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『シマウマ放浪記――コールド・デイ』

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 風邪を引いた。
 シマのせいだ。

 夕方、どんより黒い雲がゴロゴロ唸っていたので、コンビニで傘を買ったまではいい。
 その後、泊まるはずだった宿が二年前に潰れて空き地になっていたまでも、まァシマのせいってわけじゃない。
 ツイてなかった、それだけだ。

 俺が許せないのは、だだっ広い空き地になぜだか烈しく興奮して傘で回転斬りを始めたことだ。

 ちょっとおかしいんじゃない? って思う。優しい目で見てもキチガイだと思う。
 緑色の帽子をどっかに忘れた伝説の勇者は、黄金の回転斬りの果てによろけて俺の胴をなぎ払い(その弾みでまずシマの傘が折れ、ペイントされていたウサギさんが脊髄を骨折して死んだ)、もんどりうって倒れた俺は地面へ自分の傘を突き立てて支えにしようとしたら折れて、顔面からぬかるんだ泥ん中に突っ込み、口内に何億もの菌とかたぶん犬の糞とかが混ざった塊が溢れかえり、

 雨が降り出した。

 俺は肩を震わせて唇を噛んで、ようやく涙をこらえたが、偉かったと思う。一等賞もらってもいいと思う。がんばったで賞のツイてないで賞のシマさん反省しま賞だ。
 雨宮だってここまでひどいことはあんまりしなかった。たぶん。
 そして言わずもがなのことだが、そんな悲惨な俺の姿を目の当たりにしてもシマは反省なんかしやしなかった。

 くの字に折れた傘をぽいっと捨てて「いっけね☆」と舌を出してきたので、マジで引き抜く五秒前だった。
 たぶん泥の塗れた俺の目は血走っていただろう。
 ゆらっと俺は立ち上がり、折れた傘を砕けよと握り締めて、憎き元・悪逆剣士を睨みつけたが、そこまでだった。
 まず、ズキン、と胎動に似た痛みがこめかみを走った。
 続いて骨がとろけちまったように体から力が抜け、よろよろとしか歩けなくなった。
 ゾンビのような足取りでシマに近づく。
「ん? どしたの?」
「か……」
 ぜ、と言おうとしたところで、ずるっと足が泥を滑り、俺は宙を待った。
 空中で俺が最後に見たのは、シマの綺麗な手の平。
 思い切りスナップの効いた最高級のびんたを喰らって、俺は再び泥に向かってダイブした。
 じんじんした痛みが頬と頭と各所の関節から伝わってきたが、俺にはどうしようもなかった。どうしようもなくまた泥を喰うしかなかった。
 ごめん俺の身体。ごめん俺の歴史。またひとつ、黒い歴史の記録を刻んでしまった。
 あとでシマから聞いたが、飛びかかられると思ってびっくりしたらしい。
 まったくシマさんったら女の子じゃあるまいし、と言っただけでもう一回ほっぺをぶたれた。ぐーでだ。
 いつからこんな暴力的な子に育ってしまったんだろう。
 いったい俺が何をしたっていうんだ……。
 今朝の俺に、「もう目覚めるなそのまま死ね」と教えてあげたい。
 そんな一日だった。



 元・宿屋があったはずの空き地には、半円型の遊具があった。
 三方向からドカン形の口が開いていて、そこから中に入れる。
 外側にはホッチキスの針みたいな取っ手がついていて、晴れてる日はガキどもが嬉々としてまとわりついているんだろう。
 だがいまは、俺とシマの格好の雨宿りスポットだった。
 コンクリ製のカマクラの中で体育座りになった俺は、ぶるぶる震えながら自分の身体を抱いていた。
 ああなんて優しい手つき。俺を労わってくれるのは俺だけだ。母さん、俺、俺と結婚する。
 そんなアホなことを考えていると、シマが肩から毛布をかけてくれた。ぐっと顔を近づけてくる。
「大丈夫?」
 こいつ俺の熱を上げて殺す気なんじゃなかろか、と思ったが言ったらまた殴られるので出かかった言葉は心の中にそっと仕舞っておく。
「これはやばいな」
 自分でも、ふうはあと息が深くなっているのがわかる。
 口がさっきから閉まらないのでアホみたいな半開きのままだ。
「死ぬかもしれん。すぐ病院にいかないと」
「うーん、病院かあ」
 シマはカマクラの反対側に背中を預けて、宙を仰いだ。べつに答えが書いてあるわけでもなかろうに。
「この辺あったかなあ。いくの面倒くさいなあ」
「おい、あんま調子に乗ってると風邪を」
 うつすぞ、と言おうとしてやっぱりやめた。
 急に途切れたセリフに、シマがぱちぱちと瞬きする。
「え、なに? なんて?」
「なんでもねえよ。シマは風邪ひかないなって思ってさ」
「えへへ」
 人差し指で頬をかき、目を細めるシマ。
「健やかなる肉体には健やかなる精神が宿るからね!」
 すごく遠回りに喧嘩を売られた気がする。どうせ捻くれ者ですよ、俺は。
 しかし風邪をひいた原因はともかく(俺はどうしてもシマのせいだと思うんだが、異論なんかあるのか?)たかが風邪とはいえこじらせるとまずい。
 シマは構わないだろうが俺には保険証だってないんだ。
 家に取りに帰ればあるだろうが、もうだいぶ連絡を取っていないし、家の電話番号を俺は知らない。
 この間、ちょっとした出来心でイタ電かけたら変わっていた。ちょっとへこんだ。
 喋るのが億劫だったので、無言の訴えをシマに光線状に変換して送ってみると、眠りかけていたシマがハッと起きた。
 こいつはどこでも一秒で寝られるスタンド使いである。
 シマが面倒くさそうに、四つんばいになってこっちに這って来る。
 立ち上がると子供用の遊具の中なので中腰になってしまう。
 猫みたいだな、と思ってから、猫の方がマシだな、と思った。
 傘折らないし振り回さないしビンタしないし。母さん、俺、猫と婚姻する。
 連絡しなきゃ、あ、電話できないんだった。てへっ!
 すぐそばにシマの顔がある。細い眉を寄せて、上目遣いに俺の顔を注視している。
 おまえやっぱり俺の熱上げるつもりだな、と言おうとしたところで、シマの顔が急接近した。息が止まった。
 ぴたっ、とお互いの額がくっつきあう。
 望遠鏡から見た宇宙みたいな輝きが、俺を射止めている。
 永遠に続きそうな二、三秒が過ぎて、シマがあっさりと額を離した。
「やっぱり熱ないと思うけどなあ」
「確実にいま二度ぐらいあがったわ」
 俺はぎゅっと身体をより強く抱きしめた。
 シマはドサっと自分の荷物にケツを乗せて足を伸ばし、投げやりに言う。
「天馬って元々低体温なんじゃない? ちょうどよくなったんだよきっと」
「逆だと思うね。おまえが常に熱に浮かされてる熱血バカなんだと俺は思うね」
 ったく、と俺はため息をついて続ける。

「さっきからふざけてっけどな、おまえ少しは反省しろよ。元はといえばぜんぶおまえのせいだろ。言ってみ? 数えてみ? 自分の生活能力のなさの数々を!」
 シマは俯いている。
「なんで三秒先のことが考えられないんだよ傘振り回してなんで人に当てんの? 俺は藁人形じゃないんだよ? か弱いんだよ? 死ぬぞホントにおまえの馬鹿力で逆胴なんか喰らったら。内臓飛び出るかと思ったわ。ま、飛び出てもすぐに口から泥が代わりに入ってきただろうけどな!」
 シマは黙っている。
「おまえのおかげで俺は人類初泥の五臓六腑を持つ異形の男になるところだったよ。いやいやホントに残念だよ人類の新しい地点に辿り着けなくて! 泥喰って泥で生きていけりゃ便利でしょうがねーわ。あれ? これってもしかしてウンコ喰って生きていけるってことじゃね? すげー発見じゃんこれ! 泥すげー! ウンコ万歳! ウンコ万歳! ぜんぶおまえのおかげだよありがとう今日から俺はウンコマンでおまえもウンコ喰って生きろこのウンコ女!!!!!」

 セリフの内容はともかく、俺はさりげにこの長文を噛まずに言い切れたことに言い知れぬ感動を覚えていた。
 超可愛い女の子を超イケてる文句で俺が口説き落としちゃう脳内妄想をおっ始めようとしたとき、ずっと黙って聞いていたシマがすうっと息を吸い込んで、



「うるっっっっさーーーーーーい!!!!!!!」



 鼓膜が吹っ飛んだ。
 壊れた防波堤からイカれた轟音が脳みその芯まで激震させた。麻痺状態になって身体がマジで動かなかった。
 黄色い鼻水が垂れたが拭く手はビリビリ震えてるだけでまるで役に立たない。
 頬を真っ赤に染めておもむろにシマが立ち上がり、

 ゴン、と。

 見ていて気持ちいいくらい綺麗に、頭をぶつけてその場にうずくまった。
 漫画だったらタンコブができているところだろうが、患部をシマが両手で押さえているのでタンコブさんにご対面することは叶わなかった。
 いまもって残念だ。トンデモなシマならトンデモなタンコブを作ってくれたのではないだろうか。ウンコマンにタンコブ女。そんなタイトルの小説が本屋にあったら、俺はド真ん中から引きちぎる。
 痛みと恥辱に塗れ、歯を喰いしばるシマが俺を見上げてくる。
 なんだか俺が悪いことをしたみたいだが、事実無根の清廉潔白であることは疑いの余地もない。
「賭けてもいいよっ!」
 俺はシマの叫びに、ぽかんとした。垂れていた鼻水をずるっとすすった。
「なにを?」
「なにを、じゃないっ!」
 シマがそばに落ちていた木の枝を俺に向かって投げつけてきた。
 咄嗟に間一髪のところで避け、枝はばいんと壁に弾かれた。
「ちょ、何すんだよ!」
「あーあー黙って聞いてればなんだよ! 誰がウンコ女だよ!」
「おまえだよ!」即答以外にすることなかった。
「うるさいバーカ! そんだけ悪口言えるやつが病気ぶんなし!」
「はあ? 熱で口がちょっと口が回ってるだけだろ? それよりも心配をしろよ、し・ん・ぱ・い・を!
 風邪こじらせて死ぬことだってあんだぞ、俺が死んだら責任取れよ!」
 シマは涙目で叫んだ。
「とんねーしバーカバーカ!」
 ホントにもうただのガキである。
「絶ッ対、明日になったら治ってるよ! 病院なんかいかなくてもいい!」
 肺の空気全部を押し出すように大声で喋り終わると、シマはぷいっとそっぽを向いた。
 腹が立つ。何度も言うが、元はといえばこいつが悪いのだ。
「ふざけんな、明日んなったらスタンド発現するくらいの高熱になってるわ!」
「スタンドなんか天馬に使えるわけないじゃん! 不能!」
「む、無能って言えよそこは!」
 とにかく! とシマは慎ましい胸を張った。
「わたしは、明日天馬が風邪治ってる方に賭けるから! 文句ある!?」
「ねーよバーカ! じゃあ俺は明日になってもウンウン唸ってる方に賭けるわ!」
 おまえあれだかんな、と俺は自棄になって続けた。
 誓って言うが、ものの弾みで言っちまったことで、他意はない。
 ホントに。





「おまえ負けたらノーパンノーブラだかんなっ!!!!」





 あえて真実を受け止めよう。

 バカであると。

 びしっと俺はシマを指差し、なんか格好いいこと言ったみたいなポーズを取り、頭をのぞかせていた鼻水をまたすすった。
 シマはぐっ、と首をつかまれた鶏みたいな声を出して怯んだが、
「い、いいよ……」
 声が小さくて聞き取りづらい。俺は耳に手を当てて、
「は? 聞こえねーんですけど? さっき誰かさんが病人のそばで大声出すから鼓膜破れちゃってさあ!」
「い、い、いいよって言ったの!!」
 お互い、肩で息をし合っていた。俺はともかく、なんでシマまで疲れてんだよ、と俺の中の冷静な部分が呆れ返っていたが、もはや後には引けない。
 俺もシマも勝負師である。
 一度言ったことは、必ず守る。
 それが悪鬼羅刹蠢く地獄の戦場で、幽かな明日へ続くの生命の恩恵を啜るための、たったひとつのルールだからだ。

 そう、たとえ。

 敗者の代償が、『ノーブラノーパン』であろうとも、だ。

 そこまで考えて、もしかして明日風邪治ってたら俺パンツ脱ぐのか? とノーブラの俺は思った。








 雨の音が……頭に響く……。
 俺は毛布に顎まで埋まりながら、外を吹き荒れる嵐と、足首をさらう水の浸食を感じていた。
 いつの間に眠って、そして目覚めていたのか、わからない。
 いや、このいまでさえ、夢の中じゃないとどうして言える?
 まったくリアルな夢を、見ているだけかもしれないじゃないか。
 この今が、夢かどうかを判定するためには、
 痛みしかない。
 ガキでも知ってる。ほっぺたつねったり、髪の毛抜いてみたり、
 失いたくないものを、あえて差し出すそぶりをしてみたり。
 俺は夢を見ているんだろうか。
 あの日から、ずっと醒めない夢を。
 怖いな、と思った。
 あの日から、いやあの日が。
 夢だったと、その一言で終わってしまうのが、怖い。
 もし、俺が俺でいられるのが夢の中だけなのだとしたら。
 俺はこの夢から抜け出せなくって構わない。
 どっちにしろ、同じことだ。
 夢だろうと、なんだろうと。
 俺はここにいる。
 俺だけが、それを真に認めてやれる。
 それでいい。

 ――シマが、俺の真上にいた。

 暗闇の中、電気カンテラの橙色の灯りが、汚れくすんだカマクラの壁を浮かび上がらせている。
 俺はあぐらをかいた姿勢で、壁に背を預けていたが、シマは張り付くようにして俺の顔を覗き込んでいるのだった。
 十匹の白魚が、俺の肩を噛んでいる。シマの手だ。
 磨きぬかれた磁器のように、あるいは光を封じ込めた鉱石のように、幽かで綺麗だ。
 両膝に乗ったシマの細くしなやかな足からは、重さをほとんど感じない。
 壁に当たっているつむじが冷たい。
 シマは、ちょっと飛び降りてみようか、と屋上から街を見下ろす女学生のように、俺と自分の瞳を一筋に結んでいる。
 これは、夢なのか。
 それとも、現実か。
 どちらだろうと構わない。
 ああ、そうだ、そんなことどっちだっていいだろう?
 俺がいる。
 いたいと思う。
 その場所だけが、俺の居場所なんだから。
 ただ、思う。
 透明で、太陽光を浴びた玉の雫のようなシマのそばにいると、思ってしまう。
 こいつのそばに、俺はふさわしいのか?
 おまえにはもっと、いるべき場所があるんじゃないのか?
 こんな風に、風邪をひいて寝込んでいるやつなんか放っておいて、
 シマ。
 おまえには、いくべきところがあるんじゃないのか?
 もし、そこへいくためにこの俺が邪魔だとするなら、
 おまえは俺を排除するのか。
 それとも。
 それでも。
 おまえは――。


 身体が地面に沈んでいく。息が苦しい。
 ああ、窒息してしまう。あがいても、あがいても、
 息が、





 そんな幻想に囚われながら、俺は深い眠りへと落ちて行った――。









 白い。雪のように、白い。
 いやパンツの話じゃない。天井の話だ。
 俺はもぞもぞと身じろぎし、もうちょっと寝ようかなといつぞやみたいなことを考えて、やっぱり飛び起きた。
 その拍子にベッドから掛け布団がするりと滑り落ちる。その様がへびのそれのような生きた動きに見えて、一瞬ドキッとする。
 ここはどこだ。
 俺は俺だ。
 ぶんぶんッと首を振るとくらくらした。脳の回路を駆け巡る痛み。
 風邪ひいてたんだった。
「こらこら、暴れちゃいかんよ」
 急に声をかけられてびくっとする。さっきから心臓に悪いことばかりだ。
 声がした方へ顔を向けると、机に腰かけた白衣の男と目があった。デブい。白衣の前がはちきれそうになっている。
 医者だろう、と俺は誰にでもできる予測をつけた。
「あの……俺……」
 うん、うん、と医者はしきりに頷く。そのたびに雲のようにたわわな顎ひげを優しくなでる。
「安西先生……」
「おや、私の名前をどうして知ってるのかね?」
 見た目です。
 ふむ、と安西先生は立ち上がり、コップと薬を持ってきた。
「飲みたまえ。薬だ。すまないが、これしかなくてね」
「いえ……」
 受け取って水と薬を飲み干しながら、俺はちらっと薬代払えるかな、と思った。まあ払えなくってもいいか。なんとかなるだろう。
 空のコップを返し、俺は安西先生に尋ねた。
「あの、ここは」
 病院だよな、と俺は暗愚な質問をしちまったと思ったのだが、返ってきた答えは予想と違っていた。
「産婦人科の診療所だよ」
「さん……え?」
 戦慄が走る。
 まさか、俺……!
 とっさに腹を押さえたが安西先生はふぉっふぉと笑って手を振った。
「いやいや、君は正真正銘の風邪だよ。心配しなくていい」
 よかった、と胸を撫で下ろす。子どもに呼ばせるのはパパとママどちらがいいかで迷わなくて済んだ。
「でも、じゃあなんで俺、産婦人科に?」
「君の連れがね」
 診察で使うのだろう机に、いつの間にかカップが乗っている。安西先生はそれを美味そうに飲んだ。コーヒーの香りが漂う。
「雨の中、君を背負って飛び込んできたんだよ。まあこんな田舎に病院らしい病院なんてないとはいえ、相当慌ててたんだねえ」
「慌ててた?」
 とても想像できない。あのシマが慌てる? 俺のことで?
 ハハハ冗談だろデブ、と言ってやりたかったが冗談じゃなく険悪になるだろうからやめておく。
 コーヒーを飲み終えたデブはよっこらしょっと巨体を持ち上げて、
「いま呼んでこよう。だいぶ心配してたしね」
「何か言ってましたか?」
「いいや、なにも。それでもわかるものだよ」
 安西先生はなにやらナイスミドルなセリフを残して出て行った。すぐにシマが入ってくる。あまりにその間隔が短かったため(おそらくすぐ外にいたんだろうが)、安西先生がシマに変身したような錯覚を起こして俺はひとりで愉快になっていた。
 シマはぶすっとした顔で、安西先生が座っていた椅子に黙ったまま腰かけた。
 視線は机の上の誰のものともわからぬカルテに注がれている。ていうかちゃんと仕舞っとけよ安西先生。
「ふん、シマ。賭けは俺の勝ちだな。超頭いてえし超のどいてえし鼻水とまんねえ」
 言ってるそばから黄色いねばねばが垂れてきた。ティッシュを探したが見当たらない。
「ほら」
 なぜか視線を合わせようとしないシマがティッシュを俺の鼻の前で構えてくれたので、ありがたくチーンする。
 シマはゴミ箱のフタを足であけてポイっと鼻紙を捨てた。
 ふう、とため息をつく。額にかかる髪を憂鬱そうに払うさまが、柄にもなくちょっと色っぽい。
「夜中……具合、よくなってるかなって看てたんだけど、やっぱ落ち着いてる様子じゃなかったし、あのカマクラ居心地悪いし、その……死なれても邪魔だし……」
「ひどすぎる言い草だけど俺は許すよ」
「天馬……」
 シマの顔がわずかにほころぶ。
 俺はきっと咲くような笑顔を浮かべていたろう。
「ところで、シマ……」
 ぎくっ、と。
 シマが固まる。そおっと、押入れから親の喧嘩を眺める子どものような目で俺を見てくるのがたまらない。
「な、に?」
「聞きたいことがあるんだけど?」
「な、なにかなあ? わかんないなあ? あはは……」
 だらっだらと冷や汗を流している。
 いいぞもっとだ、もっと怯えるがいい。それでこそ俺の口内で息絶えた一億の雑菌どもへ報いる道だ!
「パ」
「……パ?」
 ふわっと、玉の涙がシマの瞳から溢れそうになった。頬は紅潮し、肘を掴んだ手にぎゅっと力がこもる。
 ふっ、と俺は身体の力を抜いて、ポンとシマの頭を叩いた。
「なんでもねえよ」
「え?」
 ぽかん、とシマが目を丸くするのが、なんだかおかしかった。
 あのシマが、だ。笑わずにはいられない。
 どうやら去ったらしい危難に安堵の息をついているシマを見て思う。
 変わったのかもしれないな、こいつも、ちょっとぐらいは。
 それがいいことなのか、悪いことなのかはわからないけれど。
 ベッドの上で、俺はうーんと伸びをした。
「なんか腹減ったな。デブになんか出前取らせようぜ。あとおまえ金ある?」
「ない」やっぱりね。
「デブにツケとこう。なんか喰って腹一杯にして、雨が止んだら窓からフケよう」
「あはは」
「あん? なんだよ」
「フケるって、なんか授業サボるみたいな言い方だね」
「ふん、教室だろうが病室だろうが、退屈なところからはゴメンだぜ」
「ふふ」
「くく」




 窮屈な教室を出て、慣れ親しめなかった街から去って、

 俺たちは、どこまでなにしにフケてるんだろう。

 誰も追いかけてきてはくれない逃避行を、俺たちは続けていく。







「あ、虹だ」

 シマが空を指差してはしゃぐ。
 虹色の半輪が、朝の空にかかっている。
 七色の帯をぼうっと見上げながら、シマはやっぱり少しは堪えたのか、くしゅん、と。
 可愛いくしゃみをして、照れくさそうに笑った。

6

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