ドラネコ
ノギの知り合いの知り合いに日暮里という女性がいる。ほんとうに日暮里という名前なのかは怪しい。ノギは彼女と会ったばかりのころ、一緒に電車に乗っているとき、日暮里駅のすぐ手前で名前を尋ねた。すると日暮里、と名乗った。電車のアナウンスから取って適当に名乗ったのは明らかだった。だけどノギも本当の名前を知りたいとは思わない。彼女が自分の下の名前を聞かないのと同じで。
日暮里は背が高く、グレッチをいつも担いでいた。ケースに入れず。彼女は弾きたいとき弾けるようにギターはいつだってむき出しにしておくのがベストだと言っていた。
「ああ、それでノギ、最近ガラナの様子はどうよ」電車の中で日暮里が言った。
「どうって何が」ノギは聞き返す。
「存在しているかい?」
「そいつはどういう意味?」
「つまりだ、あたしはときどき不安になるわけ。ガラナってほんとうに存在してんのか? って。もしかすると彼女はあたしやあんたや他の皆の持っている幻想にすぎないんじゃないかって。集団幻覚。こっくりさんで女子高生が何人もヒステリー起こすみたいな感じ。何か原因となる事件がずっと前にあって、それのせいで皆ガラナっていう不思議少女がいるんじゃないかって錯覚している。そういった可能性ってないかね」
「ねえでしょ」ノギは答えるがその実、もしかするとそうじゃないか、と少し不安になる。
「ガラナを見たときあたしたちの中に発生する感情。そいつが虚空を見て発生した感情だとしたら面白いよね」本当に面白そうに日暮里は言う。「つまり相手なんていらないってことだよ。自分の頭蓋骨の中に入ってる脳みそっつうシロモノが、勝手に感情を自家製造してくれるならさ……。誰かと一緒に喫茶店に入ったり、メール送ったりする必要なんてホントはないってことだろ? 手間がかからなくて良いよ。すごく良い。違うかいノギ」
「そうだな」
ノギは窓の外を見る。
一匹の猫が見えた。茶トラの猫。民家の屋根にいる。一瞬で見えなくなる。ドラネコは、消失する。
ノギはそれで考える。
自分もどっかの誰かから見たら消失しつつあるかも。視界から消えるって意味じゃなく、意識・記憶からという意味。永遠に自分と会わなくなったら、もう存在してないのと同じだ。お互いにとって。
「ガラナは、いるよ」とりあえずそう口にしてみる。「多分、いるよ」
「そうだと良いけど」日暮里は言う。「そういやあたしたちが出会ったのってどこだっけ?」
「さあ、覚えてないな」ノギはなんとか思い出そうとする。頭が痛かった。確かどっかの路上で日暮里とは会った気がする。そのときもグレッチをかついでた。
「あんたって前は何してたんだ」ノギは聞いた。
「前って?」
「僕と会う前」
「何もしてないよ。今も何もしてない」
「何も?」
「何も。強いて言うとあんたと話してる」
「ああ」
再び外を見ると、またドラネコが見えた。
さっきと似たような茶トラの猫。
いやもしかしてまったく同じ猫じゃねえ? ノギは考えた。だけど環状線と言えど一周が短すぎるよ、それじゃ。
もしもどんどんこの線路の輪が狭まっているのなら、ドラネコが見える間隔はどんどん短くなり、終いにはずっとドラネコが見えるようになるはずだ。だけど電車はあまりに高速すぎて、ドラネコは一個の茶色い線に成り果てるはずだ。そうして世界はドラネコを中心点として収束する。
「日暮里、あんたももしかすると幻かい」
「そうだね」彼女は答える。「少なくとも、あんたが暇を潰せるならあたしはどっちでも構わないよ、本当。どっちでもね。重要なのはそこだよ」
「そこか」
「確かに妙だよね。こんな、ギターそのままかついでる変な女がいるのにさ、誰もこっちを見ない。いや、見たくないからかな……帰ってとっとと、あたしのことなんて忘れたいのかな」
「そこまでの悪夢的インパクトはあんたにはないよ。奇妙な姉さん止まりだよ、あんたは」
「そりゃがっくり来る評価だよ。あ、ネコだ」
日暮里は窓の外を指差した。
ノギは見たが、もう消失していた。
完