第十六話〈その二〉 家出犬の過去
雄一の目は熱く、れいんは心の奥の方まで熱せられて、解されていくような、
そんな感覚に襲われた。
れいんは、今日まで、雄一を心底から信じられてはいなかったのかもしれな
い。しかし、今日、雄一を見て、れいんは揺れた。
雄一は全てを飲み込もうとしてくれている。
全てを、抱き抱えようとしてくれている。
その目は、覚悟を決めた目だった。
飲み込まれたくなった。
抱かれたくなった。
全てを、委ねたくなった。
れいんは思った。
自分は、強くない――
やがて、れいんは口を開いた。
…あたしね。
虐待……っていうのかな……されてたんだ。
あんまりこう呼びたくない、けど……最初のお父さん、と、お母さん。
二人からは、一度も名前で呼んでもらえなかったと思う。
だから、あたし、自分の名前知らないの。
あたし、「あれ」とか「それ」とか、ほとんどモノ扱いだった。
蹴られたりとかも、たまにされた。目立ち難いところに……
ご飯も、一応食べさせては貰ってたけど、今思うと、かなり少なかったし、栄
養とか考えられてなかったと思う。
二人目のお父さんには、沢山おいしくて、栄養のあるもの食べさせて貰えたけ
ど、あたしの体が小さいのは、その時の反動なのかな。分かんないけど。
妹も――ありすって、美貴がつけた名前らしいね――、酷い扱いされてた。あ
たしよりも、ずっと。
煙草を……赤ん坊の、小さな手に、煙草を何度も、何度も押し付けて……
あの時、あの子の手を見て、すぐに気付いた。ああ、あの子だ、って。
そして、安心したの。手が、ちゃんと左右対称に成長していて――
――だけど、同時に怒りも感じた。
あの子があんな性格になっちゃったのは、間違いなく、あの人達の。
あたしは、運が良かった方よ。次に拾ってくれたお父さんが、最高の人だった
から。
ちゃんと食べさせて貰えたし、それに、何より、優しかった。愛されてると思
ったの。実の子でもない、あたしなんかを。競馬の時はうるさかったけど、それ
もなんだか可愛く思えた。
でも、死んじゃった。あたしのせいで。
あたしがもっと早く気付いて。
そして、病院に連れて行ってあげられれば、助かった病気だった。
今でも、たまに夢に出るんだ。
あの時の、自分の顔。
救いようがない、顔、してた。
お父さんの両親とか親戚に、札束投げられたの。五十万くらいあったかな。
それで、どこかに消えろって、言われた。
そんだけ。
そして彷徨って。
お金も尽きて。
体を売ろうとも思った。
でも、それは、なんだか凄く嫌だった。
水しか飲まないようになって、三日くらい経った時。
雄一と会った。
その時は、もう、何も話せる状態じゃなかった。
ただ、捨て犬みたいに、うっとうしく、雄一の目を見てた。
今思い返しても、情けない。涙が出そうなくらいね。
――ここ、暑いね。暑くない? え、そう? あたしだけ? 暑いの。
…話を戻そう!
ええと。
そう。
…………
「…どうした?」
何も話さなくなったれいんに、雄一は声を掛ける。
「…なんだろうね、何も言えなくなっちゃった」
「なんで」
「溢れちゃいそうなの、感情が」
れいんは、淡々とした口調で言った。
「今までを思い出してたら、なんだか」
雄一は、見た。れいんの目から溢れてくるものを。
それは、塩気の強い液体だった。
雄一は、それを飲み干したい衝動に一瞬駆られた。
「体の奥の方が、ずぅんって重たくなって、そしたら、何も、出てこなく……」
雄一は頭を振って、自身のまともではない衝動を打ち消した。
代わりに湧いてきたのは、「れいんを抱きたい」という、強い衝動だった。
今なら分かる。れいんは――いや、れいん「も」弱いと。
俺達はどちらも弱く、脆く、頼りない存在なのだと。
自分は野球がなくなっただけで、がらんどうになり。
れいんは、過去に痛手を沢山抱えている。
一緒にいたい。
一緒にいるべきなんだ!
そう――
「――れいん」
雄一とれいんは、数メートルの間隔で向かい合っていた。
「近くに行っても、いいか」
れいんは、少ししてから、何も言わず頷いた。
雄一はそれを確認してすぐ、一歩、二歩、三歩と、距離を詰めた。
そして、遂には、触ろうと思えば触れる距離まできた。
雄一は、ゆっくり、本当にゆっくりと、腕を伸ばした。
手は、れいんの瞳に向かっている。
そして達した。
雄一はれいんの涙を指で拭って、それを舐めた。
れいんは、小さく声を漏らした。
それとほぼ同時。雄一は一気に、れいんを抱き寄せた。力強く。
「お前の話を聞いて、どうしようってわけでもなかったんだ。ただ、聞いておき
たかったんだ。つらいこと思い出させて、ごめんな」
「…………」
「俺は自分が心配で、れいんも心配で……俺はれいんがいなきゃ駄目だ。れいん
も、同じなんじゃないか? 違うなら違うって言ってくれ」
「…ちが……」
「…………」
「…わない……」
「…そか」
雄一は、少し笑った。そして言った。
「嬉しい」
「…あったかい……雄一のあったかさだあ……」
「うん、あったかい。前に抱いたのはそんなに昔じゃないのに、凄い懐かしく感
じるような気がする」
「あたしね、怖かった」
「うん」
「雄一と別れて、次の日にはもう、怖くなってた。正直、高を括ってたの。『前
は大丈夫だった。だからきっと、今回も耐えられる』って……でも、全然だった」
「…お前は、俺より強いよなあ。絶対さ」
「そう?」
「そうだよ。俺はもう、すぐに駄目になったな」
「あたしが振った感じだからねえ、実際は」
れいんは、少し元気を取り戻したような口調で言った。
「…俺はさ、細かいことは、本当にどうでもいいんだよ。ただ、お前といたいんだ。
お前と、そのお腹の子と、家族になりたいんだ。駄目かな?」
「訊いといてさ、『駄目』って言われるなんて、思ってないでしょ」
「そんな」
「…いいんじゃないかな。でも、一つだけ」
「なに」
「あたし、雄一に引け目を感じてるの。あたしから出て行ったのに、あっさり戻るの
かって。この嫌悪感、雄一、消してよ」
「…どうやって?」
「任せる」
そう言われてから、雄一は少しの間考えた。そして、思い付いたことを実行に移し
た。