええとじゃあ、オスだったんだな」
「ぴぴぴ」「メスよ」「メスです」
「じゃあ何で『僕』!?」
「僕っ娘(こ)よ僕っ娘」
 動物にもそういう器用な概念は当てはまるのか?
「というかどうして人間の言葉を?」
「それは、霊魂っていうのは総意の集合体であって互いに――ってめんどくさいから却下。なんかもうちょっと気の利いたことないわけ」
 めんどくさいって。そこ大事だろ……。
 見下ろす僕と、見上げるカナ。
 くそ、なんか、寂しいじゃんか……。
「ブン投げて、ごめんな。それからいろいろありがとう。さっきも――」
「長い。簡潔に」
 どうすりゃいいんだ!
「……ありがとう、元気でな」
「ぴっぴ」
 あー、なんか視界歪む。
「それじゃ、行くわね」
 かなたがパイプを構える。美陽の掌に向けて振り下ろすその直前。
「美陽ちゃん、頑張ってください」
 確かに、僕にも聞こえた。
 それは、カナの声。
 ――ぽん、と小さな音がしたかと思うと、すでに美陽の掌には、何も乗ってはいなかった。
「……逝ったんですね」
「うん」
 美陽はぐじ、と一度鼻をすすり、目をこすった。
「あ……、メガネ」
 見れば、確かに美陽はメガネをしていなかった。
「ああ、そうそう、さっき落としたの拾ったんだけど、これ……」
 そう言ってかなたが差し出したメガネは、熱の影響でか、ひどく変形していた。
「あああ……」
 試しにかけてみるも、やけにひん曲がったメガネは、サザエさんに出てくるメガネキャラ状態を作り上げるだけであって、もはや視力矯正という用途を成すには伊佐坂先生いささか不便な形状をしているといえた。
「ごめんね……」
「大丈夫です、コンタクトもありますから」
 なぬ、一度としてそんなの見たことなかったけど。
「でも、恥ずかしいです。普段はこれだったし……」
 そう言った、美陽の上目づかいに僕はやられた。たまらず明後日の方向に視線を向ける。
 どきゅーん、だった。
「宇田川くんは、コンタクトの方が、いいですか……?」
 なんでそれを僕に聞く?
「うん、どっちでも、いいと思うよ……」
 否。断じて否。
 コンタクト一択。
 こういうのなんて言うんだっけ。東城効果? 長門効果?
 何にしてもとにかく、びっくりしたなぁ!
「うん、あたしはコンタクトがいいと思うわ」
 その方がなんとなく責任逃れ出来るからだろ?
「……じゃあ、明日から、そうしてみます」
 イャスッ! とはいえナイスだかなた。
 明日からヤンクジの名も返上だなこれは。
「ところでさぁ」
 そう言って、かなたは美陽の顔を覗き込む。
「美陽って、ひょっとしてハルのこと好きなの?」
 おま、なに言って、おまっ! 不意打ちすぎるだろっ!!
「……な」
「な?」
 あ、来るぞこれ。
「なーに言ってるだかかなたさんべづにわだしそんなつもりでいったんでねくてただ普段つけなりないものいぎなりつけんのもどーがなっておもったがら宇田川くんに聞いだだげですよだがらべづにそんなつもりまったぐないですからですから!」
 ひと息にそれだけ言って、両手を前に広げた格好で美陽は静止した。
「ハル……」
「はい?」
「……なんて言ってるの?」
 僕も、分かりません。
19, 18

ローソン先生 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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