幽霊
ノギのロック原体験はいとこが持っていたキング・クリムゾンである。このバンドと、CDジャケットの有名なゆがんだ顔、そして二十一世紀の精神異常者という曲名が彼の頭に深く刻まれている。今じゃ自分が二十一世紀の精神異常者さ、と本人はなによりも面白い冗談のように笑う。
ノギの友人にヴェルという少年がいる。彼はボサボサの髪の毛で顔を覆い、世界を遮断したがっている無気力な若者の一人だった。ニコという彼女がいて、二人は地下街とか、地下鉄の駅とか、そういう光の届かないジメジメしたほこりっぽい空間を好んだ。なぜかは本人たちにも分からないが日光に当たらないがゆえのビタミンD不足と陰鬱な気分は、慢性的に彼らを蝕んでいた。
あるときノギが電車に乗っていると二人がいた。彼らから声をかけてくることは絶対にないと知っているノギは、自分から近寄って「よお」と声をかけた。二人は彼を見たものの声を出すことはなく、足元を見つめ始めた。ノギは周囲の乗客を気にすることもなく言った。
「お前ら、僕と話すんのがそんな嫌なのかよ。あるいは人と話すこと自体が嫌なのか。そんなに嫌なら外になんか出なきゃ良いのに、今日びネットで本もCDもダッチワイフも買えるし学校だって行っても行かなくてもおんなじだろ? じゃあどうして無理して出てくるのかっていうとだ、お前らは結局人と関わって、自分たちが孤独じゃないって証明したがってんだよ。自分たちじゃそれを積極的にしやしないくせに、向こうから話かけてくるのを待機しているんだろう? 人が恋しいから、完全に他人と自分たちの繋がりを断とうとしないのだろ? 違うってんなら違うと言えよ」
ヴェルもニコも答えなかった。ノギもあまりそれを期待していたわけじゃない。しかしながらどうも嫌な気分に双方ともなり、もはや口を利こうとはしなかった。実際それから半年ほどノギは二人と会うことはなかった。
ある日煙草などもともと吸いもしないノギがガラナと、市内のライブハウスが全面的に禁煙となったことに対し文句をぶつぶつ述べていると、ヴェルが地下街の壁にもたれかかって座っているのを見た。
「ヴェルがいる。半年振りくらいに見たよ……マジで家にこもってたんだろうな。じゃなきゃ、僕を意図して避けてたか、僕が無意識にあいつを避けてたってことだろうさ」
彼の前を通り過ぎるときもノギは特に何かを言おうとはしなかった。お互いに相手を認識したことは分かっているが特に何か話すつもりにはならなかったから。その場を過ぎるとまた、ノギはガラナとともに、あらゆるものの悪口を言い始めた。
さてそれから三ヶ月くらい過ぎて、ガラナは引越しをすることにした。理由は特にない。たまたま散歩していた町のたまたま見かけたマンションと、その付近の景観が気に入ったためにいきなり移動することにしたのだ。彼女はしばしばこうした突発的引越しを行い知人たちを困惑させていた。一度ノギはガラナが以前住んでいたアパートのドアの前で、延々ガラナに対する苦情を叫んでいたことがあった。そこにはすでに善良な学生である少年が住んでいたのだ。言い終えて帰ってからそれを思い出したが、ノギは別に気にしなかった。彼はガラナが改善してくれるのを目当てに苦情を言ったわけじゃなく、ただストレスを解消したかっただけだから。
引越しの際の荷物はごく少なかった。椅子が一脚とギター一本のみ。ほかの家具は、もともとないか、廃品回収に出すかだった。そして新しい住居で家具を買って配達する。年間ものすごい金をガラナは家具に使っている。
新居の窓からは柳の木が見えた。
あそこに幽霊が出るに違いない、とノギは言った。ヴェルみたいな幽霊だよ。人生が嫌で嫌でしかたなくて首くくった根暗なやつの霊。
「そりゃ写真に撮影してびっくりするよね、多分。ういー。是非とも見てみたいっていう感じはするよ」
窓を開け放ち酒盛りしながら見ているが何も出ない。部屋の電気を消した丑三つ時。何もいない。当たり前と言えば当たり前だ。
「ガラナ」ノギは泥酔した状態で言う。「あいつらみたいな影が薄くて生きる気力に欠けるやつらも、ちゃんと生きてるんだ。そりゃ多少不便かもしれねーけど、僕みたいに人間失格な人生よりはましなものになるだろうよ……きっと酒もやらないし普通に結婚するのさ。ただちょいとコミュニケーション能力がないだけで、だけれどまともな人生は歩めるはずだ。僕はだけど、最近ますます自分の精神がどうにかなっていくのを感じる。そいつが気のせいかなんかだったら良いんだけどさ……」
ぶつぶつ言いながらノギは幽霊なんかよりガラナや自分のわけの分からぬ精神のほうが、よっぽど不気味かつやっかいだと思った。ガラナは寝ているのか起きているのか分からない様子で反応せず、ノギは酒瓶を掴んだまま家に帰った。ガラナはそれから数ヵ月後また引っ越した。結局幽霊なんて一度も見れないまま。ノギがヴェルとニコに会うことはあるが、相変わらず話は一切しない。
完