喉につかえていた骨が取れる時に似たその感覚は、今までよりも強く確かなものだった。『記憶の再生』。そう表すのが一番合っているはずだ――
また何の変哲も無い春休みを終え、いつものように入学式当日を迎えてしまった。
このタイミングで自分の身に起こっている不可思議な現象を確信していたのは何回目なのだろうか。もしかしたら、初めてなのかもしれない。
事務的且つ機械的な口調の校長の口上もいつものように聞き流し、また何事も無く入学式が終わり、これからどれくらい世話になるのか分からない教室に移動する。
馴染みのある席に着き、周りを見渡してみると、よく見知った顔が二つ。
中学からの馬鹿な友人と疎遠になっている幼馴染み。
相変わらず他にも誰か居たような気がするが、今のところ付き合いの範囲を広げる気など無いので、一度や二度話した程度の人間は顔も名前も忘れる事にしている。
「よう、同じクラスだな!」
陽介がいつも通りの馴れ馴れしい笑顔でまた話かけてきた。
仲良くなったきっかけはやっぱり忘れもしない、五月初頭にある林間学校で同じ班になった時、こいつが何度も非常識な事をしていたからだ。
「――だよなー。……それにしても野中も同じじゃねーか。これで十年連続だっけか?」
陽介の言葉で、『過去』を少し思い浮かべる。
野中杏子という、同じ高校に進学したとも知らない程、ちょっとした事をきっかけに口も利かなくなった幼馴染み。けれど――
「相変わらず幼馴染みキャラのフラグ、バッキバキ?」
半笑いで聞く陽介に返す言葉は確信でもある。
「まだ折れてないと思うぞ。んでもって、お前にも近いうちに何かしらのフラグが起つから気を付けろよ」
「俺にフラグ? ……お前と、か?」
「……冗談でもやめてくれ」
この陽介への返事には覚えがあるな。俺もこいつも変わらないという事か。
いつも通りくだらない話をしていると、見慣れた若い女教師が来て何やら喋り始めた。
チャイムが鳴り、初日であるはずの今日が終わる。
「おーい、帰りメイトかあな行かね? ちと遠いがメロンでもいいけど。何冊か新刊買うの忘れててな」
何冊かの新刊を買うついでに中々新刊の発売されない漫画のチェックもするであろう陽介の言葉を聞いて小腹と相談した結果、やっぱり今日も何か喰うべきだな、と思い荷物を纏めて立ち上がろうとすると、静かにドアが開き一人の女の子が入ってきた。
――また気付いてしまった。
肩ぐらいに揃えられた品のあるこげ茶色の髪に、白い肌の小さな顔。
目は元から大きいのだろうが、睫毛がより大きく見せている。
筋の通った鼻に、化粧も何もしてないというのに綺麗な濃いピンク色の小さめの唇。
身長も相変わらず伸びていないようで、彼女の事を知らなければ、今年中学生になりました、といわれても信じるだろう。
「エロゲなら結構俺のストライクだな、中身は知らんが」
俺だって何度見てストライクだよ。見た目だけじゃなく――
彼女は辺りを見回し、こちらに近づいてくる。
真っ直ぐと、こっちに。
――やっぱり。
立ち上がったままの俺の前に彼女は立ち、肩で息をしながらこちらを見つめて小さな唇を動かす。
「……やっと、見つけた」
――何度目なのだろう。
「前に、お会いしましたよね? ずっと昔に……」
――こうして彼女が現れるのは。
「あの時のおまじない……ずっと覚えてます!」
――どうするべきなんだろうか。
「やっと見つけた、運命の人っ!」
彼女が動き始める前に、俺は足を動かしていた。
そこにあったはずの支えとなるべきものを失った女の子はバランスを失い、教室の床にぺたりと座り込む。
「……え?」
『八代さん』は吃驚した表情を顔に張り付けたまま呆けている。
俺は多くの未来を知っている。なのに、未来を過去のように思うは、俺がその記憶を思い出として感じているからだろう。
部長と並んだコミケも、杏子と行き損なった盆祭りも、まだ出会っても居ない折笠の温もりも、全て俺から見れば過去なのだ。……男二人で虚しく盆祭りに行き、射的に明け暮れた事も何度もあったな。
でも、『運命の人』の事や学園祭での事、自分の想いを伝えた事は思い出せるのに、八代さんと『最後』を一緒に過ごしたという思い出は浮かんでこない。
おそらく、そういう事がなかった――八代さんとの『最後』を過ごしていないからなのだろう。
全てを思い出している今、八代さんへの想いも思い出しているのだから、彼女と『最後』を迎えたいという想いがあり、少なくとも、他の誰かと、なんて事は考えていない。
しかし、その想いが叶う事は無い。
『八代遙歌』というキャラクターをヒロインにした物語での俺の役割りはヒーローではないのだから、一線を越える事は出来ない。それは今回も変わらないはずだ。
けれど、、彼女の物語りでヒーローになる為にすべき事は見当がついている。
おそらく、しばらくすればまた時間は戻るはず。
次はどんなタイミングで『過去』を思い出せるのだろうか。
出来れば……八代さんと出会う前が前がいい。
そして、今度は――
「悪い、やっぱ帰るわ」
陽介に伝え、俺は鞄を持って教室を出た。