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14.嶋あやめ

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 誰かに呼ばれたような気がして顔を上げると、芳野が童顔を不気味ににやにやさせながらこっちを見下ろしていた。
「おはよう、店長」

「うん。――ところでなんで俺は地べたに寝転がされてるんだ」
 まじめに掃除するやつなんてこのクラスにはいないので、制服は埃まみれになってしまっていた。
 あちこちにくっついた灰色の綿を爪で弾く。板張りの床に転がったその中から、なんと蜘蛛がもそもそ這い出てきた。
「いやぁ悪い悪い。演劇部が椅子貸してくれっていうから貸しちゃってさァ」
 なにも眠っている人間をゴミみたいにどけて持っていくことはないだろうに。
 俺は蜘蛛を客たちの足からよけて逃がしてやりながら舌打ちした。
「ああそういえば馬場――」リーチ、と牌を曲げながら芳野が言った。
「さっき知り合いが来てたぜ」
「知り合い?」
 最近は少しずつ顔見知りが増えてきたのですぐには誰だかわからない。
「すっげぇ可愛い女の子。ちょうどラッキーも進藤もいなくて――」
 見ると卓にいるメンバーの顔がガラリと変わっていた。
 眠っている間に午後になっていたらしい。あれほど騒々しかったくどい雨も止んでいた。
「それで?」
「それで、俺が打ったんだけど、しきりに馬場のことを聞くんだよ。なんで寝てるんだとか、いつ起きるんだとか、まぬけ面だとか」
 最後のは質問じゃない。
「そんなこと俺が知るかって感じだったんだけど……」
 芳野の声が小さくて聞き取りづらかった。いや、俺が自分の思考に没頭し始めていたのだ。
「だからさ、俺はもしかしたら妹さんなのかなって思って――」
 新しい客がやってきて、すかさずメンバーが卓に収まった。そこで店長の存在を思い出したらしく、
「あ、馬場打つ?」
「いや、いいや」
 でも退屈だろうという問いかけに、振り返りもせずに答えた。
「退屈だから――」
 教室を出、若干人気の増えた廊下の窓から外を見下ろすと、空奈と雲間の姿が見えた。
 側に白垣がいて雲間に追いかけられているがまた何かやったに違いない。
 ぱちぱちと瞬きしながら会長が折檻されるのを眺める空奈を見て、俺はふっと身体から力が抜けた。
 どうしても俺は他人と迎合できないが、その代わり、この世の平穏や幸福はあいつが享受してくれる。
 そう思うと胸の奥にある臓器がじんわりと熱を帯びた。
 そのとき、俺は確かに安らかだったんだと思う。
 けれど。
 廊下を駆け抜け、ぶつかった着ぐるみどもの怒鳴り声に追われながら、どうしようもない切なさが、母から疑心を向けられたあの時の気持ちが、蘇ってきた。
 俺には俺の幸福がある。
 俺だけの誰とも分かち合えないものが。
 それを不幸だとは、
 どうしても思いたくなかった。


 屋上への階段を二段飛ばしで駆け上がり、曇天から射す鈍い陽光が窓から顔に当たった。
 ノブを捻り、重たい扉を開けると、周りに追随する高層建築がないため、天空のド真ん中に屋上が浮かんでいるような錯覚を起こした。
 誰もいない。
 こぉぉぉ――と息吹のような風が吹いているだけだ。
 一歩、二歩、と俺は進んでいく。
 はずれか――やはり面倒だが虱潰しに探すしかない。
 踵を返すと、影に覆われ、顔を上げた。
 突如、天から女の子が落ちてきた。
 どっ、と両腕で受け止めたはいいものの、やはり人間は羽のように軽いわけがないのでそのまま背後に倒れこみ、お互いの額を正面から激突させることになった。
 二人分の苦悶の声がうう、うう、と屋上に満ちる。
「いったぁ……なんで倒れるの? ばか?」
「うるせえ。給水塔から飛ぶやつに言われたくねえ」
 実に数ヶ月ぶりに、俺はその人形のような顔を見上げていた。
「――よう、シマ」
 見覚えのないサソリの髪飾りをつけた同胞は、にへらっと笑った。


 いつものように白いジャケットを羽織ったシマは、ぱんぱんと服の汚れを払い落とした。
 俺も学ランの襟を正し、先ほどの馬鹿げた寸劇をなかったこととして闇に葬る。
「あーあ、せっかく超感動的な再会を考えたのに。三秒で」
「もっとじっくり考えろよ」
「だって――」
 向かい合ったシマは、前と何一つ変わっていない笑顔を浮かべた。
「追いかけてきてくれるなんて、思ってなかったからさ」
 聞いたよ、と笑顔を意地の悪い悪童顔に変えて見上げてくる。
「カガ――空奈と付き合い始めたんだって?」
「だからなんだよ」
「やるじゃん」
 情報の出所と思われる何人かの顔を思い浮かべた。なんとなく雨宮であるような気がする。カガミの姓がもはや意味をなさないということを知っているあたりからそんな気配がする。あいつ死ねばいいのに。
「おまえは相変わらず博打渡世か?」
「トセイ?」
 どうやら漢字は苦手分野だったらしい。
「まァ勝負したりしなかったりしながら生きてるよ。フツーに」
 こいつの言う『普通』は他の連中となんら集合しないことは明白なので、飛んだり跳ねたり斬ったり撃ったりして過ごしていたんだろう。
 気ままな猫のように、また獰猛な獅子のように。
「そいつはよかったな。おめでとう」
「うん。天馬こそおめでとう! よかったね彼女できて。わたしのおかげだよね」
「ふん、そうかもな」
「あら? あっさり認めちゃった。つまんないなぁ。だから君はダメなんだよ」
 ダメ出ししてくるのはオカンと猫型ロボットだけで十分だ、と反論するとけらけら笑った。
「ま、よかったよ。これでもう――死にたいなんて言うこともなくなったでしょ?」
 その言葉を契機にして脳裏にあの春の夜の記憶が蘇ってくる。
 まっすぐ立っていることさえできなかった、あのホームで。
「自分が死ぬぐれえなら、どいつもこいつもぶち殺してから死ぬさ」
「おお、いいじゃんいいじゃん! 天馬ったらもーどんどんわたし好みになっていくんだからー」
 つんつんとわき腹を小突いてくる。
「いつかわたしを選ばなかったことを後悔させてあげるよ!」
「――――」
「ん? どうかした?」
 俺は少し半身になった。ちょうど右手で対面のヤマをツモるときのように。
 今から始まる事柄に、これから進む道程に、後悔だけはしないよう誓いながら。
「――おまえ、何しに来たんだ」
「え?」
 きょとん、と一瞬呆けたような顔をしてからまた人好きのする笑みを浮かべる。
「何って――遊びに来てあげたんじゃん? あのね、雨宮がさ、文化祭の日にち教えてくれたんだ。あ、知ってた? あいつ生きてたんだよ。びっくりだよねー」
 左腕なかったけど、といってまた笑う。
 俺は笑わなかった。心が凍り付いていく。いや、熱くなっていくのか。
「おまえが遊ぶ? そんなことは無理だろう」
「無理って?」
 ごごご、と曇天が唸った。
 また降り始めるのかもしれない。
 稲光が一瞬閃いた。シマが呼び寄せたものではないと信じたい。
「こんな文化祭なんかに、おまえが楽しめる場所なんかないよ」
「ひどいなぁ」すねたように口をすぼめる。「そんなこと――」
「ある」
 なぜって俺もそうだからだ。
「とっとと言えよ。俺に何の用だ」
 氷雨のように尖った俺の言葉に、シマの笑顔が曇った。
 だがそれも計算されているのだろう。人間のモノマネだ。
 そう、まだこいつは――。
「――君に会いに来たんだ」
「なぜ」
「会いたくて」
 心臓がどくんと高鳴った。
 真正面から向けられる澄んだ眼差しから今すぐ逃げ出したい。
 冗談でも言って、こんな話、なかったことにしたい。
 できない。
「会いたいから来ちゃダメなのかな。あ、そっか、空奈のこと気にしてる? だいじょうぶ、二人の邪魔したりなんかしないからさぁ」
 尻すぼみに消えていくシマの言葉。
 久しぶりに友人を訪ねたら、その理由を問われるなんて、なんて寂しいことだろう。
 シマが俺を友人と思っていれば、だが。
 口から出る言葉は自分のものではないように、刺々しい。
「おまえは理由があるから来たんだ。無駄なことはしないだろう。さァ言えよ。何を企んでる?」
「天馬――」
「言え。でなきゃ俺ァ帰るぜ。眠いんだ」
 立ち去りかけた俺の袖を、白く小さな手が掴んでいた。表情は見えない、顔を伏せている。
「実は、さ」
「ああ」
「長い旅に出ることにしたんだ。雨宮と」
 旅、という言葉がこれほど似合うやつを俺は知らない。
 気ままに歩き、喰い、打ち、勝ち、去る。
 それはシマの生き方にぴたりと符号しているように思えた。
「――外国か」
「うん。まず上海にいって、それから、たぶん西の方にずーっといくんだ」
 ゴールは決めてない、とシマは恥ずかしそうにはにかんだ。
 将来の夢を打ち明かした子どものようで、俺は毒気を抜かれないようにするのが精一杯だった。
 それで雨宮はこいつを俺のところによこしたのか。
 脳裏にやつの顔が鮮明に浮かび上がってくる。
 ただなぜか、すごく幼い頃の顔だった。
「麻雀――」降りかけた沈黙の幕を俺は払いのけた。
「流行ってるらしいからな。そうか、海の向こうにゃ、もっとおもしろいやつがいるかもしれねえもんな」
「でしょ!」
 顔を上げたシマの頬はほのかに紅潮していた。
「わくわくするよね。だから」
「そのお別れを俺に言いにきたのか」
「――うん」
 もしかしたらもう二度と会えないかもしれないから。
 だから、この国に残る未練を断ち切っておきたい。
 言葉にしてみれば、なるほど筋は通っている。
 しかし、らしくない。
 それは、嶋あやめらしくないんだ。
「今年は楽しかったなぁ――春に君に出会ってから、退屈なんて、ほとんどしなかった――」
 遠い眼をしてやつは言う。
「だから――お別れを言うなら、君しかいないって思ったんだ」
 この国で、いや、今まで生きて出会った連中の中で。
 シマはたったひとり、俺を選んだと言う。
 何の才もないこの俺を。
 誰のことも愛せず。
 ただひとりで生きていくしかないこいつを。
 俺はこのまま放っておきたくない。

「いくなよ、シマ」

 それが、勝負の始まりを告げる鐘代わりになった。




 突然の言葉に、ぽかんと眼を見開いていたシマはやがて笑い出した。
「どうしたの、天馬。――あ、やっぱり寂しいんだ? そうでしょ? うっわー」
 掌で口元を覆い目元が柔らかく綻ぶ。
「だったらそう言えばいいのに。素直じゃないなぁ」
 何一つミスは許されない。飲み込む生唾は泥の味がした。
「シマ、おまえはまだやり残してることがあるよ。だから、いくな」
 鋭い光を放つ両眼がすうっと細められる。
 シマを前にして俺は、もはや獣を相手にしているように震えていた。
 こいつを武者震いにしてやる。
「やり残したこと?」
「ああ――やり残した、っていうか、このままじゃ気にいらねえんだ」
「それは、何?」
「まァ確かに――おまえは強い。頭の切れも、博打の技術も、天運も、どれを取っても誰にも負けねえ勝負師だよ」
 でもさ、とやつから視線を逸らさずに俺は続ける。
「それがなんだっていうんだ? ただ強いだけなんて、虚しいし、無意味だぜ」
「ふうん」
「そんな風にして勝って、おいシマ、おまえは幸せだっていうのか?」
 一息に喋って、俺は返事を待った。
 ふう、とため息が戻ってくる。
 重そうなため息だった。
「君からそんな言葉が出てくるなんて思わなかったな。ちょっと――残念」
「え――」
「ううん、なんか虚しいとか、幸せかどうかとか、そんなこと君に決められる筋合いじゃないと思う」
「じゃあ教えてくれよ。――何がおまえにとって幸せだっていうんだ?」
 しばらく気まずい沈黙が続いた。
 シマは格子の向こうの中空を見つめている。
 どこからか、合唱部のコーラスが屋上まで流れ着いてきた。
 誰でも一度は聞いたことのあるメロディ、国道のことを思ったそれは――
「歌」
「え?」
「わたしさ、人生って、不幸を土台にしていると思うんだ」
「土台」と俺は反復した。
 シマは茫洋としている。起きながら夢でも見ているかのように。
 その薄い唇がにじむように言葉をつむぐ。
「うん。そう――真っ白い楽譜が人生、その不幸そのものだとしたら――幸福って、飛び飛びにしか存在しない音符みたいなものなんじゃないかな」
「――――」
「昔の天馬は、不幸だ不幸だって言ってたけど、いいんだよ、不幸で。それが当たり前――自然なんだ。
 ただ、時々、まんざらでもない瞬間とか、最高の一瞬とかが訪れる。
 そしてまた不幸になっていく――そうして出来上がった幸福と不幸の羅列。それが人生。
 それが――生きること。
 だから、ずっと幸せじゃなくたっていい」
「――――」
「ねぇ、だから見送って欲しいんだ、天馬。君には――君にだけは」
「嫌だ」
「天馬――」
「嫌だぜ。見送れだと?」
 すぅ、と雨の残り香を吸い込んだ。
「――寝言は寝てからほざきやがれ。
 逃げ出そうとしてるやつにかける応援の言葉なんかあるもんかよ」
 びりっ、と大気が震えた、気がした。
 風が吹く、不安を煽る風が。
「――逃げる?」別人のように掠れた声。「誰が?」
「てめえが」
「何から」
「幸福からだよ」
「だから――」
「そりゃあてめえの幸福はてめえの勝手だ。だがそれしか持ち物がねえやつが博打をしてるなんて偉そうな顔をするのはおかしいぜ」
「――はい? もっかい言って?」
 耳に手を添えたシマから、徐々に陽気さが失われていくのがわかった。
「俺たちは、死ぬのが怖い。失うのも怖い。負けるのが怖くてたまらねえ。だけどおまえは違う」
「そんなことないよ。わたしだって、死ぬのは怖い……」
「てめえの持ち物が生命だけだったら俺も文句なんか言わねえよ。
 だが生きてる以上は、それ以外に余分なもんを背負っていくもんなんだ」
「――――」
「てめえにはそれがない――そいつァずいぶん」

「卑怯じゃねえか」

「――言ってくれんじゃん? 卑怯? 結構。勝つためならなんだってしてやる」
「そうやってずっと闘っていくつもりってわけだ。たったひとりで……」
「嗚呼――」
「そんなのはな、シマ――おまえじゃなくったってできるよ。
 自分を捨てて、勝負に生きるなんて、諦めちまったら簡単なんだ。
 きっと俺にだって、雨宮にだって、誰にでもできる。
 俺は――おまえにそんなところで止まってほしくない。
 なァ。そうじゃねえか?
 ――おまえなら、生きることも、闘うことも、ごっちゃにできる。
 そっちの方がよっぽど強い――」
「君の言葉は」
 その笑い方は、今までに見たことのないものだった。
 気持ちと表情が反転している、不思議な顔だ。
「悲しくなるくらい薄っぺらいね――」
「シマ」
「結局さ、ちょっと幸せになったからって、君はわたしも勝負から引き摺り下ろして仲良しこよしがしたくなったんだ。
 ひとりよがりの、おせっかいな、おすそ分け――」
「シマ……」
「誰がそんなもの受け取るもんか。
 ああ、そう、君なんかに会いに来たのが間違いだったかもね。
 強い? 生きる? ごちゃごちゃうるさい。そんなこと、どうでもいい。
 そんなんじゃあ、わたしは――我慢がならない!」
 ああ、わかってるよ、シマ。
 我慢がならない? そうだろうよ。
 わかるぜ。なぜって。
 この俺も、そうだからな。
「じゃあ、どうしても、俺の意見は汲まねえって言うんだな」
「当然。いつだってそうしてきたんだから」
「残念だぜ――」
「何が――」
「ふん。バカ野郎が、自惚れやがって。ちっと麻雀が強いからって調子に乗るなよ。
 結局、てめえはやっぱり逃げてんだ。怖いんだろ? 幸せになって、弱くなるのが。勝とうと思えなくなるのが」
「それのどこが悪い――」
「悪いさ! 自分で認めてるじゃねえか? あァ?
 おまえは、変わっちまうのが怖いんだ!
 だから人を遠ざける。だからひとりきりでいようとする。
 もう一回言うぜ、それがおまえの望んだ強さかよ?
 びくびくしながら、自分の不幸に浸っててめえを特別扱いしてぴよぴよ慰めてるだけじゃねえか!
 まるで――」
 そう、まるで。
「昔の俺みたいだ――」
 ぴく、とシマの柳眉が震えた。燃えるような目つきになっている。
「はははッ、ざまァねえなァ嶋あやめ!
 それがおまえの限界か――口ほどにもねえ。
 そんなんじゃあ、てめえも、てめえに負けてきた連中もただの――」
 声よ届けよ、俺は叫んだ。
「生まれ損ない野郎だったってことだなァッ!」
 ひゅっと風を切る音がしたかと思うと、空を仰いでいた。
 雲の大樹に重なるように、ぷしゅっと鼻血の花が咲いた。
 口を左手で覆って、拳を振りぬいたまま、冷めた顔をしたシマを見上げた。
 がり。
 涙が滲む。
 やつが握り締めた拳から、血が滴っていた。
 薄い皮が向けて桃色の肉が覗いている。何も考えずにぶん殴った結果だった。
 やつの心に、俺の言葉が刻まれた証だった。
 ぎらつく太陽のような双眸が俺を焼き殺さんと熱波を放つ。
「わたし、君のこと勘違いしてたみたいだ――」
 ぼたっぼたっ、血をだらしなく口元から零しながら、俺は気持ちよく笑ってみせた。
「誰かが――誰かをわかることなんかできねえんだ。
 へっ、俺だけは特別だとでも思ったか。それとも誰の心でも暴いてみせると自惚れてたか。
 世の中そうそう、てめえの思惑通りに運んでたまるかよ」
 だからよ、と俺は言った。
「ケリをつけようぜ――シマ」
 ああ、そうだ。
 これでようやく――変えられる。
 俺の夢を。
 咲かせてやれる。

 パァン――。

 どこか爽快な音が空に呑み込まれていった。
 その弾丸が、空の彼方まで飛んでいけばいいと俺は思った。





 まっすぐ天空へと掲げられた銃口から紫煙が立ち昇っていた。
 一生を終えた魂が口から漏れているようだ。
 その銃口が、俺へと向けられる。
 真っ黒いその孔からは、どこか懐かしい香りがした。
 ふと気づくとシマが眼と鼻の先にいた。
 やつの吐く息が、どこにも散らずに俺の肺に流れ込むほどの近さに。
「六発中、五発――」
 ふっ、と俺は笑った。
「生きてたら奇跡だな」
「前は、どうだったっけ」
「俺は引鉄を引くのを拒んだよ――」
 あのとき。
 もし引いていたら、シマを受け入れていれば。
 もっと違った未来があったんだろうか。
 ぽす、と俺の薄い胸板にシマは額をくっつけた。
「無理しなくていいんだよ? 引きたくなかったら、そう言って」
「なぜ。――勝負ができればおまえは満足なんだろう。俺がやってやる」
「うん――でも君が死んだら、きっとくうちゃんが悲しむよ」
 誰かと思えば空奈のことらしい。断言できるが愛称を呼んでいるのは無許可だ。
「だろうな」
「死んだら悲しむ人がいるのに、無茶しちゃだめだよ」
 思わず笑ってしまった。ずいぶん渇いた笑いだったが。
「――おまえの口からそんなセリフが出てくるとはな」
「悪い?」
「いいや。――ただね、つまり、俺が言いたいのもそういうことなんだよ」
「え――?」
 シマが顔を上げた。
 至近距離でお互いの眼の中、そこに宿っているものを見詰め合う。
 俺は言った。
「死ねない――おまえもその苦しみを背負うべきだ。
 だから、簡単に死ねるうちは、勝負なんかするな。
 ただ死ぬのも辛いだろうが、世の中もっとキツイことがあるんだ。
 それから――逃げないでくれよ」
 そう。
 俺はシマに人間らしくしてほしいとか、幸せになってほしいとか、そういうことを望んでいるんじゃない。
 もっと苦しめ。
 そう言っているのだ。
 なぜって。
「おまえは怖さを感じない機械じゃない。
 ホントはめちゃくちゃ怖いくせに、それを受け入れて、味わって、楽しんで、それよりももっと烈しい感情で何もかもブッ飛ばしちまう。
 そんなシマが」
 俺は銃口に噛み付いた。血まみれの左手で撃鉄を上げる。
 ぬらぬらした銃身が、雲の切れ間から射しこむ陽光を鈍く反射していた。拳銃は、たったいま産まれたばかりのように血にまみれていた。
 シマはただ、じっと俺を見据えていた。
「そんなおまえが――」
 白い指先が、ぎりぎりと、ぎりぎりと、引鉄を絞っていく。
「俺ァ好きなんだ」
 撃鉄が、虚空を叩いた。





 ゆらり、とシマがうしろによろめいた。
 撃ち抜かれずに済んだ喉を俺はさすった。
「――いつから」
 とシマは問うてきた。
「いま思えば――ずっと不思議、いや、不自然だった。
 どうしてわかるっていうんだ、最初の弾丸が発射されたからって、残りも装弾されているって?
 だいぶ後になってからわかった。
 ――弾丸は、最初から一発しか入ってなかったんだ」
 ふっ、と薄くシマが微笑む。どこか寂しげに。
「知ってたんだ。じゃあ、引鉄が怖くないわけだね。してやられたかな」
 でも、と続ける。
 眼を閉じたまま、ポケットから弾丸を鷲づかみにして取り出す。
 反対方向から弾丸の位置が見えないようにカバーをつけられたシリンダーを開け、一発ずつ、込めていく。
「おい」
「君が引いたんだから」
 回転弾倉ががちり、と銃身にはまる。
「わたしも引かなくっちゃ」
「わかってる――止めやしない。言ってもどうせ聞かねえだろうしな。ただ、勝ち負けを決めておこうぜ」
 眠たげにシマは瞼を持ち上げた。
「勝ち負け?」
「おう。俺は――弾丸が出ない方に賭ける」
「へえ」
「おまえは弾丸が出る方へ賭けろ。――おや、おかしいぞ?
 賭けに勝てばおまえは死に、おまえが生きれば賭けに負ける。八方塞がりだな」
「まだ上と下があるよ」
「ははは、さすがだな。
 ――なァ聞かせてくれ。勝っても負けても救われない。
 おまえはいま――どんな気持ちで引鉄を引こうとしているんだ?」
 すでに銃口はシマのこめかみに口づけしていた。
 シマは言った。
「ずっと怖かったんだ。生きてるってなんなのか、よくわからなかった。
 勝負をしているときだけは、何もかも忘れられた。たったひとりのわたしでいられた。
 真剣に誰かと向き合う、あの、あの一瞬が好きだった。
 だから、わたしはわたしをやめられない。嶋あやめを見捨てたくない。
 前を向くのをやめてしまったら、勝負を諦めてしまったら、きっと嶋あやめは消えてしまうから。
 さらさら、さらさらと。
 死ぬことよりも、ただそれだけが怖かった――だから」

「自分のことさえ信じられなくなったなら。
 いっそ死んでしまえばいいんだ」

 こいつには、と俺は胸に込み上げてくる熱い何かを静かに受け入れながら、思う。
 こいつには、人の心が視えるのかもしれない。
 だから、諦めそうになったり、くじけそうになったりするたびに、自分の心が崩れていくのがわかるのだ。
 それはきっと。
 泣きたくなるくらい悔しくて寂しくて、悲しいことなんだ。
 心が死んでいくのが視えるなんてことは。
「おまえは強いなぁ、シマ」
 思わずこぼしてしまった呟きにシマは恥ずかしげにはにかんだ。
「天馬」
「うん?」
「ありがとう――」

 笑いながら自分に向かって引鉄を引くやつを見たのは、それが最初で最後だった。
 嶋あやめの勝負の系図に、また一点、新しい戦符が打たれた。






 風が吹いていた。
 気持ちのいい風だ。

 いつの間にか、俺たちの頭上に居座っていた鬱陶しい雨雲は立ち消えて、嘘みたいな青空が広がっていた。
 宙を見上げて、ふう、とシマは息をついた。
「負けちゃった……」
 子どもがびっくり仰天した後みたいな声音で、シマは眼を瞠っていた。
 思わず俺は笑ってしまった。
「残念だったな。俺の勝ちだ。ざまァみやがれ」
 むっとシマは上目遣いに睨んでくる。
「うるさい。――ん?」
 手の中にある銃身をシマはためつすがめつ眺めていたが、やがて撃鉄を親指で軽く上げ、そこに視線を流し込むと、いまだに血を流し続けている俺を見やった。
「天馬」
「なんだよ」
「――手ぇ見せて」
「手相占いならお断りだ」
「いいから」
 つかつかと肩を怒らせて歩み寄ってきたシマは、俺の左手首を乱暴に取った。
 ――その親指からは、白い骨が覗いていただろう。
 脂汗が、俺の鼻筋を伝った。
「へへっ、六発中五発だもんなァ――運否天賦ってわけにはいくまいよ。
 おまえのペテンに気づいた時から、実はさ、ずっと考えてたんだ。どうやったらこのロシアンルーレットに勝てるかなって。
 いろいろ考えたんだが、結局、これしか思いつけなかった。
 ――撃鉄の中に、肉のクッションを挟んでおいたところで、本当に不発になるのか検証しようがなかったんだが、どうやら俺の愚考もたまには明察するらしい」
 痛かったでしょう、とシマは、俺の掌に両手を添えて俯いていた。
「まァな。食いちぎったのはおまえにぶん殴られたときだ――いまさらだが悪かったな、言いすぎたよ。
 まァ勝負してりゃこういうこともある。勘弁してくれよ」
 無事な右手で、俺はシマの頭に手を置いた。妹にだってこんな真似はした覚えがない。
「俺ァおまえに出会えて変われたよ」
「わたしがいなくたって、いつか、君は雨宮をひとりでも倒していたよ」
「それでも、おまえに会えてよかったよ。
 まだまだこの世も捨てたもんじゃねえ。面白いもんがいっぱいあるんだ――そう思えたからな。
 だからもう俺は後悔したくない。少なくとも、やらずに終わるのはたくさんだぜ」

「一緒についていくよ、俺も」

「――くうちゃんのことはどうするわけ?」
「待っててもらう」
「バカ。そんな簡単なことじゃない」
「そうだなぁ。殴られるかもなぁ。いや刺されるまであるな……」
「あはっ、きっと拾う骨も残らないよ」
「違いねえ」
「――はっきり言ってさ」
「うん」
「君が何を言いたいのか、わたしに何を求めてるのか、まだいまいちわかってないけど――いつかわたしにもわかる時が来るのかな」
「おまえもそんなことで不安に思うことがあるんだな」
「え?」
「それってさ、なんか、新しい場所で友達ができるかどうか怯えてるのに、似てるよな」
 なにそれ、とシマは笑った。
 その瞳の淵で輝くものが、涙だったのか、それともただの陽光だったのか、もっとよく確かめればよかったと、今では思う。

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