第九話 恋敵の悔恨と光明
美貴のお陰で学校をさぼることになってしまった雄一は、仕方ないので家で
ゴロゴロしていた。さぼりの分際で外出して誰かに見られるのは好ましくない
という考えからだった。
「…野球か……」
部屋には、雄一が野球をしていた名残はなかった。ユニフォーム、グローブ、
スパイク、硬球、教則本、速球と“魔球”スライダーで西武ライオンズ1990
年代中盤から2000年代後半の大エースに君臨し、かつて雄一が憧れていた西
口投手の写真――雄一は、この部屋に越してくる前に、全てを捨ててきた。
「…ちっ、あいつのせいで、思い出して――」
雄一の呟きを遮るように、呼び鈴が鳴った。雄一は時計を見た。午後の四時に
なろうとしている。
「なんか、大事な連絡でもあったのか?」
時間からして、どうせ学校の友達だろう。そう思って雄一は玄関のドアを開け
た。
そこには、美貴の姿があった。
「相沢」
「…………」
美貴は俯いて黙りこくっていた。しかし雄一には、美貴の目が赤く腫れている
のが分かった。そして、それを隠すために顔を下に向けているのだということも。
「どうした? 何かあったのか」
「…せんぱい……」
雄一は、外履きサンダルで美貴の傍に寄った。美貴は、突然雄一の胸に飛び込ん
で体を密着させた。
「わっ」
雄一は意表を突かれ、情けない声を上げた。
「くやしい……にくらしい……」
「…どうしたんだよ。相沢らしくもない」
「れいんさん……」
「! れいんに会ったのか?」
「…ころしてやりたい……!!」
雄一は、え、と短い声を漏らした後、表情を険しく変え、美貴の肩を掴んで無理
矢理体から引き剥がした。
美貴の目からは、止め処なく涙が流れている。雄一の胸の辺りは涙でかなり濡れ
ていた。
雄一は、美貴を睨むように見た。
「…せんぱいは、あんな人好きじゃないでしょう……?」
美貴は、懇願するような弱々しい声で言った。
「好きだよ」
「嘘!!」
「好きだ」
「…野球より?」
『私より?』と聞けなかった相沢は、内心沈んだ。
「人はさ、変わっていくんだよ。相沢も、今はもう俺が二年の頃のキャプテンとは
付き合っていないんだよな?」
「え?」
「それと同じで、俺だって野球が好きじゃなくなった。そして、れいんが好きにな
った。それだけのことだよ」
「せんぱい、違います、私はあの時――!」
そこから先は、もはや言えなかった。思いが声にならなかった。
美貴は閉塞していた。苦しくて苦しくて仕方がなかった。そして、また走り去っ
て行った。
れいんは走り去る美貴とすれ違った。一瞥をくれたが、それ以上のことはしなか
った。少し遅れて雄一が走り寄ってきたので、今度は勿論声を掛けた。
「どうしたの?」
「れいん、お前相沢と会ったのか?」
「会ったよ。丁度良かった。あの子について、雄一に訊きたかったのよ。色々と」
れいんの顔を見て、雄一は少し怯えたが、口元をきゅっと引き締めて、言った。
「とにかく、何も言わずあいつを一緒に追ってくれ! 走りながら話すから!」
美貴は、自分の通う中学校の植樹の陰に隠れて泣いていた。
「相沢!」
雄一の声を聞いて、美貴の体は微動した。その際に体が植樹の葉に触れて、小さ
な音が発生した。普通なら聞き漏らすような音だが、れいんはそれを敏感に察知し
た。
「そこね。出てきたら?」
植樹は、静かだった。
「…もう」
れいんはずんずんと音を立てて歩き、植樹のすぐ近くまで来た。体育座りで顔を
隠している美貴の首根っこを掴み、表に引き摺り出した。
「おいれいん、あんまり手荒なことは……」
心配そうに見つめている雄一。れいんは雄一に向け笑顔を作って「大丈夫」と小
さく呟くように言った。
「相沢さん」
「ちがうんです……私、あのキャプテンとは一回だけ……雄一せんぱいは処女は嫌
だろうなって思って、それで、一回だけなんです……」
「そうなんだ」
「付き合ってたとか、そんなんじゃなくて……私、後悔してて……好きでもない人
となんて……!」
「…………」
れいんは、言い終えて力なく座りこんでいる美貴を抱きしめて、耳元で子供をあや
すように「よしよし」と言った後、続けた。
「あんた、いい子なんだね……雄一の言う通りだ」
「え……」
「ここに来る前に、あんたのこと聞いたんだ。雄一は、あんたのことを『いい子』だ
って言った。だからあたしも信じることにしたの」
「…………」
れいんは、小声で言った。少し恥ずかしそうに。
「雄一、あたしのこと好きだって、言ってくれたんでしょ?」
「はい……」
「雄一は嘘なんかつかない。好きだと言ってくれるなら、本当に好きなのよ。あたし
には信じられる。雄一が好きだから」
「…信じる……」
「好きな人の言葉以上に信じられることって、この世界に幾つあるだろうね」
「…………」
「相沢さんは、好きな人の言葉を疑ったんだ」
「…………ぁ――」
美貴は、蚊の鳴くような声で何かを言おうとしたが、言えなかった。
「凄いや。涙で服がぐしゃぐしゃ」
れいんは自分の制服を引っ張って見た。絞れば水滴が落ちそうなくらい濡れている。
「ブラ透けて見えない?」
「ちょっと見えるな」
「嫌だなあ」
雄一は、着ていたコートを脱いでれいんに被せた。
「これ着ろ」
「あんがと」
れいんの笑顔を見て、雄一もつられて笑顔になった。
「…私、決めました」
声を聞いて、二人は同時に声の主――美貴の顔を見た。
「私も、これから好きな人のこと疑いません」
「そう」
れいんは、嬉しそうに言った。
「だから、せんぱいとれいんさんが相思相愛だって言うのも、悔しいけど信じることに
します」
「うんうん」
れいんは頷きながら言った。
「せんぱい。私、せんぱいと同じ高校に行きます」
「相沢ならもっとランク高いとこ行けるじゃないか」
「…私、諦めませんから」
美貴は、はっきりとした声で言い切った。
「何を?」
れいんの問いを無視して、美貴は言った。
「じゃあ、私帰ります」
「送るよ」
「いえ。大丈夫です。お邪魔ですし」
「ねえ、何を諦めないの?」
「せんぱい」
「ん?」
「何を?」
「また会いに来ますね!」
そう元気そうに言って、踵を返した。
段々小さくなっていく美貴の背中を見ながら、れいんは呟いた。
「そういうことか……」
美貴は帰り、また泣いた。しかし、それは一種さわやかなところから流れ出した涙だっ
た。
「涙って、なかなか枯れないんだなあ……」
そう呟く顔は、笑顔だった。そしてその顔は、冬の鮮やかな夕日に照らされ、とても綺
麗に見えた。
「私、情けない……だけど……だけど――」
美貴はこの日、大事な気持ちを知った気がした。