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蝶々/ミツミサトリ

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 とある噂を耳にした途端、私はいてもたってもいられなくなった。
 しがないオカルト系のゴシップ誌を編集担当している私は、何度も耳にしたことがあるような都市伝説をいかに面白くするかばかりを要求してくる上司にいい 加減、愛想も尽き果てた頃の話だ。
 自分の仕事に疑問を持ち始めた矢先にこの情報。少なくとも私の好奇心を刺激するには十分な、それでいてどこかに狂気染みた内容であった。
 情報ソースは某巨大掲示板の中でも、よく世話になるオカルト板であった。嘘とも本当とも取れる類の怪しい情報が跋扈する世界の中、一際異彩を放つスレッドが一件私の目に留まったのだ。
『ちょうちょ』
 スレッドのタイトルは上記の通り。稚拙さが垣間見えるひらがなで記されたタイトルに、同じように全てひらがなだけを用いて構成される文章。精神を病み、自らを幻想世界に閉じ込めてしまった人の作り話にも思える。
 内容を要約するとこうなる。
「○○町の外れに、古めかしい洋館がある。『揚羽』という表札のほかには柵も門もなく、住宅街の中ではそこだけが切り離されたかのように幻想的な風景が広がっている。住んでいるのは若い女性がただ一人。他に住んでいるのは色鮮やかな赤い蝶だけだ」
 ここまでは各地にある普通の洋館怪談であるが、スレッドが進むにつれて、オカルト染みた内容が増えてくる。まばらなレスポンスなどには一切対応せず延々とひらがなだけで洋館の詳細や蝶の生態について書き綴られている。いわく、
「洋館は一世紀以上前からある。しかし、住んでいるのは常に若い女性が一人であり、他に住んでいる人はいない。蝶を脅かす天敵はおらず、女性は蝶のために存在している。蝶が赤いのは女性の血を吸って生きている」
などなどだ。
 どう見ても作り話に思えるその内容に対する反応は冷たいものだった。私も普段なら似たような対応、もしくは無反応で傍観者を決め込んでいたに違いない。そうさせるに十分なほど現実離れしており、他のゴシップと大差ないように感ぜられたからだ。
 にも関わらず私が興味を持ったのは、私がその話を何処かで耳にしたことがあったからだろう。○○町、私が幼少期に両親と過ごした地名に間違いなかった。
 スレッドは投稿者によってこのように締めくくられていた。
「おやしきにいるちょうちょはすべてむかしはひとだったのです。わたしはちょうちょとくらし、いずれはちょうちょになるのです」
 「お前も蝶になりたくなかったらあの屋敷には近づくんじゃないよ」それが母やあの地域に住む人々の口癖のようなものだった。幼心にその脅し文句は酷く恐ろしかったと記憶している。地域限定の七不思議。それをこのような場所で発見したことで、私はこの不思議に惹かれていった。
 気が付いた時には既にリターンキーを押していた。それも意図したわけでもなく、全てひらがなで。
「あなたにあって、はなしがしたい」
 待ちきれずにF5キーを連打した。最後の投稿時間から丸一日以上経過していて望み薄にもかかわらずだ。しかし、予想に反して返事はすぐに来た。
「わたしも、あなたとあいたい」
 その一文とともにひらがなで書かれた簡略化された住所。私はすぐにその住所をメモし、キーボードを叩く。返信しようとリターンキーを押した直後に表示されたのは、もう既にそのスレッドが存在しないという旨を知らせる掲示板からのシステムメッセージだった。私が返事するまでのものの数秒の間に「ちょうちょ」のスレッドは姿を消 していた。
*

 あの奇妙な体験の翌朝、私は会社に取材と銘打って休暇を申請した。本来やるべき仕事を放り出したことに上司は文句を言ったが、すぐに電話を切った。食事 を取らず、軽く化粧だけを済ませ、自分の車に乗りこむ。久しく通っていなかった故郷への道を覚えているかわずかな不安はあったが、蝶に導かれるかのように信号の一つにも足止めを食うこともなく、目的地にたどり着くことができた。
 付近の電柱で、メモした住所がすぐ近くにあることを確認し、昔よく通った道を思い出しながら、歩く。途中人にすれ違うこともなく、以前はもう少し活気のある町だったような気がして、都市開発から乗り遅れたこの町を悲観し、もの寂しくなった。
 五分程歩いたところで目的地の洋館を発見する。昔見た光景とも掲示板の描写をも一致するその場所で出迎えてくれたのは文字通り血のように赤い蝶たちだった。
「あなたがめぐみさん?」
 突然名前を呼ばれ、振り返るとそこには栗色の髪をした妙齢の女性が立っていた。一瞬、蝶が言葉を発したかと錯覚するほどに優雅でおっとりした話し方だ。栗色の女性は最近見なくなった買い物カゴを手にぺこりとお辞儀する。
「驚かせてごめんなさい。私がここに住む揚羽です」
 洋館の主と対面するのは初めてだったが、なるほどと納得できるような不思議な雰囲気の女性だった。私は慌てて頭を下げ、慣れた動作で名刺を取り出す。
「どうも初めまして。○○出版の記者をやっております、赤井めぐみと申します」
 突然話しかけたのも気にかけず、揚羽さんは優しく微笑し、言った。
「こちらこそ初めまして。きっと来て下さると思ってお買い物に行っていたところです。どうぞあがって下さいな」
 初対面とは思えないほどに親しみやすい人だと思い、自然と笑みがこぼれる。オカルト関連の記者などやっていると取材などは特に良い顔をされないものだからなおさらだった。
 私はお言葉に甘え、夫人に連れられて屋敷に足を踏み入れる。真紅の蝶の出迎えやどこやどこか浮世離れした景色に感嘆しながらも、勧められるまま日当たりの良い居間に通された。
 洋館の中はと言うと見た目こそ古めかしいが、よく手入れがいきとどいており、汚れた印象などはまるで持たなかった。むしろ現世とはかけ離れた物語の世界に紛れ込んだかのような不思議な感覚だ。
「どうぞ、召し上がれ」
 揚羽さんはよく温めたティーカップにハーブティーを注ぎ、市販でごめんなさいと言いながら焼き菓子まで出してくれた。こんなに歓迎されることなど稀なので戸惑いながらも、礼を言いハーブティーに口をつける。揚羽さんの人柄もあってかとても優しい味がした。
「こんな風に誰かが訪ねてきてくれるなんて初めてだわ。何でも聞いて下さいな」
 いつもこんな人ばかりと会えていればどれだけ仕事も楽しいだろう。そんなことを考えながらも、好意に甘え、自分が興味を持った経緯を説明する。あまり楽しい話でもなかったはずだが揚羽さんの顔から笑みが消えることはなく、むしろ心から楽しんでいるように見えた。
「遠いところからわざわざいらして下さったんですね。私もこの辺りの生まれだから、あなたのような人とお会いできて嬉しいわ」
「ええ、私もです」
 本心からの言葉だった。話しているだけで心が洗われる気分になる。だからこそ、このまま何事もなく親しくなりたい。あの掲示板で見たことについて尋ねるのは正直気が重かった。
 談笑を交え、先にその話題に触れたのは意外にも揚羽さんだった。
「あの話を聞きにいらしたのよね? 少し長くなってしまうかもしれないのだけど……」
「いえ、むしろ詳しくお話いただきたいので、こちらからもお願いします」
 急に神妙な顔をした揚羽さんは、窓の外に一瞬目をやり、言った。
「あの蝶たちを見たでしょう? 私もいずれあの子たちみたいになるの」
「ええっと、それは象徴的な意味ではなく、でしょうか?」
 手帳を取り出し、ボールペンを走らせる。彼女の言葉を一字一句聞き逃さないように、書き留めていく。
「生まれ変わるという方が正しいかしら。あの蝶たちは全て先代の揚羽さんなの。私はその二十二代目」
 本当のことを言っていると直感が知らせて来る。私の顧客は90%以上、目立ちたがりの嘘つきか狂信者、もしくはキチガイだからと言うのもあるが、視線の動きや微妙な声のトーンの違いで大方本当の事を言っているかどうかは分かってしまうのだ。
 揚羽さんのものは彼らとは異なる反応、まるで「お庭に綺麗なパンジーが咲いたの」とでもいうようにさも当たり前にオカルティックな言葉を口にしていた。
「生まれ変わりと言うのは、その……輪廻転生と言うような、死後の世界の話でしょうか?」
「違うわ」
 即座に否定される。的外れなことを言っているのは自分でもわかっていたが、彼女が聞いて欲しいと願っているだろう言葉がどうしても浮かんでこない。この話を若い女性の妄想として片付けるようなことは言えない。そして何よりも満足のいく質問が出来ない理由として、揚羽さんの受け答えにほんの小さなとげの様なものを感じたのが大きかった。
「ごめんなさい、気に障ったかしら。戸惑うのも無理はないわね。私の話は想像上の話ではなく、ごく簡単な物理的、生物学的なことだから」
 アゲハさんの雰囲気が先程のおっとりとしたお嬢様イメージから打って変わって、聡明で博学な女性のイメージへと変化する。
「具体的に伺ってもよろしいでしょうか?」
 私の質問では核心を突くことなど一生出来ない気がして、投了にも似た口調で言う。揚羽さんは満足そうに、しかし意地悪く笑い、身振り手振りを加えながら自らの過去を話し始めた。
「私、“揚羽”になるまでは生物を専攻する学生だったの。女なのに生物の中でも虫が一番好きな変わり者として有名だったわ。ある時、この屋敷であの子たちを見つけて夢中で見ていたら、先代の“揚羽”に声をかけられたのよ」
 揚羽さんは楽しそうに語り、手首をくるくると回すと、いつの間にかあの赤い蝶が指先にとまっていた。
「彼女とは今でも一番の友達。優香っていうの。彼女と出会い、私は“揚羽”となった」
「その、“揚羽になった”と言うのは?」
「ごめんなさい、また話が抽象的に成っちゃったわね。学生時代もよく教授に怒られたわ。“揚羽”と言う姓はこの屋敷に住む者が継承する名前。彼女と出会ったその日に私は“揚羽”を継承し、優香はその役目を終えて蝶になった」
 継承という言葉を聞いて、以前取材した魔女伝説を思い出す。それ以外に日常でそのような単語を使うことは滅多にない。
「もう少し具体的に言っていただけますか? お恥ずかしながら少々、私の理解力ではついて行けない部分が多くて……」
「核心に至るまでには、その過程を話さなければならないのよ。いいわ、めぐみさんには全てをお話しするつもりでしたから。まず、この屋敷のシステムについて説明します。メモの用意はいいかしら」
 非常に大切なことを言うという気配に、余白を残したまま、新たなページを開く。
「システムとしてはある意味、理にかなっていないシステムなんだけど……本来、生物がもつ本能、スピノザの言うコナトゥスでしたっけ。すべての生きとし生けるものに神から与えられた生存に対する欲求と相対するものとなっているの。すなわち、私はこの屋敷を……いえ、この屋敷のみに生息する蝶を生かすために存在しているの」
 勿体ぶった言い方の最後に、彼女は「永遠に」と付け加える。ボールペンを握り直し、揚羽さんの言うシステムについて自分なりに図解化していく。
「生物と言うよりはむしろ企業に近いわ。目的そのものが生きることではなく、継続して存在し続けることだから。恐らく初代“揚羽”が考えた苦肉の策だったんだと思う。あ…ごめんなさい。システムの話よね。条件だけ箇条書きにしやすいように言うわ。
『第一に、使用人“揚羽”は女性であり、一人身であること』
『第二に、“揚羽”は十年以内に次の“揚羽”に継承されること』
『第三に、“揚羽”は屋敷、調度品、財産などもすべて継承し、必要に応じて使用すること』
『第四に、継承を終えた“揚羽”は速やかに棺に入り、羽化すること』
以上よ。しかし、それを強制するような原則か罰則はないわ。なんせ、監視する人もいなければ、ルールを破ろうとする“揚羽”は存在し得ないからね」
 私は四つの条件をメモし、別のページにまとめた疑問を一つずつ投げかける。
「どうして、制約や罰則がないのですか? 聞いた話によると“揚羽”なる人はそれぞれ全く関係ない人物に思えるのですが」
 若い女性であるという点を除いて、それぞれは親族でもなく、共通点もなさそうだ。財産の継承など、メリットも複数あるように思うが、それでも嫌になる人も出るのではないだろうか。そして何より第四の条件が不気味過ぎた。
「それには、この蝶だけが持つ性質について説明しなければならないわ」
 見てと揚羽さんは私にさっきまで止まっていた指先を見せる。小さな赤いアザのようなものがあった。それこそ言われなければ気付かないような赤い斑点だったが、それを見て掲示板での一節を思い出した。
「この子たちは主に庭に植えてあるハーブの花の蜜を吸って生きているわ。でも、それだけでは栄養素、と言うよりも常識では考えられない“何か”が不足し、生きることが出来ない。そしてその不足する“何か”と言うものを補える唯一の物が人間の血液なの」
 吸血鬼ならぬ、吸血蝶。半信半疑だったものが目の前に見せられた小さな点のみで無理やり納得させられたような気になる。
「すべての蝶に一日一回血液をあげるのも私の役目の一つ。と言っても、一匹が吸う血液はごく微量だし、蚊のようにかゆみもないし、痛みもないわ。貧血の時はちょっと辛いけど、心なしか健康にも効果があるみたいで、“揚羽”になってからというものの風邪すらもひいたことがないわ。肌にも良いみたいだし」
「えっと、つまりは健康によくて、美容効果もあるから誰も違反しないということではないですよね?」
 揚羽さんはニコリと微笑むと、空になったティーカップにハーブティーを注ぐ。私の分も注いでくれたので一言礼を言い、もう一度口をつけた。
「このハーブティー美味しいでしょう? 私は毎日飲んでいるわ。でも、このハーブ、実はものすごく毒性が強くて、しかも依存性があるの」
 それを聞いた瞬間に目の前がぐにゃりと歪み、カップをとり落としそうになる。震える手と思い出したかのような幻覚作用に脳を揺さ振られながらも、何とか理性を保とうと抵抗する。私が抗議の声を発するよりも早く、揚羽さんが私の肩に手を置き、言った。
「色々な生物に試してみたけど、このハーブを摂取した生物は二時間前後で眠るように死んだわ。恐らく、神経に作用する感じの毒だと思う。でも、安心して。死ぬことはないわ」
 揚羽さんの妖艶な声に混じる微かな音。耳のすぐそば、首筋を撫でる様な感触に、くすぐったいような、それでいて不快ではない……か弱い蝶の羽音。歪み、侵食されかかっていた視界が、徐々にではあるが明るさを取り出していった。
「この蝶のもう一つの特性を言って無かったわね。この子たちも私も毎日ハーブの毒を吸っている。なのに、死なないのは何故?」
「免疫……ワクチンですか?」
「半分正解ってところね。この子たちは生まれながらにしてハーブの毒に対する抗体を持っているの。先代たちも皆このハーブを飲んでいたのだから当り前ね。でも“揚羽”は抗体を持たない。だから、この子たちの力を借りなければならない。血液を渡すときに、代わりに毒性を中和してくれる分泌物をくれるの。素敵な相互関係だと思わない? 与えあい、支えあう関係の理想形でしょう?」
 私の首筋から蝶が鮮やかな羽根を見せて飛んでいく。目的の行為を終えたのだろう。私はもう一度ハーブティーを口に含み、よく香りを楽しんでから嚥下する。心地よい感触が体全体に染み渡った。
 こうなってしまった以上、ほとんどの疑問は解けた。しかし、一つだけ疑問が残る。こうなってしまった今、記者としての仕事などどうでもよかったが、単なる好奇心から聞き込みを続けることにした。
「棺というものと、羽化というものはどういう意味ですか?」
 揚羽さんは席を立ち、手招きして、言った。
「私がやって見せるわ。寝室に来て」
 私も急いで席を立ち、揚羽さんの後に続く。寝室は明るく、三面鏡や化粧台、大きなカーテン付きのベッドが一つ。その隅にある漆塗りの木箱のようなものがあった。上部に美しい金色の装飾文字で「揚羽」と書かれていた。
「これが棺。中には濃縮されたハーブのエキスが満たされている。この内側に仕掛けがあって、小さな窓が開けられるようになってるの。私が蝶になって出るための出口。そうそう、あなたにこれを渡さないとね」
 揚羽さんが小さな化粧箱を開け、手渡されたのは意匠の凝った古めかしい鍵だった。
「代々継承されてる鍵だから、大事にしてね」
「ええ、揚羽さん」
「私の名前は理華。“揚羽”はあなた。明日になったら、会いに行くわ」
 そう言い残すと、理華さんはおもむろに服を脱ぎ、慣れた動作で小さく折り畳んだ。そのままアクセサリ、時計、靴、ヘアピンなども全てを取り外し、一糸纏わぬ姿になる。そして、何も言わず棺の蓋に手をかけ、惜しむかのように一度だけ振り向いて言った。
「私ね。今、とても幸せだわ。ここに来る前はずっと生きていて苦痛だったの。生きるために誰かと付き合って、勉強して、仕事して、ただ少しでも長く生きる ために徐々に死んでいく。上手に生きるために自分を殺し、心を殺し、生きていたわ。上手にいかなくて死にたいと思ったこともある。でも、それも全て今日の ためだったのね。ここで生きた最後の十年間、だらだらと生き延びるよりもずっと良かった。ありがとう。最後に会えたのがあなたでよかったわ」
 それは彼女が人間でいる間の最後の告白であり、遺言。しかし、そこには死特有の暗さを感じさせず、むしろ待ち焦がれていたとさえ思えるほど明るかった。
私は渡された鍵を握りしめ、蝶のように微笑む。
「私もです。理華さん、あなたは死せず永遠となる。どこかの作家が描いた小説に良い言葉がありましたね」
理華は満面の笑みを見せて、言った。
「すなわち、死せる生から、生ける生へ」
 またね。棺の蓋が完全に閉まるまで、彼女は幸せな顔を崩さなかった。私が棺の鍵を閉め、理華は出口用の仕掛けを開ける。
 眠るように、羽化を待つ蛹のように微笑む理華。ハーブの毒は痛みなく、彼女を蝶に変える。私が揚羽になった今から、そしてこれからも永遠に続く物語。

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