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テン

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 幼い頃の話です。私には、たった一人だけの友達がいました。彼は名前を「テン」と名乗りました。当時はよくその名前をからかったものです。
 私は幼い頃は祖父母と一緒にのどかな田舎町で暮らしていました。いえ、町と言うよりは村と言った感じです。青々と草の茂る田畑や涼しい畦道、山菜や茸がよくとれる小さな山。その山の麓には透明に澄んだ小さな川が流れていて、小さな魚がたくさん泳いでいて……秋には町中の木々が綺麗な赤や黄色や朱色に染まり、本当に素敵な場所でした。両親は、幼い頃に死んだそうです。理由は今でも教えてもらえませんが、なんとなく、想像がつくようになりました。
 話がずれてしまいました。彼の話です。私と彼はよく山の中にある古びたお社の前で遊びました。お社の横にはこれまた随分とくたびれ風化したお地蔵様があったのですが、罰あたりにも、そのお地蔵様を遊び道具とするのが常でした。お地蔵様はいままで見たことがないほど穏やかな表情をしたものだったのを、今でも覚えています。
 テンは私より1~2歳年上に見えました。青白い肌と真っ黒な髪に藍色の甚平が良く似合った男の子。くりっとした愛嬌のある目をしていました。初めて会った日は、正直覚えていません。ただ確かなのは、物心ついた頃にはすでに彼と遊んでいたことだけ。私は内気な性格で友達もおらず、唯一の友達がテンでした。
 テンとはいろんな遊びをしました。凧上げやお手玉、縄跳びやケンパッパとか……川で釣りをしてみたり、秘密基地を作ったりもしました。遊びは彼が提案する事が多かったのですが、私も時々花の冠を作ることやあやとりを提案したりしました。彼はとても不器用で、花の冠を作ってもどうにもいびつだったり花だけ取れてしまったり、あやとりに至っては糸が指に絡まってしまうほど。私がからかって笑えばむくれながら「こんなの女の遊びだ!」と吐き捨てていました。
 そうやってテンと遊ぶのが私の日常でした。ある時までは。
 小学校5年生のときでしょうか。家の居間で寝ころんで本を読んでいると、祖父が私を縁側まで呼びました。祖父は静かな人でしたが、とても優しくて、大好きでした。
「もう、テンと遊んじゃならん。あれは良くないんだ」
祖父は静かに、そう言いました。もちろん私は反論しました。何故遊んではいけないのか、テンはいい子だ、私の友達だ、と。祖父は私をじっと見つめるだけでそれ以上は何も言わず、私もなんだかその場に居づらくて、それから祖父とほとんど話さなくなってしまいました。
 祖父は、私が12歳になる前日に突然亡くなってしまいました。私は、最期まで祖父とほとんど口を利きませんでした。
 お葬式の日、泣き喚いて祖母を困らせたのを覚えています。祖母だって泣きたいのに、祖母の方が私よりもっともっと寂しくて悲しいはずなのに、私は泣き止むことができませんでした。何度も何度も祖父に謝りました。そして帰ってきてと懇願しました。棺桶に眠る祖父の頬はこけ、目はのまわりは微かにくぼみ、まるで別人に見えました。それでもその亡骸に、私はいつまでもすがって泣いたのです。見兼ねた親戚のおじさんが私を祖父の遺体から半ば無理やり引き剥がしぎゅっと肩を抱いてくれましたが、私はそれを振り払って、祖父の死から逃げる様に、テンとの遊び場所であったお社へ走りました。 大人の声が聞こえました。後ろから追ってくる声。祖母の声もありました。だけれど私はどうしても祖父が死んだことが信じられなくて、彼らが嘘をついているんじゃないかと疑いすらして、ずっとずっと走り続けました。
 お社についた頃には声は聞こえなくなっていました。きっと、真っ暗な山の中を記憶を頼りに走り抜けるうち、振り切ったのだと思います。お社の前には、テンがいました。
「テン、おじいちゃんの具合が悪いの。ずっと寝たままで起きなくて、顔色も悪いの」
止まらない涙を服の袖で何度も拭って、必死にテンに訴えました。その時の私は何故か、テンなら何とかしてくれる気がしたのです。なんでもあげるから、なんでもするから、なんとか祖父を助ける方法を教えて欲しいと懇願しました。
 テンは何も言いませんでした。ただ悲しそうに眉をひそめて、何度も言葉を言いかけては飲み込んで。私の声が枯れそうになる頃、やっと一言だけ「ごめんね」と呟きました。それからの記憶はなく、気付いたら自分の家で、祖母が枕元に座り静かに泣いていました。
 12歳になったその日から、テンは私の前からぱったりと姿を消してしまいました。何度お社を訪ねても彼はおらず、一緒に遊んだ川や野原、秘密基地、どこを探しても居ませんでした。
18, 17

  

 18歳になって私は家を出ました。バスで30分、歩いて30分かかる高校までの長い通学路、それを電車の中から眺めながら、新しい土地への期待と不安で胸はいっぱいでした。
 もう、テンの事は頭の片隅にしかありませんでした。
 一生懸命アルバイトをしながら通った、地方の大学。自給自足の様な状態で決して裕福とは言い難かったのに、祖母は毎月の様に野菜やお米を仕送りしてくれました。学費は奨学金でなんとかなったものの、思いのほか掛る生活費でいっぱいいっぱいだった私はお金を家に入れる事も出来ず、せいぜい毎週末に電話を入れるくらい。それでも祖母は、いつも優しく応援してくれました。
 大学ではたくさん友達が出来ました。幼い頃に友達がいなかったのが不思議なくらいです。毎日が楽しくて、苦しいことがあっても助けてくれる人がいて、とうとう私の記憶からテンはいなくなってしまいました。
 「変わってない!」
思わず声を上げてしまうほど、幼い頃と変わらない古びた駅。まるでずっと昔のままみたいに、改札口では駅員さんが待っていた。
 25歳になって、私は結婚する事になった。大学の先輩で、勉強とアルバイトで遊ぶ時間もない様な私に根気強く遊びの誘いをかけてくれた人。辛い時には真っ先に手を差し伸べて助けてくれた、とても大好きな優しい先輩。私も彼も就職して、なんとなく意識し合う様になって、25歳の誕生日にプロポーズされた。
 数日間有給を貰って地元に戻ったのは、それから数カ月後の事。祖母や祖父への報告が一番の目的だったけれど、何か忘れてしまっているような、なんだかモヤモヤした気持ちに駆られたからと言うのも理由の一つだった。
 そこは、昔とほとんど変わりなかった。涼しい風を巻き上げる畦道やおたまじゃくしの泳ぐ田んぼ。たくさんの野菜が実った畑や、どこまでもどこまでも高くて広い空。青臭い匂いをのせた風。すべて懐かしくて、少し鼻の奥がツンとした。畦道をずっと進んだその先に、私の暮らした祖父母の家がある。今は祖母が一人だけで住んでいて、それでも元気に畑仕事をしていると電話では聞いていた。その通りに、家の前の畑には大きく育った野菜が根を張って私を迎えていた。
 家の引き戸を開けると、懐かしい香り。家の奥に向かって声をかけるとしわだらけの顔を満面の笑顔でもっとしわだらけにした祖母が、曲がった腰でいそいそと出てきた。玄関から見える居間には、祖父の仏壇がひっそりと線香の煙をのぼらせていた。
 「かえでちゃん、おかえんなさい。ばあちゃんねぇ、ずっとかえでちゃんと会えるの楽しみにしてたの」
お盆に冷たい麦茶を載せた祖母が、にこにこと嬉しそうに笑いながら縁側でくつろぐ私の隣にそっと座る。いろんな話をした。親戚のおじさんに3人目の子供が生まれた事、隣の家のお兄さんも最近結婚した事、今年のお祭りが延期になってしまった事……たくさん話した。夫になる先輩の話も。離れていた時間を埋めるみたいに、冷たかったお茶がぬるくなってしまうくらいに、たくさん。もちろん、祖父の仏壇にも報告をした。
 夕食の前に、少しだけあたりを散歩する事になった。最初は家の周りだけのつもりだったけれど、なんだか懐かしくなって、つい山の方まで行ってしまった。
 ふと、心につっかえていたモヤモヤの事を思い出す。原因が何かはまだわからなかったけれど、急に目の前の山に入らなくては行けない気がして、辺りが薄暗くなっているにも関わらず暗い山の道を進んだ。幼い頃は気付かなかったけれど、人があまり入らないらしく、山道は獣道と言っても過言ではない荒れ方をしていた。それなのに私は一点の迷いもなく、ただまっすぐに歩いていて。
 しばらく歩くと、急に開けた場所に出た。そこには古びて壊れかけの小さなお社と、風化して顔もわからなくなってしまったお地蔵様。それを見た瞬間、忘れていた事を鮮明に思い出した。唯一の友達だった、テンの事。今になって見てみると、その場所はどこか不気味で薄ら寒い雰囲気があった。

20, 19

  

 祖父が死んでから、テンは昔祀られていた神様だと聞いた。ずっと昔に忘れ去られて、一人ぼっちになってしまった神様。時々近所の子供の前に現れて、その子が12歳になると魂を吸ってしまう怖い神様。そんな風に聞いた。祖父はきっと、私の身代わりに死んだんだ。そうわかっても、私にはどうしてもテンを憎むことが出来なかった。
 薄暗いお社の周りは、人の入った気配が一切ない。まだテンはいるのだろうか、それとももう、どこか別のところへ行ってしまっただろうか。思わずあたりを見回すけれど、あるのは荒れ果てて今にも壊れそうなお社と、もう顔もわからなくなってしまったお地蔵様だけ。
 木々の合間を抜けて走る風が、肩まで伸びた髪を撫でた。ふと、彼の声が聞こえた気がして振り返る。もちろん、誰もいない。急に寂しくなった。
「テン、寂しいよ。どこ行っちゃったの?」
思わず口にしてしまった、ずっと言えなかった言葉。聞きたくても聞けなかった言葉。彼の姿は見えないのに、それでも目の前にいるような気がして、蓋をしていた思いが一気に溢れる。
「友達なら、ちゃんとさよならって言ってよ!また会おうねって言わせてよ!テンはいつもそうだった、夕暮れになると私を置いて帰っちゃったよね!私、寂しかったよ!!」
あぁ、そうだ。私、寂しかったんだ。テンがいなくなって、寂しかったんだ。口にしてやっと、モヤモヤの原因がわかった。テン、テンに会いたかったんだ。会わないないまま結婚するのが嫌だったんだ。
「テン、私ね、結婚するよ。すごく大事で大好きな人に会えたんだ」
優しくて、少し子供っぽい所のある人。思い返すと少しだけテンと重なって見えた。
「友達になってくれてありがとう、テン。また、会おう」
誰もいないお社に、お地蔵様に、そっと呟く。いつの間には涙が溢れてきて、ポタポタと地面に落ちた。聞こえていたら、返事はいらないから私の気持ちだけ聞いていて、そう思いながら、小さい頃の様に涙を止められずに静かに泣き続けた。もうきっと、テンとは会えないと確信していた。
 空がぐっと暗くなってきて、さすがに帰らなかれば山から下りられなくなると思った。名残惜しかったけれど、お社に背を向けて元来た道を戻り始める。一瞬、視界の隅に青白く細い足が見えた。慌てて振り返ったその場所にいたのは、紛れもなく、昔のままの姿のテンだった。大きな丸い瞳は涙で潤んで今にも泣き出しそうで、それでも無理矢理笑顔を作って、震える唇で一文字一文字言葉を形作る。
「おめで……とう……?……」
それから、「ごめんね」。そう見えた。謝るのは怒鳴った私なのに、テンを忘れてしまっていた私なのに、そう思って駆け寄ろうとした時にはもうテンの姿はそこになかった。

 結婚式の日、招待客の中にテンの姿を見た気がした。ちょっとむくれたような、照れているような、そんな顔をしていた気がする。控室から出るとき、ドアの横に菜の花で作られた花冠がひっそり置かれていた。普通より大ぶりの菜の花は、田舎でよく見た菜の花と同じ匂いがした。相変わらず下手くそで少し笑ってしまったけど、泣きそうになるほど嬉しくて、自慢するように真っ白なブーケの上にそっと飾った。
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