リョーコは夢中でカレーを食べている。楽しい団欒というより、リョーコさんの食いっぷりを鑑賞する会になっている。
姉がにこにこしながら、
「お代わり、いる?」
するとリョーコは戸惑って、
「あ、えっと……」
「遠慮しなくていいから」
「……大盛りで」
こんななんでもないカレーでここまで喜ばれると、姉としても作った甲斐があるというものだろう。
「おいしいでしょ? 愛情たっぷりだから」
と姉は言うが、味は完膚なきまでにバーモントカレーだ。それ以外の要素が入っていないのだから当たり前だ。かつてはカレー作りに凝って様々な隠し味を試していた時期もある。しかし、彼女生来の料理下手である。コーヒーを入れれば苦くなり、チョコレートを入れれば甘くなった。そして辿り着いたのが、この何も足さず何も引かない、バーモントカレー。レシピは箱の裏に書いてある通り。面白みも何もない。だけど、だからこそ安定感あるほっとする味であるのは否定出来ない。しかしそれはより上を目指そうという人間知性の敗北だと、かつて姉に言ってみたことがある。すると彼女はこういった。「上を目指すのは私じゃなくて、カレールーメーカーの仕事!」一理ある気がしてしまった。それはともかく。
こんななんでもないカレーでここまで夢中になれるリョーコを見ていて、俺の心に一つの疑問が浮かぶ。
「お前、普段家で何食べてるんだ?」
「えっと……」
言いよどんでいる。それで大体想像がつく。
「どうせろくでもないものしか食べてないんだろ」
「……お父さんもお母さんも忙しいから」
思い出す。かつて彼女の家の料理当番は父親だった。料理当番だけじゃない。掃除も洗濯も全部父親がやっていた。今思えば、専業主夫かあるいはヒモのような人だったのだと思う。子供の頃の俺にそんな細かいことなどわからない。そして、その父親は今はもういない。彼女の今の父親がどういう人なのかは知らない。知らないが、今、食事の面倒を見る人ではないことはわかった。
なるほど。そこまで考えて、俺は、
「自分で作れば――」
と、口にして気づく。リョーコの表情は曇っている。それで察する。彼女だってきっと料理に挑戦しようとはしたのだろう。それで、きっと駄目だったのだ。食事も作れないくらい忙しい両親。その中で、彼女がどう暮らしているのか、俺は何も知らない。知らないけど、想像はできる。責任感と正義感の強い彼女はきっと、母親がやらない掃除だって洗濯だってやっている。何もかもを抱え込もうとしてる。俺達はまだ高校生にもなってない子供だ。でも、やらなくちゃいけないことを判断するくらいはできる大人でもある。板挟み。そこまで読み取れる。長い付き合いだから。
「あんまり、食い過ぎるなよ」
俺の口から出てくるのはそれだけ。俺の気持ちが伝わったのか伝わってないのかわからないが、彼女は少しだけ食べる手を止めて、
「……うん」
そういえば、姉の姿が見えない。机の上にメモが乗っている。俺達は同時にそれに気づく。書いてあるのは、手にとって読むほどもない単純な一文。
『あとはよろしく♪』
台所を振り返る。洗い物はそのまま。そういうことのようだ。俺たちは顔を見合わせる。
「わたし、やる」
「いいよ、座ってろ」
そう言っても聞かない相手なことはよくわかってる。
そういうわけで二人で洗い物をはじめて、一つわかった。彼女は不器用だった。とんでもなく不器用だった。カレー皿をスポンジで洗うのにも、何度も手から落としそうになるので、シンクに置いて幼稚園児みたいに一生懸命洗っている。本当に不器用なやつだ。知ってたけど。でも、本当に一生懸命だった。それも知ってたけど。要するに、誰も教えてくれる人がいなかったのだ。こうした家事のことを。家事を全て受け持っていた父親は、彼女がまだ子供のうちにいなくなった。誰が悪いってわけじゃない。みんなが一生懸命で、それぞれの方向を向いていて、それで彼女のある部分ははそこから少し零れ落ちてしまった、それだけだ。
洗い物を終えて俺達はまたテーブルに着いていた。どちらが言い出すでもなく、対面に座った。お互いに、何か話すことがあるという合図。遠くから姉がシャワーを浴びている音が聞こえている。
俺はとりあえずの質問から会話の口火を切る。
「どうして今日?」
彼女はそっぽを向いたまま、さして重要なことでもないように、
「お姉さんに呼ばれて。ケンジもぜひ来てくれって言ってるって」
「あぁ……」
あえて嘘を訂正することはしない。姉がどういう意図でその嘘をついたのか、俺にだってわかる。
あとはよろしく。その意味は、たぶん一つじゃない。姉はきっと、リョーコの変調に気づいてた。だから今日呼んだのだ。
そして再び沈黙が訪れる。沈黙は倒れた電信柱のように二人の間に横たわる。どちらかがそれを乗り越えなければいけない。いつもの俺たちなら、横たわる沈黙の前に尻込みをして、前に進まずにどこか別の道を探し始めていた。
だけど、今日はちょっと違った。
「ああ、えっと……」
「えっと、その……」
まるで予定調和のように。
「昨日はごめん!」
二人同時にそう叫んだ。
「え?」
二人同時にそう呟いた。
「え? なんであんたが謝るの?」
リョーコは不服顔。俺はしどろもどろ。
「あの、だから、昨夜、お見苦しいものをお見せしてすみませんというかなんというか」
思い出すのも恥ずかしいのに、自分で説明するなんて恥ずかしい。恥ずかしい! 乙女に何言わせるのよ! と顔を覆いたくなる。嘘だけど。
リョーコは視線を少し伏せて、心持ち頬を染めながら、
「や、や、でも、勝手に入ったのは私だし……いや、男の子はそういうもんだって、一応知ってはいるから……」
「でも、子供の頃は俺の裸見ただけであんな怒って」
リョーコは、戸惑ったように笑いながら、
「いや、もう子供じゃないから」
そうだった、俺達はもう子供じゃない。悲しいことに。
「じゃあ、この件は、まあまあ」
「まあまあ、そういうあれで、そういう感じに」
良かったーなんか変なことにならなくて! 俺は胸を撫で下ろす。
そうそう、俺にはもう一つ、確認しておきたいことがある。
「そういえばさ、お前、友達いるの?」
リョーコはひきつった笑いを浮かべる。
二十二話
「な、何よ、急に。ちゃんといるわよ」
「たとえば?」
「……春原」
「それ以外は?」
しかし彼女は答えず、こちらをじっと睨みつけている。ああ、察した。
「俺も除いて」
「他は……別に」
またあの感覚が、熱っぽくてしょっぱい感覚が頭の奥に蘇る。ただ、一度経験して慣れたせいか、もしくは別の理由か、さっきほどは強くなかった。
「昔からそうだったもんな。気に入った友達を見つけると、ずっとそいつにばっかかかずらうの」
「そんなこと……ないわよ」
「そうか? だって小学生の頃は毎日俺としか遊んでなかったじゃん」
「それは……そうだったかもしれないけど」
感覚がちょっとずつ強くなってくる。核心に近づいている確信がある。俺は慎重に次の言葉を選ぶ。あくまで、からかうような調子で。
「中学になってからも、春原しか友達作らなかったって、そういうことじゃん?」
「……忘れたの? 夏祭りの――」
頭の中が熱さで満たされる。しょっぱい感覚が目と鼻の方まで下りてくる。俺は、自分が泣こうとしていることにすんでのところで気づく。反射的に思考を振り払う。思い出しかけた記憶を、また奥の方へ追いやる。
彼女は目を伏せたまま、少し照れ隠しにはにかんで、首を左右に振る。
「いや、なんでもない」
俺はそれどころではなかった。俺は、一体、何を思い出しかけた? 一体、何を忘れているんだ? 夏祭り。紐に数珠つなぎにされて、橙に光る提灯。出店の色とりどりの看板と、様々な匂い。石段を登る。いつもそうだった。俺達は上で待ち合わせたりはせず、必ず下から二人並んで石段を登っていった。あの日もそうだった。あの日? そう、最後に俺とリョーコが一緒に夏祭りに行った、小学六年生のあの夏の日。あの時、そう、俺達はどんな話をした? りんご飴。金魚すくい。じきに打ち上がる花火。そうじゃない、そういうものじゃない。何か、あの時何か――
「大丈夫?」
思考は中断される。リョーコはこちらに身を寄せて、俺の顔を覗きこんでいる。想像よりも近くにあった彼女の顔に、俺は思わずのけぞる。
「大丈夫、びっくりした……」
「そう?」
まだ訝しげにこちらを見るリョーコの眼は、彼女の母親のように冷たくはない。しかし、母親のようにこちらの心の奥底を見通そうとはしている。
母親のように。
俺はじっと彼女を見つめた。彼女の眼を見つめた。そこに母親と同じ色があることを確かめながら。しかし、まだ母親のようには全てを閉ざしてはいないことを、確かめようとしながら。
「え、…えっと、え、何よ、どうしたの、急に……」
はたして彼女の瞳は俺の視線に答えてゆらゆらと色を変え、形を変えた。
動揺が見える。はっきりと。安心して、俺は視線をまた曖昧な場所に戻した。すると、今度は彼女のほうがこちらを見つめていた。どうしたのだろう?
「あのさ、えっと、わたし、一個言わなくちゃいけないことがあって……」
あ、もしかして、これ、アレだ! 漫画とかドラマとか映画とか小説とかでよく見るやつだ!
彼女の頬はどんどん紅潮していく。どうする? 女の子にみなまで言わせていいのか? 俺が言うべきじゃないのか? 俺は目をつぶる。意を決する。
「引っ越すことになった……んだ」
と、リョーコの声。
「俺も、す……え?」
「たとえば?」
「……春原」
「それ以外は?」
しかし彼女は答えず、こちらをじっと睨みつけている。ああ、察した。
「俺も除いて」
「他は……別に」
またあの感覚が、熱っぽくてしょっぱい感覚が頭の奥に蘇る。ただ、一度経験して慣れたせいか、もしくは別の理由か、さっきほどは強くなかった。
「昔からそうだったもんな。気に入った友達を見つけると、ずっとそいつにばっかかかずらうの」
「そんなこと……ないわよ」
「そうか? だって小学生の頃は毎日俺としか遊んでなかったじゃん」
「それは……そうだったかもしれないけど」
感覚がちょっとずつ強くなってくる。核心に近づいている確信がある。俺は慎重に次の言葉を選ぶ。あくまで、からかうような調子で。
「中学になってからも、春原しか友達作らなかったって、そういうことじゃん?」
「……忘れたの? 夏祭りの――」
頭の中が熱さで満たされる。しょっぱい感覚が目と鼻の方まで下りてくる。俺は、自分が泣こうとしていることにすんでのところで気づく。反射的に思考を振り払う。思い出しかけた記憶を、また奥の方へ追いやる。
彼女は目を伏せたまま、少し照れ隠しにはにかんで、首を左右に振る。
「いや、なんでもない」
俺はそれどころではなかった。俺は、一体、何を思い出しかけた? 一体、何を忘れているんだ? 夏祭り。紐に数珠つなぎにされて、橙に光る提灯。出店の色とりどりの看板と、様々な匂い。石段を登る。いつもそうだった。俺達は上で待ち合わせたりはせず、必ず下から二人並んで石段を登っていった。あの日もそうだった。あの日? そう、最後に俺とリョーコが一緒に夏祭りに行った、小学六年生のあの夏の日。あの時、そう、俺達はどんな話をした? りんご飴。金魚すくい。じきに打ち上がる花火。そうじゃない、そういうものじゃない。何か、あの時何か――
「大丈夫?」
思考は中断される。リョーコはこちらに身を寄せて、俺の顔を覗きこんでいる。想像よりも近くにあった彼女の顔に、俺は思わずのけぞる。
「大丈夫、びっくりした……」
「そう?」
まだ訝しげにこちらを見るリョーコの眼は、彼女の母親のように冷たくはない。しかし、母親のようにこちらの心の奥底を見通そうとはしている。
母親のように。
俺はじっと彼女を見つめた。彼女の眼を見つめた。そこに母親と同じ色があることを確かめながら。しかし、まだ母親のようには全てを閉ざしてはいないことを、確かめようとしながら。
「え、…えっと、え、何よ、どうしたの、急に……」
はたして彼女の瞳は俺の視線に答えてゆらゆらと色を変え、形を変えた。
動揺が見える。はっきりと。安心して、俺は視線をまた曖昧な場所に戻した。すると、今度は彼女のほうがこちらを見つめていた。どうしたのだろう?
「あのさ、えっと、わたし、一個言わなくちゃいけないことがあって……」
あ、もしかして、これ、アレだ! 漫画とかドラマとか映画とか小説とかでよく見るやつだ!
彼女の頬はどんどん紅潮していく。どうする? 女の子にみなまで言わせていいのか? 俺が言うべきじゃないのか? 俺は目をつぶる。意を決する。
「引っ越すことになった……んだ」
と、リョーコの声。
「俺も、す……え?」