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二十一話

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 リョーコの母はリョーコの家の門の前、赤いゼラニウムの植わったささやかな花壇に腰かけている。浅い夕闇に浮かぶ赤い光、彼女は煙草をくゆらせている。手元に握られた箱はヴァージニアスリム。昔も同じものを吸っていたかどうかの記憶は定かではない。
 彼女はゆっくりと口を開く。物憂げに、しかしはっきりと。口元は微笑んでいる。しかし冬の夜のような表情。
「ケンジくん。最近ね、うちの娘がおかしいの」
 彼女は最初から本題に入る。昔から同じだった。
「そうですか、残念です」
「うん……」
 彼女の返答に優しさはない。彼女は大人だ。大人の女性だ。学校の先生や、両親、シノさんとも違う、本物の、子供と交わろうとしない大人だ。幼い子供の鋭敏な嗅覚はその雰囲気を的確に嗅ぎ分ける。そういうわけで俺は前からこの人が苦手だった。
「あなたでしょ?」
 質問の語気はぼんやりとしている。真面目に問うてるわけではない。
「もしかしたら」
 だから俺の返答もぼんやりする。彼女は口の端を釣り上げる。煙を吹き上げる。
「素直でよろしい」
「それだけがとりえです」
 彼女は花壇のレンガに煙草を押し付ける。もう一本ヴァージニアスリムを取り出し、火をつけながら、
「あの子、最近しょっちゅうどこか泊まり歩いてるみたいなの」
 その語気は鋭い。どうやらこっちが本命の質問のようだ。
「何か知らない?」
 言いながら、顔を上げる。微笑んでいる。しかし冷たい目。思わず射すくめられそうになる。だから、俺はこの人が苦手だ。大人の、交渉術。
「さぁ」
 俺は嘘をついた。お宅の娘さんは毎晩俺の部屋にメイド服を来てやってきています、なんて言えるはずもないし信じてもらえるとも思えなかった。いまだに自分でも信じられないのだから。誤魔化せるなら誤魔化したい。そう思った。無理だとも思ったけど。
「何か知ってるんだ?」
 彼女の眼はあくまで鋭い。リョーコが絶対零度の眼なら、その母はマイナス一万度。心の奥底、自分でも知らない部分まで見通されるようだった。
「はい」
 俺はあっさりと降参の構え。両手をあげたい気分にすらなる。苦手なんだ、本当に。
「素直でよろしい」
「それだけがとりえです」
「付き合ってるの?」
 降参はした。俺は捕虜になった。つまり、彼女の尋問はここから始まる。でも捕虜の俺はこれ以上なにも言う気はない。
「リョーコとそういうことについて話したことはないんですか?」
 彼女の表情が一瞬こわばる。捕虜と思った少年に、肘鉄を食らわされた表情。だがすぐに微笑みを取り戻す。大人なのだ。
「……あのね、正直に言うとわたし、あなたのことが苦手なんだ。なんでも見透かしてるような顔をしてる」
 俺はなにも見透かしてはいない。それはきっと、俺がただの鏡で、あなたは自分の顔を写してみているだけです、と言ってやりたくなる。
「ともかく、それについてはノーコメントです。聞くならリョーコに聞いてみてください」
 俺はそれで交渉を打ち切る構え。ついでにそこにはもう一つの意図。俺は、リョーコと付き合っていないと明言するのに抵抗があった。
「……ね、リョーコと仲良くしてあげて」
 その言葉には懇願の響きがある。疲労に彩られた懇願。きっと彼女は新しい家庭のために疲れている。たぶんリョーコも疲れている。俺だって、少しは疲れている。
「わたしは、くっついたり離れたり、子供にとっては本当にダメな親だと思うから」
「そんなことないですよ」
 確かにダメな親だ。本当はそう思う。
「そう? ありがとう。お世辞でも嬉しいわ」
「はい、お世辞です」
 彼女は微笑んだ。少し温度の上がった微笑み。
「素直でよろしい」
「それだけがとりえです」
「やっぱり、ダメな親と思う?」
「はい、あなたはダメな親です。もしかして、リョーコと、彼女が毎晩どこへ行っているのかについて話したことないんじゃないですか?」
「やっぱり、見透かしてる」
 彼女はゆっくりと煙を吐く。
「話したほうがいいですよ。僕なんかに聞くんじゃなく、本人と直接」
 俺の声は少し震えている。本当に、この人が苦手なのだ。彼女はタバコを二三度ゆるやかに上下に振り、それからこたえる。
「そうね、その通り。理屈は通ってる。でもね、理屈だけじゃ人間は動けないの。わたし、あの娘ともうずいぶんちゃんと会話してないの。わかる? その気持ち」
「わかるはずがありません」
「そうでしょうね。わからないほうがいいわ。馬鹿みたいって思うから」
 彼女は視線を立ち上る煙草の煙にそって彷徨わせる。散っていく煙の粒子一つ一つをその冷たく鋭い眼で追おうとしているかのように。
 俺はわからなくなる。彼女は一体、娘のことを愛しているのだろうか? 彼女の眼は対面する相手の心の奥底まで見透かそうとする。一方で、自分の心の奥底は決して覗かせない。マジックミラーの瞳。あるいは、カメラのような。彼女は見る。しかし、見せない。どうしてそんな眼を持つことになったのか? 俺のような小僧には到底わからないことだろう。ただ、これだけはわかる。きっとこの人は、自分の娘にすら、自分の眼の奥を見せたことはない。
 彼女が煙草を吸い終わる。花壇から立ち上がる。空気は弛緩する。対立は終わる。いや、対立とは俺が勝手に想像していただけかもしれない。彼女はただいつもどおりに話をしただけかもしれない。それでも、俺は確かにこの場の空気が緩み、自分の身体の硬直が解けるのを感じる。
「ところで、どうしてこんなところで煙草吸ってたんです?」
「禁煙しなさいって、リョーコに言われたの。またお父さんに嫌われる気? って」
 なるほど。リョーコが口にしたという「また」の意味は重い。前にこの母を嫌いになった父は今「また」嫌いになろうとする父とは別人だ。
「禁煙、してないじゃないですか」
 俺は笑う。彼女も笑う。
「せめて外で吸うから許してって」
「言ったんですか?」
「言ってない。秘密」
 本当に、仕方のない人だ。
 彼女は少し伸びをする。んー、と声を漏らしながら、こちらに流し目を送る。
「たまには遊びに来てね。昔みたいに。今のあの子の父親に、まだ会ったことがないでしょ?」
 そういえばそうだった。
「そうします、いずれ」
 俺たちは軽く手を振って別れる。それから家に入って、気づく。俺はリョーコに話をしに帰ってきたのではないのか? 「お宅の娘さんに話があるんです」つって家に上がりこむべきではなかったか? と思ったが台所の方からいい匂いがする……話は後だ。そういうことにした。
 実際のところ、できるだけリョーコときちんと話をするのを先延ばしにしたいだけだった。気疲れしていた。ボスに立ち向かった後に中ボス戦を続けるなんて御免だった。人生には妥協が必要だ。――必要じゃない時のほうが多いけど、と頭のなかの小人が一言付け足す。
 そこで気づく。玄関には靴が一足。見覚えがある靴だ。というか、リョーコの靴だ。ああ、運命よ。居間の方から駆けてくる足音。誰のものだか、考えるまでもない。
「あ、どうもお邪魔してま――」
 どうも、お邪魔されています。当然ながら挨拶をしに来たのはリョーコだった。俺の帰還を父の帰還か何かだと思ったらしい。彼女は戸惑い呟く。
「ああ、えっと……」
 俺の方からはなにも言葉は出てこない。正直に言おう。完全にテンパっている。人生には妥協が必要だ――そして往々にして妥協のツケを払う羽目になる。
「……お姉さんが、ご飯の用意できてるって」
 リョーコはそれだけ告げてそそくさと居間へ引っ込んでいく。お前はワカメちゃんか。くだらない思考で少しでも心の平衡を取り戻す。彼女が昨夜のことを怒っているのかどうかは、よくわからない。
 靴を脱いでいると、居間から姉が顔を出してくる。にこにこしている。
「お、ケンちゃんおっかえりー。今日はお姉ちゃん腕を振るったよ?」
「何作ったの」
 愚問だ、と我ながら思う。家中に漂う香り、それと、
「バーモント!」
「カレーね……」
 姉の料理レパートリーは二種類。バーモントカレーとクレアおばさんのクリームシチュー。質問するまでもなかった。
「楽しいお食事で二人の仲は急接近! ってね」
「あいつ呼んだのお前か」
「もうひと押しだからね」
「それ本人に言うのか」
「うん? ふふん」
 食卓にはリョーコがすでに着席していた。なぜかカチコチに緊張している。カチコチに緊張している彼女に姉が声をかける。
「まあまあゆっくりしてね」
「は、はいっ! ゆっくりします! はじめてのお姉さんの手料理楽しみです!」
 光栄であります! とか言っちゃいそうな勢いだった。なるほど。
 そういえばこいつは昔からうちの姉に対してはこんな感じだった。どうやら妙な憧れというか、尊敬を間違って抱いてしまったらしい。「あんたのお姉さんみたいな大人の女性になりたい」と言われたこともある。やめとけ、と答えといたが。
 座ろうと思ったら、四角い食卓にはなぜか三脚の椅子しかない。リョーコの座る席と、その隣と、彼女の対角に一つずつ。少し悩んで、俺は対角に座ろうとした――ところで、台所から「そこお姉ちゃんの席」という声がかかる。なるほど、この姉め。観念してリョーコの隣に座る。しかし彼女は俺なぞ眼中にないようで、まだ緊張している。久しぶりだからかもしれない。もしくは、別の理由で俺を眼中に入れたくない?
 俺は気もそぞろ。先ほどのリョーコの母との会話を頭の中で転がしている。リョーコが家でうまくいっていないのは確かなようだ。そこから簡単に推理されるのは、彼女がメイド姿をして俺の部屋に来ていたのも、そのためだってこと。
 やっぱり、俺は体の良い避難場所に過ぎなかったんじゃないかってこと。
 ともかくも、これから始まるわいわい団欒。楽しみだなぁ。とっても楽しみだ。我ながら白々しい。
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