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第十三話「ナイフ」

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 雪咲は暫く僕を眺めてから頬を軽く両の手で挟んだ。
「何か悩んでるでしょ」
「……分かるんだ?」
 僕がそう言うと彼女は一度だけ小さく頷いた。ただでさえ身体の小さな彼女が僕の頬に触れようとすると、若干つまさきに重心をおかざるを得ないようで、僕は眼だけを下方に動かしその若干必死さを感じさせる体勢に思わず笑みをこぼした。
「何?」
「うん、大分悩んでる……かな」
 その言葉を聞けて彼女は満足したのか、僕の頬から手を離して足をしっかりと地に付けた。どうやらそれなりに先程の体勢を恥を思っているらしく、手を離してから彼女は口をとがらせ、そっぽを向いていた。
 その姿に、僕は少しだけ、ほんの少しだけだが、気を落ちつかせることができた気がした。
「少しだけ、どこかで話をしないかい?」
「相談事でもあるのかしら?」
 そんなところだ。僕は頷くと、とりあえずどこか近場に落ちつける場所はないだろうか、と周囲を探す。流石に先程ユキヒトといた喫茶店にもう一度入るのは気が引けるから、できればもっと普通の、明るい場所で。
 けれども、そんな思考を彼女はいとも容易く砕いて捨てさせた。
「三島奈々子、綾瀬岬、木崎美紀、多田紫乃」
 四人の人物の名が雪咲の口から出た時、鼓動が少しだけ早くなった。彼女もそんな僕の反応を察知したらしく、とても残念そうな眼差しでこちらを見ると、赤縁の眼鏡の位置を指で直した。
「なんとなく、貴方が絡んでる気がしてたのよ」
「君は、なんで……?」
「言ったじゃない。失踪者について調べてるって。その“ついで”に最近の事件も見てたのよ」
 とりあえずゆっくり話しましょう。
 雪咲はそう言うと僕の手を引っ張って先導していく。多分その出来事によって、彼女の「特別」は確実にこの“事件”に関してへと移ったのだろう。恐らく失踪者について調べ尽くすことよりもやり甲斐があったのだ。
 さて、どこまで話せばいいものか。

   ―アンダンテ&スタッカート―
   ―第十三話―

「そう、それで今は八方ふさがりなわけなのね」
 結局彼女の問いかけに答え続けていた結果、ほぼ全ての情報を話してしまった。あらかたを知ることができたからなのか、雪咲は少しだけ満足そうな表情を浮かべてから、腕を組んで唸る。
 先程よりも明るめで、それほど陰鬱感の無い喫茶店を見回した後、自分がそれほど周囲に注目される程の人物でもないということに気付き、そして今ここでの会話だって誰も興味は示していないだろうという答えに行きつき、安堵する。もしも僕の傍に犯人がいるのだとしたならば、口止め、いやこれ以上の単独捜索によって全てを明かされてしまう危険性があるかもしれないからすぐに殺すだろう。少なくとも僕が犯人ならば、そうするだろう。それに順番を変えてきたところをみると、それほど順序というものにこだわりは犯人にはないと踏んでいる。
 僕がここでこうやってのうのうと紅茶を啜っていること自体奇跡なのだ。
「それで、これからはどうするの?」
 チーズケーキを一口食べてから、雪咲は僕を見た。
「そうだね、とりあえずはこの西田遥とサチという人物を探しに行こうと思ってる」
「何の情報もないのに?」また一口、チーズケーキを口にする。
「サチに関しては、もう可能性のある箇所を知っているんだ。西田遥に関してはどうしようもないけれどね」
 多分、この話をすることで何かまた“彼女”の歯車がくるってしまうかもしれない。けれども、真相を突き止めるには最早何かを待っていることはできないのだ。だから僕は彼女、亜希子の母親に話を聞きに行こうと思っていた。
 サチとは誰なのか、そして、その人物は果たしてこの出来事に加わっているのか。
「それじゃあ、私が西田遥に関して色々と探してあげようか?」
 残りかすのついた銀紙をフォークで弄びながら雪咲は呟いた。僕は驚き、そして首を振る。
「危険だよ」
「もっと危険な人が目の前にいるじゃない」
「関係していない君を巻き込むのはあまり――」
 そこで、言葉が遮られた。口元に抑えつけられた小さな手は、するりと柔らかくてなめらかだった。
「貴方から全てを聞いた時点でもう関係者よ。それに、言ったでしょう? 私は失踪者の事件を調べているって。それならこの事件は最も最適なのよ。もしも私の調べた事によって犯人が割り出せたら、私の考察は間違っていないと自信を持てる」
 そこでやっと、僕は彼女の手を剥がした。
「君の自己満足でしかない」
「自己満足で結構だわ。自己解決しようとして死地に足つっこんでいってる人が目の前にいるんですもの」
 その言葉に僕は思わず息をのんだ。
「あなた、誰かを頼ったことないでしょう?」
「……どうして?」
「自分で自分でって意識がやけに強いんだもの。すぐに察しがつくわよ」
 赤縁の眼鏡を指で直す。直した眼鏡のレンズ越しに雪咲は僕をじいと睨んだ。
「大丈夫って言って、結局何も進めず、人も死んでるじゃない」
「それは」
 何も言い返せなかった。僕一人でもがくことでなにかをしなければならないという気持ちになっていたのは確かだ。周囲に対して迷惑をかけてはいけないし、これは僕自身の解決すべき事象を思っていたのだ。
 僕は雪咲の眼を見るのが少し怖くて、それとなく視線を逸らす。
「明良君」
 けれどもそれを、彼女は許さなかった。
「こっちを見て」
 雪咲は自らの手を僕の頬にやると強引に視線を自分へと持っていかせ、そしてその真っ直ぐでいて澄んでいる瞳で再び僕を見つめる。レンズ越しだというのに、瞳は何一つとして嘘を孕んではいなかったし、その中に映る僕自身はとても酷い顔をしていた。
「会って間もない私なんかを信頼しなくていいわ。これは互いに利害が一致した結果だと考えればいいわ。明良君は失踪者を探したい。貴方の初恋の人の言伝を完遂させたい。私は失踪事件について知りたい。そして同時にこの事件を通して失踪者の心理、犯人の考えとかそういったものを知ることができる」
 どう、完璧でしょうとでも言いたげな視線で彼女はこちらを見ていた。僕は溜息をついてから一度だけ頷いた。いや、頷くことしかできなかった。
 僕はどうもやっかいな女性と遭遇しやすいようである。
「決まりね」
 雪咲は勝ち誇った顔で僕を見てから、勝利に対するご褒美なのか、チーズケーキをおかわりし、嬉しそうに食べていた。


 会計を済ませて外に出てみれば、陽は完全に落ちていて、濃い灰色が景色を支配していた。屋根、看板、道路等、その全てにフィルターがかかったかのように薄暗い色が混ざっていて、更に人気がなくなったからか、ぽっかりとなにかが空いてしまったかのような虚無感がどっかりと座りこんでこちらを見ていた。
「それじゃあ、私は彼女について、事件が起こった当時の資料から色々と探してみるわ」
 雪咲は張りきった様子でそう言うと一歩、二歩、三歩と随分と距離を稼ぐようにステップをして、くるりと回ってから笑った。その仕草にどこか幼さを感じて、先程までの強気で豪快な少女はどこへ行ったのだろうかと思わず笑みをこぼしてしまう。
「貴方も、サチって人物について分かったらすぐに教えなさいね」
「うん、分かったよ。必ず教える」
 そう言うと彼女は今日一番の笑みを浮かべて、それから僕へ手を振ると早々に夜道に消えてしまった。よく笑う女性だと思いながらも、その笑みにどこか救われた感覚を抱いている僕に気付く。
 やはり僕は、抱え込み過ぎていたらしい。深く考えることはなかった。この出来事で何か彼女に被害が起こるかもしれないのなら、その時は守ればいいのだ。そしてきっと僕になにかあった時は助けられればいい。
単純なことだ。
 修二の言っていた非力と、僕の言っていた非力はきっと違うのだと、今更になって気付いた。彼は自分にそれだけのキャパシティがないから、僕以外に知り合いを作らないのだ。自らのことで一杯であるからこそ、自分の守れる範囲だけを守る。だから彼はあれだけの力を手にしているのだ。
 それに対して僕は、自らのキャパシティを越えるレベルの範囲を保とうとして、なのに誰にも頼ろうという気をもたないから空回りしてしまうのだ。本来どこかで許容量をそれこそハードのように共有しないとどうにもできないのに、僕は僕の中だけで済ませようとする。
「全く、我ながら出来の悪い頭だ」
 暗がりの中で僕は自身を叱咤するように、小さく呟くと壁によりかかり、空を見上げた。
 今日はやけに雲が多い日だ。一面中にまるでガスでも捲いたように敷き詰められている。そのせいで星が全く見えないし、月の明るさも感じられない。

 だから、これから起きる出来事は“仕方なかった”のだ。僕がすぐにそれを察知して避けられるわけもなかったのだ。

 気付いた時には、左の二の腕の辺りの衣類がすっぱりと一文字に裂けていたし、衣類の先の肉はぱっくりと口を開け、どろりと吐き出すように血液を漏らしていた。腕を伝って生ぬるい感覚が降下し、じっとりと左腕と衣類を染めていく。
 刺すような激痛に僕は無傷な方の手で傷口を抑え、そしてその場から距離を置いた。初めて感じた“斬られる”という感覚に僕は若干の混乱を覚えながら、必死に一つ一つの不可解な状況を飲みこんでいく。

 黒いフードを顔まで被り、ウィンドブレーカーを着たそれは、じっと僕を見ていた。顔は見えないが、それでもきっとあれは僕を見つめている。闇に染まっているからか、よく目の前の人物に対しての詳細が分からない。やけに着こんでいるのか、元々の体格なのかは分からないが、シルエットは大分がっちりとしている。
 そして、両手には一本づつナイフを握りしめている。
 この状況から割り出せる結論は一つしかない。

――順番が、僕にまで繰り上げられた。

 そう考えるのが最も妥当だろう。色々と嗅ぎまわっている人物を消すのは重要なことであるし、更に連続的な苛めの少女から一転、関係のない男性が行方不明となれば、事件の関連性に対して若干の猶予ができるかもしれない。
 ここで僕を殺すことで、あいつには利があるのだ。
「……殺しに来たのが、白髪の死神だったらまだ話は通じたかもしれないのにな」
 そんな冗談を口にしつつ、じりじりと寄ってくる目の前に殺人鬼をどうするべきかと必死に思考を巡らせる。街灯を通るたびに両の手に握られたナイフは鈍い色を放ち、はっきりとした殺意を持って僕を照らしていた。
 逃げ切れる程僕に体力はあるだろうか。ともかくどうにか腕の治療もしないといけない。この出血は中々に辛いものがある。
 必死に思考を巡らせている時に、ふと一つ思った事があった。
 なんだ、僕はまだ死にたくないんじゃないか、と。
「――」
 あいつはナイフを振りかぶり、僕に向けて走り始める。今度こそ頸動脈でもなんでもを切り裂いて僕を殺すつもりなのだろう。
 けれども、死にたくないということを自覚して、ある程度意識がすっきりしたからか、僕は意外とするりと動くことができた。振りかぶる奴の隙間にもぐりこみ、そのまますれ違うようにして僕は駈け出した。このままあいつの思い通りの方向に逃げるのは非常に危険だと思っていたし、多少の怪我は考えないと僕はこの死からは逃げ出すことはできない。
 必死に走りながら、一歩足を地につける毎に電気のように走る痛みに顔を歪める。衝撃だけでこうも痛みを感じるものなのか。これはできればこの先経験したくないものだ。
 背後は振り向かない。もしも追いつかれていた場合に精神的にかかる負担はきっと僕の走るという気持ちをへし折る程度の威力を発揮する。もう駄目だという気持ちを持たされたら、そこで負けだ。
 足音はまだ近くはない。意外とあいつは足が遅いのかもしれない。がっちりした体形からしてある程度の運動はできるかもしれないと思っていたが、なるほど上体だけしか自信はなかったようだ。
 僕はそのまま速度を上げると、灯りの強く広い場所へとただひたすらに走り続ける。ここの地理はある程度覚えているし、大通りにでも出れば追ってはこれないと踏んでいた。
 そのまま変に誰かに勘付かれてもいけないし、それから行きつけのあの妙に古びた喫茶店に駆けこめばいいや、と。はた迷惑な考えをしつつ、それをすべきだと確信していた。

   ―――――

「大丈夫、ですか?」
 結論として、僕は生き延びた。人通りの激しい道に出てから、すぐさまに僕はいつも利用している古びた喫茶店に駆け込んだのだ。
 流石に腕の傷を見ると無表情であったウェイトレスの少女の顔色も変わり、今は応急処置をしながらひたすらに僕に声をかけてくれていた。中々見れない光景を見れただけ幸運と考えるべきか、とくだらないことを考えてみるが、応急処置の時の痛みでその苦笑は苦い表情へと変わった。
「全く、いつも利用してくれるからいいものの、ここを変なことに巻き込まないでくれないかな」
 店主は不機嫌そうにそう言ってから、僕に温かいココアを差しだす。すみません、と一言謝罪を入れてから僕は右手でそれを掴むとくい、と口にする。
 じんわりと、甘さと温かさが身体に沁み渡る。そこでやっと僕は、自らの身体がやけに冷え切っていたということに気が付いた。平常心を保っているようで、僕は相当怯えていたらしい。いや、そんなこと当たり前か。ただの一般人に死への耐性があるわけはないのだから。
「それで、君はすぐに出て行ってくれるのかい?」
「すみません、もう追ってはこないと思うので……」
 店主はならいいんだが、とどこか心配そうな目をこちらに向けて、それから入口を見る。
「何があったんだい?」
「ああ、女性関係ですよ。ちょっと泥沼化した……といえばいいのかな」
「気を付けてくださいね。そう言う時って女性って怖いですから」
 ウェイトレスは僕にそう言うとこれは縫う必要があると病院まで連れて行くと言い出す。断りつつも、店主は車を出そうと呟き、裏へと引っこんでいってしまった。
「本当にご迷惑を」
「気にしないでください。そんな客のくる店ではないですし」
 自嘲気味に笑う彼女の顔をみて、更に申し訳ないことをしたと感じる。
「それにしても、どうしてこんなことに?」
「なんというか、僕はかなり舐めていたみたいなんですよね」
 ウェイトレスは首を傾げていた。
 そう、僕は舐めていたのだ。どこかで僕は殺されないかもしれないという余裕感があったのだ。だから一人で行動しようとしていたし、誰かを巻き込んではいけないという意識を持てていた。
 最早猶予はない。自らも死の危険にあると分かった今、なりふり構っている余裕はない。
 最も近いであろう手がかり、サチに関して僕は聞かなくてはならない。

 宮下亜希子の母を訪ねなくてはならない、と……。


   つづく
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