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第十話 怯える猫

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第十話 怯える猫

 時間はあっという間に過ぎて行く。
 冬は過ぎ、そして春がやってくる。
 
『相沢サーカス団』は春の訪れと共にやってきた。

「凄い人だなあ、れいん!」
 普段閑散としている町のど真ん中が、嘘のように賑わっていた。巨大なドーム
型のテントが設置されていて、入口の上には『相沢サーカス団 地元凱旋公演』
と大きく、人目を引くよう華やかに書かれている看板が配置されていた。
「な。凄いよな?」
 雄一は人込みに入ったせいなのか、いつもより興奮気味な様子だった。それで
も、はぐれないようにれいんの手はしっかりと握っていた。
「う、うん」
「どうした? 元気ないな」
 雄一はれいんの顔を見ながら言った。れいんの顔色は、心なし悪く見えた。
「大丈夫、だよ」
 そういえば――雄一は、今朝れいんが吐いていたのを思い出した。
「苦しいなら帰ろうか?」
「えっ、駄目だよ。雄一、楽しみにしてたんでしょ? それに、せっかく美貴が
一番いい席のチケットくれたのに」
「…大丈夫か?」
 勿論、雄一は帰りたくはなかった。
「本当に大丈夫か?」
 雄一は、念を入れてもう一度訊いた。れいんは笑顔を作って返した。
「大丈夫だってば」
「…じゃあ、入ろうか」
 雄一は、れいんの優しさに甘えることにした。

 相沢サーカス団は、この十年で瞬く間に日本屈指のサーカス団にのし上がった。
パトロンでもあり、経営面の手綱も一手に握っている『相沢勝(まさる)』の豪腕
によるところが大きいとされていた。実際、彼はその資金力で世界各国の名うての
アーティスト・スタッフを引き抜いてきた。さらにアーティスト育成も熱心に行い、
アメリカやロシアの大物育成スタッフに日本人の子供達を鍛えさせた。今現在相沢
サーカス団は、ベテラン、若手、外国人、日本人。全てがバランス良く混ざり合っ
ている理想的な状態だった。
「おぉー! 見ろれいん、火の輪! ジャグラー! 空中ブランコ!」
「そうだね、凄いね」
 公演が始まってから、雄一のテンションは上がる一方だった。雄一は超人的な存
在に憧れを抱いており、ここにはそれが溢れていた。れいんは、そんな雄一を見な
がら力なく相槌を返していた。
「雄一、ごめん」
「ん?」
「ちょっと……トイレ」
 最後を周りに聞こえないよう小声にして、れいんは言った。
「場所分かるか? 分からないなら、一緒に付いてくぞ。俺始まる前行ったから分
かるんだ」
 雄一の言葉に、れいんは首を振って答えた。
「大丈夫。そのまま見てて。ね」
「…じゃあ、気を付けてな」 
「うん」
 れいんは立ち上がり、雄一の元を離れた。
「…有難く見させてもら――」
「やあ」
 集中して見ようとした矢先、雄一の肩にずしりと重みのある手が置かれた。
「…どなたですか?」
 雄一は、またサーカスから目を離して声の方に首を回した。声に僅かの嫌悪感を
滲ませて。
 そこには、やたら恰幅のいい紳士風の男がいた。男は肉で張り出た顔から声を出
した。
「久し振りだね、君」
「会ったことありましたっけ?」
「あるとも。あれはいつだったか、君が娘の中学のエースとして投げていた野球の
試合だった」
「…娘?」
「覚えていないのかね?」
 男は、肉を目に寄らせて、意表を突かれたような表情を見せた。
「娘が野球部のマネージャーをしていてね。それを見に行った時、君と会ったのだ
よ」
「会ってはいないんじゃないですか?」
「私はスタンドにいたと言っている」
「…その時あなたを『視界に捉えた』かもしれませんが、それは『会った』とは言
わないでしょう?」
「…ふうん」
 男は、興味が失せたような目付きをして、そのまま立ち去った。
 雄一は、途中で男が誰だか気付いていた。
 相沢勝だ。
 相沢が去ったと同時に、空中ブランコは終わった。
「…見逃した」
 雄一は、小さく呟いた。

 インターバル中。相沢美貴が雄一に気付き、話掛けた。
「せんぱい」
「おお」
「どうですか? ウチのパフォーマンス」
「素晴らしいよ」
 雄一が、少し沈んだ顔でそう言うのを見て、美貴は疑問に思った。
「…何かありました?」

「さいってえ!!」
 雄一に話を聞いた美貴は、人目も憚らず叫んだ。
「ちょ、おま、声でかい……」
 何しろ超満員。辺り一面人、人、人、である。多くの人が美貴の方を向いた。美貴
はそれを意に介さずに続けた。美貴はいつの間にか空いたれいんの席に座っていた。
「あの人、余計なことばっかり……!」
「ま、まあ、いい人じゃん」
「どの辺りがですか?」
「娘思いなところとか……あと……」
 それ以上出てこなかった。とてもいい印象の持てる人物ではない。雄一は嘘を付く
のも苦手だった。
「…まあ、私が悪いんですけどね」
「え?」
「昔、一回だけせんぱいのこと、あの人と話しちゃったんです。そしたら、妙に気に
なるみたいで……せんぱいが卒業してからも、度々訊かれてたんです。『今彼はどう
してる?』とか『野球やってるのか?』とか……」
 雄一はそれを聞いて、少しの罪悪感が心から湧き出してきた。いい印象は持てない
が、それでも自分のことを気に掛けてくれていた人に、決して良いとは言えない対応
をしてしまった。
「俺、悪いことしたかも……」
「あの人が悪いんですから、気にしないで下さい!」
「でもなあ……」
「ところで、れいんさんは?」
「トイレだって。その席に座ってたんだけどね、うん」
 雄一がそう言った時、照明が落ちた。少しの間があって、一本の綱に明かりが集中
した。
「せんぱい、次は必見ですよ」
「綱渡り?」
「これから、ウチが一番注力して売り出そうとしてる子です」
 明かりの束は、綱の根元にスライドした。そこには、一人の少女が立っていた。歓
声に少女は控え目に手を振り応えた。
「日本人の子だな」
「あの子は、天才です」
「でも、ちょっと愛想が足りないかもしれない」
「…それは……」
「え?」
「いえ。始まりますよ」
 少女は台座から綱に足を掛けた。照明は下を照らした。セーフティーネットはなか
った。再び少女に照明が戻った。どうやら命綱も付けていないようだった。雄一も含
めた観客がそれに気付き、少しのざわめきが起こった。
「落ちたらどうすんだよ……」
「落ちません」
 美貴が確信を持って言ったと同時に、少女は綱に反動をつけ、大きく跳び上がった。
ざわめきは悲鳴に変わった。雄一も、口から驚きが突いて出た。
 最高点まで達した少女は、上空で激しく体を折り曲げ、回転させた。雄一はそれを
見て瞬間的に猫をイメージした。それを思った時、雄一は心配を忘れた。頭にはただ、
一匹の素軽そうな猫が走っていた。
 雄一には、この時彼女が人間ではないように思えた。そして、観客にも。
 少女はどんどん落ちて行く。しかしもう、観客は誰も彼女が床に叩きつけられる絵
を想像してなどいなかった。少女の動きには、それを想像させる要素は微塵もなかっ
たからだ。
 観客達の想像通り、彼女は動いた。回転したまま伸ばした手で綱を掴み、また反動
をつけて跳んでいく。そして、それを何度か繰り返した。最後には、足だけで綱を捕
らえ、見事に着地した。落下の際の衝撃も、足の指だけで押さえ込んだ。造作もなく。
表情にも僅かの変化さえない。笑顔が少ないのはアーティストとして難点だ。しかし、
少女はそんなものを超越した存在だった。事実、少女はここにいる全ての観客の心を
捉えてしまったのだから――

 万雷の拍手の中、少女はおどおどとした様子で手を振りながら、舞台裏に引っ込ん
で行った。
「…演技中とは別人だな」
 雄一は、気道に溜まった熱い息を吐き出すのを利用してそう呟いた。
「せんぱい、会ってみますか? あの子に」
「会いたい」
 雄一は、即答した。
「なんか凄い拍手だったけど、何があったの?」
 れいんが戻ってきた。

 公演終了後。雄一とれいんは、サーカス団の控え室前にいた。
「じゃあ、少し待ってて下さい。呼んできますから」
 美貴はそう言ってドアの向こうに消えた。
「お前見なかったんだよな。もったいねーぞ」
「だって……」
「便秘?」
 れいんはそれを聞いて、わざと大きくため息を付いた。
「とんでもない子だった。年は俺らと同じくらいかなあ?」
「ふーん……」
 れいんは、あまり関心なさそうに言った。
 ドアが開いた。
「お待たせしました。ありす、挨拶して」
「あ……こ……こん……」
 出てきた少女は、先程舞台であれほど勇敢なパフォーマンスを見せた少女と同一人
物とは思えなかった。激しく狼狽していることが誰にも読み取れる怯えた表情。そし
て、絶え間なく震えている体。決して雄一ともれいんとも目を合わせようとしない。
「こんにちわ」
 二人は同時に言った。
「…ん、にちわ……」
 ありすと呼ばれた少女は、終始俯いたまま言い切った。
「…この娘、少し対人恐怖症の気があって……」
 美貴が、ありすの手を握ってあげてから言った。ありすは、美貴に手を握られたか
らか、ほんの少しだけ視線を上げた。
「…そうなんだ」
 雄一が、ありすの目を見ようとしながら言った。しかし、幾ら合わせようとしても
ありすの目は逃げてしまう。
「…この娘……」
 れいんは、ありすの全身を見渡した。
「あたし、知ってる気が――!」
 れいんは、ありすの美貴に握られていない方の手を見た。掌に無数の痕を見つけて、
れいんの表情は変わった。
 れいんはありすに近付き、手を掴んだ。
「!」
 ありすの体は、拒否反応を起こしているようにビクついた。
「れいんさん!」
 美貴は突然のことに思わず叫んだ。
「…煙草の痕……」
「ひっ……!」
 ありすは、涙を流して首を後ろに回した。
「ゆるして……ゆるしてください……!!」
「…美貴」
 れいんは美貴を見て言った。表情は明らかに平静ではなかった。
「…この娘、拾われたの?」
 れいんは、呟くように言った。
10

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