非常に簡単な作りのそのボタンをじっと見つめる。特に何か仕掛けがあるというわけでもないし、妙なギミックが取り付けられているという心配もない。
ただ、押す事がとても怖いのだ。
このボタンを押すことで、何かが繋がってしまうかもしれない。それが僕にとってとてもいいものであるとは限らないし、場合によっては相手にさえ被害を与えてしまう可能性すらあるのだ。
僕はこれから、一人の記憶を無理くり掘り出そうとしている。誰にだってある思い出したくない、できればそのままにしておきたい出来事を目の前に提示しようとしている。
着々と鼓動が強くなる中、僕は右腕に手を添えて、静かに目を閉じる。じりじりとした痛みが二の腕に走っているのを感じ、今も巻かれた包帯には若干の赤い滲みができているのだろうと想像を巡らせる。
最早「誰かに迷惑が」という言葉を吐きしている程、余裕はないのだ。そうしなければ僕が死ぬ。死にたくないと襲われた時に感じたのなら、僕はそれに従うべきなのだ。
縋れるものには縋ろう。例えその紐が落ちることになろうとも。
呼吸を一度してから、僕はそのボタンを押した。
けたたましいチャイムが鳴り響いた。
―アンダンテ&スタッカート―
―第十四話―
僕と彼女、宮下さんの前に紅茶が置かれる。宮下さんは紅茶に砂糖を一杯、二杯、三杯……とまるで同じシーンを何度も繰り返すかのようにひたすらに入れて行く。僕は暫くその光景を反応せず、言葉にもせずに見つめていた。
どこかで、この光景を一つの言葉に当てはめてしまうことを畏れている自分がいたのだ。
八度か九度めで、その光景は終了し、僕に砂糖の入った小瓶が差し出される。
「砂糖は要るかしら?」
「いいえ」
彼女の行動を特に気にしない体で笑顔を作ってから僕は小瓶を断る。というよりも、砂糖を入れる気にはなれなかった。なんとなく、少しだけ苦いという味覚を感じておきたい自分がいた。
「それで、お話って何かしら?」
紅茶をぐるりとかきまぜながら宮下さんは尋ねる。例えそれだけかき回したとしても、飽和した砂糖が全て消えることはけしてないだろう。
「とても聞くことを躊躇うようなお話なんです」
「それでも、知りたいのでしょう?」
彼女はそういって微笑み、僕は口を閉じたまま一度だけ首を縦に振った。
「確か、宮下さんは離婚をしていますよね」
彼女の顔色が変わったのが、確かに分かった。
「そうね、その通りよ」
「それはいつの頃ですか?」
ティーカップが置かれる。宮下さんはそれから砂糖の小瓶を手元に引き寄せるともう一杯砂糖を紅茶の中に放り込んだ。
「多分、亜希子は父親の顔を覚えていないと思うわ。それくらいの時期よ」
それを聞いた瞬間、僕は思わず唇を噛んだ。
この返答は、あの日記に対する僕の予測が、ある程度当たっているかもしれないと考えることができる、いわば一つの希望だ。
「もう一つ、いいですか?」
少しだけ不機嫌になっている宮下さんに、僕はもう一つの問いかけを行う。多分、それだけ早い時期ということは相当思い出したくはない出来事なのだろう。
けれども、聞かなくてはならない。ごくりと生唾を飲み込んでから、ゆっくりと口を開く。
「もしかして、宮下亜希子さんに、兄か姉はいませんでしたか?」
それは、引き金となって彼女の“糸”をぶつんと撃った。
「何故それを貴方に話さなくてはならないの?」
「それは」
日記を見せれば探している理由を教えることはできるだろう。だが、それによって明かされる真実を彼女が知れば、それこそ恐ろしい事態になることは目に見えていた。二人目の殺人犯がここに生まれてしまう可能性だってあるのだ。
宮下さんは紅茶をぐいと飲み干した。どろり、と砂糖の塊が彼女の口の中に消えて行く。その光景に若干の嫌悪感を抱いて、僕は視線を彼女から逸らした。
「思い出したくもないことって、あるのよ」
強い口調で彼女はそう言うと、ティーカップをがちりと乱暴に置く。机の揺れによって僕の方の全く手をつけていないティーカップから紅茶が撥ねた。
「何故貴方は今更三年前の出来事を掘り出そうとしているの?」
「そうしなければならない理由が、あるからです」
その曖昧な返答は、僕にとってはとても不利なものとなった。
ティーカップが割れる。耳をつんざく陶器の深いな音が響き、そして次に小さな机が蹴り飛ばされ、最後に僕の首に強い圧迫感が生まれた。
首を絞められたという事実に辿りつくまでの出来事が、全てスローモーションであったし、反応も全くもってできなかった。いや、しなかったのかもしれない。
首の骨がみしりと軋む。彼女の細い腕からこれだけの力が入るとは予想すらしていなかった。こんな状況を若干考えていたが、どうにか振り払えるものだとばかり思っていた。だがそれが見事に僕の判断ミスであったことが今身を持って実証されてしまった。
呼吸ができない、視界が霞む。
「貴方があの時止めれば……」
宮下さんは僕の首に更に力を込め、語気を強めて吐き捨てるように言う。
「あの子は今だってここに帰ってきてくれた。部屋に戻ってきてくれた」
ああそうだ、結局のところ僕にだって原因はあるのだ。あの時みとれていなければ彼女は助かっただろうし、もしかしたら彼女を本当に救うことができたのかもしれない。
だが、それは三年経ったことで落ちついたからこそ言えることであって、その当時の僕がそんな考えに至る事は、例え時間が巻き戻ったとしてもあり得ない事なのだとも思っていた。
「返してよ、亜希子」
彼女の眼から、涙が流れだして僕の頬に落ちた。ぼんやりとした意識の中で、その涙の熱さだけははっきりと感じられた。
結局のところ、僕も彼女も同じなのだ。亜希子という存在を引きずり続け抱きしめ続け、前に進もうとしない。
それは一個人の選択なのだから、他人にとやかく言われることは無いのかもしれない。けれども、その結末が死であるというのなら、僕はもうここに居座り続けたくはないと思った。
僕はもう認めるべきだ。あの時、あの窓辺の彼女を見た時の事を。
手を差し伸べられることを待っていた彼女に見とれてしまった時、そういった感情が生まれてしまった時、そしてそれを感づいてしまった彼女が窓から飛んだ時。
僕はとっくにフラれてしまっていたのだと。
そこで、僕の意識は途切れてしまった。
―――――
【君はやっと自分の中で納得したんだね】
ハンサムな顔をした白髪の死神はそう言うと、少しだけ嬉しそうにその場でくるりを回る。
「引きずられ続けることに嫌気がさしたんだ」
【けれど、それも選択さ】
「君が言った事、ある程度なら分かるかもしれない」
死神はほう、と呟いてから僕を見て笑みを浮かべた。
「死に追いつかれるかもしれないという理由でいたけれども、違う。僕は多分どうにかしてこの選択を選びたかったんだよ。亜希子という存在を過去にする為、僕自身の考えで生きる為にね。でもできなくて、いやその考えに至る自分が怖くて、それで君を作ったんだ」
死神は黙っている。
「ちゃんと、全てに区切りをつけたいよ。だから、僕は真相を突き止めたい。生きて、亜希子をちゃんと諦めたいんだ」
全てを言い終わって、死神は笑みを浮かべてから僕に歩み寄ると頭に手を置いて、一度、二度と撫でた。
【そう思ったんならそれでいいじゃないか。僕は君だ。君の意見に反論するつもりはない】
「意見は聞けるかもしれない、と言っていたじゃないか」
【意見はするさ。だから言ったろう?「そう思ったらそれでいいじゃないか」ってね】
なるほど、なんとなく適当さを感じる発言に僕は苦笑しながらも、それを納得することにした。死神も一度頷いて笑みを浮かべた。
【じゃあ行っておいで】
「うん」
多分、生きてきた中でとても素直な返事ができた。僕自身に対して、という意味で。
―――――
目が覚めた時、僕は宮下家の床に転がっていた。どうやら彼女の手は頸動脈に入っていたようで、気絶をしたらしい。いや、気絶したことを死んだと彼女が勘違いしてくれたのかもしれない。そうでなければ今こうやって起き上がることはできなかっただろう。
宮下さんはどこに行っただろうか。
がつん、と頭に響く頭痛に顔を顰めつつ周囲を見回す。リビングにはいない。割れたティーカップもそのままだし、机も直されてはいない。
ぎしり、と上から音がした。
亜希子の部屋にいるのだろうとふらりとおぼつかない状態で壁伝いに歩き、手摺に寄りかかるカタチで一段一段を登って行く。
二階に辿りついた辺りで大分意識もしっかりしてきたし、感覚も戻ってきていた。もし彼女が再度襲ってきた時に逃げられそうにない状態であることが少しだけ心配であるが。
一度だけ深呼吸をした。この扉の先に、宮下さんはいる。
「宮下さん」
ドアノブに手をかけ、ゆっくりと回して扉を開けた。
それは、僕が最も口にするのを畏れていた言葉の“なれの果て”であった。
「あら、明良くんいらっしゃい。ほら、亜希子も挨拶なさい」
そう言うと宮下さんは手に持ったくまの人形にお辞儀をさせ、そうしてからよくできましたとその人形をぎゅっと抱きしめた。
「今日は何の御用かしら?」
「いえ、特にはありません。久々に会いたいなと思って」
これ以上彼女の世界を壊してしまったら、きっと宮下さんは生きて行くことはできない。そして、これが一つの選択の果てだとしたならば、僕だってこうなる可能性はあったのだ。所詮「たられば」でしかないことではあるが。
「三年ぶりですものね。同窓会とかはないの? この子すっごく大人しいでしょう。だから行きたくないって言うのよ」
「ええ、もしもの時は宮下さんから言ってあげてください。もし日程が決まったりしたら、連絡しますから」
僕は彼女の世界に合わせて言葉を吐きだす。真実味のない言葉も、彼女の中では真実となっていた。一つも嘘と疑わない純粋な瞳が、僕にはとても心苦しく、罪悪感を生まれさせた。
僕はとても大変なことをしてしまったのかもしれない。
適当に言葉を合わせてから、宮下家を出た。随分と長くいたのだなと周囲の陽の落ち具合を見て感じながら、僕は小さく呟く。
「全てを明かすことが、必ずしもハッピーエンドであるなんてことはないんだよな」
何かの為になんて言っているけれども、結局僕の選択で何かを失う人はいるのだ。抱いているこの言葉はきっと偽善であり、割の良い受け取り方をしているだけだ。
だから、僕は僕のエゴでこうして生きていると認めようと思った。そうでもしないと僕は全てを背負わざるを得なくなってしまう。修二と同じように、背負えるだけのものを背負わなければやっていくことなんてできない。
「さて、一つ分かっただけでも収穫だよな」
頭を振って思考を切り替える。
サチという人物は、宮下佳恵と、離婚していた男性の間に生まれた亜希子の兄弟だ。それが女性であるのか男性であるのかを確認するには、果たして……。彼女の反応からしてその男性との間の思い出が残っているとは思えない。一体どんなことがあったのかまでは知るつもりはない。それは彼女の物語であって、僕の物語ではないのだから。
ひとまずはこのことを雪咲に報告してみることとしよう。
「……」
一度だけ、振り返って宮下家を見る。
数分程じっと見つめてから、再び前を見て歩きだす。
申し訳ないが、僕には彼女を背負える程の力はない。
つづく