13.雨の文化祭
俺は天気予報を信じていない。
そんなものは朝っぱら、ちょいと玄関に出て手前で空見て決めればいいのだ。それなら外れても当たっても、自分の責任というわけで、すっきり納得がいく。他人任せなんぞは後腐れがあっていけない。
だが、そんな風に考え始めたのもつい最近、ここ半年くらいのことだ。それ以前はいたって普通に冴えない予報士どもを頼っていたし、時にはそいつらを罵ったりもした。
果たして、今の俺と昔の俺、どちらの方がより『俺らしい』のだろう。
俺は変わった。
ただそれは、錬金術のように石から金ができたのか、それとも石を磨いたら金になったのか、いったいどちらの変化だったのだろう。
きっと――と俺は思う。
生きていくというのは、元々こういうことだったんだ。
何かを信じ、それでくたばったり、勝っちゃったりする。言ってしまえばそれだけだ。
博打を打つとき、隣で別口の大穴に虎の子突っ込んだやつがいると、なぜだか不思議な安心感がある。連帯感、とでも言おうか。
――ああ、ここにも俺と同じ馬鹿がいる。
そう思うと博打もそんなに悪いもんじゃない。
ろくでなしばかりかもしれないが、友達くらいならできたりもする。
ひょっとすると、世の中の連中が博打をやめられないのは、失った金やいまだ訪れぬ勝利を求めているのと同じくらい――そこに奇妙な隣人がいるからなのかもしれない。
だから、それを味わえないやつがいるとしたら。
寂しいことだと、思うんだ。
カーテンを開けると、ざあざあと大粒の雫がガラスを叩いていた。
ベッドから手を伸ばして、窓に「あたり」と書く。
何も得られない、いわば天との賭けだったわけだが、俺が勝ったことには違いない。
ざまァみやがれ。
起き上がると、夏と秋を吹っ飛ばして訪れた冬の寒気が襲ってきた。
ぶるっと身を震わせる。
階下で暖かいトーストとコーヒーにありつきたいところだが、あいにくと両親は朝早く出かけてしまうし、妹も昨日から彼氏の家に泊まりにいっている。景気のいいことだ。
俺はふらふら壁に頭をぶつけながら階段を下りた。懲りずに毎朝思うのだが、いつか転落死しそうな気がしてならない。
薄暗いリビングに、テレビだけが点けっぱなしにされていた。
黄昏色の表情を浮かべた大人たちが、今年の夏から世界各地で始まった異常気象について考察し合っている。津波やら台風やら、まるで人間を大掃除しようと地球が丸い腰を持ち上げたようなドンチャン騒ぎらしい。
幸い、まだ俺の住んでいる地域は晴れが雨に変わる程度の被害で済んでいる。が、今年はお米が大打撃を喰らったらしく、しばらくカップラーメンで生きていくしかないのも被害といえばそうだ。
おはよう、と俺は言った。
ソファに座って足を揺らしていたそいつはちらっとこちらを向いて、おはようございます、と返してくる。
「ところで」レンジにパンを二丁放り込みながら、俺は肩越しに振り返った。
「なんでおまえがここにいるんだ、空奈」
弁償するお金があるから鍵を壊してもいい、というのはよくないといくら言っても聞いてもらえない、俺だった。
どうもいまだに実感が湧かないのだが、俺は自分の彼女というやつと対面に座って朝食を採っている。
お互いに少食なのでパン一枚とコーヒー一杯で朝は済んでしまう。
「何か作って待ち構えていようと思ったのですが、お米もないし、インスタントばかりで手の施しようがありませんでした。いつもどんな料理をなさるのですか?」
「うちに料理という概念はない」
「お気の毒に」
もしゃもしゃパンをはじっこからかじりながら空奈が言う。ちっとも気の毒がられている気にならない。
「天馬の言ったとおり、雨になりましたね。この雨雲はどこからやってきたんでしょう」
「誰かが猛烈な雨女なのかもしれないな」
「雨男といわないところに悪意を感じます。喧嘩を売っていると判断してよろしいですね?」
「ろんもち」
「またそうやってすぐに覚えた言葉を使う。子どもですかあなたは」
「子どもでいいよ」
上目にじーっと睨んでくる空奈をにやけてはぐらかした。
「くたばるまで人生を楽しめらァ」
はぁ、というため息が雨音のBGMと重なる。
陽の光も射さないくせに、なんだかひどく穏やかな朝だった。
「知っていますか。もうすぐこの世界は滅びるそうですよ」
「知ってる知ってる、あれだろ、ナントカ大学のウンタラ教授だろ。昨日も言ってたぜそいつ。飽きねぇなァ」
「太古の預言書によると、この異常気象の発生も記されていたらしいです」
「大いなる災い起これり。むしろ起こらねえ年がねえだろ。どんだけ幸せな頭してんだ」
「ですね。でも、ホントに滅んじゃったらどうします?」
「滅ばないよ」
「滅ぶとしたら、です。たとえば、今日の午後とかに」
空奈の眼は、どこか真剣だった。俺は指についたパンくずをなめとりながら答えた。
「べつに普段となにも変わらない。後悔しねえように、好き勝手にやるよ。おまえもそうすりゃいい」
そうですね、と答える空奈は、窓の外の黒い世界を見ていた。
「でも、私がわがままになると、あなたが困るでしょう?」
俺はびっくりして眼を見開いた。
「どういうことだよ?」
さぁ、とやつは珍しくごまかした。
ひょっとすると、こいつは俺よりも俺のことを知っているのかもしれない。
空のカップに口をつけて、照れくささがなくなるのをしばらく待った。
雨なので自転車は使えない。
俺と空奈は少し早めに家を出た。傘を持つのも開くのも面倒くさかったので、空奈の赤い傘に割り込んだ。睨まれたが無視する。亭主関白ってやつだ。愉快愉快。
雨の矢に煙る通りに人影はない。
ただどうしてか、見えない屋内にいる人々の気配は感じられた。
生きていると、それだけで何かのエネルギーを発していて、俺たちは無自覚にそれを感知しているのかもしれない。
運やツキの流れなんかも、それと似たようなものだ。隠れているだけ。
「でもこの雨だと、せっかくの最終日なのにあんまり人は来ないかもしれないですね。出店とかもやらないかもしれません。ああ……」
空奈は吐息と共に顔を伏せ、首筋からさらりと黒髪が流れた。
「おまえ買い食い好きだもんな。丁度いいじゃねえかこれ以上喰ったら太っちまって豚ッ鼻になっちまイタタタタタ」
眉を逆八の字にした空奈に頬をつねられる。
微笑ましい光景に見えるかもしれないがこれが結構腫れるのだ。
もうおたふく風邪を引いたのだと見間違われて保険室に連行されるのはご免だ。
なんとか頬が千切れる前に手放してもらった。必死にすりすりして痛みを和らげる。
「なんて可哀想な俺」
「減らず口を……」
掌が拳になったので警戒警報発令だ。
こんなときはさっさと話題を変えてしまうに限る。
「まァこの二日間は思ってたより忙しかったからなァ。暇な文化祭ってのも乙なもんだろ」
「枯れてますね。つまらないです」
なんてこというんだ。ちょっと本気で傷ついたぞ。正しく意味を理解しての発言でないことを祈る。
「まァいいじゃねえか。もうたくさん遊んだし働いたろ? 十分じゃねえか」
選択肢をミスったらしい。空奈は黙り込んでしまった。女の子ってムズカシイ!
ただこれは俺の持論なのだが、なにも親しい間柄というのは会話が弾んで止まらないだけじゃない。
なにも言わず、ただ黙って歩ける相手も、同じくらい親しいのだと思う。
それができる相手が隣にいることが俺にはとても誇らしい。
「改めて、わかりました」
傘の中は狭い。目の前に空奈の白い顔があった。
「なにが」
「あなたはやっぱり、わがままのろくでなしです」
「おいこら牽制なしの直球だな! なんの恨みがあるんだよ!」
「でも」
でも、なんだというんだ。
「あなたがあなたらしくいられるなら、私、ちょっとぐらいなら我慢しますよ?」
とっさに気の利いたセリフが、何も出てこなかった。
十時を過ぎても校内はがらんとしていた。たまに保護者らしき大人たちがうろついているほかは静かなものだ。
その教室の扉には『雀荘 ドサ天』とダンボール製の看板が下がっていた。
何を隠そう俺の店である。
有志を募って雀荘をやろう、と言い出したのは誰だったか。芳野だったように思う。
ノーレートかつ手積み、常に教師の監視員をつけるという条件つきで誉れある文化祭に雀荘が出店を許されたのだった。
白垣が猫かぶって教師陣にゴマをすってくれたというのもある。たまにはあいつも役に立つ。ちなみに場代は半荘百円。
驚くべきことに客がいた。三卓稼動している。野外の出店をやる予定だった生徒も混じっているが、外来の客もいる。どんだけ暇なんだ。
マットに牌を打つドッドッという鈍い音が鼓動のように繰り返されている。
ぱっと芳野が顔を上げた。
「あ、馬場! それに加賀見もか。何してたんだよゥ遅いじゃんかよゥ」
「痛い痛い痛い! まだ何も言ってない! 言ってないよ!」
「予想がついたので」
わき腹の肉を捻転させられた俺は麻雀どころではなく、受付のところで頬杖をついている雲間鼎の隣に腰かけた。
嫌そうな顔をされたが構うことはない。
もう二つの稼動している卓には、それぞれ進藤とラッキーが入っていた。
あの博打嫌いのラッキーもノーレートならとにこにこして愛想よく客と談笑しながら打っている。
相変わらずの偽善者っぷりだが、あそこまでいけば天晴れだ。雨降ってるけど。
空奈が雲間とおしゃべりしていたかと思うとさっさとどこかへ行ってしまった。校内見物かもしれない。なんで俺を誘わないんだ。答え、店番。ちくしょう。
あっという間に首がすわらなくなり、俺は滑り落ちるように、眠ってしまった――。